第一話 鐘の鳴らない街と星の歯車
雲海というものを、これほど間近に見たのは初めてかもしれない。エルノアは崖の縁に立ち、眼下に広がる真っ白な海原を見下ろして小さく息を吐いた。風がつばの広い帽子を揺らし、夜空のような紺銀色の髪がふわりと舞う。
「オルゴール、か……」
旅の道すがら耳にした街の名を、もう一度そっと呟いてみる。断崖絶壁の上に築かれたこの街は、雲の海に浮かぶ孤島のようだった。石畳の道は古びているが丁寧に手入れされており、軒先に吊るされた小さな鈴やベルが、風に揺れて涼やかな音を立てている。
サッチェルバッグから使い込まれた『無題の皮革手帳』を取り出し、エルノアはページをめくった。そこには、これまで訪れた街の名と、拾い集めたわずかな手がかりが几帳面な文字で綴られている。だが、その文字を読んでも、書いた瞬間の記憶までは蘇ってこない。まるで誰か別の旅人が書き残した日記を覗いているような、奇妙な距離感がいつも付きまとう。
「この街には、かつて大きな奇跡を起こした魔女の伝説がある、と旅の商人が話していましたね……もしかしたら」
手帳を胸に抱き、エルノアは琥珀色の瞳をわずかに輝かせた。ここにも私の記憶の欠片が眠っているかもしれない。そう思うだけで、根無し草のような孤独に、ほんの少し光が差し込む気がした。
街の中央には巨大な時計塔がそびえていた。だが、その針は止まったまま動かず、鐘楼の鐘も長い間鳴らされていないのだろう、うっすらと錆が浮いている。どこか物悲しい静けさを纏った塔を見上げていると、市場の方から香ばしいスープの匂いが漂ってきた。
「ふふ、これは見過ごせません」
我慢できずに屋台に立ち寄り、湯気の立つ根菜のポタージュを買い求める。一口すすった瞬間、エルノアの瞳がまん丸になった。
「んんっ……! 美味しい……! こんなに優しい味のスープ、久しぶりです」
旅の醍醐味は、その土地ならではの温かい料理に出会えることだと、彼女は本気で信じている。屋台の店主が「お代わりもあるよ」と笑いかけると、エルノアは真剣な顔で少し考え込み、結局もう一杯注文してしまった。
市場を歩けば、羊毛を紡ぐ職人、風車細工の玩具を売る老婆、崖の下から採れる鉱石を扱う商人など、街の生活が生き生きと息づいている。誰もが忙しく手を動かしながらも、時折、止まったままの時計塔をちらりと見上げては、どこか懐かしそうな顔をするのが印象的だった。エルノアはその視線の先を追うように塔を仰ぎ、小さく首をかしげる。
「あの塔、何か特別な意味があるのでしょうか」
子供のように頬を緩ませながらスープを味わっていると、時計塔の足元から金属をこすり合わせるような、耳障りな音が響いてきた。
近づいてみると、油まみれの青年が巨大な歯車と格闘していた。工具を取り落とし、悪態をつきながらも諦めずに歯車の位置を調整しようとしている。汗だくの横顔には、頑固さと真剣さが同居していた。
「大丈夫ですか?」
声をかけると、青年は驚いたように顔を上げた。
「あ……いや、大丈夫、そこまで危ないことは……ってうわっ」
言い終わらぬうちに、彼が押さえていた歯車がぐらりと傾く。エルノアはとっさに杖を軽く振った。小さな光がふわりと歯車を包み、宙に浮かせて支える。
「危ないところでしたね。少し手伝わせていただいても?」
青年は目を丸くしたまま、こくりと頷いた。
エルノアは杖を軽く振り、浮かせた歯車をゆっくりと元の位置へと導いていく。指先から零れる淡い光が、歪んでいた接合部をじんわりと温め、金属の軋みが少しずつ和らいでいった。
「すごい……。何時間もかけてもびくともしなかったのに」
カイルが呆然と呟く。エルノアはくすりと笑い、額の汗を拭った。
「魔法は万能ではありませんから、根本の歪みまでは直せません。ですが、応急処置くらいならお役に立てるかと」
「いや、十分すぎる。……頼む、ちょっとこっちも見てくれないか。中の機構がどうにも噛み合わなくて」
カイルに手招きされ、エルノアは時計塔の内部にある工房へと足を踏み入れた。天井まで届く棚には、大小さまざまな歯車や真鍮の部品が整然と並び、油と金属の匂いが立ち込めている。
所狭しと並ぶ古い歯車や道具の数々に、エルノアはすっかり心を奪われていた。
「まあ……! これは古い形式の魔導核調律器ですね。今ではもう作れる職人さんも少ないと聞いたことがあります」
目を輝かせながら道具を一つ一つ手に取る様子に、青年は苦笑した。
「詳しいんだな、あんた。……ああ、名乗ってなかった。俺はカイル。この時計塔の修復をしてる」
「エルノアと申します。あてのない旅をしている魔女です。……その、時計塔の修復とは、随分と大きなお仕事ですね」
カイルは手を止め、塔の中心にある巨大な歯車の塊を見上げた。その眼差しには、単なる仕事以上の何かが宿っているようだった。
「爺さんの仕事だったんだ。俺が継いだ。……この街の大時計塔は、五十年前から止まったままでね」
「五十年前、ですか」
エルノアの手が、無意識に胸元の『星屑のペンダント』に触れた。
「ああ。谷底から毒の雲海が湧き上がって、街ごと呑み込まれかけたことがあったらしい。俺はまだ生まれてなかったけどな。……その時、名前も告げずに街を救ってくれた魔女がいたんだと、爺さんがよく話してくれた」
スパナを握る手に力がこもる。
「紺銀の髪をした、綺麗な魔女様だったって。この時計塔は、その人が残していった魔導核の力で、ずっと動いてたんだ。……でも、その核ももう寿命でな。だましだまし直してるが、そろそろ限界かもしれない」
エルノアは息を呑んだ。紺銀の髪の魔女。まるで自分のことを言われているようで、胸の奥がとくんと跳ねる。
「なんて温かくて、素晴らしい魔女様でしょう……! もしかしたら、その方は私の失われた記憶を知っているかもしれません。いつか、お会いしてみたいです」
無邪気に瞳を輝かせるエルノアを見て、カイルはふっと笑った。
「会えるといいな。もっとも、もう五十年も昔の話だ。今も生きてるかどうかも分からねえけど」
「魔女は長生きですから、案外どこかで元気にしているかもしれませんよ」
くすくすと笑い合う二人。だが、その言葉の裏にある本当の意味に、二人とも気づいてはいなかった。
その後も二人は日が傾くまで作業を続けた。エルノアは古びた設計図を読み解き、カイルが見落としていた歯車の噛み合わせのずれを的確に指摘する。かと思えば、床に転がっていた小さなねじ一本にすら「まあ、可愛らしい形」と目を輝かせ、カイルを苦笑させた。
「あんた、本当に不思議な人だな。魔法は使えるし、機構にも詳しいし、なのに自分のことになると、まるで何も知らないみたいな顔をする」
ふとこぼれたカイルの言葉に、エルノアの手が一瞬止まった。
「……ふふ、鋭いのですね。ええ、その通りです。私には、昔の記憶がないんです。自分がどこで生まれ、誰と笑い合っていたのかも」
「それで、記憶の手がかりを探して旅を?」
「はい。悲しくはありません。こうして旅をしていれば、いつかきっと、私を待ってくれている『何か』に辿り着けると信じていますから」
澄んだ声でそう語る横顔に、カイルはそれ以上何も聞けなかった。ただ、彼女の胸元でかすかに光る星屑のペンダントが、やけに寂しげに揺れているように見えた。
異変は前触れもなく訪れた。
地の底から突き上げるような地鳴りが街全体を揺らし、悲鳴が上がる。崖の向こうから、紫色の毒の雲海が猛烈な速度で這い上がってきていた。
「そんな、まさか……!」
カイルが工房を飛び出す。時計塔の中心にあった古い魔導核が、耐えきれずについに砕け散ったのだ。街を守っていた見えない結界が、音もなく霧散していく。
「逃げろ、雲が来るぞ!」
人々が悲鳴を上げて逃げ惑う。子供の手を引く母親、動けない老人を背負う若者。だが、断崖の上に築かれたこの街には、逃げ場と呼べる場所がほとんどなかった。紫色の毒の靄はすでに崖の縁まで這い上がり、触れれば石畳すら腐食させていくのが遠目にも分かる。誰かが泣き叫び、誰かが祈るように空を仰いだ。
「くそ……! このままじゃ、間に合わない」
カイルは炉の前に立ち、歯を食いしばった。
「俺が、動力を暴走させて雲を吹き飛ばす。相打ちでも構わない」
「それはいけません」
エルノアがその腕を強く掴んだ。振り返ったカイルの目に映ったのは、先ほどまでの柔らかな笑顔とはまるで違う、凛とした魔女の顔だった。
「あなたが命を捨てる必要はありません。……大丈夫、魔女の仕事を見せてあげます」
その声には、迷いも恐れもなかった。エルノアは杖を強く握りしめ、街の中央へと歩み出る。紺銀の髪が風に舞い、琥珀色の瞳が静かに燃えるような光を宿した。
「世界に満ちる無数の光よ、私の声に応えて」
杖の先に、夜空を集めたような輝きが宿る。
「――『天穹を払う星の風』」
解き放たれた光が、街全体を包み込んだ。夜空のような紺銀の旋風が渦を巻き、押し寄せていた毒の雲海を一瞬で天高く吹き飛ばしていく。眩い光の奔流の中で、人々は言葉を失って立ち尽くした。
カイルもまた、光に包まれるエルノアの姿を、瞬きも忘れて見つめていた。まるで、伝説の中の魔女がそこに蘇ったかのように。
光が収まった時、エルノアはその場に崩れ落ちた。
「エルノア!」
駆け寄るカイルの腕の中で、彼女はうっすらと目を開ける。だが、その琥珀色の瞳に映るのは、見知らぬ青年の顔だった。歯車を直した時間も、スープを分け合った笑顔も、五十年前の魔女の話を聞いて胸を高鳴らせた記憶も、何一つ残っていない。
「……あ、れ? 私、倒れてしまっていたのでしょうか」
エルノアはゆっくりと身を起こし、丁寧にお辞儀をした。
「初めまして、親切な技師さん。ご迷惑をおかけしてしまってすみません」
カイルは言葉を失った。差し出された手を握り返すことすら、しばらくできなかった。
――ああ、そうか。
絶句する中で、一つの真実が胸に落ちてくる。五十年前、この街を救った紺銀の髪の魔女。あれもきっと、彼女だったのだ。あの時も、こうして誰かを救い、そして全てを忘れて、何も知らないまま次の街へと歩き去っていったのだろう。
助けるたびに、記憶を失っていく。
喉の奥から、叫び出したいような衝動がこみ上げる。真実を告げれば、彼女は自分を責めるかもしれない。もう二度と、誰かを助けられなくなってしまうかもしれない。
カイルは溢れそうになる涙を、拳を握って必死に堪えた。そして、精一杯の笑顔を作る。
「……ううん、大丈夫だよ。初めまして、通りすがりの魔女様」
その声はわずかに震えていたが、エルノアはそれに気づかず、ほっとしたように微笑んだ。
「よかった……。あの、私、随分と眠り込んでしまっていたようですが、この街は無事なのでしょうか」
「ああ。街も、人も、みんな無事だ。……あんたのおかげだよ」
「そうですか。それならよかったです」
何のことか分からないまま、それでも心から安堵したように微笑む彼女を見て、カイルは奥歯を噛みしめた。周囲では、命を救われた人々が空を見上げ、涙を流しながら手を取り合っている。誰もが、名も知らぬ旅の魔女に助けられたのだと囁き合っていたが、当のエルノアだけが、その騒ぎの中心にいながら、ただ不思議そうに首をかしげているのだった。
翌朝、朝日が雲海を金色に染める頃、エルノアは旅支度を整えて広場に立っていた。一晩休んだだけとは思えないほど、その足取りは軽やかで、昨日までの出来事などまるでなかったかのように、澄んだ瞳で街並みを見渡している。
カイルが小さな包みを差し出す。開けると、精巧な細工の施された小さな歯車のペンダントトップが光っていた。
「壊れた魔導核の余りパーツで作ったんだ。……この街を通りかかって、守ってくれたお礼に」
「まあ……! なんて綺麗な歯車でしょう」
エルノアは目を輝かせ、大切にそれを受け取った。
「大切にしますね。ありがとうございます、カイルさん」
手帳を開き、真新しいページに視線を落とす。そして、少しだけ寂しそうに微笑んだ。
「やっぱり、この街にも私の探す記憶はなかったみたいです」
カイルは何も言わず、ただ静かに頷いた。街の人々が集まり、温かい拍手と声援を送る。エルノアは深々と頭を下げると、朝日の差し込む街道へと足を踏み出した。
サッチェルバッグの中で、新しく加わった星の歯車が、ことりと小さな音を立てた。それは、彼女が確かにこの街にいた証。彼女自身が覚えていなくとも、街に、そして誰かの心に、確かに刻まれた光だった。
振り返ることなく歩み去る紺銀の髪の魔女の背中を、カイルはいつまでも見送っていた。いつかまた、この街が危機に瀕した時、あの人はまたふらりと現れて、名前も告げずに救ってくれるのだろうか。
そして、また忘れてしまうのだろうか。
答えの出ない問いを胸に抱いたまま、カイルは止まったままの時計塔を見上げた。錆びついた針の向こうに、いつか再び鐘が鳴る日を、静かに願いながら。
やがてカイルは工房に戻り、砕け散った古い魔導核の欠片を拾い集めた。いつか誰かがまた、この街を守るための核を作れる日が来るかもしれない。その時のために、記録だけは残しておこうと、彼は使い古した帳面を開いた。
「五十年前も、今日も、名前も告げずに消えていった魔女がいた――か」
書き記した文字を見つめ、カイルは小さく笑った。悲しみだけではない、確かな温かさがそこにはあった。誰にも気づかれなくとも、覚えられていなくとも、彼女が確かにこの街を、この時計塔を、そして自分を救ってくれたことは事実として残る。それだけで、十分だと思えた。
崖の下では、払われたばかりの雲海が朝日を受けて銀色に輝いていた。いつかまた鐘が鳴る日、この街の誰かが、紺銀の髪の旅人を思い出すだろう。たとえ彼女自身が、その記憶を持たなくとも。




