第二十七話 破られた最初のページ
大書庫都市ビブリオンを発ったエルノアは、地図に記された赤い糸の先を辿り、幾つもの荒野を越えていった。
ギオンから聞いた話によれば、あの名も知れぬ記録者が最後に足を運んだとされる土地は、地図の上でも、ひときわ古い印がつけられた場所だった。「静寂の森」とだけ記されたその一帯は、今では地図上のどの街道からも遠く外れた、忘れられた土地になっているという。
深い森に分け入ってから、三日目のことだった。
鬱蒼と茂る木々の合間に、崩れかけた石壁の一部が見えてきた。かつて何かの建物があったのだろう、蔦の絡まる石畳が、森の奥へと続いている。
エルノアは、なぜか、その光景に強く胸を締め付けられた。初めて訪れる場所のはずなのに、足取りが自然と、迷いなくその奥へと向かっていく。
「ここは……」
石畳を進んだ先に広がっていたのは、朽ち果てた村の跡だった。かつて人が暮らしていたはずの家々は、屋根が崩れ落ち、壁には深い亀裂が走っている。庭先には、名も知らぬ白い花が、静かに、けれど確かに咲き誇っていた。
誰の手入れも受けていないはずなのに、その花園だけは、まるで長い年月、誰かに大切に世話をされ続けてきたかのような佇まいをしていた。
村の中央には、小さな泉があった。透き通った水が、静かに湧き続けている。エルノアはその泉のほとりに膝をつき、水面に映る自分の顔をぼんやりと見つめた。
その瞬間、頭の奥に、ちりちりとした痛みが走った。
――誰かが、この泉のほとりで、自分の名を呼んでいる。
そんな感覚が、確かにあった。だが、耳を澄ませても、聞こえるのは風の音と、葉擦れの音だけだった。
「気のせい、なのでしょうか」
こめかみを押さえながら、エルノアは立ち上がった。村の奥、一際大きな崩れかけの建物へと足を向ける。
そこは、かつて教会か、あるいは何らかの祭祀場だったのだろう。天井の一部が崩れ落ち、木漏れ日が祭壇の跡らしき場所に、静かに降り注いでいた。
祭壇の下、瓦礫に半ば埋もれるようにして、小さな鉄の箱が置かれているのを、エルノアは見つけた。
鍵はかかっていなかった。震える手で蓋を開けると、中には、色褪せた三枚の紙片が収められていた。
紙の端が不揃いに破れている。まるで、何かの冊子から、無理やり引き千切られたかのような跡だった。
その筆跡を見た瞬間、エルノアは息を止めた。
紙片に記された文字は、間違いなく、自分自身の手によるものだった。かつて一度も見たことのないはずの記述のはずなのに、その一文字一文字の癖や滲み方が、確かに自分のものだと分かる。
震える手で、一枚目の紙片を読み始めた。
『わたくしの名は、リア。この森で生まれ育った、ただの魔女見習いです。この手帳は、わたくしがこれから経験することを、忘れないために書き記すためのもの』
二枚目には、こう記されていた。
『世界には、周期的に「大いなる忘却」が訪れます。師である方から、そう教えられました。世界そのものが、耐えきれないほどの記憶を溜め込みすぎた時、それを一度手放し、再び一から積み上げ直そうとするのだと』
『放っておけば、世界はいずれ、記憶の重みに押しつぶされて崩壊してしまう。師は、それを防ぐために、ご自身の命を賭して、封印の術式を編み上げようとしています』
そして、三枚目。もっとも文字が乱れ、震えるような筆致で綴られたそのページに、エルノアは目を落とした。
『師は、力尽きようとしています。世界を救う封印の術式は、まだ未完成のまま。このままでは、大いなる忘却が、この世界のすべてを呑み込んでしまう』
『わたくしは、決めました。師の代わりに、わたくし自身が、その封印の役目を引き受けます。世界の記憶を、これから先も繋ぎ止め続けるための、受け皿となることを』
『代償として、わたくし自身の記憶もまた、少しずつ失われていくことになるでしょう。それでも構いません。誰かが、この世界の記憶を守り続けなければならないのなら――』
文章は、そこで途切れていた。
エルノアは、その場に崩れ落ちるようにして座り込んだ。手にした紙片が、震える指先から滑り落ちそうになる。
自分がリアという名の魔女見習いだったこと。世界を襲う大いなる忘却という現象があること。そして、その忘却から世界を守るために、自ら封印の役目を引き受けたということ。
断片的だった記憶の欠片が、今、ようやく一つの形を結び始めていた。
だが、それでも、まだ理解できないことがあった。世界を守るための封印契約と、大魔法を使うたびに直近の記憶を失っていくという、これまで自分を苦しめ続けてきたあの呪いとは、いったいどう繋がっているのだろうか。
考え込んでいたエルノアの脳裏に、ふと、第七話で聖域を訪れた時の記憶が蘇った。あの時、自分は確かに、世界の破滅を防ぐために封印契約を結んだこと、そして本当の名前の断片が「リア」であることを知った。だが、その契約の詳細までは、はっきりと思い出せていなかった。
この紙片に記された言葉が、その空白を、今、静かに埋めていく。
「そうか……。私が大魔法を使うたびに記憶を失うのは、単なる呪いなどではなく」
エルノアは、震える声で呟いた。
「世界を包み込もうとする『大いなる忘却』の一部を、私自身が、その都度、肩代わりして受け止めているから、なのかもしれません」
大魔法という、莫大な力を必要とする奇跡。それを行使するたびに、世界に溜まり続ける「忘却の重み」の一部が、封印を引き受けた自分自身の記憶へと、優先的に流れ込んでくる。だからこそ、直近の記憶が真っ先に消し去られてしまうのだ。
自分は、世界の忘却そのものを、一身に背負い続けてきたのかもしれない。
泉のほとりに戻ったエルノアは、水面に映る自分の顔を、もう一度じっと見つめた。
脳裏に、ちらちらと、何かの光景が明滅する。幼い頃、この森で誰かと手を繋いで歩いた記憶。優しい声で名前を呼んでくれた、師と思しき人物の姿。だが、どれもすぐに霧散してしまい、はっきりとした輪郭を結ぶことはなかった。
「思い出せそうで、思い出せない……」
もどかしさに、エルノアは唇を噛んだ。
その時、ふと、サッチェルバッグの中の『星屑のペンダント』が、微かに光を帯びるのを感じた。手に取り、目の高さに掲げてみる。ペンダントの奥で漂う小さな光が、心なしか、いつもより強く瞬いているように見えた。
「もしかして、あなたも……」
誰から貰ったのかも思い出せない、このペンダント。もしかすると、これもまた、あの日、この森で自分に大切な何かを託してくれた誰かの、想いの欠片なのかもしれない。
エルノアは、ペンダントをそっと胸に抱いた。
日が傾き始める頃、エルノアは崩れかけた建物の隅に、もう一つの手がかりを見つけた。半ば土に埋もれた、小さな石碑だった。
刻まれた文字は、風化して読み取りにくくなっていたが、目を凝らすと、こう読めた。
『この地に眠る封印の礎に、永遠の感謝を。世界の記憶を繋ぎ続ける者に、安らかな道行きを』
エルノアは、その石碑の前に、静かに膝をついた。
「私は、まだ何も思い出せていません。ですが、もし私が、本当にこの世界の記憶を守るための役目を引き受けたのだとしたら」
声が、微かに震える。
「その役目から、逃げるつもりはありません。ただ、知りたいのです。私はいったい、何のために旅を続けているのか。この先に、何が待っているのか」
夕暮れの光が、崩れた村の跡を、橙色に染め上げていく。風に揺れる白い花々が、まるでエルノアの言葉に応えるように、静かに揺れた。
その夜、エルノアは村の跡地で野営をしながら、『無題の皮革手帳』を開いた。三枚の破れた紙片を、そっと手帳の間に挟み込む。長い年月を経て、ようやく手帳の欠けていた最初のページが、少しだけ埋められたような、そんな感覚があった。
震える手で、新しいページにペンを走らせる。
『〇月〇日。静寂の森、かつての我が故郷にて。
私はリアという名を持ち、かつてこの森で、世界を大いなる忘却から守るための封印の役目を、自らの意志で引き受けたのだと知りました。
大魔法を使うたびに私の記憶が消えていくのは、その代償として、世界の忘却の重みを、この身に受け止め続けているからなのかもしれません。
まだ、すべてを思い出せたわけではありません。それでも、この役目から逃げるつもりはありません。私が背負ってきたものの意味を、ようやく知ることができました』
書き終えたエルノアは、手帳をそっと閉じ、焚き火の炎を見つめた。
まだ知らないことは、あまりにも多い。だが、自分がこれまで歩んできた道のりに、確かな意味があったのだと知れたことだけは、静かな支えになっていた。
夜空には、幾つもの星が瞬いている。エルノアは、その光を見上げながら、明日、また新たな手がかりを求めて歩き出すことを、静かに心に決めていた。




