第52話:ヴァルナ王との謁見と、知識の連鎖
農業魔法の指導が軌道に乗り始めた頃、使者が宿を訪ねてきた。
「国王陛下が、ぜひアルス様にお会いしたいとのことで」
「わかった、伺うよ」
翌日の謁見に向けて、エレナが準備を始めた。旅の荷物から正装を取り出し、「ちゃんと整えなければ」と鏡の前で確認している。その様子が、カイルの家でリーサとリーサに初めて挨拶した時と少し似ていた。
「私も行っていい?」
フィナが聞いた。
「もちろん」
「王様に会うの、初めてだ!」
フィナが目を輝かせた。エレナが「殿下を前にしても、そのまま話しかけないでね」と一応言うと、フィナが「わかった!」と元気よく答えた。エレナが「……わかった、と言える子ほど心配なのよ」と小声で呟いたが、フィナには聞こえていなかったようだった。
◇
ヴァルナの王城の謁見室は、レグリア王城の黄金の食堂とは全く違う空間だった。
質素で、でも清潔に保たれた石造りの部屋。装飾は少なく、必要なものだけが置かれている。情報のノイズが少ない空間だと、入った瞬間に感じた。
玉座に座っていたのは、五十代くらいの男性だった。
ガイウス王。穏やかな目をしている。レオン三世のような豪快さや威圧感とは全く違う、静かに相手を見る目だ。農民出身という噂を、エレナから道中に聞いていた。その目が、確かに民の生活を知っている人間の目をしていた。
「アルス殿、来てくださって感謝する。百年越しの問題を解決してくださった。国として、礼を申し上げたい」
「礼はいりません。著者が伝えたかったことを届けただけですから」
ガイウス王が、少し驚いた顔をした。礼を受け取らない答えが、予想外だったのかもしれない。しばらく沈黙してから、「……そうか」と静かに言った。
「農地の変化は、もう見てもらったかね?」
「はい。水が均等に届き始めています。リディアさんが、ヴァルナの魔法使いたちに指導してくれているので、自分たちで使えるようになると思います」
「リディア殿には、我々も感謝している。……アルス殿、一つ聞いてもいいか」
「どうぞ」
ガイウス王が、少し前に身を乗り出した。
「なぜ、ヴァルナまで来てくれたのだ。王都から遠く、子供には負担も大きかったはずだ。礼もいらないというなら、何のために」
「もったいないから、です」
「もったいない?」
「著者がちゃんと伝えたかったことが、届かないままなのがもったいなくて。百年間、農地の人たちが育つかどうかわからないまま仕事を続けていたのがもったいなくて。それだけです」
ガイウス王が、また少し黙った。
それから、少しだけ表情が変わった。玉座に座った王としての顔ではなく、一人の人間として話している顔だった。
「実は……長年この問題が解決できなかったことで、民の信頼を失ってきたと感じていた。王として、何もできないまま時間だけが過ぎていく、もどかしさがあって」
「それは、もったいないですね」
「もったいない、か」
「王様が民のことをちゃんと考えていたのに、届く手段がなかっただけで。その気持ちが届かないままになっていたのが、もったいないと思って」
ガイウス王が静かに頷いた。
その時、ガイウス王がフィナの方を向いた。謁見の間ずっと、緊張した様子もなく静かに座っていたフィナを、少し不思議に思っていたのかもしれない。
「あなたはどう思う?」
「え、私ですか?」
「ああ、せっかく来てくれたのだから」
フィナが少し考えてから、真っ直ぐに答えた。
「農地のお花が咲いたら、もっと人が笑顔になると思います! 子供たちも、今年は絶対咲くって言ってたので」
ガイウス王が「……そうだな」と言って、静かに笑った。謁見の場でめったに見せない顔をしていると、横に立っていた文官が少し驚いた顔をしていた。
「アルス殿、一つお願いがある」
「はい」
「この国にも図書館を作りたいと思っている。王都の図書館のような、知識が誰でも届く場所を。この農業魔法の術式だけでなく、様々な知識が民に届く場所が、ヴァルナにも必要だと感じている」
「セリスさんに相談してみます。王都の図書館を守っている人がいるので、その方に伝えます」
「ぜひ、お願いしたい。あなたたちが届けてくれたものを、次は私たちが守り続けられる仕組みを作りたいのだ」
ガイウス王の言葉が、静かに届いた。
届けた知識を、今度はその土地の人たちが守り続ける。それが、整理の本当の完成なのかもしれない。
◇
宿に帰る道、フィナが「ガイウス王様、優しそうだったね」と言った。
「農民出身だと聞いたことがあるわ。だから民の生活に近いのかもしれないわね」
エレナが答えた。
「レオン三世とは全然違うね」
「ええ。どちらも本物の王だけれど、形が違うわ。レオン三世は力で道を切り開く王で、ガイウス王は民の声を聞いて道を探す王なのかもしれない」
エレナの言い方が、珍しく整理されていた。アルスが「エレナさん、そういうこと上手く言えるんだね」と言うと、エレナが「当然でしょう、熟練魔法使いとして長く大陸を見てきたから……って、どういう意味かしら」と首を傾げた。フィナが「褒めてたんだと思うよ」と笑った。
◇
宿に戻って、アルスはセリスへの手紙を書いた。
『セリスさん、ヴァルナの整理が少しずつ進んでいます。ヴァルナ王が、この国にも図書館を作りたいと言っています。セリスさんに相談したいことがあるので、手紙を待っています。農地に水が届いて、子供たちが今年は絶対お花が咲くと言っていました』
書き終えて、少し考えてから一行付け足した。
『約束、覚えています。ちゃんと帰ります』
封をしながら、セリスの顔を思い出した。「約束ですよ」と言った時の、静かで、でも確かな目を。
「セリスさんに手紙書いてるの?」
フィナが隣に来て、封をした手紙を見ながら言った。
「うん」
「セリスさん、喜ぶかな」
「うん、喜ぶと思うよ」
「……セリスさんって、アルスくんのこと好きだよね」
フィナがさらっと言った。
耳が熱くなった。
「フィナ……」
「だって本当のことだもん」
フィナが笑った。悪びれていない、ただ本当のことを言っている顔だった。
手紙を机の隅に置いた。
窓の外に、ヴァルナの星空が広がっていた。村の星空と似ているような、少し違うような。同じ星が、場所が変わると少しだけ違って見える。
セリスの図書館が、ヴァルナとも繋がる。著者の知識が、もっと遠くまで届く。整理した知識が、連鎖して広がっていく。それが、届けることの本当の意味かもしれない。
(ちゃんと帰ろう)
その言葉が、脳内で静かに灯った。
星空が、静かに広がっていた。




