第33話:女神の降臨と、整理できない気持ち
その朝は、何の前触れもなかった。
エレナが上級術式系の封印解析に集中し、セリスが目録を更新し、リディアが実証記録をまとめている。ハミルトが外部からの問い合わせ対応の書類を抱えて書庫を行き来している。いつも通りの、静かな午前だった。
その静けさが、一瞬で消えた。
書庫の中央から、黄金の光が降り注いだ。
エレナが封印解析の手を止めて「え……!?」と固まった。セリスが目録を取り落とした。リディアが実証記録から顔を上げ、目を細めて光の中心を見つめた。ハミルトが書類を抱えたまま「またですか……!」と頭を抱えた。
光の中から、白銀の衣を纏った女神が現れた。
ルナミスだ。国王謁見の場に降り立った時と同じ神々しい佇まいだが、今日は少し違う。その表情が、いつもの女神としての威厳よりも、何かを決意してきた人間のものに近かった。
「アルス、少し話せますか。……脳内ではなく、直接」
「どうぞ」
ルナミスが「あの……皆さんの前で話すのは少し……」と言いかけた瞬間、エレナが前に出た。
「女神様がアルスくんに直接……! この場面、全方位から記録しておくわ! 後世に伝えるべき光景よ……!」
「エレナ様、静かにしてください」
セリスが落ち着いた声で制した。リディアが「……師匠に伝えた方がいいですか?」と小声で聞いてくる。ハミルトが「い、いや、まずは落ち着いて、皆さん落ち着いて……!」と右往左往している。
ルナミスが書庫を見渡し、一度目を閉じた。それから、覚悟を決めた顔で言った。
「……いいです、話します。皆さんの前でも」
その頬が、かすかに赤かった。
◇
「転生した時に言い忘れたことがあって、ずっと気になっていたんです。まず、この世界の魔力の循環について説明すると……」
「まとめてから来てくださいと伝えましたよね」
ルナミスが「まとめてきました! 今日は三点だけです」と言った。
僕は少し驚いた。いつもなら「まとめてから」という言葉を言い終わる前に話し始めるのに、今日は本当に三点に絞ってきたらしい。
「では、どうぞ」
「……え?」
「三点にまとめてきたなら、聞くよ」
ルナミスが少し焦った顔をした。あっさり聞いてもらえるとは思っていなかったのだろう。小さく咳払いをして、改めて口を開いた。
「第一に、古代語の解読は禁書エリアへの鍵になります。第二に、禁書エリアに触れられるのはアルスが十歳を過ぎた頃です。第三に……その時、私が一緒にいます」
三つの点が、過不足なく届いた。
「ありがとう、わかったよ」
ルナミスが「……ちゃんと聞いてもらえた」と、力が抜けたように呟いた。
「まとめてくれれば、いつもちゃんと聞くよ」
「……っ」
ルナミスが言葉に詰まった。女神としての威厳と、何か別のものが、その表情の上で混ざり合っている。
その時、エレナが我慢できずに割り込んだ。
「女神様、一つ聞いていいですか」
「……なんでしょう」
「アルスくんのことを、どう思っていらっしゃるの?」
書庫が静まり返った。
セリスが「エレナ様」と静かに窘めた。リディアが「……空気が重くなりましたね」と小声で言った。ハミルトが「え、え? どういう状況ですか、これは……?」と書類を抱えたまま固まっている。
ルナミスが、しばらく沈黙していた。
その沈黙が、長かった。神としての答えを探しているのか、それとも言葉にすること自体に時間がかかっているのか、目を伏せたまま動かない。
やがて、静かに口を開いた。
「……整理できない気持ちです」
エレナが「え?」と聞き返した。
「私の中にある、アルスへの気持ちが……どう整理すればいいかわからなくて。神としての役割上、ただ見守るべきなのか、あなたの側にいたいのか、どちらが正しいのか。ずっと整理できないまま、神界でずっと……」
ルナミスが言葉を止め、アルスを見た。
「あなたなら……整理できますか? 私のこの気持ちを」
書庫の全員が、僕を見た。
僕は少し考えてから、答えた。
「整理しなくていいと思うよ」
「……え?」
「整理しなくていいものがあるんだ。フィナの隣にいる時間とか、母さんのクッキーとか、セリスさんの本棚とか。整理しようとすると本質が変わってしまうものが、確かにある。整理することが、必ずしもいいとは限らない。女神様の気持ちも、そういうものかもしれない」
ルナミスが動かなくなった。
白銀の衣が、書庫の灯りを受けて静かに輝いている。その目が、少しずつ潤んでいくのが見えた。
「……整理しなくていい」
その言葉を、噛みしめるように繰り返した。
「アルスくんが、整理しなくていいと言ってくれるなら……私、このまま持っていていいんですね。この気持ちを、整理しないまま」
「うん」
ルナミスが崩れ落ちた。
女神としての威厳が霧散し、その場に膝をついて、両手で顔を覆った。泣いているのか笑っているのか、肩が小さく震えている。
書庫が、また静まり返った。
エレナが「……ずるいわ」と呟いた。その声が、いつもより少し低かった。
セリスが静かに俯いた。目録を持つ手が、わずかに握り締められている。
リディアが「……同じことを言ってもらった人が、この場に複数いますね」と小声で言った。
ハミルトが「皆さん……皆さん大丈夫ですか……!」と右往左往している。
◇
しばらくして、ルナミスが立ち上がった。
目元を拭い、白銀の衣の乱れを整える。それから深呼吸をして、女神としての佇まいを取り戻した。ただし、頬の赤みだけは消えなかった。
「……一つだけ、聞いていいですか」
「うん」
「私が降臨した時、迷惑でしたか」
僕は少し考えた。
「迷惑じゃないよ。ただ、来るならまとめてから来てほしい」
「……はい。次からは必ず、まとめてから来ます」
ルナミスが約束するように、はっきりとそう言った。それから、消える直前に、満足そうな笑顔を見せた。いつもの、装飾過多な賑やかさではない。ただ穏やかな、本音の笑顔だった。
黄金の光が収まり、書庫に日常の静けさが戻ってきた。
最初に沈黙を破ったのはエレナだった。
「……私も言ってもらいたかった。整理しなくていいって」
ぽつりと、独り言のように言った。
「……私も」
セリスが小声でそう言った。目録を胸に抱えたまま、俯いている。
「……私も」
リディアが更に小声で続けた。三人が揃って俯いている。
書庫に、静かな沈黙が流れた。
「みんなも、整理しなくていいよ」
僕が言うと、三人が同時に顔を上げた。
エレナが「……っ!」と胸を押さえた。セリスが眼鏡の奥の目を潤ませた。リディアが「……そういうことを、さらっと」と言いかけて、言葉が続かなくなった。
三人が、ほぼ同時に崩れ落ちた。
「皆さん……! 大丈夫ですか……! どうすれば……!」
ハミルトが書類を抱えたまま、三人の間を行き来している。どこから手をつければいいかわからない顔をしている。
僕は静かに作業机に向かい、古代語の記号の照合を再開した。
書庫に、いつもの賑やかさが戻ってきていた。




