第二十八話 忘却の侵食と消えるインク
静寂の森を発った翌日から、エルノアは異様な胸騒ぎに苛まれ続けていた。
理由は分からない。ただ、進むべき方角だけが、まるで見えない糸に引かれるように、はっきりと胸の中に浮かび上がってくる。導かれるまま西へ西へと歩を進めるうちに、周囲の景色は少しずつ色を失っていった。
木々の緑は色褪せ、空の青さも、どこかくすんで見える。地面には霧とも靄ともつかない、灰色がかった靄が薄く漂い始めていた。
「ここは……」
辿り着いたのは、深い谷だった。両側に切り立った崖が続き、谷底には、絶えず白い霧が立ち込めている。看板の類は何もなかったが、道中で出会った旅の商人が、この場所をこう呼んでいた。「まどろみの谷」と。
「あそこには、絶対に近づかない方がいい」
商人は真剣な顔で忠告してきた。
「あの谷に入った者は、二度と自分自身を保てなくなるという。存在そのものが、薄れて消えてしまうんだとさ」
その警告を胸に留めながらも、エルノアの足は、迷わず谷の入り口へと向かっていた。何かが、自分をここへ呼び寄せている。そんな確信めいた予感があった。
谷に足を踏み入れた瞬間、エルノアは全身にぞわりとした感覚を覚えた。
まるで、自分という輪郭そのものが、周囲の霧に少しずつ溶かされていくような感覚。足元の地面すら、時折、輪郭が霞んで見える。
「これが、大いなる忘却の……」
谷の奥へ進むほどに、その感覚は強くなっていった。エルノアは、思わずサッチェルバッグを強く抱きしめ、震える手で『無題の皮革手帳』を取り出した。
ページを開いた瞬間、エルノアは息を呑んだ。
これまでの旅の記録――鐘の鳴らない街でカイルと過ごした日々。湖畔の街でルチアと再会した記憶。パン職人ボドと過ごした温かな時間。数え切れないほどの街と、人々との出会い。それらを綴った文字が、次々と薄れ始めていたのだ。
インクの色が、じわじわと灰色に色褪せていく。文字の輪郭がぼやけ、まるで長い年月を経た古文書のように、判読が難しくなっていく。
「待って……待ってください……!」
エルノアは震える手で、手帳をきつく握りしめた。だが、ページの文字が薄れていくのを、止める術はどこにもなかった。
「私が、見てきたものすべてが……消えてしまうというのですか」
谷の奥へ進むにつれて、エルノア自身の記憶にも、異変が起き始めていた。
鐘の鳴らない街の青年の名前は、確か――カイル、だったはずだ。だが、その名を思い浮かべようとした瞬間、頭の中に薄い霧がかかったように、輪郭がぼやけてしまう。
「あの街の名前は……確か……」
思い出そうとするほどに、記憶が指の間からこぼれ落ちていくような感覚に襲われた。まるで、砂を握りしめた手のひらから、砂粒が絶え間なくこぼれ続けているかのように。
「音を結晶にする街で出会った、あの青年の名前は……アルン、だった、はず。それとも……」
名前すら、はっきりと思い出せなくなっていく。エルノアはその場に膝をつき、両手で頭を抱えた。
「私は、忘れたくない……! この旅で出会った、すべての人たちのことを……!」
谷底に立ち込める霧が、まるで意志を持っているかのように、エルノアの周囲に纏わりついてくる。息をするたびに、その霧が肺の奥まで入り込み、記憶の輪郭を、少しずつ溶かしていくような気がした。
「これが、世界の忘却の、正体……」
膨大な年月の間に積み重なった、この世界のあらゆる記憶。それが限界を超えた時、世界そのものが、その重みに耐えかねて、記憶を手放そうとする。そして、その忘却の波動を一身に受け止める役目を、かつて自分が――リアという名の魔女見習いが、自ら引き受けたのだ。
だが、その代償は、あまりにも大きかった。
谷の中央に、ひときわ深い霧が渦を巻く場所があった。エルノアは、ふらつく足取りで、その場所へと近づいていく。
霧の中心に立つと、頭の中に、幾つもの声が響き始めた。
「あなたのこと、絶対に忘れません」
「エルノアさん、ありがとうございました」
「あなたの旅路に、幸多からんことを」
旅の途中で出会った、数え切れないほどの人々の声だった。誰の声かは、もう判然としない。だが、確かに、自分に向けられた温かな言葉たちだと分かった。
「私は……。私は、忘れてしまうのですか。この温かな声たちのことも」
エルノアの目から、涙がこぼれ落ちた。その涙さえも、霧に触れた途端、輪郭を失って消えていくような気がした。
膝から力が抜け、その場に崩れ落ちる。手にした手帳のページは、もはやほとんどの文字が判読できないほどに薄れてしまっていた。
「これでは……これでは、私が旅をしてきた意味が……」
絶望が、静かに、けれど確実に、エルノアの心を蝕んでいく。
「記録することに、いったい何の意味があるというのでしょう。書き留めたところで、いずれこうして、すべて消えてしまうのなら」
弱々しい呟きが、霧の中に溶けて消えていった。
そのまま、意識が遠のきかけた、その時だった。
サッチェルバッグの中から、微かな温もりが伝わってきた。エルノアは、震える手でバッグの中を探った。
指先に触れたのは、これまでの旅で受け取ってきた、数々の贈り物だった。
星屑を染め上げる街でステラから貰った、光の当たり方で色を変える栞。文字が溶ける街でレイから貰った、湿気を吸うと甘い香りが漂う押し花。音を結晶にする街でアルンから貰った、かすかな風の音を記憶するペンダント。
どれも、大魔法を使わなかった日常の中で、確かに自分の手で紡いだ、記憶の証たちだった。
それらに触れた瞬間、エルノアの脳裏に、鮮やかな光景が蘇った。
完璧を目指して何度も布を解き続けたステラが、最後に見せた晴れやかな笑顔。飾らない言葉を紙に綴ったレイの、震える手。祖父との静かな時間を思い出し、涙を流したアルンの横顔。
どれも、大きな奇跡などではなかった。ささやかな、けれど確かな温もりだった。
「そうか……」
エルノアは、震える声で呟いた。
「大魔法によって消えてしまうのは、私自身の中にある記憶。でも、私が誰かに残してきたものは、消えていない」
布に刻まれた光の陰影。誰かの元へ届いた手紙の言葉。オルゴールが奏でた、静かな旋律。それらは、今もきっと、この世界のどこかで、確かに息づいているはずだった。
「記憶が消えてしまうことと、私が誰かと交わした想いが消えてしまうことは、同じではないのかもしれません」
エルノアはよろめきながらも立ち上がり、薄れかけた手帳のページを、もう一度、しっかりと見つめた。
文字はほとんど読み取れなくなっている。だが、それでも、そこに何かが書かれていたという事実、誰かと出会い、心を通わせたという事実そのものは、たとえページの文字が消えたとしても、なくなりはしないはずだ。
「記録することの意味は、消えないためだけに、あるのではないのかもしれません」
エルノアは、震える手で、薄れた文字の上に、そっと指を這わせた。
「今この瞬間、誰かのために心を尽くしたという事実。それ自体が、たとえ記憶が薄れても、この世界のどこかに、確かな跡を残しているのだとしたら」
谷を包む霧が、心なしか、わずかに揺らいだような気がした。
だが、それも束の間のことだった。エルノア自身の足元から、再び強い忘却の力が這い上がってくる。谷の奥、まだ見ぬ何かが、その力の源になっているのだと、エルノアは直感していた。
「まだ、終わっていません」
エルノアは震える足を叱咤し、霧の奥へと、一歩を踏み出した。
行く手には、これまで感じたことのないほど濃密な、忘却の気配が渦巻いている。自分自身の存在すら、あと少しで輪郭を失ってしまいそうな、そんな危うさを感じながら。
それでも、エルノアは立ち止まらなかった。
その夜、谷の入り口近くまで戻ったエルノアは、崩れそうになる意識を必死に繋ぎ止めながら、震える手で手帳を開いた。ほとんどの文字が薄れてしまった、そのページの片隅に、かろうじて新しい言葉を書き加える。
『〇月〇日。まどろみの谷にて。
世界の忘却の力は、私が旅の中で綴ってきた記録さえも、容赦なく薄れさせていきます。この身の記憶も、少しずつ、輪郭を失いつつあります。
それでも、私は今、気づき始めています。記録が消えてしまうことと、私が誰かと確かに交わした想いが消えてしまうことは、同じではないのかもしれません。
たとえこの手帳の文字が読めなくなっても、私がこの旅で紡いできたものは、きっと、この世界のどこかに残り続けているはずです。
だから私は、まだ立ち止まるわけにはいきません』
書き終えた文字も、ほとんど霧に溶けるように薄れていく。それでも、エルノアはペンを置かなかった。
朦朧とする意識の中で、エルノアは静かに目を閉じた。
まどろみの谷の奥に、まだ見ぬ何かが待っている。その正体を確かめるまでは、決して倒れるわけにはいかない。そう自分に言い聞かせながら、エルノアは霧の底に、静かに意識を沈めていった。




