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祖父の死

『将来、僕の癌細胞を食べて下さい』12


・祖父の死


 キャンが退院してから五年後。カイトは四十歳になった。それまでカイト自身の報酬は一回の治療に付き百万円だったが、少し前から、キャンから一人前として認められて報酬は折半になった。

 その日、カイトとキャンは暇を持て余していた。ここ最近忙しかったけれども、一段落着き、また暇潰しのバイトでも探そうかとも思ったが、意外と患者が来る。以前は月に三、四件程度あったが、最近は確実に週一ペースだろうか。いつ来るか分からないので待機しているのだが、患者が来ない日はとても暇である。

 カイトはコーヒーを淹れ、ソファの前のテーブルにマグカップを二つ置き、キャンの向かい側に座った。キャンはコーヒーを飲みながら煙草を吹かした。

「暇ですねぇ、キャンさん」

「あぁ、暇だなぁ」

 緩やかな空気が流れた。そしてカイトは少し身を乗り出した。

「キャンさん、ふと思ったんですけど」

「何だい?」

「最近思うようになったんですけど、キャンさんの日本名って沖縄に多い苗字の喜屋武に糸辺に少ないの紗に音ですよね?」

「そうだねぇ。それが?」

「って事はこの二十七年間、ずっと苗字で呼んでた事になりません?田中さん、鈴木さんって呼んでるようなものじゃありませんか?」

「まぁそうだな」

「今更ですけどサインさんって呼んでも良いですか?」

「うーん……」

 キャンはしかめっ面をした。それを見てカイトは肩を落とした。

「嫌ですか……」

 するとキャンは慌ててフォローを入れた。

「あ、いやいや!嫌ではないんだ!ただこの二百年余り、ずっとキャンとしか呼ばれてこなかったから、体がむず痒くてな……」

「試しに呼んでみて良いですか?」

「……良いよ」

 渋々了承するキャン。カイトはキャンを真っ直ぐな眼で見詰めた。

「サインさん」

 数秒間、間が開いた。するとキャンは煙草を揉み消し、体中を掻きむしった。

「あーっ!痒い痒い痒い!」

「やっぱり駄目ですか……」

「いや、嫌じゃないんだ!それは本当なんだ!ただブランクがあると、こう、むず痒くて!」

「分かりました!分かりましたから!もう大丈夫ですから!」

「すまんな……」

「いえ、徐々に慣れていきましょう」

「助かる。名前で呼ばれるのは遥か昔に親族と友人と旦那だけだったから……あっ……」

 キャンはしまったという顔をした。旦那というワードを出してしまったからだ。

「……すまん」

 カイトはニッコリ笑ってコーヒーをゆっくり飲んだ。

「良いんですよ。旦那さん、キャンさんに愛されてたんですねぇ。相思相愛、良いじゃないですか」

「でも……」

「今、愛しているのは私でしょう?」

「……あぁ、そうだよ」

「じゃあそれで良いじゃないですか。それで……」

 キャンにとっては気まずい雰囲気が流れた。カイトはマグカップを流しに持って行った。

ふとキャンは扉の方を見た。「どうぞ~。開いてますよ~」と言うと、扉が開き、外から一人の二十代半ばくらいの女性が現れた。キャンは座ったままその女性をソファに座るよう促した。カイトはお茶を用意しようとしたが、流しの上にあるお茶っ葉が無くなっており、補充しようと上の棚に置いてあるお茶っ葉の缶を取ろうと右手を伸ばした。

「あ痛たたた……」

 カイトは右肩を擦った。

「大丈夫か?カイト」

「あぁ、何でもありません」

カイトはお茶を淹れ、それぞれの席に置いた。キャンは立ち上がり、女性の首筋を嗅いだ。それに吃驚して女性は手で首筋を隠した。キャンは離れ、向かいのソファに座った。カイトはデスクから契約書と朱肉を持ってキャンの隣に座った。そして女性が口を開く前にキャンは言った。

「乳癌ですね?それに肝臓と胃にも転移してますね?」

「どうして分かったんですか!?」

「まぁ経験で。で、ステージは?」

「乳癌はステージ3です。他はステージ1です」

「そうですか。どちらの乳房ですか?」

「両方です」

「……そうですか」

 キャンはお茶を飲み、続けた。

「私は院長のキャン・サイン。こっちは助手の倉部カイト先生です。宜しくお願いします」

「倉部カイトです。宜しくお願いします」

「北島明子です。宜しくお願いします」

「北島さん、私はモグリの医者です。正規の値段では治療しません。そこはご理解頂いていますか?」

「はい。承知の上です」

「ちなみにどこでここの事を知りましたか?」

「渋井大学附属病院で、加藤副院長に勧められました」

 キャンは右手の人指し指を眉間に当てた。

「またアイツは……」

 愚痴を零すキャンに、カイトは言った。

「まぁまぁ。加藤先生のお陰でこっちにも仕事が来てるんですから」

「にしても最近殆どこっちに流れてきてるじゃないか」

「仕事が増えて何よりでしょう?その分、ね?」

「まぁ、そうだが……あまりここを軽々しく紹介しないでほしいものなのだが……」

 キャンとカイトの会話がよく分からず、明子は声を掛けた。

「あの、宜しいですか?」

「あぁ、すみません。話が反れてしまって……で、ウチは癌治療は、保険適用外です。そこはお分かりですか?」

「はい、分かっています」

「ウチでは癌一つに付き、1000万円です。乳癌は両方の乳房だと2000万円。更に肝臓癌治療に1000万円、胃癌治療に1000万円。合計4000万円になりますが宜しいですか?」

「覚悟はしてました。払います。一括ですか?」

「分割でも大丈夫です」

「分かりました。じゃあ分割で」

「承知しました。日程はいつ頃が良いですか?」

「いつでも大丈夫です」

「では明日やりましょう」

「明日ですか?」

「はい。何か不都合でも?」

「いや、案外あっさり決まるんだなと……」

「暇ですから」

「そ、そうですか……」

「何時頃にしますか?」

「じゃあ……午後三時とかどうですか?」

「承知しました。では少々お待ち下さい」

 キャンは席を立ち、少し離れた所でスマートフォンを取り出して孝之に電話した。

「もしもし?孝之センセ?」

「あぁ、キャンか。どうした?北島明子さんの件か?」

「そう。明日、手術室、午後三時に開けといて」

「いきなりだな」

「私はいつもそうでしょ?」

「ははは、そうだな。でも午後三時かぁ~……ちょっと難しいかもなぁ……」

「何で?」

「明日は手術が立て続けにあるんだよ」

「そっちからこっちに押し付けといて、文句言うなよ」

「……君には勝てないな。分かった。明日の午後三時、予約しとくよ」

「宜しく、孝之センセ」

 そう言ってキャンは電話を切り、席に戻った。

「予約が取れました。明日午後三時、手術をします」

「分かりました」

「午後二時に渋井大学附属病院まで、ご家族の方と一緒に来て下さい」

「はい」

「カイト」

「はい」

 カイトは契約書を四枚取り出し、胸ポケットのボールペンと朱肉を明子の前に置いた。

「契約書です。これにサインと印鑑を。印鑑が無ければ母印でも構いません」

「印鑑は持ってます」

 明子は名前を書き、印鑑を押し、カイトに返した。

「ではこれで契約完了です。ちなみに診断書とカルテはお持ちですか?」

「あ、はい。副院長先生から持って行くように言われたので」

 明子はバッグから診断書とカルテが入ったファイルを取り出し、キャンに渡した。

「ありがとうございます。では明日、午後二時に渋井大学附属病院で待っていて下さい」

「分かりました」

 明子は席を立ち、カイトが扉を開けた。明子は一礼して出て行った。カイトは契約書をファイルにしまい、お茶を片付けた。右手でお茶っ葉の缶を片付けようと、それを手に取り上の棚に右腕を上げると、また痛がった。

「あ痛たたたた……」

「大丈夫か?カイト。さっきもそうだったが、どこか悪いんじゃないか?」

「多分四十肩だと思います。私ももう四十歳ですから」

「……そうか。もうそんな歳か……」

 キャンは流しを片付けているカイトをジッと見詰めた。

「カイト」

「はい?」

「毎日一緒にいるから気にしてなかったけど、君、老けたな」

「そうですねぇ……かれこれ二十七年ですか、キャンさんと出会って」

「久々に、充実した日々を送れているなと思うようになったよ」

「そうですか。私は毎日が長く長く感じてました」

「今までだったら、私にとっては二十何年はあっと言う間だったけど、カイトと出会ってからは、私も長い時間に感じられたよ。老けていく君を見ていると、私も寂しくなるなぁ」

「夜の営みも減りましたしね」

「今夜、久々にヤるかい?」

 悪戯っぽい笑顔を向けるキャンに、カイトは微笑んで答えた。

「明日は手術です。早めに寝て、力を溜めておきましょう」

 カイトの返事に、キャンは「そう……」と寂しそうに呟いた。ついこの間までなら、すぐにイエスと答えていたカイトが、歳を重ねたのか、仕事を優先する発言をしたからだ。キャンの様子に、カイトは「仕事が終わったら、どうでしょう?」と聞くと、ふふっと笑って「そうだな!」とキャンは答えて、テーブルの上のファイルに手を伸ばした。

キャンはファイルから診断書とカルテを取り出し、じっくりと眺めた。そして眉を顰めた。カイトはコーヒーを淹れ、キャンの前に置いた。

「どうですか?」

「見てみな」

 キャンは診断書とカルテをカイトに渡し、席を立って戸棚からファイルを次々出していき、デスクに積み上げてパラパラと捲っていった。カイトもカルテと診断書を見て眉を顰め、溜め息を吐いた。

「キャンさん」

 カイトの呼び掛けに、キャンは一旦手を止め、カイトの方を見た。

「どう思う?」

 カイトは神妙な面持ちで答えた。

「右乳房は浸潤癌、左乳房は非浸潤癌。どちらも乳房は半分以上は摘出でしょうね。肝臓癌と胃癌は部分摘出で済みそうですが」

「そうだな。私もそう思う」

 キャンは再びファイルに次々と素早く目を通しては、ポイポイと床に落としていった。カイトはそれを拾い、棚に戻していった。

「何とかならないでしょうか……」

「最善は尽くすつもりだが……結局は、全摘出と変わらないくらい取り除くしかないだろうな……後の事は、孝之センセに任せるしかない」

「そうですか……」

「母親としての力は残す最善の配慮をしようと思う。君は肝臓と胃の方を担当してくれ」

「分かりました。宜しくお願いします」

「あぁ……」

そしてその日は二人は風呂に入って寝た。

翌日の午後一時に渋井大学附属病院にキャンとカイトは車で向かい、診察室に入った。カルテと診断書を読んでいると、そこへ孝之が現れた。

「やぁ、キャン、カイト君」

「こんちわ、孝之センセ」

「お疲れ様です、加藤副院長」

「診断書とカルテは読んだか?」

「あぁ」

「どうだ?」

「乳房は半分摘出する事になるだろう。肝臓、胃の方は部分摘出になるだろうが」

「そうか……」

「胸は無くなるが、最善は尽くす。胸の形成手術の方は任せても良いかい?」

「あぁ。分かった」

「折角我々を頼って来たのに、癌細胞摘出だけしか出来ないのは悔しいなぁ……」

「私達でやれるだけの事はやりましょう。それしか出来ないんですから」

「本当は私が形成外科をしたいところだが、契約には無いからな……孝之センセ、本当に頼むよ?」

「勿論」

 そこへ孝之のスマートフォンが鳴った。孝之が電話に出ると、受付から明子と夫の光男が来院したと連絡が入った。三人は明子と光男を診察室に通した。明子と光男は椅子に座ると、明子は不安そうに口を開いた。

「……で、どうなんでしょうか……?」

 キャンは神妙な面持ちで答えた。

「残念ながら、乳房は両方とも半分以上摘出になります」

「……そう、ですか……」

 肩を落とす明子。キャンは続けた。

「肝臓癌と胃癌は部分摘出で済みます」

「……はい」

 その後、術後の話や入院期間、通院について等の話をキャンと孝之がしたが、ショックのあまり、返事はするが殆ど話を聞いていない様子の明子。代わりに真剣に光男が聞いていた。そして手術用ベッドに明子を乗せ、手術室に向かった。手術室の準備を整えると、キャンは自分の血を明子に流し入れた。それから両乳房をキャンが、肝臓と胃はカイトが執刀した。五時間の手術の末、無事終了した。明子は麻酔から覚めた。

「ご気分は如何ですか?」

キャンが話し掛けると、明子は自分の胸が無い事に気付き、涙を流した。しかし震える声で「ありがとうございました……!」と言った。後の事は孝之に任せて、事務所に帰ろうとし、二人は車に乗った。

「まだお若いのに、これからお子さんを産むであろう体の胸を摘出するのは、心にキましたね……」

「あぁ……」

「海やプール、温泉にも行き辛くなるでしょうし……」

「私もそうだから気持ちは分かる。でも傷口は残らないように縫合した。幸いにも非浸潤癌と浸潤癌だったから乳首も乳腺も残したし、子供が生まれても母乳も出るよう手術した」

「そうだったんですか?キャンさんの技術って凄いですね」

「そうだろう?」

キャンは鼻高々にふんぞり返った。そして更に続けた。

「渋井大学附属病院は優秀な形成外科医がいる。術後の胸も形成手術である程度元の綺麗な形に治してもらえるだろうし、旦那さんの支えもある。時間は掛るだろうが、立ち直ってほしいな」

「そうですね。夫婦で乗り越えて行ってほしいですね」

そう言ってカイトが車を走らせると、突如カイトのスマートフォンが鳴った。車を一旦道の横に停め、電話に出ると、母の深雪からだった。

「もしもし?母さん?」

「あっ、やっと繋がった!」

「えっ?」

 カイトは耳から一旦スマートフォンを離し、着信履歴を見た。すると、何十件も深雪から電話が掛かってきていた。

「ごめん。仕事があって出られなかった。何?」

「良い?落ち着いて聞いてね?」

「何?」

「オジーチャンが亡くなったの……」

「えぇっ!?何で!?」

「お医者さんによると、老衰だって……すぐに渋井大学附属病院に来て」

「分かった!」

 カイトは電話を切った。

「どうした?何があった?」

「母からです……祖父が亡くなりました……」

「そうか……ご愁傷様です……」

「恐れ入ります……」

「あの手術から二十七年だから……」

「百歳です。老衰だそうです……」

「そうか……」

「でもあの後、転移も再発もせずに老衰で亡くなったのは、キャンさんのお陰です。ありがとうございました」

「君のオジーチャンが健康に生きた。それだけだよ」

「はい」

 渋井大学附属病院にとんぼ返りした。病室に向かうと、そこには春樹と深雪、担当の医師がいた。

「オジーチャン……」

 カイトは義文の手を握り、涙を流した。義文を実家に連れて帰り、通夜をして、義文の遺志により家族葬にした。翌日、火葬して墓に納骨した。家族、親戚一同が拝み、義文を偲んだ。

カイトとキャンは事務所に帰り、カイトはソファに座った。キャンはコーヒーを淹れ、カイトに差し出した。

「はい、コーヒー」

「ありがとうございます……」

「家族が亡くなったんだ。気持ちは分かるさ」

「あの手術以来、時々しか会ってなかったから……もっと会いに行ってあげれば良かったなぁって……そう思うと、後悔で胸がいっぱいです……」

「私のせいだ……すまない……」

「キャンさんのせいじゃありませんよ。一時期勘当されてた時もありましたし」

「それも私のせいだ……」

「いやいや、私が決めた事ですし、仕方なかったんですよ」

「そうか……改めて聞くけど、どういう状況だったんだ?」

「あの日、朝食を食べた後、昼寝すると言って横になったらそのまま息をしていない事に気付いた母が救急車を呼んで病院行ったら、老衰だって……」

「そうか……残念だ……」

「はい……」

 二人はコーヒーを飲み、一息吐いた。するとカイトは席を立ち、夕食を作り始めた。その後ろ姿を見てキャンはカイトに声を掛けた。

「こんな時くらい、夕食なんか作らなくて良いんだぞ?」

「こんな時だからですよ。普段通りの生活を送りたいんです」

「そうか……でも、無理はするなよ?」

「はい。ありがとうございます」

 カイトは夕食を作り、ソファの前のテーブルに置いた。二人は夕食を食べた。食べ終わると、カイトは食器を下げて洗った。その間にキャンは風呂に入った。その後、カイトも風呂に入った。カイトが風呂から上がると、キャンは煙草を吹かしながら思い詰めていた様子で俯いていた。

「どうしたんですか?」

「あぁ……君のオジーチャンの事でちょっとな……」

「まだ気にしてるんですか?キャンさんのせいじゃないですよ。気にしないで下さい」

「いや、そうじゃないんだ」

「どういう事ですか?」

「あのオジーチャンの死に顔を見て、ふと思ったんだ。カイト、君と重なったんだ」

「重なった?」

「あぁ。君の未来の姿に思えた」

「…………」

「君も、いつしか私の下から離れていく。ああいった形で、だ。そう思うと、また一人で生きていくのかと思うと、こう、何と言うか、私はいつまでも孤独で、生きていくんだと……」

 キャンは涙を流して煙草の火を揉み消した。カイトは後ろからキャンを抱き締めた。

「私はまだ死にません。祖父は百歳まで生きたんです。私だって百歳だって、百十歳だって。百二十歳だって生きてみせますよ。ですから、安心して下さい」

「カイト……!」

 キャンは振り返り、カイトを抱き締めた。

「サインさん。私はどこにも行きません。死ぬまで、いくらでも長生きします。私が死んでも、また良い人を見付ければ良いじゃないですか」

「私には……!カイトしか……!」

「前の旦那さんの時はどうだったんですか?寂しくても一人で二百年生きてきたんでしょう?サインさんは心が強い。私が居なくなっても、きっとまた新しい旦那さんを見付けて生きていけるでしょう?」

「……そうかな……」

「そうですよ。だから、気を強く持って下さい」

「……うん」

「サインさん……」

「カイト……」

 二人は口付けをし、キャンの寝室で一夜を共にした。

「久し振りだから腰が……」

「もうそんな歳になっちゃったんだなぁ……無理はするなよ?」

「はい」

 二人はそのまま眠った。翌朝、カイトはキャンよりも先に起き、朝食を作った。作り終える頃にキャンが起きてきた。

「おはよ~……」

「あっ、おはようございます、キャンさん」

 カイトは朝食をソファの前のテーブルに置いた。そして二人は朝食を食べ終え、カイトは食器を洗い、コーヒーを淹れてキャンと自分の前に置いた。キャンは煙草を吸った。

「こんな生活が、いつまでも続けば良いのに……」

「出来れば私は若返りたいですけどね」

「ははっ、そうかい」

 キャンは扉の方を見た。

「どうぞ~。開いてますよ~」

 扉を開けて、一人の中年男性が入ってきた。

「失礼します……」

 キャンはその男性にソファに座るよう促し、男性はキャンの前に座った。キャンは男性の首筋を嗅いだ。男性は一瞬怯み、驚いた様子でキャンの顔を見た。キャンは男性から離れ、ソファに座り直した。カイトはお茶を淹れて、それぞれの前に置き、デスクから契約書と朱肉を持ってキャンの隣に座った。

「皮膚癌ですね?」

「何で分かったんですか!?」

「まぁ、経験で。ステージは?」

「4です」

「そうですか。どこに症状が?」

「左足裏と、お尻です」

「そうですか。痛みは?」

「鎮痛剤を貰ってます」

「そうですか。ちなみにここの事はどこから聞いてきましたか?」

「渋井大学附属病院の加藤副院長からです」

「やっぱりな……」

「やっぱりって、どういう事ですか?」

「いえ、こちらの話です。私はサイン・キャンです。宜しくお願いします。こっちは助手の倉部カイト先生です」

「倉部カイトです。宜しくお願いします」

「山田翔太です。宜しくお願いします」

「ご存じかと思われますが、我々はモグリの医者です。法外な値段を請求します。それで宜しいですか?」

「はい。覚悟しています」

「癌細胞一か所に付き、1000万円ですが。今回は足と臀部で二ヶ所あるので2000万円です。本当に宜しいのですか?」

「分割でも良いですか?」

「はい。分割でも構いません」

「絶対治せると聞いてきました。本当ですか?」

「はい。どんな状態の癌でも、外科手術なら何でも治します。更に再発、転移の心配もありません」

「本当だったんですね……」

「はい。手術はいつが宜しいですか?」

「えーっと……三日後の土曜日なら何時でも構いません」

「じゃあ午前十一時とかどうですか?」

「早いですね」

「何か問題が?」

「いえ。大丈夫です」

「では少々お待ち下さい」

 キャンは籍を立ち、スマートフォンを取り出して孝之に電話した。

「もしもし?私だけど」

「キャンか。また手術か?」

「あぁ。次の土曜日の午前十一時、予約出来るかい?」

「ちょっと待ってくれよ……あぁ、その日は空いてる。大丈夫だ」

「じゃあその日、その時間で」

 キャンは電話を切り、席に戻った。

「予約が取れました。次の土曜日、午前十一時に、渋井大学附属病院で手術しますので、午前十時に来院して下さい」

「分かりました」

「では契約書を。カイト」

「はい」

 カイトは契約書と朱肉を翔太の前に置いた。

「サインと印鑑を。印鑑が無ければ母印でも結構です」

「印鑑は持ってます」

 翔太はサインし、印鑑を押してカイトに返した。

「これで契約完了です。ではまた、後日」

「はい。宜しくお願いします」

 そう言って翔太は立ち上がった。カイトも席を立ち、出入り口の前まで行き、扉を開けた。翔太は一礼して去って行った。

三日後の土曜日、午前九時にカイトとキャンは病院に向かった。診察室でカルテと診断書を見て、どう手術するかをシミュレーションしていた。午前十時、翔太が来院した。孝之が出迎え、キャンとカイトがいる診察室まで案内した。手術内容を伝え、四時間程で終わると伝えた。そして午前十一時、手術用ベッドに翔太を寝かせ、キャンは自分の血を翔太に流し入れた。四時間後、手術を終えて翔太を病室に運んだ。その後、麻酔から覚めた翔太を孝之に任せ、カイトとキャンは病院を後にした。事務所に帰り、キャンはソファに座り、煙草を吹かした。カイトはコーヒーを淹れ、キャンの前に一つ置き、キャンの向かいに座って自分の分のコーヒーを飲んだ。

「最近忙しいですよね」

「あぁ。癌患者はなかなか無くならないな」

 カイトはコーヒーを飲んだ。

「キャンさん、前々から気になってた事があるんですけど」

「何だい?」

「何でキャンさんの血は麻酔効果と、癌の再発、転移を防ぐ効果があるんですか?」

「んー……まぁ、悪魔との契約って事しか言えないねぇ」

「そうですか……」

「悪魔との契約で、半分悪魔みたいなのになってるのよ。普通の体じゃないの」

「でも怪我には弱いですよね」

「そこなんだよ。あの蟹座の悪魔は、病気と寿命にだけ強い契約だったんだ。おそらく元の蟹座の伝説に従って、自身が怪我で死んだから、怪我には弱いんじゃないかな」

「成程。他に悪魔を召喚して契約しようとは思わなかったんですか?」

「方法を知らなかったしねぇ。それに、今度は何を犠牲にしなければならないか分からないから怖くて出来なくてねぇ」

「まぁ、そうですよね」

「何?興味あるの?」

「いや、ふと気になっただけですよ」

「そう」

 沈黙が続いた。しかし、カイトがその沈黙を破った。

「キャンさんって、夢とか無いんですか?」

「夢?」

「はい。将来、と言って良いのか分かりませんが、夢みたいなの無いんですか?こうなりたい、とか、こういう世の中にしたい、とか」

「あー……考えた事無かったねぇ」

「そうなんですか」

「だって、君と結婚出来たし、今はそれで幸せだから」

「そ、そうですか……何か照れるなぁ」

「強いて言うなら……」

「言うなら?」

 キャンは煙を大きく吸って吐き、煙草を揉み消した。

「いつまでも……」

 沈黙が流れた。

「いつまでも……?」

 キャンは笑顔で答えた。

「いつまでも、カイトと一緒に暮らしていきたい」

 再び沈黙が流れた。カイトが先に死ぬ事は当然。それは、癌ではないが、世の中には色んな病気や怪我、事故がある。遅かれ早かれ先に死ぬ事は決まっている事だ。その運命には逆らえない。しかし、カイトも笑顔で答えた。

「はい。私も、キャンさんといつまでも一緒に暮らしていきたいです」

 二人は笑い合った。その日は書類整理して食事をし、風呂に入ってそれぞれの部屋で寝た。

その夜、カイトは考えた。自分が居なくなった後のキャンの事を。また寂しい生活、いや、自分と出会う前よりも寂しい生活になる。そんな彼女を置いて、自分はあの世に逝く。以前ゴンとかいう死神とやらがあの世があると言っていたが、彼女はずっとあの世には来ない。あの世でキャンが居ない生活を送る事になる。自分の気持ちとしては、それはあまりにも寂しい、悲しい、虚しい生活を送る事になるだろう。だがそれは彼女も同然。しかし生きている限り、また伴侶を見付けて、幸せな生活を送るだろう。それが彼女の幸せになるなら喜ばしい事だが、本音を言えば、自分だけを愛してほしい。そう思った。だが、それはかつてのキャンの旦那も同じ気持ちだっただろう。今、自分とキャンが幸せに暮らしている事に対してあの世で嫉妬していないだろうか。そう思うと、自分も人の事を言っていられない。そんな事を考えていると、なかなか寝付けなかった。喉が渇き、台所で水を飲んだ。事務所に降りて、今までキャンと共に手術してきたカルテや診断書、資料を読んでいった。キャンとはメイド喫茶サトーで初めて出会った。あの時、偶然休憩時間に入っていたキャンを見付けなければ、ここまで深い仲にはならなかった。あれから始まったのだ。少年としての淡い恋心、年上の綺麗な女性に対する想いがその時からあった。初めての手術は戸惑ったし、グロテスクだし、何より自分の身内の内臓だしで吐きそうになりながら、しかも器具を渡す仕事を怒鳴られながらやって、大変だった。それから数回やっても、一週間、二週間と間が空いたりして器具や専門用語を覚えるのは大変だった。しかもその頃からキャンと一緒に暮らすようになって、朝早く起こされて勉強。学校に行って勉強。帰ってからも深夜まで勉強。そして朝食、昼食、夕食を作っていて、毎日眠い日々を過ごしていた。それが今となっては懐かしく感じた。その頃に将来癌になると宣告され、「将来、僕の癌細胞を食べて下さい」と言ったなぁ、と思い出した。高校生になった頃にはもう体が慣れて勉強が苦にならなくなった。部活にも入らず、勉強勉強の毎日。大学でも必死になって勉強した。サークルは一ヶ月だけだが楽しかった。しかしそれ以上に、自分の青春は常にキャンと共にあった。史枝に監禁されて苦しい思いもしたが、ゴンとかいう死神とやらが彼女を引き取りに来て、すぐにキャンに癌の手術をしてもらって助かった。そして中学生の時からの願いだった、「将来、僕の癌細胞を食べて下さい」という夢も叶った。大学四年生からは実習、研修、そして国家試験と卒業論文があった為、キャンの手伝いは出来なかった。大学を卒業してからはあのメイド喫茶サトーでバイトをした。秀太に背中を刺された事もあったが、キャンのお陰で助かった。退院後、厨房で働いてる間は新メニューを考えたりしながら得意の料理をするのが楽しくて良い職場だったと思った。そして両親の手術をして、今思うとそのタイミングと場所で言うか?というムードもへったくれも無い場面でキャンにプロポーズし、結婚した。それから渋井大学附属病院に就職してからは、キャンとは共に仕事をせず、病院で八年働き、力を着けた。キャンと離婚して美優と再婚し、渋井大学附属病院を継がないかと提案された事もあった。キャンが殺人未遂に遭遇し、今までの手術の事を警察に通報すると拓雄と美優に脅されたが、孝之のお陰でなんとか乗り切り、直後、自分の父が院長に、孝之が副院長になり、今まで以上にスムーズに手術が出来るようになった。これから先も父と孝之副院長には頭が上がらない。今までを振り返ると、波乱万丈の人生を送ってきたなと感じた。これから先、自分はどうなっていくのだろう。そう思った。そこへ、キャンが現れた。

「キャンさん?」

「カイト?どうしたんだい?」

「いえ、なかなか寝付けなくて、これまでの手術を振り返ってたんです」

「そうか」

「そういうキャンさんは?」

「私も寝付けなくてね。喉も乾いたし、水でも飲もうと思って」

「そうですか」

 キャンは台所に行き、水を一杯飲んだ。そしてソファに座り、煙草を吹かした。

「寝ないんですか?」

「寝るよ?その前の一服だ。寝煙草はアカンからな」

「偉いですね」

「当たり前の事だよ」

 キャンは一本目の煙草を吸い終え、揉み消し、二本目を取り出して吸った。

「カイト」

「はい?何ですか?」

「ありがとね」

「何がですか?」

「今までの事。君が来てくれたから、私は充実した毎日を送れているよ」

「そんなそんな……私だってそうですよ?あの時、中学生の時にキャンさんに出会ってなければ、こんな充実した毎日は送れていませんでしたよ。こちらこそありがとうございます」

「そう言ってくれると嬉しいよ。これからも末永く宜しくね?」

「はい。宜しくお願いします」

 キャンは煙草を揉み消した。

「じゃ、私、寝るから」

「はい。おやすみなさい」

「おやすみ~」

 キャンは寝室に戻って行った。カイトもファイルを棚に戻し、自室に帰り、ベッドに横になった。明日はどんな一日になるだろうか。そう思っていると、眠気がやって来て、すんなり寝た。翌日、いつも通りの時間に起き、朝食を作った。朝食を作っている最中にキャンが起きてきた。

「おはよ~……」

「あ、おはようございます。今、丁度朝ご飯が出来ましたので運びますね」

 カイトは朝食をソファの前のテーブルに置いた。二人は朝食を食べた。その後カイトは食器を下げて洗い、コーヒーを淹れ、キャンに一つ渡し、二人でコーヒーを飲んだ。

「キャンさん。聞きたい事があるんですが」

「昨日に続き?まだ何か聞きたい事があるのかい?」

「はい。今までどうやって癌細胞を食べてきたんですか?」

「うーん……あんまり言いたくないなぁ……」

「違法ですか?」

「あ、まぁ、うん……でもこの際、言っておくか。最初の頃は癌細胞なんてよく分かってない時代だったから、病院に忍び込んで、臭いで嗅ぎ分けて癌細胞を盗んで食べてた」

「そうだったんですか……」

「歳を取らない事で周りから不審がられて、日本中、色んな所を転々としながら病院に忍び込んでは盗みを働いてた。でもある時、師匠と出会って、医者の手伝いをする事になったんだよ。癌細胞を摘出した後、くすねてた」

「大変だったんですね……」

「あぁ。で、師匠の技術を目で盗んで、自分も医者になって、自由に手術するようになった。当時は手術はどこでも出来たから良かったんだけど、時が進むに連れて手術も本格的に清潔を心掛けるようになって、手術室でしか手術が出来ない状況になってね」

「それからどうしたんですか?」

「何分、癌細胞だけを食べていれば良い体だったから、それまで稼いだ金は結構あったんだ。だから金で病院から癌細胞を買い取ってたよ」

「でもそれだけじゃ今まで生きてこれなかったでしょう?」

「そうなんだよ。で、暫くして医者になる為に大学に入学して、医者になって病院に勤めてた。手術の時には必ず着いて、癌細胞をくすねてた」

「でもそれも長くは続かなかったんでしょう?」

「察しが良いねぇ。でも実は師匠があの渋井大学附属病院の創設者だったんだ。そこに頼み込んでこの五十年くらい手術をさせてもらってた。法外な請求をした金を折半でね」

「そういう経緯があったんですか」

「そう。で、今は君のお父さんが院長、孝之センセが副院長になって、やり易くなったって訳」

「成程……」

「聞きたい事はそれかい?」

「はい。でももう一つあります」

「何だい?」

「加藤先生の事です」

「孝之センセ?何?」

「加藤先生も中学生の時にキャンさんと出会ったと聞きました」

「あぁ、そうだが?」

「告白してフラれた、と聞きました」

「アンニャロ、そんな事まで言ったのか……」

「どうやって出会ったんですか?」

「確か父親だったかな?が、癌になって、私の噂を頼りにこの事務所に訪れたんだよ」

「地道に探したんですか?」

「そう。で、その日は手術の見積書だけ渡して帰ってもらった。で、後日、家族と来て契約書にサインと印鑑をして、手術したんだ」

「それからは?」

「それからは銀行振り込みが良いと言ったんだが、月に一度孝之センセが直接現金を持って現れて渡しに来たんだ。頻繁に来るもんだから世間話とかするような仲になってね。そして私みたいな医者になりたいと言ったんだ。私みたいにはならない方が良いって言ったよ、その時は」

「まぁ、でしょうね」

「で、彼は無事、渋井大学の医学部の大学に進学して国家試験を合格して、渋井大学附属病院に就職が決まったんだ」

「それで?」

「就職先の病院が決まったその直後に私に会いに来て、一緒にその病院で働きましょうと言ってきたんだ」

「いつ告白されたんですか?」

「その時だよ。一緒にその病院で働いて、結婚を前提にお付き合いして下さいって言われたんだよ。勿論断ったけどね」

「何で断ったんですか?」

「好みのタイプじゃなかった」

 カイトはズッコケた。

「酷い……」

「だってタイプじゃなかったんだもん。それに、子供の頃から知ってたし、恋愛対象にはならなかったんだよね」

「でも私とは結婚しましたね」

「タイプだったからね」

「中学生の時からですか?」

「最初は死んだ旦那の面影を感じて気になってたんだ」

「そうですか……」

 カイトの返事に、キャンは慌てて訂正した。

「あっ、勿論旦那の代わりにって事じゃないよ?そこは違うから」

「はぁ」

「で、長い時間を掛けて関わっていく内に情が移って行ったんだ。何か恥ずかしいな、改めて言うと……」

「いえ、それが聞けて嬉しいです」

「そうかい?」

「はい」

 その日、二人は誰も来ない一日を過ごした。この日はカイトは熟睡出来た。明日は仕事があるかな、と思いながら。


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