↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
忘却の魔女と星を拾う筆跡  作者: まつたけひめ
第1章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
3/46

第三話 陽だまりの村と魔女の焼き立てパン

 街道の緩やかな坂を下ると、ふわりと甘い香りが鼻先をくすぐった。エルノアは思わず足を止め、風に乗って漂ってくる匂いを胸いっぱいに吸い込む。旅を続けるうちに何度も嗅いできたはずの街の匂いとはまた違う、素朴で優しい匂いだった。


 「これは……焼きたてのパンの匂いですね」


 目の前に広がるのは、色とりどりの花畑に囲まれた小さな村だった。街道沿いの看板には『フルール』と刻まれている。風が吹くたびに花畑が波打つように揺れ、蝶々が花から花へと戯れるように飛び交っていた。のどかな時間が流れるその村の中心に、小さなパン屋があった。窓から漏れる湯気と香ばしい匂いに、エルノアの足は自然と吸い寄せられていく。


 ――ぐう、う……。


 思いがけず大きなお腹の音が響き、エルノアは頬を真っ赤に染めた。


 「……ふふ、聞かれていないといいのですが」


 誰にともなく言い訳をしながら、それでも我慢できずに店の扉を押し開ける。途端、焼きたてのパンや甘い焼き菓子の香りが一気に押し寄せてきた。


 「まあ……!」


 棚にはふっくらとした丸パン、木の実がちりばめられたスコーン、蜜がとろりと光るデニッシュ、そして花の形をした可愛らしいパンまでずらりと並んでいる。エルノアの琥珀色の瞳は、まるで宝物庫を目にした子供のようにきらきらと輝いた。窓辺には、これから焼かれるのを待つ生地が並び、店内は暖かなオーブンの熱気に満ちている。壁には、村の子供たちが描いたらしい可愛らしい落書きや、感謝の手紙が何枚も貼られていた。よほど村人に愛されている店なのだろう。


 「全種類、ひとつずついただけますか……! あ、いえ、その、はしたないことを申しました。えっと、まずは三種類ほど……」


 慌てて言い直すエルノアだったが、店には誰も出てくる気配がなかった。奥から、くぐもった苦しげな声が聞こえてくる。


 「うっ……くそ、今日に限って……」


 エルノアは驚いて奥の工房に駆け込んだ。そこには、白髪交じりの初老の男性が、腰を押さえながら床にうずくまっていた。


 「大丈夫ですか!?」


 「ああ……客か。すまんな、みっともないところを見せちまって。腰をやっちまってな、こう、たまに……」


 男性は苦笑いを浮かべながらも、痛みに顔を歪めた。エルノアはすぐさま傍らに膝をつき、そっと彼の背に手を添える。


 


 


 


 


 男性はボドと名乗った。この村で長年パン屋を営む職人で、明日に控えた村の一大行事「花祭り」のために、朝から晩まで生地をこねていたのだという。


 エルノアは杖の先からほのかな温もりを灯し、ボドの腰にそっとかざした。凝り固まった筋肉をほぐすように、じんわりとした熱が染み渡っていく。


 「少しは楽になりましたか?」


 「……ああ、驚いた。魔法ってのは、こんなことにも使えるのか」


 ボドは目を瞬かせながら、恐る恐る身体を起こした。痛みはすっかり和らいだわけではなかったが、先ほどよりずっと楽に動けるようになっていた。


 「もう三十年近く、この店をやってる。女房が生きていた頃は二人で切り盛りしてたんだが、今はこの通り、腰も言うことを聞かなくなっちまってな」


 ボドは苦笑しながら、壁に飾られた古い写真を見やった。若かりし頃の夫婦が、店の前で笑い合う一枚だった。


 「花祭りじゃ、俺の店の花パンをみんな楽しみにしてくれてるんだ。……だってのに、こんな体たらくで」


 悔しそうに拳を握るボドの傍らで、幼い少女が心配そうに顔を覗き込んでいた。


 「おじいちゃん、大丈夫……? わたし、頑張ってこねるから」


 小さな手で懸命に生地と格闘する少女――クララは、ボドの孫娘だった。だが、まだ八歳の細い腕では、大人でも力の要る生地こねなど到底無理な話だ。額に汗を浮かべ、それでも諦めない健気な姿に、エルノアの胸がきゅっと締め付けられた。


 「私に手伝わせてください! 魔法も使えますから、きっとお力になれます」


 腕まくりをして申し出るエルノアに、ボドは目を丸くした。


 「魔女さんかい……いや、しかし」


 「困ったときはお互い様、と言ったら差し出がましいでしょうか。それに、こんなに美味しそうなパン屋さんのお手伝いができるなんて、願ってもないことです」


 悪戯っぽく笑うエルノアに、ボドはとうとう根負けしたように頷いた。


 早速、エルノアは杖を軽く振り、発酵させる生地の周りにほんのりと温かい風を纏わせる。


 「これくらいの温度が、一番ふっくら膨らむはずです」


 「おお……こいつは正確だ。長年の勘でやってきたが、こんなにきっちり温度が揃うとはな」


 感心するボドの隣で、エルノアは小麦粉の入った大きな鉢に向き直り、軽く杖を振った。ふわりとした風が粉を優しく舞い上げ、ふるいにかけたようにきめ細かくなっていく。


 「わあっ、すごい! 雪みたい!」


 クララが目を輝かせて手を叩く。楽しくなったエルノアも、粉まみれになりながら生地をこね始めた。気づけば鼻の頭にまで真っ白な粉がついてしまい、それを見たクララがくすくすと笑い出す。


 「エルノアお姉ちゃん、鼻、真っ白だよ!」


 「あら、本当ですね。ふふ、これはこれで可愛らしいかもしれません」


 三人は粉まみれになりながら、賑やかに生地をこね、花の形に成形していった。工房には楽しい笑い声が絶えず響き渡り、ボドも椅子に座りながら「そこはもう少しひねるんだ」「花びらはもっと薄くていい」と指導してくれる。エルノアは一つひとつの助言を真剣な顔で聞きながら、器用に生地を形作っていった。


 「エルノアお姉ちゃんの花、上手だね!」


 「クララちゃんのお花も、とっても素敵ですよ。花びらの数がひとつ多いのも、それはそれで可愛らしいです」


 「えへへ、ほんと?」


 二人でくすくす笑いながら生地を成形していく様子を、ボドは目を細めて眺めていた。孫娘のこんなに楽しそうな笑顔を見るのは、随分と久しぶりのことだった。並べられた花パンの生地は、大小さまざまに歪んではいたが、どれも一つとして同じ形はなく、それがかえって温かみを感じさせた。


 


 


 


 


 夜が更けても、村の灯りはまだ工房に集まっていた。焼き上げの最終工程に差し掛かった頃、ふいに釜の火が弱々しく揺らめき始めた。


 「あっ……薪が湿ってる。今日の雨のせいだ」


 クララが泣きそうな顔で薪を見つめる。ボドも腰を庇いながら焦った表情を浮かべた。


 「まずいな……このままじゃ、焼き上がりにムラが出ちまう」


 「大丈夫です。おいしいパンを食べたいという想いは、どんな火よりも強いですよ」


 エルノアは微笑みながら杖の先に小さな火の粒を灯した。慎重に釜の奥へ差し入れ、火加減を丁寧に調整していく。強すぎても焦げてしまう、弱すぎても生焼けになってしまう。その絶妙な塩梅を見極めながら、エルノアは根気強く魔力を注ぎ続けた。


 「クララちゃん、こうして手をかざしていると、パンへの想いが伝わっていく気がしませんか?」


 「うん……! なんだか、あったかい」


 クララは真剣な顔で釜の前に座り込み、エルノアの隣でそっと手をかざした。ボドもまた、椅子に座ったまま静かにその様子を見守っている。夜通し交代で火の番をしながら、三人はぽつぽつと言葉を交わした。ボドは亡き妻との思い出や、この店を始めた頃の苦労話を語り、クララは学校での出来事を楽しそうに話す。エルノアはそのひとつひとつに耳を傾け、心から相槌を打った。


 「魔女さんは、色んな街を旅してるんだろう。羨ましいもんだな」


 「ええ。ですが、こうして誰かの家で夜を過ごすことは、あまりないのです。……なんだか、不思議な気分です。とても、居心地がいいです」


 エルノアは炎を見つめながら、しみじみと呟いた。パチパチと薪が爆ぜる音と、時折混じるクララの小さな欠伸が、静かな工房に温かい空気を満たしていく。


 やがて空が白み始める頃、工房の扉の隙間から差し込む朝日とともに、香ばしい匂いが工房いっぱいに広がった。


 徹夜明けの三人の顔には疲労の色が滲んでいたが、それ以上に達成感に満ちた晴れやかさがあった。クララは眠気をこらえながらも、釜の前から一歩も離れようとしなかった。


 「おじいちゃん、わたし、最後まで頑張ったよ」


 「ああ、よく頑張ったな。お前の熱意が、パンにちゃんと伝わったみたいだ」


 ボドは孫娘の頭を優しく撫でた。エルノアはその光景を眩しそうに見つめながら、そっと目元を拭った。誰かと徹夜で何かを成し遂げるという経験が、自分の中でどれほど得難いものなのか、彼女自身にもはっきりとは分からなかった。それでも、この胸の高鳴りだけは確かなものだった。


 「焼けた……!」


 ボドが震える声で呟く。釜の中から取り出された花パンは、どれも黄金色に輝き、花びらの一枚一枚まで美しく焼き上がっていた。


 「いただきます……!」


 待ちきれないとばかりに、エルノアは焼きたてのパンを一口頬張った。次の瞬間、その琥珀色の瞳がまん丸になる。


 「んんっ……! なんて、なんて美味しいのでしょう……! こんなに温かくて優しい味のパン、生まれて初めてかもしれません」


 頬を紅潮させて感激するエルノアの姿に、ボドとクララは顔を見合わせて笑った。


 「そんなに喜んでもらえると、こっちまで嬉しくなるな」


 ボドは腰を庇いながらも、久しぶりに晴れやかな顔で笑った。焼き上がったばかりの花パンを一つ一つ丁寧に籠へと並べていく手つきには、長年培われた職人の誇りが滲んでいた。クララは待ちきれない様子で二つ目のパンに手を伸ばし、頬をいっぱいに膨らませている。窓の外では、朝日を浴びた花畑が一斉に輝き始めていた。


 


 


 


 


 その日の花祭りは、村中の笑顔で溢れた。広場には色とりどりの花が飾られ、子供たちの歌声が響き渡る。ボドの花パンは飛ぶように売れ、誰もが幸せそうに頬張っていた。屋台には他にも果実酒や手作りの飴細工が並び、村中の大人も子供も、一年で最も心弾む一日を思う存分楽しんでいた。


 「エルノアお姉ちゃん、一緒に踊ろう!」


 クララに手を引かれ、エルノアは慣れない足取りながらも輪の中に加わった。くるくると回るたびに紺銀の髪がふわりと舞い、周りの子供たちから歓声が上がる。パンを片手に踊り、笑い、時折つまずいては笑い合う。何気ない、けれどかけがえのない時間が過ぎていった。日が傾く頃には、エルノアの帽子には村の子供たちがそっと差し込んでいった小さな花が、いつの間にかいくつも飾られていた。


 夕暮れが村を橙色に染める頃、旅立ちの時が来た。村人たちが総出でエルノアを見送りに集まる。


 「お姉ちゃん、これ……!」


 クララが差し出したのは、押し花を詰めた小さな布袋と、丁寧に彫られたパンの形の木彫りストラップだった。


 「わたしが作ったの。おじいちゃんに手伝ってもらいながら」


 「まあ……! なんて素敵な贈り物でしょう」


 エルノアは受け取った品を大切そうに胸に抱き、それから膝をついてクララと目線を合わせた。


 「クララちゃん、絶対また遊びに来てね!」


 「ええ、絶対にまた来ますね」


 エルノアはクララを優しく抱きしめた。目に涙が滲んでいることに気づき、自分でも驚く。今までの旅では、街を発つ時にこんな感情が湧いたことなどなかった。理由は分からないけれど、確かにこの村での日々は、忘れたくないと心が叫んでいる。


 「私、いつも旅立つ時は、次の街への期待ばかりを胸に抱いていました。……でも今日は、後ろ髪を引かれるという気持ちが、初めて分かった気がします」


 しみじみと呟くエルノアに、クララは首をかしげた。


 「変なの。お姉ちゃん、また会えるのに」


 「ふふ、そうですね。おかしなことを言いました」


 エルノアは涙を拭い、いつもの穏やかな笑みを浮かべた。


 ボドが不器用な笑みを浮かべながら片手を挙げた。


 「魔女さん、世話になったな。……また、腰が悪くなったら助けてくれよ」


 「ふふ、その時はまた腕まくりして駆けつけますね」


 村人たちの温かい拍手と歓声を受けながら、エルノアは何度も振り返り、手を振りながら街道を歩き出した。


 


 


 


 


 村を出てしばらく歩いたところで、エルノアは大きな木の木陰に腰を下ろした。サッチェルバッグから『無題の皮革手帳』を取り出し、そっとページを開く。


 いつもなら、気づいた時には白紙になっていたり、まるで他人が書いたような見覚えのない文字が並んでいたりする不思議なページ。だが今日は違った。エルノアは羽根ペンを取り出し、迷いなく白紙のページにペン先を落とす。


 『〇月〇日、フルール村にて。ボドさんの美味しいパンと、可愛いクララちゃんに出会った。焼きたてのパンは、今まで食べた何よりもあたたかかった――』


 書き終えた文字を見つめ、エルノアは満面の笑みを浮かべた。自分の手で、自分の記憶を、確かにここに残せている。それがどれほど尊いことか、彼女自身にもうまく言葉にはできなかったけれど、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。もう一度ページを見返し、そこに滲む自分の筆跡を、まるで宝物のようにそっと指でなぞる。


 手帳をそっと胸に抱きしめ、エルノアは空を見上げる。サッチェルバッグの中では、一話の街で貰った星の歯車、二話の湖畔で貰った空色のしおり、そして今日新しく加わった木彫りのパンストラップが、かすかに触れ合って優しい音を立てた。


 これまでの旅では、街を発つたびに「今日もまた、何も見つからなかった」という寂しさばかりが積み重なっていった。だが今日は違う。忘れることのない、確かな一日がここにある。それがどれほど幸せなことか、エルノアは今更ながらに噛みしめていた。


 「大魔法を使わなくても、こんなに温かい奇跡が起きるのですね」


 誰にともなく呟き、エルノアはくすりと笑った。風がそよぎ、花畑の甘い香りが街道まで届いてくる。遠くに見える村では、まだ花祭りの余韻を残す灯りがぽつぽつと灯り始めていた。


 「さあ、次はどんな出会いがあるかしら」


 記憶を抱きしめたエルノアは、軽やかな足取りで、夕暮れの街道を未来へと歩き出した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。