第二話 星を彫る絵本作家と空色のキャンバス
湖の匂いがする街だった。エルノアは石畳の坂道を下りながら、風に混じる仄かな水の香りに目を細める。澄んだ湖面が朝日を受けて銀色に輝き、湖畔に建ち並ぶ家々の壁には、絵の具で描かれたような鮮やかな色彩が溢れていた。行き交う人々の服装にも独特の彩りがあり、旅の途中で見てきたどの街とも違う、芸術の息づく空気が漂っている。
「コルル……色彩の街、と旅の道連れが言っていましたね」
サッチェルバッグから『無題の皮革手帳』を取り出し、ページをめくる。バッグの中では、以前どこかで貰ったらしい小さな星の形の歯車が、かすかに音を立てて揺れた。それが何だったか、彼女には思い出せない。ただ、大切なものだという確信だけが、胸の奥にほんのりと残っていた。
街の中心にある図書ギャラリーに足を踏み入れると、色とりどりの絵本が壁一面に並んでいた。窓から差し込む光が、丁寧に彩色された表紙の数々を柔らかく照らし、紙とインクの匂いが静かに漂っている。旅先で本を見つけると、つい足を止めてしまうのがエルノアの癖だ。棚を眺めて歩くうち、ふと一冊の絵本に目が留まった。
『星を拾う紺銀の魔女』
表紙には、夜空のような紺銀色の髪をなびかせ、星屑を掬い上げる魔女の絵が描かれている。
「これは……」
エルノアは息を呑み、震える指でそっとページをめくった。優しい水彩のタッチで描かれた魔女の瞳は、自分と同じ琥珀色をしていた。
「もしかして、これが私の記憶の手がかり……?」
胸が高鳴る。すぐさま受付の女性に作者の所在を尋ねると、湖のほとりに工房兼自宅を構える若い絵本作家だと教えてもらえた。逸る気持ちを抑えきれず、エルノアはその足で工房へと向かった。
扉を叩くと、絵の具で汚れたエプロン姿の女性が顔を出す。年の頃は二十四、五。柔らかな栗色の髪を後ろで束ね、大きな瞳を持つ女性だった。
「はい、どちら様……」
言いかけた瞬間、彼女の顔色が変わった。大きな瞳がみるみる潤み、声にならない声が漏れる。
「……あの、お姉ちゃん……? うそ、本当に……また会えたの……!?」
女性は震える手でエルノアの手を包み込むように握りしめた。頬を伝う涙を隠そうともせず、まるで奇跡でも目にしたかのような表情で。
「ずっと、ずっと会いたかったの。何度も湖の街に来てくれないかなって、心のどこかで待ってた。……ごめんなさい、いきなり泣いたりして。びっくりさせちゃったよね」
女性は袖口で涙を拭い、それでも溢れる想いを堪えきれない様子だった。エルノアはその手を優しく握り返しながらも、記憶にない出会いを喜ぶ相手にどう応えていいのか分からず、戸惑いの色を隠せなかった。
エルノアは戸惑いながらも、その手を振り払うことができなかった。
工房の中に招かれたエルノアは、温かい紅茶と焼きたてのクッキーを前に、戸惑いを隠せずにいた。
「あの、失礼ですが……私たちは、以前どこかでお会いしたことが?」
女性――ルチアと名乗った彼女は、涙を拭いながら椅子に座り直した。
「十五年前、私がまだ九歳だった頃、この湖で魔物が暴れたことがあったの。壊れた桟橋から落ちそうになった私を、あなたが抱きしめて助けてくれた。……あの日、あなたが最後に私にくれた星の絵があったから、私、絵本作家になれたのよ」
ルチアは棚から一冊の色褪せたスケッチブックを取り出し、大切そうに胸に抱いた。
「これ、あなたが描いてくれた絵。ずっと大事に持っていたの」
開かれたページには、拙いながらも温かみのある筆致で、星空を背負う魔女の絵が描かれていた。エルノアはその絵を見つめ、何かが胸の奥で疼くのを感じた。だが、それが記憶として像を結ぶことはなかった。
「ごめんなさい……私には、その時の記憶が全くないのです。……私が、あなたの探しているその魔女なのでしょうか」
申し訳なさそうに眉を下げるエルノアに、ルチアは一瞬言葉を失った。だが、すぐに気丈な笑みを浮かべる。
「ううん、いいの。覚えていなくても構わない。だって、こうしてまた会えたんだから。それだけで、十分すぎるくらい」
その笑顔の裏に隠された寂しさに、エルノアは気づかないまま、そっとルチアの手に自分の手を重ねた。
「私の方こそ、ありがとうございます。忘れてしまった過去の中に、そんなに温かい出会いがあったなんて」
ルチアは涙をこらえるように瞬きをして、それから明るく話題を変えた。
「ねえ、実は今、新しい絵本を作っていて。『空色のキャンバス』っていうんだけど、最後のページがどうしても決まらなくて悩んでたの。……もしよかったら、一緒に湖畔でスケッチしながら考えてくれない?」
「まあ、それは素敵なお誘いですね。喜んで」
二人は絵の道具を抱え、湖畔へと向かった。道すがら、ルチアは街の人々に次々と声をかけられた。「新作はいつ出るんだい」「この前の挿絵、娘が大喜びだったよ」――親しみのこもった声に、ルチアは照れくさそうに笑いながら手を振り返す。エルノアはその様子を微笑ましく見守りながら、ふと呟いた。
「皆さんに愛されているのですね、あなたの絵は」
「うん。……それも全部、あなたのおかげなんだよ」
ルチアの声は湖を渡る風に紛れ、エルノアの耳には届かなかった。
澄んだ水面に映る空の色を写し取りながら、ルチアは筆を握り、エルノアは草の上に座って湖を眺めた。穏やかな時間が流れる中、二人はぽつぽつと言葉を交わし、少しずつ距離を縮めていった。
「エルノアさんて、本当に絵が上手いのね。この星の描き方、あの絵本の絵とそっくり」
「ふふ、そうでしょうか。手が自然と動くのです、不思議と」
自分でも気づかぬうちに滲み出る過去の名残に、ルチアは胸を締め付けられながらも、微笑みを絶やさなかった。
夕暮れが近づくと、湖面はオレンジと紫が混ざり合う幻想的な色に染まった。ルチアはスケッチブックを閉じ、湖を見つめるエルノアの横顔をそっと盗み見た。
「ねえ、エルノアさんは、記憶がなくても寂しくないの?」
「寂しくない、と言えば嘘になります。でも、こうして旅をしていれば、いつかきっと、私を待ってくれている『何か』に辿り着けると信じていますから」
澄んだ声でそう語るエルノアに、ルチアは思わず唇を噛んだ。あなたを待っていたのは、他でもないこの私だったのに。喉元まで出かかった言葉を、ルチアはそっと呑み込んだ。今はまだ、それを告げる時ではないと感じたからだ。
異変は静かな午後を切り裂くように起こった。
湖の底から轟く地鳴りとともに、水面が異様に盛り上がり始めた。長きにわたり湖底に封じられていた古代の水魔獣、レヴィア・グラースが目を覚ましたのだ。巨大な水柱が天を衝き、荒れ狂う濁流となって街へと押し寄せる。
「そんな、どうして今……!」
悲鳴と怒号が街を包む。人々は我先にと高台を目指して逃げ惑う。石造りの家々が次々と水に呑まれ、店先に並んでいた絵の具や画材が波間に散らばっていく様子は、色彩の街の名にふさわしくない、あまりに残酷な光景だった。ルチアもまた避難の列に加わろうとしたが、途中で足を止めた。
「原稿……! エルノアさんと描いた絵本の原稿が、まだ工房に……!」
制止する声も聞かず、ルチアは踵を返して駆け出す。だが、濁流に呑まれかけた建物の一部が崩落し、瓦礫と流れ込む水にルチアの足が挟まれてしまった。
「きゃあっ……!」
「ルチアさん!」
エルノアが叫び、水しぶきを上げながら駆けつける。崩れた瓦礫の隙間から、ルチアの身体と、水に濡れた原稿の束を抱きかかえるように救い出した。
「大丈夫ですか、お怪我は」
「わ、私は大丈夫……。でも、街が、湖が……!」
巨大な津波がすぐそこまで迫っていた。エルノアはルチアを安全な場所へ横たえると、静かに立ち上がり、杖を強く握りしめる。琥珀色の瞳に、迷いのない光が宿った。
押し寄せる濁流の向こうに、湖の底から這い出た巨大な影が蠢いていた。幾重にも重なる鱗が鈍く光り、まるで湖そのものが意志を持って牙を剥いたかのような威容だった。人々の悲鳴が遠く重なり合う中、エルノアはただ静かに前を見据えていた。
「あなたの描く美しい世界を、この街を……二度と奪わせはしません」
凛とした声が響き渡る。紺銀の髪が風に舞い、彼女の周囲に淡い光の粒子が集まり始めた。
「世界に満ちる無数の光よ、私の声に応えて――『水鏡の絶対凍結』」
解き放たれた魔力が、荒れ狂う湖面全体を包み込む。次の瞬間、津波も濁流も、まるで時が止まったかのように、幻想的な結晶の氷原へと変わっていった。太陽の光を受けて煌めく無数の氷の結晶が、まるで星空を地上に映したかのような美しさで街を包み込む。
巨大な水魔獣もまた、氷の中に静かに封じ込められていく。その姿は禍々しさを失い、まるで湖を守る守護者のように、穏やかに眠りへと沈んでいった。
ルチアは涙を流しながら、その光景に見入っていた。十五年前と同じ、いや、それ以上に神々しい奇跡の光景だった。
光が収まると同時に、エルノアはその場に崩れ落ちた。
「エルノアさん!」
駆け寄るルチアの腕の中で、エルノアはゆっくりと瞼を開ける。だが、その琥珀色の瞳に浮かんでいたのは、戸惑いだけだった。ともに絵を描いた午後も、湖畔で交わした言葉も、何一つ残っていない。
「……あ、れ? 私、倒れてしまっていたのですね。……初めまして、お嬢さん。お怪我はありませんか?」
その丁寧な言葉に、ルチアは息を詰まらせた。
――ああ、また。
十五年前もそうだった。命を救われた幼い日、目を覚ましたエルノアは「じゃあね、元気で」とまっさらな顔で笑い、何も知らないまま去っていった。あの時は幼くて分からなかったことが、今ならはっきりと分かる。
この人は、誰かを救うたびに、大切な思い出を失っているのだ。
十五年前のあの日も、きっとこうして何も知らない顔で、次の街へと歩いていったのだろう。自分が絵本作家になった理由も、彼女に会いたくてたまらなかった十五年間も、目の前の本人だけが知らない。その事実の重さに、ルチアの胸は張り裂けそうになった。
喉の奥から込み上げる嗚咽を、ルチアは必死に抑え込んだ。真実を告げれば、目の前の優しい人を苦しめるだけだと分かっていたから。
「うん……! ありがとう、初めましての旅人さん。私、あなたのおかげで命が助かったの」
涙を拭いながら、ルチアはエルノアに強く抱きついた。エルノアは驚きながらも、その背をそっと撫でる。
周囲では、濡れた服のまま抱き合う家族や、崩れかけた我が家を前に呆然と立ち尽くす老人の姿があった。それでも誰もが無事に生きていることを噛みしめるように、あちこちで安堵の涙とすすり泣きが響いていた。氷の結晶に包まれた湖は、まるで何事もなかったかのように静かな光を湛えている。
「よかった、ご無事で。……それにしても、随分と情の深い方ですね。初めて会ったばかりの私に、こんなにも」
「そういう星の下に生まれたのかもね」
エルノアはくすりと笑い、遠くの空を見上げた。湖面から立ち上る淡い霧が、朝の光を受けて虹色に揺らめいている。まるで、この街全体が二人の再会を祝福しているかのようだった。
ルチアは涙交じりに、それでも精一杯の笑顔で答えた。
「あなたは、こんなふうにして誰かの命を救うたびに、その人との思い出を失っていくのね」
思わず零れた呟きに、エルノアは小さく首をかしげた。
「……何か、仰いましたか?」
「ううん、なんでもない。ただ、あなたが優しい人だなって、改めて思っただけ」
ルチアはそう言って、涙の跡が残る頬に無理やり笑みを浮かべた。何も知らないまま微笑むエルノアの姿が、愛おしくも切なくて、ルチアはもう一度、そっと彼女の手を握った。
翌朝、湖面には結晶の名残がきらきらと輝き、街全体が淡い光の粉を纏っているかのようだった。旅支度を整えたエルノアが広場に立つと、ルチアが完成したばかりの絵本の原稿を抱えて駆け寄ってきた。
「これ、受け取ってほしいの」
差し出されたのは、絵本の試作で使った空色の絵の具で染め上げた、革製のしおりだった。滲むような美しい青が、朝の光を受けて澄んで見える。
「これは私の新作の試作品なんです。旅のお供に連れて行ってください」
「まあ……なんて澄んだきれいな青でしょう」
エルノアは目を輝かせ、大切そうにそのしおりを受け取ると、手帳の間にそっと挟み込んだ。
「大切に使わせていただきますね。ありがとうございます、ルチアさん」
手帳を閉じ、エルノアは少しだけ寂しそうに微笑んだ。
「やっぱり、この街にも私の探す記憶の手がかりは無かったみたいです」
ルチアは笑顔でその背中を見つめながら、心の中でそっと誓った。あなたが何度私を忘れても、私はあなたの勇気を絵本にして、世界中に届け続けるから、と。
澄み渡る秋空の下、サッチェルバッグの中で、第一話の街で貰った星の歯車と、新しく加わった空色のしおりが、そっと寄り添うように収まった。かすかな音を立てるそれらに気づかぬまま、エルノアは晴れやかな足取りで、次の街へと歩き出した。
その後ろ姿が小さくなるまで、ルチアはいつまでも手を振り続けていた。いつかまた、あの人がこの街を通りかかる日が来ることを、静かに願いながら。
ルチアは工房に戻ると、書きかけだった絵本の最後のページを開いた。空色の絵の具を筆に取り、迷いのない手つきで、旅立つ魔女の後ろ姿を描き加えていく。
「これでようやく、完成だね」
誰にともなく呟いた声は、静かな工房に優しく溶けていった。窓の外では、結晶の名残がきらきらと輝きながら少しずつ溶け出し、澄んだ湖面へと還っていく。ルチアはその光景を見つめながら、いつかまたエルノアと再会できる日を胸に描いた。たとえ彼女が何も覚えていなくても、自分だけは、この温かい記憶をずっと抱えて生きていくのだと。




