第二十六話 大書庫と空白の歴史書
記憶が漂流する港町レテを発つ朝、エルノアの足取りはいつもより幾分か重かった。
手帳の綴じ目に残っていた、あの微かな痕跡。かつて何かが挟まれていたらしいその跡は、ひとりでに答えを教えてくれるものではなかった。だが、港町の宿の主人が教えてくれた話が、エルノアの背中を押していた。
「そういう込み入った謎を調べたいなら、大書庫都市ビブリオンに行くといい。世界中の記録が集まる場所だからね。あそこの書庫番なら、何か知っているかもしれないよ」
その言葉を頼りに、エルノアは幾つかの丘を越え、幾つかの川を渡り、数日をかけてビブリオンへと辿り着いた。
街そのものが、一つの巨大な図書館であるかのようだった。石造りの塔がいくつも聳え立ち、それぞれの窓からは、書物の匂いを含んだ乾いた風が絶えず流れ出している。通りを行き交う人々の多くが、分厚い本を小脇に抱えて足早に歩いていた。
「まあ……なんて壮観な眺めなのでしょう」
見上げるほどの高さを誇る中央書庫の尖塔を前に、エルノアは思わず息を呑んだ。
中央書庫の入り口で、エルノアは受付の女性に声をかけた。
「すみません、世界の歴史についての記録を、詳しく調べたいのですが」
「歴史書でしたら、二階の東翼に。何かお探しの年代はございますか?」
「具体的な年代までは、まだ分からないのです。ただ……最近、ある港町で、住民たちが日々の記憶を少しずつ失っていくという奇妙な現象を目にしまして。似たような事例が、過去にも記録されていないかと」
受付の女性は、少し表情を曇らせた。
「それでしたら、書庫番の長にお尋ねになった方がよいかもしれません。実は最近、似たようなお問い合わせを受けることが、増えているのです」
案内された先で待っていたのは、白髪を短く刈り込んだ、鋭い眼光を持つ老年の書庫番だった。名をギオンといった。
「記憶が失われていく現象について、お調べになりたいと」
「はい。レテという港町で、目の当たりにしました」
ギオンは、しばらく黙ってエルノアを見つめた後、静かに頷いた。
「ついていらっしゃい。あなたにお見せしたいものがあります」
案内されたのは、書庫の最深部、地下深くに掘られた古い書架だった。空気はひんやりと湿り気を帯び、埃を被った革表紙の本が、天井近くまでぎっしりと詰め込まれている。
ギオンは、その中の一冊――世界の年代記を綴った歴史書を、慎重な手つきで取り出した。
「これをご覧なさい」
差し出されたページを開くと、エルノアは思わず眉をひそめた。
ある年代のところで、記述がぷつりと途切れているのだ。前後の文脈は繋がっているように見えるのに、その狭間だけが、まるで最初から何も書かれていなかったかのように、白紙のまま残されている。
「これは……」
「破損や紛失ではありません。よく見ていただければ分かりますが、紙自体には破れも継ぎ目もない。まるで、最初から、その部分にだけ何も記されなかったかのようなのです」
ギオンは他の書架からも、次々と歴史書を取り出して見せた。どの書物にも、共通して、特定の年代の記述だけがすっぽりと抜け落ちている。
「私たち書庫番の間では、これを『空白年代』と呼んでいます。世界の記録というものは、本来、途切れることなく連綿と続くべきものです。それなのに、周期的に、こうした空白が生まれている」
「周期的に、ですか」
「ええ。おおよそ、数十年から百年に一度。まるで、世界そのものが、意図的に何かを忘れようとしているかのように」
エルノアの背筋に、冷たいものが走った。港町レテで見た光景と、目の前の空白の歴史書が、静かに重なり合っていく。
「あなたに、もう一つお見せしたいものがあります」
ギオンはさらに奥へとエルノアを案内した。埃を被った棚の奥、鍵のかかった小さな扉の先に、その部屋はあった。
「ここは、かつて、ある一人の記録者が長く出入りしていた書庫です」
部屋の中には、古びた机と、無数の走り書きのメモ、そして壁一面に貼られた地図が残されていた。地図には、幾つもの街の名前に印がつけられ、赤い糸のようなもので繋がれている。
「記録者、ですか」
「ええ。あなたと同じように、世界中を旅しながら、各地の出来事を記録していた人物です。彼、あるいは彼女は、この空白年代の謎を、生涯かけて追い続けていました」
エルノアは机の上に残されたメモに目を落とした。かすれたインクで書かれた文字を、目を凝らして読み解いていく。
『世界は、一定の周期で「過去」を手放す。それは天変地異でも、悪意ある呪いでもない。おそらくは、この世界そのものに刻まれた、根源的な法則なのだ』
『忘れられた記憶は、完全に消え去るわけではない。何処かに、必ず受け皿がある。それを見つけることができれば――』
そこで文章は途切れていた。続きのページは、破り取られたように失われている。
エルノアの心臓が、大きく跳ねた。
「この方の名前は……」
「記録には残っていません。本人が、自らの名を書き記すことを、ひどく避けていたようでしてね」
ギオンは静かに続けた。
「ですが、彼女が最後にこの部屋を訪れてから、もう随分と長い年月が経っています。以来、行方は誰も知りません」
エルノアは、地図に描かれた赤い糸を、一つ一つ目で辿った。見覚えのある街の名前が、いくつも記されている。旅の中で自分が訪れてきた街々と、不思議なほど重なり合っているように思えてならなかった。
「ギオンさん、この部屋の主が使っていた道具のようなものは、何か残されていませんか」
「さあ……。私が知る限りでは、ほとんどの私物は、既に持ち去られたか、処分されたと聞いています。ただ」
ギオンは、部屋の隅にひっそりと置かれた古い木箱を指差した。
「これだけは、誰も手をつけずに残されていました。中身を検めた者もおりません。もしよろしければ、ご覧になりますか」
エルノアは震える手で、木箱の蓋をそっと開けた。中には、色褪せた布切れと、小さな鍵、そして一枚の紙片が収められていた。
紙片には、かすれた文字で、こう記されていた。
『世界は定期的に過去を忘れ、そして再構築される。だが、忘れられたものすべてが、無意味に消えてしまうわけではない。誰かが、それを記憶し続ける限り』
その筆跡に、エルノアは見覚えがあるような、ないような、奇妙な感覚を覚えた。まるで、遠い昔に、自分自身がこの文字を書いたことがあるかのような。
「これは……」
「どうかされましたか」
「いいえ……。ただ、この筆跡が、なぜか懐かしく感じられて」
ギオンは、興味深そうにエルノアを見つめた。
「もしや、あなたも、その手帳をお持ちなのでは」
「え……?」
「ここを訪れていた記録者は、いつも、一冊の古い革表紙の手帳を大切に持ち歩いていたそうです。私自身は見たことがありませんが、先代の書庫番が、そう語り継いでいました」
エルノアは、サッチェルバッグの中の『無題の皮革手帳』を、思わず強く抱きしめた。心臓が、痛いほど早鐘を打っている。
その夜、エルノアはギオンから借り受けた小さな部屋で、一人、手帳と向き合っていた。
港町レテで浮かび上がった、住民たちの失われた記憶。空白年代の歴史書。名も知れぬ記録者の残した言葉。それらすべてが、一本の糸のように繋がり始めているのを感じる。
もしかすると、この世界には「世界は周期的に過去を忘れ、再構築される」という根源的な法則があるのかもしれない。そして、この手帳は、忘れられていくはずのものを、密かに受け止め続ける器なのかもしれない。
だとすれば、自分自身の失われた過去も。
自分が誰であったのか、なぜ大魔法を使うたびに記憶を失うのか。その答えの断片が、この世界の忘却の法則そのものと、深く結びついているのではないか。
エルノアは震える手で、手帳を開いた。改めて確認するように、表紙の裏側に残る、あの微かな痕跡に指先を這わせる。
「もし、あなたが、私の前にこの手帳を持っていた人なのだとしたら」
誰に問うでもない呟きが、静かな部屋に落ちた。
窓の外では、書庫都市の塔々が、夜霧の中に沈むように佇んでいる。答えはまだ、はっきりとは見えてこない。だが、進むべき道の輪郭が、確かに見え始めていた。
エルノアはペンを取り、手帳の新しいページに、静かに言葉を綴った。
『〇月〇日。大書庫都市ビブリオンにて。
世界の歴史には、周期的な「空白」が存在するのだと知りました。何者かが、あるいは何かが、意図的に過去を手放し続けているのかもしれません。
そして、かつてこの謎を追い続けた記録者がいたこと。その人物が、私と同じように、一冊の手帳を大切に携えていたということも。
もし、この手帳が、その人から受け継がれたものなのだとしたら。私自身の失われた記憶も、この謎の奥深くに眠っているのかもしれません。
答えを探して、私はまた、次の場所へ向かおうと思います』
書き終えたエルノアは、しばらくの間、手帳を胸に抱いたまま、静かに目を閉じていた。
翌朝には、この書庫都市を発つつもりだった。地図に記された赤い糸の先、まだ見ぬ土地へ。自分自身の過去へと繋がる、その手がかりを探すために。




