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虚飾まみれの魔導書の世界をスッキリさせます。〜整理の天才児による、澱みゼロの最短魔術ライフ〜  作者: 寝不足魔王


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第56話:次の澱みの地図と、選ぶということ


 翌朝、図書館の応接室にハミルトが書類を抱えてやってきた。


 厚みのある書類束を、テーブルの上に丁寧に並べる。整理されたページの端に、ハミルトらしい几帳面な注釈がびっしり書き込まれていた。依頼の概要、緊急度の目安、届いた順番、それぞれの国の状況のまとめ。副館長として、アルスが戻ってくる日を待ちながら、ずっとこれを整理し続けていたのだろう。


「アルス様がお帰りになりましたので、ご確認いただきたく存じます。複数の国から整理の依頼が届いておりまして……どれも、切実な状況だと聞き及んでおります」


 全員が書類を覗き込んだ。エレナが一枚目を手に取り、目を通し始めた。リディアが隣から静かに読んでいる。フィナが「字がいっぱいある」と言いながら、でも真剣な顔で見ていた。クレアが「A国の件は父上から少し聞いたことがあるわ」と言った。ゼノスが腕を組んで、黙って書類全体を見渡していた。


 書類に記されていた依頼は、大きく四つに分かれていた。


 一つ目は、隣り合う二つの国の対立だ。長年にわたる誤解が積み重なって、今では直接話し合うことさえできなくなっているという。情報が歪んで伝わり続けることで、実際には争う理由がないのに争い続けている、という状況らしかった。


 二つ目は、強い信仰を持つ国での問題だ。信じることと思い込みの境界が曖昧になって、人々が自分たちを縛る澱みに気づけなくなっているという。


 三つ目は、百年以上前の出来事が歪んで伝わり続けている国だ。その歪んだ記録が、今でも隣国との対立の種になっている。


 四つ目は、知識の格差が貧富の差を生んでいる国だ。情報が特定の人たちにしか届かない構造になっているため、多くの人が本来持てるはずの力を持てないでいるという。


「どれも深刻ね」


 エレナが書類から顔を上げて言った。


「術式の整理とは、また違いますね。魔導書の澱みではなく、人と人の間にある澱みですから」


 リディアが静かに言った。


「……どれが一番困ってる人が多いの?」


 フィナが聞いた。真剣な顔で、でも直接的な言葉で。ハミルトが「それが……どれも切実なんです。優劣がつけられないほど、どれも長い時間をかけて積み上がってきた澱みで」と答えた。


 ◇


 アルスは書類を一枚ずつ手に取りながら、脳内で整理を始めた。


 どの澱みが一番深いか。どの順番で向かうのが正しいか。魔導書の整理なら、まず全体を見渡してから優先順位を決める。同じように、今回の依頼も整理できるはずだ。


 でも、答えがすぐには出なかった。


 魔導書の澱みは、本の中にある。触れれば感じ取れる。でも、人と人の間にある澱みは、触れることができない。気配を感じ取ることも、脳内で組み立て直すことも、まだやったことがない。


 セリスが「アルス様、一つ聞いていいですか」と言った。


「どうぞ」


「全部を整理することは、できないんですよね。一度に」


「うん、できない。順番がある」


「では、どうやって選ぶんですか。どれから向かうかを」


 アルスはしばらく考えてから、正直に答えた。


「一番もったいないものから、かな。著者の発見が届かないままになっているのがもったいないのと同じように、本当は届くはずの言葉が届いていない場所から」


 セリスが静かに頷いた。その目が、何かを確かめた顔をしていた。


 クレアが「A国の対立なら、私も少し知っているわ」と言い出した。


「父上から聞いたことがあって。情報が歪んで伝わることで、実際には争う理由がないのに争っている、という話を。どちらの国も、相手が憎いわけじゃないのに、伝わってくる情報の澱みが対立を作り続けているって」


「もったいないね」


 アルスが静かに言うと、クレアが「……そうね。もったいないわ」と同意した。クレアがその言葉を使うのは、初めてだった。


「A国の問題は、魔導師団でも以前取り上げられたことがある」


 ゼノスが静かに言った。


「情報の澱みが外交の澱みになっている、という話が出たことがあった。ただ、当時の魔導師団にはそれを解決する手段がなかった。複雑な術式を磨くことしか、私たちは知らなかったから」


「外交の澱み、か」


 アルスが繰り返した。言葉として聞いたことがなかったが、確かにそういうものがある。情報が歪んで伝わることで、本来届くはずのものが届かなくなる。魔導書の中の澱みと、本質は同じだ。


「A国を次の目的地にしよう」


「どう整理するの? 術式の整理とは違うでしょう」


 エレナが聞いた。


「両方の話を聞いて、本質を見つけて、届ける形にする。魔導書と同じように、著者が本当に伝えたかったことを探す。ただ、今回の著者は国であり、人であり、長い時間をかけて積み重なってきた歴史だと思う」


 フィナが「なるほど」と頷いた。その頷き方が、理解した時のフィナの顔をしていた。難しいことを難しいまま受け取るのではなく、自分なりの言葉に置き換えて納得している。


「……あなたって、やっぱりすごいわね」


 クレアが静かに言った。


「どういうこと?」


「術式も、外交も、本質は同じだと言える。そういう見方ができるから、整理できるのかもしれないと思って」


 アルスは少し考えてから「そういうものかな」と答えた。意識したことがなかったので、そう言われてみると、そうなのかもしれないと思った。


 ◇


 その後すぐ、クレアが「私も行く」と言い出した。


 応接室が静かになった。エレナが「殿下……?」と言った。ハミルトが「え……?」と眼鏡をずらした。リディアが何も言わずにクレアを見た。フィナが「おお」と言った。


「外交の問題なら、王族として学べることがある。父上には……後で言うわ」


「殿下、それは順番が違いますよ」


 エレナが静かに、でもはっきりと言った。


「……わかったわ。先に言ってくる」


 クレアが素直に言った。フィナが「クレアさん、素直だ」と小声で言うと、クレアが「あなたに言われたくないわ」と返した。フィナが「でも本当のことだよ」と言った。クレアが「……まあ、そうかもしれないけれど」と俯いた。


 レオン三世への謁見は、その日の午後に設けられた。


 クレアが「父上、外交の勉強に行かせてください。アルス様のところで」と直接言うと、レオン三世が「がははは! いい度胸だ!」と豪快に笑った。しばらく笑ってから、「まあいいだろう。ただし、必ず報告書を持って帰ってこい。外交というものを、実際に見て、学んで、整理してこい」と条件をつけた。クレアが「はい」と真剣な顔で答えた。


 その後ろで、アルスがカイルとレオン三世の関係を思い出した。腐れ縁と言いながら、互いを信頼している二人。クレアを快く送り出す国王の顔が、いつもの豪快さの奥に、父親の顔を持っていた。


 ◇


 出発前夜、フィナが「メンバーが増えたね」と言った。


「うん」


「ヴァルナよりも大変そうだけど」


「そうかもしれない。術式の整理より、人の間にある澱みの方が、どこに本質があるかが見えにくいから」


「でも大丈夫だよ」


 フィナが静かに言った。


「みんないるから」


 その言葉が、一番本質に近かった。難しいことを難しく言わずに、ただそれだけで全部を言っている。みんながいれば、答えが見えにくくても、一緒に探せる。


 その夜遅く、セリスがアルスを書庫に呼んだ。


 整理された棚が、夜の静けさの中で並んでいた。著者の名前が記された目録が、ランプの光に照らされている。セリスが棚を見渡しながら、静かに言った。


「ここを出発するたびに、ちゃんと帰ってきてください」


「うん、ちゃんと帰ってくるよ」


「約束ですよ」


 その言葉が、また同じ言葉だった。最初にセリスが館長を引き受ける時に言った言葉と、同じ言葉が、また出てきた。変わらずに同じ言葉を使えるのは、その言葉が本質を持っているからだと思った。


「うん、約束」


 セリスが静かに頷いた。その目が、穏やかで、でも確かな色をしていた。


 ◇


 翌朝、出発の準備が整った。


 馬車に荷物を積み込み、全員が乗り込む。エレナ、リディア、フィナ、クレア、そしてアルス。ヴァルナへ向かった時より、一人増えていた。


 図書館の前で、セリスが見送っていた。ハミルトが「お気をつけて……! 必ずお帰りください……!」と眼鏡を拭きながら言った。その目が潤んでいた。


 馬車が動き出した。


 窓から振り返ると、白亜の図書館が夜明けの光の中で静かに輝いていた。セリスが一歩も動かずに、ただそこに立っていた。


(次の澱みへ行こう)


 その言葉が、脳内で静かに灯った。


 帰る場所があるから、どこへでも行ける。それが今の一番スッキリした一本道だった。

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