第53話:ヴァルナの花と、届いた景色
ヴァルナに来てから、数日が経っていた。
朝、農地へ向かうと、景色が少し変わっていた。水が届くようになった区画で、作物が育ち始めている。乾いていた土が色を変えて、植物の根が水を受け取り始めた証拠を、あちこちに見せていた。水路の流れも、数日前とは違う。澱んでいた場所が、少しずつ動き始めていた。
農地の端まで来た時、フィナと一緒にいた子供たちが声を上げた。
「咲いた!!」
農地の端に、小さな白い花が咲いていた。昨日まではなかったものが、今朝そこにある。風が吹くたびに、細い茎が揺れている。
「絶対咲くって言ってたもんね」
フィナが子供たちに笑いかけた。男の子が「うん!」と嬉しそうに答えた。女の子が「もっと咲くかな」と言いながら、花の周りをぐるりと歩いた。
ミアが農地の端で、その光景を見ていた。
「こんなに早く……。水が届いただけで、こんなに変わるんですね」
「土地が本来持っていた力が出てきたんだと思います。澱みが取れると、本質が現れる」
リディアが静かに言った。農地を見ながら、でもその目は少し違うところを見ていた。師匠の術式を本質から受け取れた日のことを思い出しているのかもしれなかった。
◇
その日の午前中、エレナが魔導具の最後の調整をしていた。
農地全体に水の流れを安定させる仕組みを、倉庫から出した古い魔導具と今回の術式を組み合わせて整えていた。農業用の魔導具と農業魔法が、初めてちゃんと連動している。エレナが「これで、私がいなくても機能し続けるわ」と言った時、その声に満足感があった。
「エレナさん、農村出身だから農業魔法に思い入れがあるんだね」と言うと、エレナが「……そうかもしれないわ」と静かに答えた。昨日の話の続きが、その一言に込められていた。
リディアはヴァルナの魔法使いたちへの最後の指導をしていた。
「あとは自分たちでできますか?」
「はい、やってみます」
ヴァルナの魔法使いの一人が、清書された術式の紙を手に、真剣な顔で頷いた。リディアが「一度やってみせましょうか」と言って、実証してみせると、その魔法使いが「……同じようにやります」と言って試みた。最初は少し流れが偏ったが、二度目で均等に広がった。
「できました」
「はい、できていますよ」
リディアが静かに頷いた。それから「師匠に報告できます」と小さく言った。ゼノスに送る手紙の内容が、頭の中で整理されているのだろう。
農地の端では、フィナがミアと押し花を作っていた。
今日咲いた白い花を使っている。フィナが丁寧に道具に挟みながら、「ヴァルナで最初に咲いた花だから、記念に」と言った。
「もらっていいですか?」
「もちろん! ミアさんのために作ってたんだよ」
ミアが押し花を受け取って、丁寧に手の中で包んだ。その表情が、王都で会った時とは別人のようだった。涙をこぼして「来てくださったんですか」と言っていた人が、今は花を受け取って笑っている。
◇
夕方、全員が宿に集まった。
「明日、出発しよう」
アルスが言うと、エレナが「準備はできているわ」と答えた。リディアが「はい」と短く言った。フィナが「ヴァルナ、また来たいな」と窓の外を見ながら言った。
その夜、ミアが最後の挨拶に来た。
「短い間でしたが……本当にありがとうございました」
「こちらこそ。届けられてよかった」
ミアがアルスを見て、それからフィナを見た。
「フィナさんにも、お礼を言いたくて。子供たちが、またフィナさんに会いたいって言っています。押し花を教えてもらったことを、ずっと話しているみたいで」
「また来るよ! 絶対来る!」
フィナが迷いなく言った。ミアが「……待っています」と言って、笑った。今日一番の笑顔だった。
◇
ミアが帰った後、アルスは荷物の整理をした。
フィナが近づいてきて、小さな包みを差し出した。
「アルスくんにも。ヴァルナで最初に咲いた花だから」
包みを開けると、今朝農地の端で咲いていた白い花の押し花が入っていた。村の白い花と似ているようで、少し違う形をしていた。同じ白でも、土地が違えば花も違う。
「ありがとう」
「旅先で見つけたものを、ちゃんと持ち帰りたくて」
荷物の中に、丁寧に入れた。セリスの旅の記録の本、村の白い花の押し花、そしてヴァルナの白い花の押し花。整理しなくていいものたちが、荷物の一番大切な場所に並んだ。
窓の外に、ヴァルナの農地が夜の中に広がっていた。
昼間の賑やかさとは違う、静かな農地。でも、水路の水が動いているのがわかる。音はしないが、流れている。著者が百年前に伝えたかったことが、今日この農地に根付いていた。
(もったいないが、届いたに変わった)
その言葉が、脳内で静かに灯った。
農地に花が咲いて、子供たちが笑顔になった。ミアが笑えるようになった。著者の百年前の発見が、今日の景色を作った。整理の先に、こういう景色がある。それが今日、はっきりと見えた。
「また次の場所へ行こう」
声に出すと、窓の外の農地が静かに広がっていた。
明日の朝、ヴァルナを出発する。次にどこへ向かうかは、まだ決まっていない。でも、行く先に澱みがあれば、整理しに行く。届かないものがあれば、届けに行く。それだけで十分だと、今は思えた。




