いつか訪れる結末
『将来、僕の癌細胞を食べて下さい』14
・いつか訪れる結末
二十年後、カイトは八十歳になった。手に震えやアルツハイマーの様子は無く、視力も問題が無かった。生涯現役はあながち間違いでもなかったのだなとキャンは思った。その日は依頼があって手術をする日で、カイトは運転席に座ろうとドアに手を掛けた。しかしキャンがそれを止めた。カイトはキャンを見た。
「何ですか?」
「高齢者ドライバーの事故が増えてる。これからは私が運転するよ」
「キャンさんの方が高齢でしょう?」
「身体能力の話だよ」
「分かりました。では、これからは運転、宜しくお願いします」
「はいよー」
二人は車に乗り、渋井大学附属病院に向かった。依頼者のカルテと診断書を読み、手術した。五時間の手術で、流石のカイトも疲れ切っている様子だった。もしかしたら、もうそろそろ限界だろうか。キャンはそう思っていた。術後の帰りにスーパーに寄り、車をパーキングエリアに置いて買い物をしようとした。
「今日は何作ってくれるの?」
「シチューなんてどうですか?」
「良いねぇ」
そんな話をしていると、車が猛スピードで突っ込んで来た。カイトは「危ない!」と思わずキャンを突き飛ばした。地面に叩き付けられ、状況が掴めなかったキャンは当たりを見渡し、カイトの方を見た。そこでは頭から血を流して倒れているカイトとスーパーに突っ込んでグシャグシャになっている車と、入り口のガラスが飛び散り、商品がなぎ倒されて大惨事になっているスーパーがあった。一瞬理解が追い付かなかったが、カイトを見てすぐに駆け寄り、意識があるかどうか確認した。
「カイト!カイト!」
「キャンさん……!怪我は……!?」
「君の怪我はまだ分からない!」
「違う……!キャンさんに怪我は……!?」
「私は大丈夫だ!それより君の方が……!」
「腰骨をやってしまったようです……とても……痛い、です……」
カイトは気を失った。キャンはカイトが死んだかと思い脈を測った。まだ脈はあった。瞳孔を確認しても正常だった。すぐに救急に通報した。暴走車の方では運転席にいた男性がハンドルに突っ伏して気を失っていた。それを見て周りの人達が集まり、「運転手の脈が無い!」と騒いでおり、AEDで蘇生措置をしていた。そして十分程で救急車と警察が来て、カイトはキャン同伴で救急車で運ばれていった。渋井大学附属病院を指定し、キャンは病院に着くとレントゲンやCTスキャン等をしてカイトの状況を把握した。頭蓋骨と腰骨の骨折。内臓に問題は無かった。キャンは手術着に着替えた。すると渋井大学附属病院の医師達がキャンを遮った。
「ここは我々に任せて下さい」
「私の夫だ!私が執刀する!」
「しかし貴方は癌専門の……」
医師が続きを言う前にキャンは医師達を殴るように退けた。
「邪魔だ!退け!」
キャンの剣幕に押され、医師達はサポートに回る事にした。キャンは麻酔で眠っているカイトを執刀した。頭蓋骨の接合手術は二時間程で終わり、腰骨の骨折はすぐに接合出来る状態だったが、神経が切れていた。何とか神経も繋ぎ合わせ、腰の骨も接合を四時間程で終えた。計六時間の手術で終わった。麻酔が効き終わり、カイトは目を覚ました。隣にはキャンが椅子に座って待っていた。カイトは起き上がろうとしたが、腰が痛くて起き上がれなかった。そんなカイトをキャンは止めた。
「手術したばかりだから、動かないで」
「すみません……」
「何も君が謝る事は無い。むしろ謝るのは私の方だ。私を庇ったばっかりに……」
「それを言うなら、突っ込んで来たあの車の運転手が我々に謝るべきでしょう」
「そうだな。その通りだ」
「どういった状況ですか?」
「暴走車が突っ込んできて、君が撥ねられた。そして君は頭蓋骨と腰の骨を折った。それを私が治療した。治療期間は四ヶ月、リハビリ含めるなら入院期間は合計十六ヶ月ってところだな」
「そうですか……ありがとうございます。あの、暴走車の運転手は……?」
二人の会話が聞こえてきたタイミングで病室の扉からノック音が聞こえた。「どうぞ」とカイトが言うと、スーツ姿の男が二人入ってきた。
「失礼します。警察の者です。田口です」
「高橋です」
「いくつかお伺いしたい事がありまして、今、時間と体調は大丈夫ですか?」
「大丈夫です」
カイトとキャンは自分達に起こった事をそのまま話した。すると今度はまた別の部署だという警察が来て、何度か事情聴取を繰り返して警察は帰って行った。そこの話では、サラリーマンが車を運転し、帰宅途中に突如、大動脈瘤破裂が起こり、急に意識が無くなった。そしてそのまま暴走。それが事故の真相だった。ドライバーは警察病院で死亡が確認されたらしい。キャンは帰り支度をした。
「じゃあ、また明日来るから」
「はい。あ、今何時ですか?」
「午前零時三十分。もう日を跨いだよ」
「そうですか……じゃあ今日の仕事は……?」
「私とここの医者と看護師でやるよ」
「そうですか。すみません」
「良いんだ。じゃ、また明日。あっ、明日じゃないか。また後で」
「はい。おやすみなさい」
「おやすみ~」
そう言ってキャンは事務所に帰った。腹が減ったが料理は出来ないし、と思い店屋物を注文する事にし、それを食べた。デザートに癌細胞の生肉をそのまま食べた。その日の昼、カイトの着替えを持って渋井大学附属病院に行き、カイトの病室を訪れた。
「おはよう」
「あ、おはようございます」
「下着、持ってきたから」
「ありがとうございます」
「じゃあこの後すぐ手術だから」
「はい。参加出来ず、すみません」
「君のせいじゃないって言ってるだろう。じゃあ行ってくるから」
「はい。行ってらっしゃい。気を付けて」
「あぁ」
キャンは手術着に着替えて依頼者の手術をした。三時間程で終わり、縫合などの後の事は別の医師に任せて、喫煙所に向かった。そこで煙草を吸って一息吐いた。そして自販機で缶コーヒーを二本買い、カイトの病室に向かった。
「あ、キャンさん。手術は終わったんですか?」
「あぁ。はい、これ。差し入れ」
「ありがとうございます」
カイトはキャンから缶コーヒーを貰い、飲んだ。
「ここの病院食、美味しいんですよ」
「そうなのか?私の時代は不味いってよく言われてたんだがな」
「人によっては塩が足りない、醤油が欲しい、なんて言ってたりするみたいですけど、私には薄味で丁度良い感じですね」
「そうか」
「ところでキャンさん」
「何だい?」
「売店で何か雑誌とか新聞とか買ってきてくれませんか?」
「何で?」
「入院生活って暇なんですよ。面会時間も限られてるし、キャンさんが居ない間は暇で暇で退屈なんですよ……」
「そうか。分かった。ちょっと待っててくれ」
「宜しくお願いします」
キャンは売店に向かい、雑誌を二冊、新聞を一部、剥かれて切り分けられた林檎を買い、カイトの病室に戻った。
「とりあえず適当に買ってきた。はい」
キャンはレジ袋から雑誌と新聞をカイトに渡した。
「ありがとうございます」
「あ、そうそう。入院と言えば林檎だろう」
「えっ?あ、まぁ、そうですかね……?」
「林檎買ってきたぞ」
「剥くんですか?キャンさん料理どころか包丁だって危なっかしいのに、無理はしないで下さい」
「じゃあ丸齧りする?」
「いや、それはちょっと……」
「はっはっはっは!冗談だ!売店で切り分けた物が売ってあった。ほら」
キャンはレジ袋から林檎が入ったカップを取り出し、ベッドの上の台に置いた。
「ありがとうございます」
キャンは蓋を開け、爪楊枝で林檎を一つ取ると、カイトの口まで持っていった。
「はい、あーん」
「キャンさん、自分で食べられますから……」
「こういう時くらい甘えなさい」
カイトは諦めて、頬を赤くしながら口を開けてキャンに食べさせてもらった。
「美味しい?」
「……美味しいです」
「何だ、その間は?」
「恥ずかしいんですよ」
「個室なんだから大丈夫でしょ?」
「そういう問題じゃなくてですね……こんな歳でイチャイチャするのは恥ずかしいんですよ」
「私の事が恥ずかしいと言うのかい?心外だなぁ」
「そうじゃなくてですね……」
それから三十分後、面会時間終了時間になった。キャンは帰ろうとすると、カイトの担当医師から声を掛けられた。
「キャン先生」
「誰?」
「倉部さんの担当医の松本です。ちょっとお話があります」
松本に促され、診察室に入って行った。そこで、腰骨の神経は流石キャンの腕と言うべきか、見事繋がった。が、年齢的に回復してもまともに歩けるか分からないと言われた。しかし根気強くリハビリをすれば、元の生活に戻れるかもしれないとも言われた。その言葉に、キャンは明るく捉えた。リハビリ次第だ、と。老体とはいえ、ガッツがあればまた共に手術に立ち会える。そう前向きに考えていた。それから三ヶ月間、キャンは仕事をしながら毎日三時間きっかり会いに来ては帰って行った。そして入院して四ヶ月目に突入した頃、キャンは日に日に元気が無くなっていくカイトを不思議そうに感じていた。その日は仕事があって午後四時にカイトの病室に向かった。
「やっほー。どう?調子は?」
「あぁ……キャンさん……」
「なんだい?そんな暗い声出して」
「ちょっと、ここでの生活に飽きてきただけです……」
「そうかい。でも、そろそろリハビリ出来るようになる時期だ。歩けるようになるんだぞ?嬉しくないのかい?」
「えっ……?まぁ、その……それがですね……」
「何か、日に日に元気が無くなっていくから、心配なんだよ。何かあったのかい?」
カイトは黙り込んだ。これを言って良いものだろうか、と。
「何かこの病院に不満でもあるのかい?」
「……不満はありません」
「じゃあ何でだい?」
「……実は……」
「実は?」
沈黙が流れた。重い沈黙が。しかしカイトは意を決して言った。
「私、脚の感覚が、無いんです……!」
「何っ……!?」
「担当になった医師から告げられたんです……下半身不随、だと……」
「そんな……!」
キャンはカイトの足元の布団を剥がし、脚を擦った。
「これは感じる?」
「いいえ……」
キャンは今度は足を抓った。
「これは?痛くない?」
「いいえ……!」
キャンは今度は強く叩いた。
「これは!?」
「いいえ……!!」
キャンはその場で膝から崩れ落ちて、泣きだした。そこへ、松本が現れた。
「失礼します。ど、どうされました?」
キャンは立ち上がり、袖で涙を拭った。そして松本はキャンに診察室に来るように促し、キャンは松本に着いて行った。それから術後の経過を聞かされた。先程レントゲンとCTスキャンと触診で分かった事だが、神経へのダメージが非常に悪く、もう立って歩くのは無理だろうと診断された。それに対し、キャンは「私の手術は完璧だった!リハビリをすれば元の生活に戻れると言ったじゃないか!」と声を荒げてしまった。しかしすぐに我に返り、深呼吸して自分を落ち着かせた。今後の介護生活を考えるよう松本に言われた。そしてキャンは再びカイトの病室に向かった。キャンは椅子に腰を下ろし、俯いていた。
「その様子だと、診断結果を聞いたんですね?」
「……あぁ……」
「一応リハビリはしてみますから」
「……あぁ……」
「それで無理なら、老人ホームにでも送って下さい」
「そんな事……!」
キャンが顔を上げると、そこには悲し気に微笑んでいるカイトの顔があった。それを見て、キャンはまた涙を流した。
「泣かないで下さい。今回はたまたま、不運が重なって起こった事故だったんです。それに、キャンさんを助けられて良かった……」
「カイト……!」
キャンはカイトを抱き締めた。カイトもキャンを抱き返した。
「とりあえず、リハビリはやってみます」
「うん……」
「また、一緒に働きましょう」
「うん……!」
「また一緒に、美味しいご飯を食べましょう」
「うん……!!」
二人は強く抱締め合った。それから三ヶ月、リハビリ生活を送った。しかし一向にリハビリは上手くいかず、続けて診察してもらっても、もう歩行は不可能と診断された。しかしその後もキャンの応援を受けながらカイトは九カ月頑張ってリハビリした。すると、両手で杖を突きながらなら、少しだけ歩けるようになった。しかし車椅子生活になるだろうと言われ、退院した。キャンが会計を済ませると、カイトは車椅子で現れた。カイトを見ると、キャンは一旦車に戻り、電動車椅子を持ってきた。
「これ、どうしたんですか?」
「買ったのよ。これの方が楽でしょ?」
「高かったんじゃありませんか?」
「何の為の貯金数百億円よ。これくらい安いもんだわ」
「すみません。私の為に」
「違うわ」
「えっ?」
「私の為よ。君が元気で楽に暮らせるようにするのが、私の願いだから」
「キャンさん……」
「ほら、帰ろう?」
「はい」
カイトが電動車椅子に乗り換えると、キャンは最初にカイトが乗っていた車椅子を返却しに行き、戻ってきた。そしてカイトはキャンに車椅子を押されて駐車場に向かった。すると、どこにもいつもの車が無かった。そして一台の車の前に止まった。
「これは?」
「これよー、私達の車」
そこには車椅子対応の電気自動車があった。
「えっ、買い換えたんですか?」
「うん」
「そこまでして……」
「年齢の事もあるけど、その脚じゃあ運転出来そうにないって考えてね。それに前々から買い換えようとしていただろう?丁度良い機会だと思ってね。前にも言ったけど、これからは私が運転する。良いね?」
「はい……こんな脚じゃあまともに運転出来ませんしね……」
「まぁそう気落ちするな。いざとなったら車椅子搭乗者用の車を買えば良いさ。まぁ、その歳で運転させるつもりは毛頭無いがね」
「バッサリ言ってくれますね」
「その方が分かり易いだろう?私の考えが」
カイトは俯き、「ふふっ」と笑った。
「そうですね。その方がキャンさんらしいです」
カイトはキャンに手助けされながら車に乗り込み、事務所に帰っていった。しかし道順が違う。カイトは疑問に思い、キャンに尋ねた。
「あの、どこに行くんですか?」
「事務所だよ」
「でも道が……」
「良いから良いから。ここは私に任せろ」
「は、はぁ……」
やがて車はビル群の裏路地にある一つのビルに辿り着いた。そこはいつもの事務所ではなかった。
「ここは?」
「これからの私達の事務所だよ」
「えっ?」
「黙って引っ越しちゃった~。ごめんね~」
「ごめんって、不動産契約も引っ越し代も結構あったでしょう!?」
「だから何の為の数百億の貯金だと思ってるんだい?」
「だからって、ここまでしなくても……!」
「じゃあ前の事務所に戻る?階段上れる?いくら私でも、カイトを担いで毎日上り下りするの無理よ?」
「うっ……」
俯くカイト。キャンはカイトの顔を覗き込んだ。
「早くカイトの料理、食べたいな。車椅子の高さでも料理出来る特別なキッチンを用意したんだからね?」
「……ありがとうございます……!」
「そう。ありがとうで良いんだよ。こういう時くらい、甘えてよね?」
「……はい……!」
「カイトが住む部屋は一階ね」
「はい」
「事務所は二階。私の部屋は三階ね」
「分かりました」
「部屋の奥にエレベーターがある特別な作りになってるから、何かあったら気兼ね無くいつでも事務所なり私の部屋なりに来て良いから」
「分かりました。ありがとうございます」
キャンはカイトの車椅子を押してカイトの自室を案内した。そこには車椅子対応の最新キッチンがあった。
「これくらいの高さなら、座ったままでも料理出来るでしょ?」
「こんな状態になっても料理は作らせるんですね」
「ボケ防止!」
「はい!」
キッチンには背の低い冷蔵庫と冷凍庫がズラリと並んでいた。
「これなら食材取れるでしょ?」
「そうですね。ありがとうございます」
キャンはソファに座った。カイトは試しにコーヒーを淹れ、キャンの座ってるソファの前のテーブルに持って行った。
「久し振りだから、味の保証は出来ませんよ?」
「良いさ、カイトが淹れてくれたなら」
二人はコーヒーを飲んだ。いつも通りの味だった。
「あぁ、ホッとする……」
「腕が落ちてなくて良かったです」
キャンはコーヒーを置き、煙草を吸った。
「カイト」
「はい。何でしょうか?」
キャンは悲し気な表情で言った。
「これからは、君はもう医者として過ごさなくて良いからな」
その雰囲気に、カイトは頷いた。
「……はい」
カイトは左手薬指の指輪を外し、テーブルに置いた。何の事か分からず、キャンは戸惑った。
「何?」
「離婚、でしょう?」
涙を浮かべるカイトは更に続けた。
「こんな脚の不自由な老いぼれより、元気で若い男と再婚した方が、キャンさんの未来は……」
キャンは慌てて否定した。
「待て待て待て!違う違う違う!離婚なんてしないぞ!絶対に!」
「じゃあどういう事ですか?」
「とりあえず指輪をはめ直せ!な!?」
カイトは指輪を左手薬指にはめ直した。
「しかし、私から告白を断った事は幾度と無くあったが、君からそんな事を言われたのは初めてだな」
「そう言われるとそうですね。で、どういう事ですか?」
「これからは、私の料理を作る専属コックとして雇う事にする」
「あぁ、そういう……はい……分かりました。宜しくお願いします……それくらいしか出来ませんしね……」
ガックリと肩を落とすカイトに、キャンは明るく言った。
「まぁ、そんなガッカリするな!仕事があるだけでも、良しと思い給え!っていうかそもそもとっくに定年の歳を過ぎてるんだから働かなくても良いんだぞ?貯蓄もあるし」
「それはそうですけど……」
「今日は退院祝いに店屋物でも頼もう。病院食には飽きたろう?何が食べたい?」
「そうですねぇ……じゃあ、折角なんで、お寿司でもお願いしましょうかねぇ」
「良いねぇ!あの時みたいじゃないか!」
「あの時?」
「カイトが初めてウチに住むようになったあの日だよ。あの日もお寿司を頼んだじゃないか」
「あぁ、そうでしたね!」
「よ~し!じゃあ特上頼んじゃうぞ~!パーッといこう!パーッと!」
その夜は、二人は寿司を取り寄せ、食べた。そして風呂にはキャンに介護されながら入り、寝室に連れて行ってもらい、一緒に寝た。それから十年間、カイトは朝起きると自分で車椅子に乗り、朝食を作り、昼になれば昼食を作り、夜になれば夕食を作るという日々を過ごした。
その頃、勝彦と美優が亡くなったという訃報のハガキが届いた。二人の葬儀に出席し、新院長から挨拶があった。新院長はキャンの事をよく理解しており、これからも渋井大学附属病院を使って良いと言ってもらえた。また、講義も続けてくれないかと頼まれ、キャンはそれを快諾した。
一方で、新しい生活が始まった頃のカイトは自分でトイレをしていたが、更に十年経ち、百一歳になった頃、立ち上がる事すら困難になり、漏らすようになった。そして介護用おむつを履くようになった。履き出した頃は自分で処理していたが、更に十年経ち百十一歳になると、もう腕も言う事を聞かなくなっていった。その頃から、包丁を持つ手が震え、手や指を切る事も起こるようになり、もう料理も出来なくなっていった。それから、キャンは仕事を休むようになった。本格的にカイトの介護に回るようになった。しかしカイトはそれを快くは思わなかった。
「キャンさん、私の事はもう良いです……ご自分のお仕事を全うして下さい……」
「今の私の仕事は、君に尽くす事だ」
「そんなの何の得もありませんよ……」
「損得じゃない。愛する家族を助ける。立派な仕事さ」
「でも、キャンさんを必要としてる患者さんが、世の中には沢山います……その人達を助けてあげて下さい……」
「私が何の為に今まで渋井大学附属病院で講習会を開いたと思うんだい?それに定期的に献血もしてる。きっと、私が居なくても平気だよ。病院にも連絡はしてある」
キャンはカイトの臀部をウェットティッシュで拭き、おむつを替えた。
「申し訳ないです……下の世話までさせてしまって……」
「家族だろう?夫婦だろう?愛し合う仲じゃないか。何を気にする必要がある?」
「それでも、申し訳ないです……ごめんなさい、こんな事になってしまって……」
キャンはおむつをカイトに履かせた後、カイトに口付けをした。
「ごめんなさい、じゃなくて、ありがとう、でしょ?」
キャンの優しい笑顔に、カイトは心の底から安心した。
「ありがとうございます。いつもいつも」
「いいえ。今まで、君には何度も助けられてきたからね。せめてもの恩返しさ」
「そうですか……」
それから十年後、カイトは百二十歳を超えた。ある朝、いつものようにキャンが朝食を食べにカイトの部屋に行くと、カイトはキッチンで倒れ、苦しんでいた。
「カイト!どうした!?」
駆け寄った。脈を測り、額に手を当てて熱を測った。不整脈で心臓発作だと分かった。すぐに救急車を呼び、渋井大学附属病院に搬送した。そこで治療してもらい、何とか一命は取り留めた。カイトは目を覚ましたが、どこか様子がおかしい。言葉が喋れなくなっていた。心臓発作に加え、脳梗塞も起こっていたらしい。右腕はかろうじて動かせるようだった為、文字盤を持って会話した。喋れない事、体に力が入らない事、息をするのが辛い事を指差しで表した。そこからは渋井大学附属病院に任せ、キャンは事務所に戻った。それから毎日キャンはカイトの見舞いに行った。そんな生活が、二年余り続いた。その頃になると、もう意識も朦朧として、文字盤での意思疎通も出来辛くなっていた。担当の医師からは、この数日がヤマだろうと言われた。それを聞いていたのか、カイトは文字盤を指差した。それに気付き、キャンは文字盤を眺めた。カイトは「さいごはじむしょでいきたい(最期は事務所で逝きたい)」と指した。担当した医師とキャンはカイトの気持ちを尊重し、退院させた。そして数日間、事務所で過ごす事にした。キャンがカイトを連れて帰った日、キャンは疲れてカイトと一緒にベッドで寝た。翌日、朝からキャンは儀式の準備をした。蟹座の悪魔召喚の儀式だ。全ての準備を終えた。闇医者から一人の成人男性の首から下の遺体を法外な値段で買い取り、遺体安置所で保管してもらった。全て揃った。後はカイトの返事だけだった。
「カイト」
「あ……あ……」
「カイト、よく聞いて。今から、蟹座の悪魔を呼び出すわ。そして契約しなさい」
「…………」
「貴方と一緒に居たいの!お願い!私の言う事を聞いて!」
「…………」
「ズタズタにされても私が死体を繋げて、また若い体で、永遠に生きられる!私と永遠を共にしましょう!?カイト!!!」
カイトは首を横に振った。
「どうして……!?」
カイトは大きく息を吸い、吐いた。そして眠りに着いた。キャンはカイトの頭を撫でた。すると、急激に眠気がキャンを襲い、カイトの隣で寝た。深夜、キャンはふと目を覚ました。隣にはカイトがいなかった。ベッドから落ちたのかと床を見たが、どこにも居なかった。そしてダイニングで物音がし、泥棒かと思いダイニングの方に出てみると、そこには結婚した頃の若い姿のカイトが自分の足で立ってコーヒーを淹れていた。
「か、カイト……?」
「あぁ、キャンさん。起こしちゃいました?」
「カイト、貴方、喋れるの……?」
「勿論。もうすぐコーヒーが出来ます。飲みますか?」
「あ、あぁ……」
キャンはソファに座り、カイトはキッチンから癌細胞の料理を食卓に並べた。
「久し振りですから、味の保証はありませんが」
「いや、君が作ってくれたんだ。きっと美味しいよ」
キャンは料理を食べた。
「……うん、美味しい……!」
「良かったです」
「久し振りだな。こんなに美味い肉を食ったのは」
「せめて炒めるくらいの事はしたらどうです?」
「油とか跳ねて怖いじゃん」
「全く、貴方って人は……」
カイトはとても和やかに笑った。料理を食べ終え、丁度コーヒーが出来たので、二人でゆっくりと飲んだ。
「煙草、吸わないんですか?」
「えっ……?」
「キャンさん、いつもコーヒー飲む時、煙草を吸ってたから」
「あ、あぁ……じゃあ、一服するよ」
キャンは煙草を吹かした。カイトは微笑んだ。
「安心する。コーヒーと、煙草の香り」
「そうかい?」
「えぇ。最近、あまり構えず、すみませんでした」
「いやいや。怪我と歳のせいだ。謝る必要は無い」
「じゃあ、ありがとうございました、キャンさん」
「うん」
「今まで、大分可愛がってくれましたね」
「あぁ。逆源氏物語だったな」
二人は笑い合った。
「なぁ、何で蟹座の悪魔の儀式を断ったんだ?」
「人生は人と出会う。でも、必ず別れが訪れる。そういう運命です。それに従ったまでですよ」
「……そうかい」
「そしてまた、新しい出会いがありますよ」
「……そうかな……?」
「そうですよ。だから、また幸せになって下さい」
「……うん」
二人は口付けを交わし、ベッドに向かった。事が終わると、夜が明けてきた。同時にキャンは急激に眠くなった。
「何か、凄く眠くなってきた……」
「じゃあ寝ましょう」
「うん……何か、夢だけど、実感がある……」
「これは現実ですよ」
「そうなの?」
「はい。死神さんに頼んだんです」
「そうなんだ……」
キャンは横になり、カイトも隣に寝た。キャンはカイトに抱き着き、震える声で言った。
「死なないでくれ、カイト……!」
カイトはキャンの頭を撫でながら答えた。
「自然の摂理には逆らえません。俺は、死にます」
「死んでほしくない……!一人にしないで……!」
「ごめんなさい。でも、俺は逝きます。先にあの世に逝って、ずっと待ってますから」
「カイト……大好きだ……!愛してる……!」
「俺も大好きです。愛してます」
二人は口付けをした。
「さぁ、寝ましょう。おやすみなさい」
「おやすみ……」
二人は眠りに着いた。昼になり、キャンが目を覚ますと、年老いたカイトが亡くなっていた。昨晩の事はやはり夢だったのだろうと思い、病院に搬送し、改めて死亡を確認した。翌日、死亡届を出した時、役所で驚かれた。長寿のギネス記録が更新されたと。百二十三歳と四十五日。そんなに生きていたのかと無関心だったキャンでも驚いた。でも実際は自分の方がカイトよりも二百年以上生きているんだけどね、と思いながら。
「いつの間にかギネスに載ってたよ、カイト……」
キャンは思わずそう呟いた。そして葬儀だが、他に親しくしていた親戚はおらず、友人、知人もとっくの昔に亡くなっていた為、こぢんまりとした、キャンだけの参列で葬式を行い、火葬した。倉部家の墓に納骨して拝んだ。黄色く色付いた銀杏並木を一人歩いて事務所に帰った。
それから数日、虚無感に襲われ、何もせずただ煙草を吸って一日を終える日々を過ごしていた。何もしなくても腹が減る。もうカイトの料理を食べる事は出来ない。生肉の癌細胞をそのまま食べた。美味しく感じなかった。でも自分は料理が出来ない。今更だが料理を覚えるのも有りかと思った。しかしやる気が起きない。だから生の癌細胞をひたすら食べ続けた。そんな数十年を生きた。しかしある時、あの日の晩のカイトの言葉を思い出した。
「人生は人と出会う。でも、必ず別れが訪れる。そういう運命です。それに従ったまでですよ。そしてまた、新しい出会いがありますよ」
必ず、別れが来る。
「自然の摂理には逆らえません。俺は、死にます」
キャンは自然とカイトが眠る墓の前に足が向いた。
「私も、君と同じように自然の摂理に従おうか。カイトのいない世界なんて、まるで世界が透明になったようだよ」
キャンはカイトの墓を見詰めた。
「ごめんなさい。でも、俺は逝きます。先にあの世に逝って、ずっと待ってますから」
キャンは空を見上げ、ようやくカイトの死を受け入れた。そして初めて涙を流した。
「今でも待っててくれてるかい?カイト……私を、ずっと、ずっと……!」
そう思うと、キャンはこの世に別れを告げようとした。
「新しい出会いがあったとしても、その度にこんな気持ちになるなら、もう出会いなんて御免だね……」
そしてキャンはその日から癌細胞を食べなくなった。すると日が経つに連れて、見る見るうちに老けていき、やがて老婆となった。一ヶ月後、キャンはベッドの上でカイトとの結婚式の時の写真と、カイトが退院して間も無くに撮った二人の写真を眺め、目を瞑った。そしてカイトの結婚指輪を握りしめて横になっている状態で死亡した。誕生日の二月二十九日で、老衰だった。そしてミイラ化していった。数日後、外では雪が深々と積もる静寂の中、キャンは灰とも塵とも言えない微粒子となり、体が崩れていった。その後、暫くして、キャンと連絡が取れないという事で渋井大学附属病院の新院長が秘書を事務所に向かわせて確認させると、キャンのベッドの上に、人型に灰のような物が積もっているところを発見した。そこには窓から光が一筋入り、灰から少し出ていた二つの結婚指輪が光っていた。この日から、伝説の闇医者の噂は消えて無くなった。




