キャンのバイト卒業
『将来、僕の癌細胞を食べて下さい』11
・キャンのバイト卒業
カイトとキャンが結婚してから三ヶ月が過ぎた。
カイトがこのメイド喫茶サトーに入ってから丁度一年経った。メイド喫茶サトーに入ってからすぐに渋井美優というメイド店員に目を付けられ、執拗に迫られる日々を送っていた。昼休憩になると趣味の事とか、好きな料理とか、実際キャンとの同棲生活はどうなのかとか。キャンと結婚してからは夜の営みの事まで聞いてくるようになったが、カイトはそれだけはさり気無く躱す日々を過ごしていた。
その日は九月十日。カイトの誕生日だった。店に入ってコックの服に着替えてフロアに向かった。清三が朝礼を始めた。
「皆、おはよう」
一同は「おはようございます!」と挨拶した。
「早速だが、今日はお知らせがある。今日は倉部君の誕生日だ!おめでとう!」
清三は拍手した。一同も「おめでとうございます!」と拍手した。カイトは照れながら「ありがとうございます!」と答えた。
「刺殺事件とかあったけど、この一年よく頑張ってくれた。ありがとう」
「刺殺事件じゃなくて刺傷事件です。勝手に殺さないで下さい」
「あぁ、そうだったな」
一同は笑った。そして芳江が言った。
「まぁお給料の誕生日ボーナスなんてものは無いからね」
「そこまで強欲じゃありません」
「ただ、今日のまかないは一品無料にしてあげる」
「本当ですか?良いんですか?」
「えぇ。ちょっとした誕生日プレゼントよ」
「ありがとうございます!」
カイトは一礼し、清三が言った。
「さ。もう業務開始時間だ。それぞれ配置に着け!」
一同は「はい!」と言ってそれぞれの仕事場に着いた。カイトは秀太が居なくなった事で、主力コックとして調理場に立っていた。その日は日曜日という事もあり、かなりの客がやって来ていて、忙し過ぎた。やがて一時間程遅れた昼休憩になった。守夫が料理を作る事となり、カイトに注文を聞いた。カイトはナポリタンを頼んだ。守夫はナポリタンを作り、皿に盛り付けて片手でフロアに持って行こうとした。いつもは休憩室でまかないを食べるのにと、カイトは不思議に思った。
「あれ?休憩室じゃあ?」
「着いて来て下さい」
「えっ?あ、はい……」
ナポリタンをフロアの真ん中の席に置き、カイトに座るように促す守夫。カイトが席に着くと、突然照明が消えた。
「な、何っ!?何ですか!?」
すると裏口の方から「ハッピバ~スデ~トゥ~ユ~!」と歌を歌いながらメイド店員達が蝋燭に火が点いた大きなホールケーキを持ってきた。ケーキをテーブルに置き、歌い終わると、一同はカイトに拍手を送った。
「これは一体……?」
清三が裏から出てきた。
「今日は誕生日だろう?それに丁度カイト君が働き始めて一周年記念だ。ちょっとしたプレゼントだよ」
清三の柔らかい笑顔に、カイトは泣きそうになった。
「おいおい、泣くなよ。さ、蝋燭の火を消して」
「はい!」
カイトは蝋燭の火を吹き消した。一同は「おめでとうございま~す!」と拍手を送った。美優はカイトの隣の席に座った。
「倉部さぁん。倉部さんってぇ、渋井大学医学部卒なんですよねぇ?」
「そうですけど?」
「わぁ!凄ぉ~い!噂だと首席で卒業したとかぁ!?」
「えぇ、まぁ……」
「そうですかぁ~!凄ぉ~い!私、高校二年生で、再来年受験でとある大学目指してるんですけどぉ~、英語が苦手でぇ~……」
「あぁ、その気持ち分かります。僕も英語苦手でしたから」
「そうなんですかぁ~!じゃあちょっと教えて貰っても良いですかぁ~?」
「休憩時間中で良いなら良いですよ」
「やったぁ~!」
すると洋子が横から入ってきた。
「あっ、美優ズル~い!私もある大学目指してるんですけど、数学が苦手で!教えてくれませんか!?」
「良いですよ。同時進行で良いなら」
「ありがとうございます~!」
三人は盛り上がり、キャンは遠くでケーキを食べながら悶々とした気分を感じていた。
「でも何でお医者さんにならなかったんですか?」
「一応、医者ですけどね」
「だったら何でこんな所でバイトを?」
「他にやりたい事があって、その資金集めですかね」
「開業医になるって事ですか?」
カイトは言葉を濁す事にした。
「いや、まぁ、そんなところですかね」
「だったら尚更お医者さんやってる方がお金になりません?経験にもなりますし」
「あー……医者って言っても研修生って安月給の上にハードワークなんですよ。しかも最低でも三年間やるんです。それやるくらいならこういった所で働いた方が効率が良いと思いまして」
「時給良いですもんねぇ~」
「はい。残業代も出ますし、休みも自由ですし」
「頭良いぃ~!流石お医者さんぅ~!」
「あはは、ありがとうございます」
「ここのレシピ、一晩で全部覚えたって本当なんですかぁ~?」
「えぇ、まぁ」
「凄ぉ~い!」
「アレンジも出来てるし、ハイスペックだよね~!」
「ねぇ~!」
「そうですかぁ~……今、幸せですかぁ~?」
「何でそんな事聞くんですか?」
「いやぁ、キャンさんと上手くいってるのかなぁってぇ~」
「そうですね、上手くいってます」
「そうなんですかぁ~!でも一人だけの相手じゃ不満になりませんかぁ~?」
「へ?」
「私、彼女に立候補しちゃおうかなぁ~って!」
「あぁ、また美優ズル~い!じゃあ私も立候補しちゃお!」
「えぇ?」
「二人同時でも良いんですよぉ~?」
「はぁ?」
「良いよね~?美優~?」
「うんうん!私達はそんなの気にしないくらい仲良いしぃ~!」
「どうですか!?お試しでも!?」
「そうそう~!遊びましょぉ~!まだ若いんだからぁ~!」
「えーっと……」
言葉に詰まっていると、芳江が美優と洋子の頭を小突いた。
「こらっ!社内恋愛禁止!それに倉部君とキャンちゃんは結婚してるのよ!」
「えぇ~?良いじゃないですかぁ~!それに恋人じゃなくて、そういうお友達って関係は別じゃないですかぁ?」
「そうですよ!体だけの関係なら恋愛じゃないですよ!お友達です!あくまで!」
芳江は二人に拳骨をしようと拳を固めて詰め寄ると、奥でケーキを食べていたキャンがテーブルをバンッと叩いて立ち上がった。その音に一同は驚いてキャンを見た。キャンはカイトに近寄り、首根っこを掴んで立ち上がらせた。
「ちょっ、キャンさん……?」
キャンは突如カイトに口付けをした。カイトは勿論、一同は非常に驚いた。接客では明るく振る舞うキャンだったが、休憩中やその他の仕事をしている時は塩対応が多かった。そんなキャンが苛立ちながらカイトに口付けをしたのだった。キャンはカイトから唇を離すと、一同を睨み付けながらカイトの肩を抱いて引き寄せた。
「この子、私のモノなんで」
そう言ってキャンはバックルームに戻っていった。一同は呆気に取られてキャンを見送ったが、美優は怯まずにカイトに詰め寄った。
「キャンさんとはどこでどう知り合ったんですかぁ~?」
「キャンさんが本業でやってるお仕事で知り合って、付き合ったんです」
カイトの言葉に幸彦は前々から気になった事があり、芳江に聞いた。
「あの、今更ですけど、ここって社内恋愛禁止じゃないですか?良いんですか?規則違反じゃ?」
芳江は淡々と答えた。
「ここに入ってから起こった恋愛事情は禁止だけど、その前から付き合ってるならここでは規則違反にはならないよ」
一同は納得したようなそうでないような顔でその場はお開きとなった。まだ休憩時間中だったので、従業員用出入口の外に向かうと、案の定キャンは煙草を吸っていた。苛々した様子だった。
「キャンさん!」
カイトの言葉を聞いて振り返るキャン。
「あぁ、カイト」
「何であんな事したですか!?」
「あんな事って?」
「キスですよ!どういうつもりなんですか?」
「君がデレデレしていたからだろう」
「俺がデレデレ?」
「あぁ」
キャンは煙を大きく吸い、吐いた。
「ちょっと若い子に言い寄られたからって浮かれちゃってさ。私より、やっぱりああいう若い子の方が良いんだろ?私の事はもう飽きたんだろ?」
「そんな事ありません!俺はキャンさん一筋です!」
「どうだか……こんな傷だらけのチグハグ年増を相手にするの、もう嫌なんだろう?」
カイトはキャンに口付けをした。
「俺はキャンさんの事を全て受け入れています」
「……傷だらけの体に欲情する癖の人もいる」
「年齢を聞いても抱いた」
「……高齢者に好意を抱く人もいる」
「今まで、ずっとキャンさんと共に暮らしてきました」
「……借金の為」
次第に涙を浮かべて後ろを向くキャン。
「どうして信じてくれないんですか!?」
「私は君と同じ時間を歩めない。だったら、やっぱりここで若い子と一緒になった方が君の人生……」
カイトはキャンを後ろから抱き締めた。
「俺は、キャンさんを愛しています……例え一緒の時間を歩めなくても、ずっと、側に居たいんです……何度も言ってるでしょう?」
「でも、さっき女子高生に言い寄られてて嬉しそうだった」
「それは学歴の事を褒められたから嬉しくなっただけです」
「……本当かい……?」
「はい。本当です。俺は、どこにも行きません。ずっと側に居ます」
「……ありがとう」
「それにキャンさん、俺が居なかったら食生活悪くなる一方でしょうし、部屋も汚いままでしょうし、俺が居ないと、まともな生活出来ないでしょう?」
「今そこを言うか?」
「だってそうでしょう?」
キャンは振り向いてカイトと固い握手をした。
「これからも末永く宜しくね、カイト」
「はい!」
キャンは従業員用出入口の方に顔をやった。
「で?そこで盗み聞きしてるのは何?」
そう言われると扉が開き、雪崩のように従業員一同が倒れてきた。キャンは睨むように従業員一同を見下ろした。すると美優が言った。
「いやぁ、そろそろ休憩時間が終わるからどうかなぁ~?と思ったら修羅場だったもんで、声を掛け辛かったんですよぉ~」
「だからって盗み聞きするのは悪い事よ」
一同は「すみません!」と言ってそれぞれの配置に戻っていった。道中、カイトは「一緒の時間を歩めないってどういう事?」「高齢者ってどういう事?」と従業員から聞かれたが、後ろからキャンが「そこ!詮索しない!」と言われて「すみません!」と一同は仕事に戻った。そして一日の業務が終わり、キャンとカイトは帰る事にした。先にカイトが着替え終わり、店の外でキャンが出て来るのを待っていた。すると後ろから美優がカイトに声を掛けてきた。
「倉部さん、倉部さん」
「何ですか?渋井さん」
「倉部さんとキャンさんってぇ、夜の方はどうなんですかぁ?」
「どう、とは?」
「キスはさっきもやってましたけどぉ。それより先は上手くイってるのかなぁ?と思いましてぇ」
「あー、まぁ、はい……結婚してますし……」
「そうなんですかぁ~」
美優は今の会話でニヤリと笑った。
「倉部さん、これからはカイトさんって呼んでも良いですかぁ~?」
「別に構いませんよ」
「ありがとうございます~。で、カイトさん。ちょっと良いですかぁ?」
「何でしょう?」
「私、実家が大学病院なんですよぉ」
「へー。あ、もしかして渋井大学附属病院ですか?」
「はいぃ~」
「へー、偶然だなぁ。いつもお世話になってますよ」
「何度かいらっしゃっているの、見てましたよぉ~?」
「そうですか。じゃあ渋井さんも将来は医者に?」
「そんなの目指すくらいならこんな所で働いてませんよぉ~。勉強はからっきしですぅ~」
「そうですか」
「で、今医者が足りなくて困ってるんですよぉ~」
「世間では医者が不足している状況ですしね」
「そ・こ・でぇ~、カイトさん、私の病院に就職しませんかぁ~?」
「えっ?」
カイトは黙り込んだ。一瞬、自分のそういう未来が見えたからだ。キャンの事を想ってはいたが、美優の言葉に一瞬戸惑った。そこへ、キャンが現れた。
「待たせたね、カイト。あれ?美優ちゃん?」
「お疲れ様ですぅ、キャンさぁん」
「お疲れ様です」
「何か話してたの?」
「いえ、別に……」
「うん?そう?じゃあ行こうか、カイト」
「はい。じゃあ、渋井さん、また明日」
「美優で良いですよ~」
「は、はぁ……じゃあ、美優さん、また明日」
「はいぃ~」
そして後ろから従業員一同の「末永くお幸せに~!」というからかいの声が聞こえてきた。キャンは動じず後ろ姿のまま手をヒラヒラと振り、カイトは向き直って一礼してキャンの後ろを早歩きで追いかけて行った。カイトはさっきの事を考えて黙り込んでいた。色々経験しておいた方が、今後の手術に役に立つのでは、と。するとキャンが声を掛けてきた。
「カイト、あの話、引き受けたらどうだい?」
「何がですか?」
「美優ちゃんの話。引き受けなよ」
「へっ!?」
まさか聞かれていたとは思わなかったカイトは素っ頓狂な声を出した。
「き、聞いてたんですか!?」
「あぁ、途中からだけどな」
「でも引き受けたらって……良いんですか?」
「正規の医者として働いたら、得られる経験も豊富だろう。長目に
五年くらい正規の医者として暮らしてみたらどうだい?」
「でも、キャンさんはどうするんですか?」
「別に。カイトが居なかった頃のような執刀生活に戻るだけだよ」
「……止めないんですね。やっぱり、俺の事、嫌いなんですね」
「え?」
「すぐ自分から離れさせようとするし、今回も進めるし……」
「いやいや、愛してるよ。ただ、普通の医者の道に進むのもアリだと思ってね。彼女が何かを企んでるのかもしれないけれど、普通の病院で働くのもアリだと思うし。そして私は闇医者。君は正規の医者。そんな二人のイケナイ関係……ロマンチックじゃないか?」
「ロマンチックですかね……?」
「まぁこれも勉強だと思って一度、病院で研修医から始めて見るのも良いと思う。これからも私と共に暮らしてくのであればな」
「勉強ですか……まぁ、確かにそうかもしれませんね」
「だろう?一度行って、合わなければ帰ってくると良い」
「分かりました」
「それに、私は来年でこのバイトを辞めるつもりだし」
「えっ?何でですか?」
「一応今は二十八歳で通してるけど、もう年齢的にここらが限界だろう。それに、可愛いメイドさんって、三十路前くらいが限界だと思うし。それに外見年齢も限界だろう」
「そ、そうですか……あのお店も寂しくなりますね」
「普段一緒にいるんだ。そう肩を落とすな」
翌日、二人は出勤した。すると既にフロアに入っていた美優が明るい顔でカイトに近寄ってきた。
「カイトさぁ~ん」
「美優さん。昨日の話、考えてたんですけど……」
「どうですかぁ~?」
「俺、引き受けます。是非、渋井大学附属病院で働かせて下さい!」
その言葉に美優は顔を明るくし、飛び跳ねた。
「きっとそう言うと思ってましたぁ~!じゃあ中途採用になりますけど、パパに連絡しておきますねぇ~!」
「ちょっと待って下さい!一つ条件があるんです!」
美優は首を傾げた。
「何ですかぁ?」
「就職は半年後からにさせて下さい!」
今すぐじゃないと聞いて美優は更に首を傾げた。
「何でですかぁ~?」
「キャンさんの誕生日パーティーが終わるまで、ここで働きたいんです」
「キャンさんがここを辞める事と関係がぁ?」
「えぇ、まぁ、そうですね。知ってたんですか?」
「はいぃ。前々から噂になってたのでぇ」
「そうですか。なのでそれが終わるまで、待っていてほしいんです!」
「……そう、ですかぁ~……」
残念そうに俯く美優にカイトは続けた。
「もしこれで就職させて頂けないなら、この話は無かった事にさせて下さい」
すると美優は焦った様子で言った。
「いえ!パパに相談します!必ず、パパに面接をさせるという事で何とかこじつけます!」
「ありがとうございます!宜しくお願い致します!」
カイトは深々と頭を下げた。すると守夫が叫んだ。
「倉部さーん!そろそろ厨房に入って下さーい!手が回りませーん!」
「あ、はーい!じゃあ美優さん、また後で!」
「はいぃ~!」
それから半年が過ぎ、クリスマスイベントや正月イベントも何とか終えた。客の好みも大体分かるようになり、予測して次々と料理を作っていった。何度か従業員が入れ替わり、カイトが入ってから残っているバイトの古株はカイトとキャン、守夫、美優、洋子だけだった。
そしてその年は閏年。二月二十九日、その日はキャンの誕生日だった。この日は店を閉めてキャンのバースデーパーティーの準備をする事にした。キャンには午後から来るように清三が伝え、カイト達コック班は料理を、美優達メイド班はフロアの飾り付けをし、立食パーティーの準備を始めた。そしてキャンがやってくる頃に丁度準備も終わり、清三はキャンを真ん中の席に座らせた。清三は音頭を取って「キャン君、お誕生日おめでとう!」と言った。一同も「おめでとうございます!」と言った。キャンは照れながら「ありがとう」と言ってバースデーケーキに火が点いた蝋燭を一気に吹き消した。一同は乾杯してそれぞれキャンに「おめでとうございます!」と祝いの言葉を送った。キャンは暫く色んな従業員と話しながら料理を食べていた。やがてキャンは一服してくると言って従業員用出入口の方へ行き、扉を開けて外で煙草を吹かした。そこへカイトが向かった。
「やぁ、カイト」
「今日で辞めるんですよね?」
「あぁ」
「オーナーや店長には言ってるんですか?」
「当たり前だろ」
「他の従業員には?」
「それとなく伝えたよ」
「そうですか……」
「君も辞めるんだろう?」
「えぇ。来月半ばまでで」
「カイトならあの病院でもやっていけるさ。頑張れよ」
「はい」
二人はフロアに戻ろうとして従業員専用出入口から店の中に入ると、そこでは清三と芳江が待っていた。
「キャン君、もう、言った方が良いか?」
「はい。お願いします」
「もう少しいてくれても良いのよ?何せ看板娘なんですもの」
「いえ、もう年齢的に現界でしょう。ここらが潮時です」
「せめてお別れ会を兼ねた営業とか……」
「騒がしくされるの好きじゃないんです」
「じゃあ何でこの仕事続けてきたのよ……折角の滅多に無い誕生日なのに、思い切り稼げたのに……」
「身内だけでワイワイやりたかったんですよ。すみませんでした」
「いや、別に謝らなくても良いけどね……」
「オーナー、店長、今まで長らくお世話になりました」
「あぁ……本業の方、頑張ってな」
「たまには遊びに来て頂戴ね?」
「はい」
清三と芳江は二人を連れてフロアに戻った。そして清三が皆に声を掛けた。
「皆、ちょっと聞いてくれ」
一同は清三とキャンを見た。清三に促され、キャンは一歩前に出た。
「私、今日限りでこの店を辞めます」
一同はざわついた。「やっぱり」という声もちらほらと聞こえた。
「オーナー、店長、長らくお世話になりました。フロアの皆にも、厨房の皆にもお世話になりました。今までありがとうございました!」
キャンは深々と頭を下げた。一同は動揺しながらも、拍手を送った。「お疲れ様でした!」「寂しいよ~!」等、一同はキャンを取り囲み、握手を交わしていった。清三からは花束を貰った。その日は最後まで惜しまれながら、キャンは店を後にした。パーティーの片付けと翌日の仕込みを終えて、遅れてカイトは事務所に帰った。カイトが帰ると、そこではキャンが煙草を吸ってソファでゆったりとしていた。
「ただいま」
「あぁ、おかえり。今日はありがとう」
「いえいえ。キャンさんの為でしたから」
「ふふっ、そうかい」
キャンは気が抜けた様子でボーっと宙を見ていた。溜め息を吐くキャンに、カイトはコーヒーを淹れ、キャンの前に置いた。
「どうかしましたか?」
「何が?」
「だって、心、ここに非ずって感じでしたから」
「あぁ……まぁ、な……」
キャンは煙草を揉み消し、もう一本取り出して火を点けた。
「あの店で働くの、辛い事もあったけど、楽しかったからね……寂しいんだよ」
「キャンさんでもそういうのあるんですね」
「何だその言い方は?私にだって寂しいって気持ちはあるんだぞ?」
「でも俺を渋井大学附属病院に就職するの勧めてたじゃないですか。てっきり長年生きててその感情が無くなったんじゃないのかと思ってましたよ」
「そんな事無いぞ。長年生きてるとな、別れってものがどんどん辛くなっていくものだ……友人、知人、同僚、上司、部下、有名人、著名人、芸能人……どんどんこの世から去って行く。そんな大事な感情、無くなる訳無いじゃないか……」
キャンは涙を浮かべ、カイトに見えないように袖で拭った。失言してしまったと思い、カイトは慌てて謝罪した。
「申し訳ありませんでした……」
「いや、カイトがそう思うのも無理は無い、普通じゃないからね、私は」
キャンは煙草を吸い終わるとコーヒーを飲み、カイトの手を引いて風呂場に向かった。
「今日は寂しいんだ。癒してくれ給え」
「は、はぁ……」
「何だい?嫌なのかい?」
「い、いえ!頑張らせて頂きます!」
「よし!今日は寝かさないぞ!」
「……明日はバイト休みですし、明日は本業の仕事は休業にしましょう!だからいっぱい楽しみましょう!」
二人は口付けをして一緒に風呂に入り、キャンの部屋に行った。翌朝になっても共にし、少し寝てからもまた共にし、そして再び夜となった。
「流石に一日中ヤり続けるのはキツいですねぇ……」
「若いんだからしっかりしな。医者は体力勝負だよ」
「ですよねぇ……」
半月後、カイトはバイトを辞めた。美優から話を聞いていたオーナーと店長はカイトの事を惜しみながらお別れ会をした。
その後、渋井大学附属病院で院長の渋井拓雄とカイトの事をよく知る医師として選ばられた孝之で形だけの面接をした。カイトは緊張しながら面接に挑んだ。応接室に入り、ソファに座るように拓雄から促され、座った。
「まぁそんな緊張するな。形だけの面接だから」
「はい!」
拓雄は履歴書に目を通した。
「倉部君、この二年間はバイトをしていたみたいだが、君の話は聞いているよ。センター試験では全問正解、大学内でも試験は全問正解、実習でも実験でも秀。国家試験も全問正解。首席であの大学を卒業した。だが何故かどこの病院にも就職しなかった。この病院でも絶対に受かっていただろう?君程の将来有望な医師が何故医師にならなかったんだ?」
「その……他にやりたい事がありまして……」
「ほう?それは何だね?」
「言えません」
「そうか。まぁ何か訳アリなんだな?」
「はい」
「そうか。ところで先日、結婚式をしたそうじゃないか」
「はい、しました」
「私の娘の美優も参列したみたいだが、身上書によると君は独身のようじゃないか。どういう事なんだい?」
「彼女もちょっと訳アリでして、事実婚にしています」
「ふぅん……?」
疑問を抱きつつも、拓雄はその後、軽い質疑応答でカイトを合格させた。カイトは研修医になった。渋井大学附属病院で働く間、キャンとの仕事はしなくて良いとキャンに言われた。渋井大学附属病院での仕事に専念してほしいというキャンからの配慮だった。
就職が決まった翌日、各部署への挨拶回りの時、そこで春樹に「久し振りに家に来い」と言われ、実家に帰省する事にした。キャンには「今日は実家に泊ります」とメールを送り、了承を得た。実家に帰ると、カイトの好物の豚カツを深雪が腕を振るって作って待っており、春樹と深雪と対面する形でカイトはテーブルの席に着いた。ビールを開けて乾杯した。
「やっぱりウチの病院に来たか。頑張って働けよ」
「まずは就職おめでとう、じゃないの?」
「あぁ、そうだったな。おめでとう」
「おめでとう、カイト」
「全く……学ばないんだから」
「それを言うなって」
「で、どう?キャンさんとの生活は?」
「ラブラブだよ。毎日が楽しいさ」
「そ、そうか。それはなによりだ」
「次、帰省してくる時はキャンさんも連れてきてね?」
「うん。そうするよ」
そう談笑して、食事の後は風呂に入って、その日は久し振りに自室で寝た。
それから三年間、研修期間を卒なくこなして終え、正規の医者になった。それからというもの、美優からまた色々アプローチを掛けられるようになった。拓雄はカイトの仕事ぶりを見て好印象に感じた。そして五年間、癌治療専門の部署で働いた。外見年齢はもうキャンを越えて見えていた。
とある日、業務を終えて帰ろうとすると、拓雄から呼び出され、院長室に来るよう言われた。何だろうか。何かミスでもしただろうかと思いながら院長室の扉をノックした。すると拓雄の「どうぞ、入り給え」という声がして、中に入った。中には拓雄と美優がいた。
「あ、カイトさぁん!お疲れ様でぇす!」
「美優さん……?どうもお疲れ様です」
どういう事か理解出来ずにいると、拓雄はカイトに手招きした。カイトはソファに座り、拓雄は向かいのソファに座った。美優はお茶を淹れ、それぞれの席に置き、拓雄の隣に座った。
「何でしょうか、院長?」
「実は君に話が合ってね。直球に言おう。倉部君、君、ここの跡取りにならんかね?」
急な話に頭が追い付かず、どういう事なのかと尋ねた。
「聞いたところによると、君は二年間、あのサイン・キャンとかいうモグリの医者の下で働いていた。そうだね?」
「……はい、そうです」
「あんな闇医者の所じゃなく、正規の医者としてこれからもこの病院でやっていかないか?」
「えっ……?」
「どうだね?今なら愛娘の美優と結婚もさせてやろう。身内で言うのもなんだが、かなりの美人に育ったと思う。どうだろうか?」
カイトは言葉に詰まった。しかし、カイトの答えは一つだった。
「素晴らしい御提案、ありがとうございます」
「君ならそう言ってくれると思っていたよ。それじゃあ……」
拓雄の言葉を遮るようにカイトは言った。
「折角ですが、私は既婚者です。ですので、この話は無かった事にして下さい」
深々と頭を下げるカイトに、拓雄は溜め息を吐いた。
「サイン・キャンの事か?」
カイトは思わず顔を上げた。
「えっ……?」
「事実婚と言っても籍は入れてないだろう?サイン・キャンの事は聞いているよ。加藤君がいつも便宜を図ってるからね。この病院で好き勝手しているらしいじゃないか。初代院長との約束だか何だか知らんが、これ以上は見逃せないな」
「何ですって……!?」
「あんな闇医者の下で働く君の気持ちが分からんな。あんな女のどこが良いんだ?あんな女より、私の娘と結婚した方が将来安泰だぞ?それに、彼女がやってる事は違法だ。いつ警察に捕まってもおかしくないんだぞ?訴えられる事もあるかもしれない。そんな警察や弁護士に日々怯える生活に君はなりたいのかね?」
「そ、それは、それは……!」
カイトは言葉を失った。拓雄が言っている内容は尤もだったからだ。しかし、カイトはキャンの下を離れる気にはならなかった。しかし、しかし……と頭の中を巡らせた。そんなカイトの姿を見て、拓雄はまた溜め息を吐いた。
「あんな女のどこが良いのやら……あの女と別れて、私の娘と結婚し、跡を継ぐと言うならサイン・キャンの事は目を瞑ろう。今後も警察に通報する事はしない。手術室を貸し出す事も認める。これは彼女の為になるんだ。どうだ?」
拓雄はニヤリと笑った。
「…………!」
キャンの為にキャンを捨てる。そういう選択を迫られている。すると拓雄は口を噤んだままのカイトの様子を見て言った。
「何、今すぐでなくても良いんだ。じっくり考えると良い」
「……はい」
「ただ、私はそこまで優しくない。一週間以内に決め給え」
「……分かりました。失礼します」
カイトは院長室を出て行った。残された拓雄と美優は冷めたお茶を飲んだ。
「これで倉部君も我々の手の内だな。サイン・キャンの事を出されては逆らえまい」
「でもパパぁ、さっさとあの女を警察に通報しとけば良かったのにぃ!何で通報しないのぉ!?」
「それは出来ないんだよ。お前にはまだ分からないだろうが、この事が警察にバレたら、この病院も危うくなるんだ」
「そうぅ……でも何で一週間も猶予を与えたのぉ?明日にでもすれば良かったのにぃ!」
「女とのケリをつけるのは案外難しいものなんだよ」
「そうなんだぁ……ま、私の方が若いしぃ、綺麗だしぃ、可愛いしぃ、きっと選んでくれるよねぇ~?」
「あぁ。選ばない訳が無いな」
一方その頃、カイトはグルグルと巡らせながら事務所に帰った。
「ただいま……」
「やぁ、カイト、おかえり。どうした?」
「何がです?」
「何か思い詰めてるというか。何かミスでもしたか?」
「いえ、そういう訳では……」
「じゃあ何だい?」
「それは……」
カイトは言い掛けた。しかし、これは自分の問題だ。自分の力で解決しなければ。そう思い、自室に行って着替えて来て夕食を作り、キャンと二人で食べた。そして先にシャワーを浴び、拓雄と美優が話していた事を考えながら寝た。そんな生活を六日間続けた。明日、結論を出さなければならない。悶々としながらキャンと共に夕食を食べ、コーヒーを淹れて飲んだ。キャンは立ち上がり、窓際に立って外を眺めながら煙草を吹かした。
「……行っても良いんだよ」
「えっ……?」
「美優ちゃんとの結婚。しなよ」
「何でその事を……!?」
「孝之センセから聞いた。全部ね」
「でも俺……」
「良いじゃないか。彼女可愛いし。医者にも看護師にもならなかったけど、かなり頭の良い大学出てるし。何より若い。そして将来は大病院の院長。出世コースまっしぐらじゃないか。何が不満なんだい?」
「…………」
「私と一緒に居てもまともな人生を送る事は出来ない。でも彼女となら共に生きられる。最期までね」
「……キャンさんは、どうするんですか?」
「私は元通りの生活に戻るだけだよ。元々一人で今までやってきたんだ。何ら変わらないさ」
「変わるでしょう!俺とのこの二十年間は何だったんですか!?」
「戯れだよ。ただの、ね」
「戯れ……!?キャンさん、俺の事、邪魔なんですか?」
「えっ……?」
キャンは思わず振り返った。そこには涙を浮かべてキャンを見詰めるカイトの姿があった。それを見て、キャンはまた窓の外を見た。
「…………あぁ、邪魔だ。消えてくれ」
キャンの言葉に、カイトは席を立って自室に戻ろうと事務所の扉に手を掛け、キャンの方を振り向いた。キャンの横顔から、涙が一滴流れていた。その日は風呂も入らずに寝てしまった。翌朝、カイトはシャワーを浴びてから渋井大学附属病院に向かった。その日の業務を終えた時、美優が迎えに来た。
「カーイっトさんっ」
「美優さん……」
美優はカイトの腕に抱き着いたが、カイトはそれを振り払った。美優はカイトが照れているのだと思い、ニヤニヤしながらカイトの前を歩いて行った。
「パパが呼んでますぅ。行きましょぉ?」
「……はい」
二人は院長室に向かい、扉をノックして中に入った。
「失礼します」
「パパぁ~、連れてきたよぉ~」
「あぁ、待っていたよ。倉部君。さ、掛け給え」
拓雄は手でソファを差し、カイトに座るように促した。美優はお茶を淹れ、それぞれの席に置いた。三人が座ると、拓雄と美優は自信満々といった顔でカイトを見た。拓雄は腕を組んで話し出した。
「で、この一週間、よぉく考えたかね?」
「はい。考えました」
「答を聞こうじゃないか」
「私は……」
言い淀むカイトに、拓雄と美優は眉間に皺を寄せた。
「『私は』、何だね?」
「私は、このお話、お断り致します」
カイトの意外な回答に、拓雄と美優は口をあんぐりと開けた。そして拓雄は声を荒げた。
「何でだ!?何が不満だ!?」
「不満はありません」
「じゃあ何でだ!?娘が気に入らないのか!?」
「ちょっとパパ!」
「いえ、立派なお嬢さんだと思います」
「じゃあ金か!?給料に不満があるのか!?ここはそこらの大病院の中でも良い給料で有名なんだぞ!?」
「そこも問題ありません」
「じゃあ一体何なんだ!?」
カイトは顔を上げて強く言った。
「私は、サイン・キャンさんと一緒に生きたいんです!」
二人は絶句した。まさか金よりも、地位よりも、安定性よりも、女の方を取るのかと。拓雄はまた声を荒げて言った。
「じゃあサイン・キャンにはもうこの病院を使わせないぞ!」
「では我々は警察に出頭します」
「何っ!?」
「我々の事が警察にバレれば、この病院もただでは済まないでしょう。院長も立場が怪しくなりますよ」
「ぐっ……がっ……!」
拓雄は絶句した。美優はオロオロと拓雄の腕を掴んで「パパぁ!何とか言ってよぉ!」と揺らしたが、拓雄はテーブルをバンッと叩き、扉の方を指差した。
「……出て行き給え!今日限りで君はクビだ!」
「分かりました。今までお世話になりました」
カイトは一礼して院長室を出て行った。拓雄は扉を睨み付けてお茶をグビリと飲んだ。
「意外と倉部君は喰えない奴だったな……」
「ねぇ、パパぁ?あの女を殺しちゃった方が話が早いんじゃなぁい?」
「殺人は無理だ。絶対にバレる」
「裏の人間を使っちゃおうよぉ!ほら、組員の若い奴使ってぇ!」
「どうやって殺すつもりだ?」
「交通事故とかぁ。苦しんで死んでもらおうよぉ」
「……駄目だ。絶対に足が着く」
「パパぁ!」
「何か良い方法を考えるから待ってなさい」
「はぁい……」
カイトは自分のデスクに向かい、段ボールに私物を詰めて事務所の出口へと向かった。何事かと頭に疑問符を浮かべるスタッフ達にカイトは「今までお世話になりました」と一礼してキャンのいる事務所へと帰って行った。カイトが段ボールを持って事務所に帰ると、そこではキャンが癌細胞の生肉をグチャグチャと食べながら煙草を吸っていた。
「カイト?」
「ただいま!キャンさん!」
「どうしたの?そんな大荷物で」
「病院、クビになりました!」
「……は?」
「ですから、病院、クビになりました!」
「なっ……ど、どうしてだい!?」
「後で説明します!じゃあちょっと荷物置いてくるんで!」
カイトは自室に段ボール箱を置きに行った。キャンは煙草を揉み消し、カイトの部屋へと向かった。
「カイト!」
「はい」
「どうしてクビになったんだ!?」
「美優さんと結婚して、跡を継がないかと言われて、それを断ったからです」
「はっ!?んっ!?えっ!?な、何で……!?」
「キャンさんと一緒に生きたいからです」
「何でだよ!?君、もう三十五歳だろう!?将来の事とか考え給えよ!」
「将来を考えた末ですよ」
「だったら一択だったろう!?」
「はい。キャンさん一択でした」
「君がこんなに馬鹿だとは思わなかったよ……今からでも遅くない!院長に頭下げて……!」
キャンはスマートフォンを取り出して渋井大学附属病院に電話をしようとすると、カイトはそれを止め、首を横に振った。
「良いんです。キャンさん。これで良いんです」
「でも……!」
カイトはキャンに口付けをした。
「俺は、最期までここに居るって、何度も言ったでしょう?俺は、嘘は吐きません」
「カイト……」
「どうですか?俺が帰って来てくれて、嬉しくないですか?」
「……鬱陶しい」
「キャンさん……」
キャンはカイトを抱き締めた。カイトもキャンを抱き返した。
「嘘。本当は凄く嬉しい……ありがとう、戻ってきてくれて……!」
「はい、キャンさん……!」
「それと、すみません。もう、渋井大学附属病院が使えなくなるかもしれません」
「そうか……そうだよな……」
「すみません……!」
「良いんだ。貯金はあるんだ。また別の病院を探せば良い」
「はい」
二人は涙を流しながら笑い合った。その日は二人は一夜を共にした。
数日後、二人は車でショッピングモールに向かった。色々物資を調達し、お茶でもしてから帰ろうという話になった。カイトとキャンは一旦車に荷物を乗せ、再びショッピングモールに戻ろうとした。二人が車道に出た時、猛スピードで車が突っ込んできた。カイトは思わず避けたが、キャンは撥ねられ、十メートル程吹っ飛び、蹲って痛がり、気絶した。
「キャンさん!」
カイトはキャンの所に向かった。左腕左脚の骨折、そしておそらく肋骨が折れて内臓に突き刺さっている。暴走車は急いで逃げようとしたが、ハンドルを切り損ね電柱に激突し、動かなくなった。中に居た厳つい男が出て来て走って逃げようとした。しかし周囲に居た人達がその男を取り押さえた。カイトは救急と警察に通報し、十分程で救急車とパトカーが到着し、男はパトカーに連行。キャンは救急隊員によって救急車に乗せられ、カイトも同乗した。搬送先は渋井大学附属病院だった。手術は孝之の口添えもあり、強引にカイトが行った。手術は成功。三ヶ月程の入院生活を送る事となった。麻酔から覚め、天井をボーっと見詰めるキャン。体の痛みを感じ、思わず「痛っ……!」と声が出た。それを聞いて、隣で座っていたカイトが顔を覗き込んだ。
「良かった!起きた!」
「あ、あぁ……ここは……?」
「渋井大学附属病院です」
「えっ……!?何があったの……!?」
「暴走車が俺達に突っ込んできて、俺は咄嗟に避けたんですけど、キャンさんに真っ直ぐ突っ込んで行って、左腕と左脚と肋骨の骨折。肺が一部損傷という怪我を負ったんです」
「そうだったのか……カイトが手術してくれたのか?」
「はい。この病院で培った技術が役立ちました」
「そうか。ありがとう」
所変わり、院長室。そこには美優が監視カメラでキャンの病室を見ていた。
「あ~あ、死ななかったかぁ~。やっぱりヤクザの下っ端のチンピラはアテにならないわねぇ。次は確実に殺す方法で殺るよぉ」
そこへ拓雄が現れた。
「美優、勝手な事してくれたな」
「パパぁ!でも一刻も早く殺したかったんだもぉん!カイトさんが悪いのよぉ?私の事をフるんだもぉん!」
「今回は金でカタが付いたから良かったものの、これからは勝手な事はするんじゃないぞ」
「はぁい……」
「人一人が死ぬなんて病院ではよくある話だ。証拠が残らないように後でカリウムなりテトロドトキシンなり注射してやるよ。そういう薬品はここにはごまんとあるからな。証拠を残さずに殺すなんて訳無いさ」
「流石パパぁ!」
「まぁ彼女はそもそも商売敵だったんだ。今回は美優が勝手にした事だったが、いずれはこの病院を使用不可にするつもりだったんだ。あの女が居なくなれば、この病院にはメリットしかない。もう余計な事はするなよ?」
「はぁい……でも彼はウチの病院で輝くべき人種よぉ。こんな女とは釣り合わないわぁ」
「あぁ。私もそう思う。さて、往診に行くか」
「私も着いて行って良い?」
「良いだろう」
二人は院長室を後にした。すると、院長室の通路の角に隠れていた孝之が院長室に入って行った。
キャンの病室の扉をノックし、拓雄は美優と共に病室に入って行った。
「調子はどうですか?」
「やっほー、キャンさぁん」
「美優ちゃん……?何でここに?」
「お見舞いですぅ」
「そう。ありがとね」
「渋井院長。その節はどうも……」
「その事はもう良い。こちらが言うのも何だが、気にするな」
「ありがとうございます。でも何で院長先生がここにいるんですか?」
「主治医として来たのだよ」
「院長自らですか?」
「伝説のモグリの医者の今を一目見ておこうと思ってね」
「そうですか」
「前に会った時は私がペーペーだった頃なので三十年前でしたか。あれから全く変わってないですね。噂は本当だったんですね。どういう事なんですか?」
「それはトップシークレットですね」
「そうですか。で、からだの調子はどうですか?」
「えぇ、何とか。体中が痛いですけど」
「そうですか」
拓雄は今後の入院生活とリハビリについて話した。
「……という事で、今後は頑張っていきましょう」
「はい」
そこへ孝之が病室に入ってきた。
「失礼します」
「何だね、加藤君。今、取り込み中だよ」
「二つばかり提案がありまして」
「何だね?急用かね?」
「はい」
「じゃあ、院長室まで来給え」
扉の方へ向かおうとする拓雄に、孝之がそれを止めるように立ち塞がった。
「何かね?」
「ここにいる全員に関係があるので、ここで話します」
「何?どういう事だね?」
「さっきの院長室での話は、全て聞かせて頂きました」
「何っ!?」
「そこでまずは私の提案を受けて頂きたく参りました」
「さっきも聞いたよ。だから何だ?」
「一つは、これからもサイン・キャンにここの病院を自由に使っても良いという約束をして頂きたいです」
「何だと!?」
「それともう一つ。この事件はここだけの話にして、示談金5000万円で解決、という事でどうでしょう?」
「5000万円!?そんな馬鹿な話があるか!」
孝之は無表情のまま続けた。
「ではこの事は警察に通報させて頂きます」
カイトは事情が分からず、孝之に尋ねた。
「どういうことですか?加藤先生?」
「この二人はキャンを殺そうとしていたんだよ。今回の事故は仕組まれた事だったんだ。美優さんがね」
「何だって!?」
孝之の言葉に、美優は強めに出た。
「あらら……バレちゃったかぁ。でもこんな事知ってるのは私とパパだけよぉ?いくら話を聞いたとは言っても、立証は難しいわよぉ?それにぃ、パパが裏の人達と繋がってるわぁ。すぐに金で解決するわよぉ?」
カイトは美優の胸倉を掴んで叫んだ。
「お前!自分が何をしたのか分かっているのか!?」
「お前だなんて酷い言い方ぁ。これからのフィアンセに向かってぇ」
「俺はお前とは結婚しない!俺は死ぬまで、ずっとキャンさんと一緒に暮らすつもりだ!」
拓雄は深い溜息を吐いて後頭部を掻いた。そして不敵な笑みを浮かべて言った。
「まぁバレてしまったのなら仕方ない。今夜は恐怖に怯える夜を過ごすと良い」
「何だとテメェ!」
カイトは美優を突き飛ばし、拓雄の胸倉を掴もうとしたその時、孝之はニヤリと笑った。
「そう上手くいくでしょうかね?」
孝之は胸ポケットからICレコーダーを取り出して、さっきの院塗油室での二人の会話音声を流した。
「これは……!?」
「何よ、コレ!?」
「こっちが聞きたいですね。裏の人間を使ってキャンを事故死させようとして、失敗したら別の方法で殺そうとしている。立派な計画殺人と、その未遂事件です」
「それは……!」
悔しそうに孝之を睨む拓雄と美優。孝之は続けた。
「この事態に不信を持った私は半日前からこれを仕込んでいました。これを警察に届け出します」
すがるように拓雄は孝之の腕を掴んだ。
「頼む!この事だけは、警察には言わないでくれ!」
「ではこの話、受け入れてくれますね?」
「あぁ!分かった!分かったから、そのレコーダーを渡してくれ!」
孝之はICレコーダーを渡した。すると、受け取るや否や拓雄はICレコーダーを叩き割り、満面の嫌な笑みで孝之とカイトとキャンを睨み付けた。
「あっ!」
カイトは思わず声が出た。
「これで証拠は無くなった!これでこの話は白紙だ!良いな!?」
高笑いする拓雄に釣られて、美優も笑った。拓雄は孝之ににじり寄った。
「加藤君。君の立場も怪しくなったなぁ……この病院に居られなくなるだろうなぁ……」
すると、今度は孝之が高笑いをした。それを見て拓雄は疑問符を浮かべた。
「な、何だね?」
孝之はありとあらゆるポケットからICレコーダーと、スマートフォンを取り出した。それを見て拓雄と美優は更に驚いた。
「何それぇ!?」
孝之は爽やかな表情で拓雄と美優に言った。
「こんな事もあろうかと、複数のICレコーダーを用意して回してました。今のやり取りも録音してあります。それに私のスマホから自宅のPCにデータを送っています。もう、言い逃れは出来ませんよ。これを警察に持って行けば、貴方方の罪は明るみに出ます。そうすると、医師としての貴方は破滅です」
「そ、そんな……」
拓雄と美優はその場で崩れ落ちた。暫く項垂れた後、ヨロヨロと立ち上がってフラつきながら病室を出て行った。カイトは孝之に向かって行った。
「加藤先生、ありがとうございました!」
「いや、前々から不祥事を働いてる院長だったんだ。これで少しは懲りただろう」
それから毎日カイトはキャンの見舞いに行き、癌細胞の料理を食べさせた。
「いつもありがとうね」
「いえいえ。キャンさんの為ならこれくらい訳無いですよ」
それから三ヶ月後、無事、キャンは退院した。治療費は病院側が全て負担してくれた上に、キャンの口座には5000万円が振り込まれていた。
そして後々に分かった事だが、孝之の話によると、キャンが入院中、孝之はICレコーダーの内容を病院の上層部にリークしたそうだ。そして拓雄は失脚し院長を引退。代々渋井家の人間が院長と副院長をしていた渋井大学附属病院だったが、上層部の人間は、渋井家の医師が新しい院長と副院長になるのは避けるべきとし、次期院長は渋井家の人間以外で最年長者で且つ実績のあるベテランのカイトの父、春樹が、また副院長は春樹の推薦で、キャンと同じく癌専門医で且つこれからキャンとスムーズに連絡が取れるようにという理由で孝之に決まったそうだ。これからの仕事は安心してここで受けて良いというお墨付きだった。
カイトとキャンは事務所に帰ってきた。
「たっだいま~!」
「おかえりなさい」
「あ~っ、入院生活辛かった~!」
「お疲れ様でした」
「まだリハビリはあるし、暫くは散歩、付き合ってね?」
「はい」
それからリハビリを一ヶ月続け、二人は通常業務に戻る事となった。そしてカイトはある日の仕事を終えて給料を受け取ると、すぐに銀行に行って帰ってきた。
「キャンさん、ちょっと良いですか?」
「何だい?」
「これです」
カイトは自分の通帳を見せた。そこには4000万円を超える貯金額が書かれていた。
「凄いじゃないか」
「これで、俺の治療費1000万円と、両親の癌手術計3000万円の借金は無くなりましたね」
「あぁ、そうだな」
「これからキャンさんの口座に振り込んできますね!」
「あぁ、宜しく」
その後、再び銀行に行ったカイトはキャンの口座に4000万円を振り込み、真夏の太陽の下、スキップしながら帰って行った。




