第34話:リディアの術式と、師匠への手紙
朝、作業を始めようとした時、リディアが珍しく先に声をかけてきた。
いつもは僕が書庫に来るのとほぼ同時に実証記録の準備を始めているリディアが、今日は机の前に立ったまま、何かを言いかけては口を閉じている。その表情が、師匠の術式を初めて整理してもらう前の、緊張した顔に似ていた。
「アルス様、今日少しお時間をいただけますか。お願いしたいことがあって」
「うん、どうぞ」
「師匠から受け継いだものではなく……私自身が考えた術式を、見ていただけますか」
リディアが、そう言った。
自分自身の術式。師匠の発見でも、魔導書の著者の発見でもなく、リディア自身が辿り着いたもの。その言葉の重さが、静かに伝わってきた。
「もちろん」
「……ありがとうございます」
リディアが小さく息を吐いた。ずっと言い出せなかったことを、ようやく言えた顔をしていた。
「実証役として図書館に来てから、ずっと自分でも考えていたんです。師匠の術式を整理していただいて、本質を受け取ってから……自分の本質は何かを、考えるようになっていて」
「どんな術式を考えたの?」
「水の術式です。師匠の複合術式を実証した時から、水の流れが一番しっくりくる感覚があって。流れるものが好きで……それで、水だけを使った、自分だけの術式を」
リディアが話しながら、少しだけ表情が柔らかくなった。師匠の術式について話す時の、敬愛と緊張が混ざった顔ではない。自分が好きなものについて話している時の顔だった。
◇
書庫の一角に、二人で向かい合って座った。
リディアが目を閉じ、術式を発動しようとした。
水の流れが、指先から広がり始めた。師匠のような複雑な手順はない。ただ、自分の中にあるイメージを、そのまま外に出そうとしている。
ただ、発動するまでに、少しだけ間があった。水の流れが始まりかけて、一瞬揺れる。また始まりかけて、また揺れる。迷いが、流れの中に滲んでいた。
それでも、術式は完成した。水が複数の方向に同時に広がり、それぞれの場所に均等に浸透していく。一か所に集中するのではなく、同じ力を均等に分散させる。師匠の術式にはなかった発想だった。
僕は脳内で、その術式を丁寧に読み解いた。
確かな発見がある。水の「浸透していく流れ」を応用して、複数の場所に同時に浸透させる。それはリディアが自分で辿り着いたものだ。魔導書のどこかに記されていたものではなく、師匠から教わったものでもない。
ただ、一か所だけ、流れが揺れる場所があった。
「リディアさんの術式、本質はほとんど澱みがないよ」
リディアが「え?」と顔を上げた。
「ただ、一か所だけ迷いがある。ここの流れが、少し揺れてる。発動する直前に、一瞬だけ」
「……わかりますか」
「うん。本質はちゃんとあるのに、自分の発見だから自信が持てなくて、迷いが出てしまっているんだと思う。その迷いが、水の流れに滲んでいる」
リディアが黙った。図星だったのだろう。
「……師匠に教わったものは信頼できるんです。師匠が積み上げてきたものだから、正しいと思って使える。でも、自分で考えたものは……本当に正しいのかどうか、わからなくて。誰かに確かめてもらうまで、ずっと不安で」
「それは、魔導書の著者たちが最初に発見した時と、同じだよ」
「……著者たちと、同じ?」
「うん。初めて何かを発見した時は、誰でも迷う。本当にこれでいいのかって。でも、その迷いを含めて記録に残してくれたから、後の人たちが辿り着けるんだ。著者の迷いの跡が、道しるべになっている」
リディアが「……私の迷いも、記録になりますか」と聞いた。
「なるよ。リディアさんが今日迷ったことが、後で誰かの道しるべになるかもしれない」
リディアが、しばらく自分の指先を見つめた。水の流れが揺れた場所を、確かめるように。
「……もう一度、試してみます」
「うん」
リディアが目を閉じた。今度は、迷いを「横に置いて」という感じで、静かに息を吸い込んだ。師匠の手順でもなく、誰かに確かめてもらう必要もなく、ただ自分の中にある発見を、そのまま外に出す。
水の流れが、指先から広がった。
複数の方向に、同時に、均等に。一点の揺れもなく、ただ静かに、確実に広がっていく。前回よりもずっと澄んでいた。
「……できた」
リディアが小さく言った。自分で発した言葉なのに、信じられないような顔をしている。
僕は羽ペンを手に取り、清書を始めた。リディアの術式の本質を、誰でも辿れる形に記していく。迷いを取り除いた、水の流れの核心だけを。
清書が終わると、著者欄に「リディア」と書いた。
紙をリディアに渡した。
「これ、リディアさんの発見だから」
リディアが紙を受け取り、自分の名前が記された著者欄を見た。
動かなくなった。
師匠の名前を目録に残してほしいと頼んだあの日、リディアは「師匠に伝えます」と声を震わせていた。あの日と立場が逆になって、今度は自分の名前がそこにある。
「……師匠に、見せたいです」
その声が、微かに震えていた。
◇
その日の午後、リディアはアルスの作業机の隣に座って、ゼノスへの手紙を書いた。
何度も書き直していた。書いては止まり、また書き始める。師匠への手紙は、いつも緊張すると言っていたから、今日は特にそうなのだろう。
「難しい?」
「……師匠に何かを報告するのは、いつも緊張するんです。師匠は厳しい方なので」
「ゼノスさん、厳しいんだね」
「はい。でも……王宮で崩れ落ちてから、少し変わった気がします。あの日以来、私への言葉が少しだけ柔らかくなって。以前なら指摘だけだったところが、最近は理由も説明してくださるようになって」
「そうなんだね」
「……アルス様が整理してくださったのは、師匠の術式だけじゃなかったんだと思います。師匠の中にあった何かも、あの日一緒に整理されたんじゃないかって」
リディアがそう言って、また手紙に向き直った。その横顔が、師匠への敬愛と、新しい何かが混ざった、柔らかいものだった。
しばらくして、リディアが「……書けました」と言った。
「どんなこと書いたの?」
リディアが少し照れたように視線を落とした。
「私の術式が清書していただけたこと、著者として名前を残してもらったこと。それから……師匠の術式を本質から受け取れたのは、アルス様のおかげだということを。師匠にも知っておいてほしくて」
手紙を封に入れる手が、丁寧だった。
◇
数日後、ゼノスから返事が届いた。
リディアが封を開けて読み、しばらく動かなかった。それから、手紙を胸に抱えた。
「何て書いてあったの?」
「……『よくやった。お前の術式を清書してもらえたなら、それはお前の発見が本物だということだ。誇りに思え』と」
短い言葉だった。でも、ゼノスらしかった。複雑な飾りも、長い説明も何もなく、伝えたいことだけが真っ直ぐに記されていた。
「師匠も、整理されてきたのかもしれないね」
リディアが「……そうですね」と言って、静かに笑った。
その様子を、少し離れた場所からエレナが見ていた。封印解析の作業を一時止めて、珍しく穏やかな目をしている。
「……リディア、よかったわね」
「……はい」
リディアが素直に答えた。いつもなら探り合うような空気が流れるところが、今日は違った。エレナの言葉に棘がなく、リディアの返事に警戒がない。二人の間の空気が、またひとつ柔らかくなっていた。
◇
その夜、リディアは宿に帰りながら、清書された術式の紙を鞄から取り出した。
「著者:リディア」と記された著者欄を、窓の灯りの下で見つめた。
師匠から受け継いだものではなく、自分が辿り着いたもの。迷いながら、でも確かに手の中にある発見。それが今日、誰かに届く形になった。
(……私にも、本質があった)
その言葉が、脳内で静かに灯った。
窓の外で、王都の夜が静かに更けていく。紙を丁寧に折りたたみ、師匠からの手紙と一緒に大切にしまった。
明日も、図書館へ行こう。
整理することも、実証することも、迷うことも、全部続けていこう。それがいつか、誰かの道しるべになるから。




