第35話:限界の気配と、母の手
朝、書庫に入ると、セリスが作業の準備をしながら静かに声をかけてきた。
いつもなら僕が来るのと同時に目録の作業を始めているセリスが、今日は手を止めてこちらを向いている。その表情が、普段より少し真剣だった。
「アルス様、少しよろしいでしょうか」
「うん、どうぞ」
「最近、作業の後半に……魔力の実証がうまくいかないことが増えていますね」
その言葉が、静かに届いた。
気づいていなかったわけではない。ここ一か月ほど、午後になると脳内での組み立てに時間がかかるようになっていた。以前は一瞬で見えていた術式の本質が、今は少し待たないと見えない。最小の実証を試みても、指先の感覚が午前中とは微妙に違う。ただ、作業を止めるほどではなかったし、誰かに言うほどのことでもないと思っていた。
「……気づいてたの?」
「はい。一か月ほど前から。午前中は問題ないのですが、午後になると実証の精度が少し落ちていて。魔力の消耗が積み重なっているのだと思います」
セリスが淡々と、でも確かな観察に基づいて話している。毎日この場所で同じ作業を見続けてきた人間の目が、僕の変化を捉えていた。
「……そうかもしれない。最近、脳内で組み立てるのに少し時間がかかるようになってきて。以前は一瞬で見えていたものが、今は少し待たないと見えないことがある」
「なぜ言ってくださらなかったんですか」
セリスの声は穏やかだったが、その言葉にははっきりとした重みがあった。
「……心配をかけたくなかったから」
セリスが「アルス様」と小さく呟いた。それから少しの間を置いて、「リーサ様にお伝えします」と言った。有無を言わさない、静かな決断だった。
◇
セリスが状況をエレナとリディアに伝えたのは、それから間もなくのことだった。
エレナが書庫に飛び込んできた。
「アルスくん! どうして言ってくれなかったの! あなたが無理をしていたなんて、私、全然気づかなくて……! 一番近くで見ていたはずなのに……!」
エレナが胸を押さえ、崩れ落ちそうになった。その瞬間、リディアが「エレナ様、今は落ち着いてください」と珍しく制した。エレナが「でも……」と言いかけると、リディアが「崩れている場合ではないと思います」と静かに、しかしはっきり言った。エレナが「……そうね」と、かろうじて踏みとどまった。
リディアがアルスの方を向いた。
「アルス様、今日の午後の実証は私が補助します。脳内で組み立てた後、すぐに実証しようとせず、一度私に説明してから実証してみてください。説明することで整理が深まることがあるので、消耗を少し抑えられるかもしれません」
「……ありがとう、リディアさん」
「私も何かできることがあるはずで……!」とエレナが身を乗り出すと、セリスが「エレナ様には封印解析を引き続きお願いします。それが一番の助けです」と静かに言った。エレナが「……わかったわ」と渋々頷いた。その顔が、納得はしていないが反論もできない、という表情をしていた。
しばらくして、ハミルトが書庫に飛び込んできた。
「アルス様!! 大丈夫ですか!! もしよければ今日はお休みを……! いえ、数日でも……!」
「大丈夫だよ、ハミルト館長。ただ少し調整が必要なだけで」
「でも、でも……! アルス様に何かあっては……!」
ハミルトが眼鏡をずれたままにして、書庫の中をうろたえながら歩いている。セリスが「館長、落ち着いてください」と声をかけ、ハミルトが「そうですね、落ち着かなければ……でも……!」と繰り返している。
◇
その日の夕方、図書館の入り口にリーサが現れた。
穏やかな笑顔で、でも来る必要があると判断したら迷わず行動する人らしく、旅の疲れも見せずに立っていた。
「アルス、来たわよ」
「母さん、早かったね」
「セリスさんから手紙をもらったら、急がないわけにいかないでしょう」
リーサがセリスの方を向き、丁寧に頭を下げた。
「教えてくれてありがとう、セリスさん。この子は心配かけまいとして黙っているから」
「……はい、そのようで」
セリスが静かに答えた。二人の間に、言葉以上のものが流れた。同じ人間を同じ方向から見てきた人たちの、穏やかな連帯感だった。
リーサがアルスの前に座り、両手を軽く差し出した。
「手を貸しなさい」
両手を差し出すと、リーサがそっと包んだ。賢者としての魔力感知で、状態を確かめているのだろう。しばらく目を閉じていたリーサが、静かに口を開いた。
「魔力の枯渇ではないわ。でも、消耗の積み重ねね。子供の体は、大人の思考速度についていけないことがある。脳内での整理作業が、体の許容量を少し超えているの」
「……そうか」
「アルス、一つだけ聞かせて」
「うん」
「今、楽しい?」
その問いが、静かに届いた。
楽しいかどうか。無理をしていたかどうかではなく、今楽しいかどうかを聞いている。リーサらしい問いだと思った。
「楽しいよ。毎日著者の発見に触れられて、本質が見えた時の感覚が好きで。著者が一生懸命考えたことが、整理されてちゃんと届く瞬間が、いつも気持ちいいんだ」
「じゃあ、その楽しさを長く続けるために、今日は早く帰りなさい」
リーサが、有無を言わさない穏やかな声で言った。母親として、賢者として、両方の確信を持った言葉だった。
◇
帰り支度をすると、エレナが「私が送っていくわ」と言い張り、セリスが「私が送ります」と言い張り、リディアが「私も……」と言いかけた。
リーサが三人を見渡して、穏やかに「私が連れて帰るわ」と言った。
三人が「……はい」と同時に引き下がった。リーサの一言が、書庫の空気をそっと静めた。
帰り道、王都の石畳を二人で歩いた。夕暮れの光が通りを橙色に染めている。
「母さん、心配かけてごめん」
「謝らなくていいわ。ただ、次からは言いなさい。誰かに話すだけで楽になることがあるから。あなたが黙って抱えていると、周りの人たちも心配していることを伝えられなくて、もったいないでしょう」
「……うん」
もったいない、という言葉がリーサの口から出てきたことが、少し可笑しかった。でも、確かにその通りだと思った。
宿に戻ると、机の上にカイルからの手紙が置かれていた。
封を開けると、父さんらしい大きな文字が便箋いっぱいに広がっていた。
『アルスへ。セリスさんから連絡があった。お前が無理をしていると聞いて、父さんは心臓が止まりそうになった。でも、セリスさんと母さんがいるなら安心だ。ちゃんと休め。飯も食え。それだけだ』
最後の一行だけが、いつものカイルらしかった。
手紙を丁寧に折りたたんで、引き出しに入れた。
机の前に座り、部屋を静かに見渡した。
セリスが一か月前から気づいていた。リディアが補助の方法を考えてくれた。エレナが書庫に飛んできた。リーサが来てくれた。カイルが手紙を書いた。ハミルトがうろたえながら心配してくれた。
誰も、何も言わなくても、見ていてくれていた。
(一人じゃなかったんだ)
その言葉が、脳内で静かに灯った。
机の隅のフィナの花の絵に目を向けた。青い花が、ランプの光を受けて柔らかく輝いている。
みんなへの感謝が、胸の中で温かく広がっていた。整理しようとしても、整理できない種類の温かさが。それでいいと思った。整理しなくていいものだから。
「明日からまた、ちゃんとやろう」
声に出すと、その言葉は静かに部屋の空気に溶けていった。
ランプの光が、穏やかに揺れている。机の上は、どこまでも真っ白で、美しかった。




