第55話:王都への帰還と、待っていた人たち
馬車が王都の石畳に入った瞬間、音が変わった。
柔らかい土道から、硬く乾いた石の上を転がる音へ。その音を聞くたびに、ここが王都だと体が思い出す。ヴァルナの広大な農地と静かな空気とは全く違う、建物と人と情報が密集した場所の音だ。
でも今日は、少し違う感覚があった。
以前は「来た場所」だったのに、今日は「帰ってきた」という感覚がする。王都に来たのは今回が初めてではないのに、「帰る場所」として感じるのは、今日が初めてだった。セリスがいて、ハミルトがいて、クレアがいて、図書館がある。そういう場所になっていた。
フィナが窓から顔を出して「あ、あそこの看板変わってる! 前と色が違う」と言った。
「そうかな」
アルスには気づかなかった。看板の色より、その向こうにある建物の情報が気になってしまう。フィナが引っ込んで「アルスくんって、看板より中身に興味あるもんね」と笑った。
「そういうこと?」
「そういうこと」
フィナが笑い続けた。エレナが「まあ、アルスくんらしいわ」と微笑んだ。リディアが「そうですね」と静かに同意した。
馬車が図書館の前の通りを通った。
白亜の石造りが、以前と変わらずそこにある。朝の光を受けて、静かに輝いている。整理された棚が、あの建物の中で本たちを抱えている。著者の名前が目録に並んでいる。セリスがそれを守っている。
(セリスさんが、守っているんだな)
その実感が、静かに胸に届いた。
◇
図書館に直接向かうと、入り口の前でセリスが立っていた。
いつもの銀縁の眼鏡をかけ、清潔な司書服を整えている。馬車が止まるのを見て、静かに近づいてきた。事前に連絡を入れていたわけではない。それなのに待っていた。
「いつ頃かと思って、今日から待っていました」
「今日から?」
「ヴァルナの整理が完了したと、ハミルト副館長宛に使者から連絡がありましたので。そこから王都まで、馬車でどのくらいかかるかを逆算して」
セリスが淡々と言った。でも、その目が少し嬉しそうだった。
「少し日に焼けましたね」
「ヴァルナは農地が多かったから、外にいる時間が長かったんだ」
「お体は大丈夫ですか?」
「うん、ちゃんと休んできたよ」
「……エレナ様とフィナ様のおかげですか?」
セリスが静かに聞いた。その聞き方が、知っていて確かめている人の聞き方だった。
「うん、二人に言われて」
「そうですか」
セリスが少し微笑んだ。
フィナが馬車から降りて「セリスさん!」と声をかけた。セリスが「フィナ様、お帰りなさいませ」と答えた。
「様はいらないって言いましたよ」
「……フィナさん、お帰りなさい」
「それがいい!」
フィナが笑った。セリスが「お帰りなさい」と言い直した、その言葉の重みが、フィナには届いていないかもしれないが、アルスには届いた。セリスが「お帰り」と言える場所として、ここを守ってくれていた。
◇
図書館の中に入った。
変わらずに整理された棚が並んでいた。著者の名前が記された目録が、棚の前に静かに置かれている。禁書エリアの扉も、静かに閉まっている。でも、最初に入った時の重い空気はない。ちゃんと整理された場所の、澄んだ空気がある。
よく見ると、棚の一冊一冊が、以前よりさらに丁寧に並んでいた。埃が一点もない。本の背表紙の向きが、全部揃っている。セリスが毎日手入れをし続けている跡が、棚の隅々に見えた。
「約束、守ってくれてたね」
「もちろんです。帰ってくる場所があることが条件でしたから。変わらずにあること、ちゃんと守りました」
セリスが真っ直ぐに言った。その目に、「約束ですよ」と言った時と同じ、確かな色があった。
その時、書庫の奥から足音が聞こえてきた。
「アルス様ーー!! お帰りになりましたかーー!! ヴァルナはいかがでしたかーー!! お体は大丈夫でしたかーー!!」
ハミルトが走ってきた。眼鏡がずれたまま、手にしていた書類が扇のように広がっている。セリスが「館長、落ち着いてください。書類が」と静かに制した。ハミルトが「失礼しました……! でも、アルス様が……!」と言いながら、眼鏡を直した。
そこへ、入り口の扉が開いた。
「図書館が開いたら来ると言ったでしょう」
クレアだった。王家の正装ではなく、落ち着いた色合いの普段着を纏っている。それでも背筋は真っ直ぐで、入ってくる時の足取りに王女としての気品があった。
「今日開いているとは知らなかったはずでは?」
セリスが静かに聞いた。
「偶然通りかかったの」
「今日だけで三回通りかかりました」
後ろについてきた侍女が、小声でそっと言った。
「……聞こえてるわよ」
クレアが侍女を振り返った。侍女が「申し訳ありません」と頭を下げたが、その口元が少し笑っていた。
フィナがクレアのそばに近づいていった。
「クレアさんですよね? アルスくんから聞いてました!」
「……何を聞いていたの」
クレアが少し緊張した顔で聞いた。
「知識で判断したいって言ってる王女様だって。すごいなって思って」
クレアが、少し間を置いた。それからアルスを見た。
「……そういうことを伝えているのね」
「本当のことだから」
クレアの頬が、かすかに赤くなった。フィナが「あ、照れてる」と言ったので、クレアが「照れてないわ」と言った。フィナが「絶対照れてる」と言い返した。クレアが「……あなたって、直接的な子ね」と言って、少し俯いた。
その時、また扉が開いた。
ゼノスだった。重厚な法衣を纏い、ぶっきらぼうな足取りで入ってきた。
「帰ったと聞いた」
リディアがゼノスの前に進み出た。
「師匠、報告があります。ヴァルナで、私の術式が農地で機能しました。著者の発見と合わさって、水が農地全体に均等に届きました」
リディアが真剣な顔で報告した。ゼノスがリディアを、上から下まで静かに見た。
「……顔つきが変わったな」
「師匠のおかげです。整理していただいたものが、実際に誰かの役に立ちました」
ゼノスが「そうか」と短く言って、それ以上は何も言わなかった。でも、その目が穏やかだった。師弟の間に流れる静かな満足感を、アルスは離れたところから静かに見ていた。
◇
夜、全員で図書館近くの食堂に向かった。
セリス、ハミルト、クレア、ゼノス、エレナ、リディア、フィナ、そしてアルス。大きなテーブルを囲んで、全員が座った。
エレナが「こんなに揃うのは久しぶりね」と言った。ハミルトが「本当に……!」と感極まった。クレアが「私はそれほど親しくないけれど」と言いながら、特に席を外そうとはしなかった。ゼノスが「賑やかだな」と言いながら、料理を静かに食べ始めた。フィナが「セリスさん、ヴァルナに白い花が咲いたんですよ!」と話しかけると、セリスが「……本当ですか?」と目を輝かせた。
アルスは、テーブルを囲む全員の顔を静かに見渡した。
こんなに人が集まっている。それぞれが違う形で、この旅や整理に関わってきた人たちが、今夜一つのテーブルにいる。セリスは図書館を守り続けて、ハミルトは副館長として支え続けて、クレアは三回も通りかかって、ゼノスはリディアを見届けに来て、エレナとリディアとフィナは一緒に旅をした。
(整理しなくていい場所が、増えていく)
その言葉が、脳内で静かに灯った。
村にはカイルとリーサがいる。王都にはこの人たちがいる。ヴァルナにはミアと子供たちがいる。それぞれの場所に、整理しなくていい温かさがある。旅を続けるほどに、そういう場所が増えていく。
食事が終わって、全員で図書館の前に出た。
夜の白亜の建物が、静かに立っていた。ランプの明かりが窓から漏れていて、建物が内側から光っているように見えた。
「次はどこに行くの?」
フィナがまた聞いた。旅の間、何度も同じように聞いてきた。その度に、アルスが答えてきた。
「まだ決めてないよ。でも、行く先に澱みがあれば整理しに行く。届かないものがあれば届けに行く。それだけ」
「じゃあ、また一緒に行こう」
フィナが小指を出した。
アルスはその小指に、自分の小指を絡めた。
「うん、また一緒に」
あたたかい。村の庭で繋いだ時も、王都の広場で繋いだ時も、ヴァルナを出発する馬車の中でも、いつも同じ温かさがある。
白亜の図書館が、夜の中で静かに輝いていた。
次の場所へ、また行こう。帰る場所があるから、どこへでも行ける。それが、今の一番スッキリした一本道だった。




