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忘却の魔女と星を拾う筆跡  作者: まつたけひめ
第1章

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第二十五話 記憶が漂流する港町

 音を結晶にする街サウントを後にしたエルノアが辿り着いたのは、潮の香りと霧混じりの海風が絶えず吹き抜ける、古びた港町だった。


 石造りの防波堤には、色褪せた漁具や網が無造作に積まれている。港に並ぶ帆船は、どれも長い年月を経てきたのだろう、船体の塗装がところどころ剥げ落ちていた。街の名は「レテ」と、看板の文字がかろうじて読み取れた。


 エルノアが港に足を踏み入れた瞬間から、どこか言いようのない違和感が纏わりついてきた。人々の表情は穏やかで、誰も取り立てて苦しんでいる様子はない。それなのに、街全体に漂う空気が、ひどく希薄で、頼りなく感じられるのだ。


 「すみません、この魚はどこの漁場で獲れたものでしょうか」


 市場で魚を並べていた老漁師に、何気なく尋ねてみた。すると老漁師は、しばらく困ったように首を傾げてから答えた。


 「さあて……。昨日、確かに漁に出た気はするんだが。どこの漁場だったか、思い出せんなあ」


 「昨日のことを、ですか?」


 「ああ。妙な話だが、この頃はよくあることでね。今朝食べた朝飯の中身も、思い出せんかった」


 老漁師は特に気にする様子もなく、笑って肩をすくめた。エルノアはその軽やかな笑いに、かえって不安を覚えた。




 港町を歩き進めるうちに、似たような光景に何度も出くわした。


 波止場のベンチに腰掛けた若い女性が、隣に座る子どもに向かって、困ったような笑みを浮かべていた。


 「ねえ、あなたのお名前、なんだったかしら。ごめんなさいね、ここのところ、物忘れがひどくて」


 「お母さん、僕はユーリだよ。何度も言ってるじゃないか」


 子どもは慣れた様子でそう答えていたが、その目の奥には、隠しきれない寂しさが滲んでいた。母親は「ああ、そうだったわね」と柔らかく笑い、けれどそれ以上、何を思うこともなく、また海の方へと視線を戻してしまう。


 エルノアはその光景を、しばらく黙って見つめていた。


 港の食堂に入ると、壁に貼られた張り紙が目に留まった。「本日の日替わりは――」の続きが、白紙のまま貼られている。店主に尋ねると、店主は苦笑しながら言った。


 「ああ、それか。毎日書き替えているはずなんだが、書いた内容を、次の日には忘れてしまうんだよ。仕方ないから、思い出した分だけをその場でお客さんに説明しているんだ」


 「皆さん、それを不便には感じられないのですか?」


 「不便、ねえ……」


 店主は少し考え込むような顔をした。


 「そういえば、前はもっと、色んなことを覚えていた気がするんだがなあ。まあ、忘れたところで、困ることもそうないしな」


 その口ぶりには、危機感というものが驚くほど欠けていた。まるで、記憶を失っていくこと自体が、ごく当たり前の自然現象であるかのように。


 エルノアは背筋に、冷たいものが走るのを感じた。




 その夜、エルノアは宿の一室で、旅の記録をつけようと『無題の皮革手帳』を開いた。ペンを構え、この街で見聞きした奇妙な出来事を書き記そうとした、その時だった。


 手帳のページの余白に、見覚えのない文字が、じわりと滲むように浮かび上がってきたのだ。


 「――ユーリ。母の名はミラ。三年前、父を海の事故で亡くした。ユーリの誕生日は、初雪の降る日」


 エルノアは息を呑んだ。それは、自分が書いた覚えのない文章だった。だが、確かに、昼間見かけたあの母子の情報のように思えてならない。


 「これは……いったい」


 震える手で、次のページをめくる。すると、そこにもまた同じように、見知らぬ文字が浮かび上がっていた。港の老漁師の名前。彼が長年連れ添った、既に亡くなった妻の名前。若い頃、初めて漁に出た日の思い出。


 まるで、街の人々が忘れてしまった記憶そのものが、この手帳に吸い寄せられるように書き留められているかのようだった。


 エルノアは震える指先で、そのページをそっと撫でた。


 「私が書いたのではない、この文字たちは……いったい、どこから」


 これまでの旅で、この手帳には確かに不思議な点が幾つもあった。大魔法を使った後、記憶を失った自分がページを見ても、まるで別人が書いたもののように感じられたこと。時に、記述が知らぬ間に更新されていたこと。


 ただの記録用の手帳だと、ずっと思い込んでいた。だが、もしこの手帳が、それ以上の何かだとしたら――。


 「まさか、この手帳が……この街の人々が失っていく記憶を、代わりに受け止めているというのでしょうか」




 翌朝、エルノアは再び街を歩き、今度は注意深く人々に話を聞いて回った。港の老人会の集まりに顔を出すと、一人の老婆が、皺だらけの手でエルノアの手を取り、涙ぐみながら語り始めた。


 「旅の魔女様。この街はね、昔からこうだったわけじゃないんだよ」


 「以前は、違ったのですか」


 「ああ。もう随分と昔、まだ私が若かった頃には、こんなふうに物を忘れる病なんて、なかった。それがいつからか、少しずつ、少しずつ……。誰も気にしなくなっていったんだ。忘れることに、慣れてしまってね」


 老婆は遠い目をして、海の方を見つめた。


 「私も、もうすぐ、自分の孫の顔さえ思い出せなくなるんだろうねえ。それが、怖くないと言えば嘘になる。でも、皆がそうだから、私だけおかしいとも思えなくてね」


 エルノアはその手を、両手でそっと包み込んだ。


 「怖くて当然です。大切な記憶が失われていくことは、決して当たり前のことなどではありません」


 自分自身の言葉に、エルノアははっとした。かつての記憶を持たない自分が、なぜこれほどまでに、その言葉に強い実感を込められたのか。自分でも、うまく説明がつかなかった。


 老婆は驚いたように、エルノアの顔をじっと見つめた。


 「魔女様も、何か失くしたことがあるのかい」


 「……分かりません。ですが、私自身も、昔の記憶を持っていないのです」


 「そうかい。それは……お互い、寂しいものだねえ」


 老婆は、皺だらけの顔に、寂しくも柔らかな笑みを浮かべた。




 その日の夕暮れ、エルノアは再び宿の一室で、手帳と向き合っていた。ページの余白には、この街に暮らす人々の失われた記憶が、次々と浮かび上がり続けている。まるで手帳自体が、意志を持って何かを訴えかけているようだった。


 エルノアはこれまでの二十四話にわたる旅を思い返した。鐘の鳴らない街での出会い、腐肉の檻での過酷な悲劇、星詠みの聖域で知った封印契約の断片、そして直近の、星屑の街や霧の街、音の街での小さな気づき。それらすべてが、この手帳の中に、確かに刻まれてきたはずだった。


 だが、もし、この世界そのものが、定期的に何かを「忘れる」構造を持っているのだとしたら。自分の記憶がずっと戻らなかった理由も、実は、もっと大きな何かと繋がっているのではないか。


 そんな予感が、胸の奥にじわりと広がっていく。


 エルノアはペンを取り、震える手で、手帳の最後のページに、自分自身の言葉を書き添えた。


 『〇月〇日。記憶が漂流する港町レテにて。


 この街の人々は、大切な記憶を少しずつ失いながらも、それを当たり前のこととして受け入れてしまっていました。


 そして、失われたはずのその記憶が、なぜか私のこの手帳に、静かに刻まれていくのです。


 この手帳は、ただの旅の記録帳ではないのかもしれません。もしかすると、世界そのものの記憶を、密かに受け止める何かなのでしょうか。


 私自身の失われた過去も、この手帳の奥深くに、まだ眠っているのだとしたら――』


 書きかけたところで、エルノアはふとペンを止めた。手帳の綴じ目の奥、普段は開くことのない部分に、微かな違和感を覚えたのだ。


 指先でそっと確かめてみると、表紙の裏側に、これまで気づかなかった小さな痕跡があった。何かが、かつてそこに挟まれていたような、薄い跡。


 「これは……」


 その手がかりの正体を確かめるように、エルノアはランプの灯りを近づけた。かすれてほとんど読み取れないものの、そこには古い紙片が挟まれていたらしい形跡と、消えかけたインクの染みが、微かに残っていた。


 どこか遠い記憶を呼び覚ますかのように、胸の奥がざわめく。エルノアは、その痕跡から目を離すことができなかった。


 窓の外では、港の灯台の光が、霧に沈む海を静かに照らし続けていた。この街の異変の答えは、まだ何一つ見えてこない。だがエルノアは、確かな予感とともに、静かに手帳を閉じた。


 次に向かうべき場所が、ぼんやりと胸の中に浮かび上がってくるのを感じながら。

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