第32話:用途不明の言葉と、古代の声
その日の朝、ハミルトが「本日、お客様がいらっしゃいます」と告げた。
用途不明系の記号について問い合わせていた古文書研究家が、直接見たいと申し出てきたのだという。手紙でのやりとりでは限界があると感じたのだろう。ハミルトが「先生は少々せっかちなところがありまして」と苦笑いしながら話してくれた。
午前中に図書館を訪ねてきたのは、小柄な老人だった。
白髪を短く刈り込み、くたびれた旅装束を纏っている。六十代だろうか。全体的に小さくて穏やかな印象なのに、目だけが別人のように鋭く、若い。ハミルトが「オーウェン先生、遠路はるばるありがとうございます」と出迎えると、老人は「手紙では埒が明かないからな」とぶっきらぼうに答えた。
「アルスくん、だったかね。話は聞いているよ。さっそく見せてもらえるかい、問題の記号を」
挨拶もそこそこに、オーウェンが書庫へと向かおうとする。ハミルトが慌てて「先生、順番が……」と言いかけたが、オーウェンは「時間は有限だよ、館長」と歩みを止めなかった。
僕は少し笑いながら、書庫へと案内した。
用途不明系の棚の前でオーウェンが立ち止まり、一冊を手に取った。表紙を確かめた瞬間、老人の体が固まった。
「……これは」
オーウェンが、呼吸を忘れたように本を見つめている。それから顔を上げて、こちらを見た。
「どこで手に入れたんです、これを」
「王立図書館に元々あったものです。用途不明系として分類されていて、まだ整理に手をつけていない区画に」
「まさか、こんなところに……!」
老人が棚全体を見渡した。その目が、子供が宝物を見つけた時のような光を宿している。鋭さとは別の、純粋な喜びの色だった。
◇
応接室でお茶を飲みながら、オーウェンが説明してくれた。
「この記号、私は見たことがあります。大陸の南端にある遺跡の壁画に、同じ記号が刻まれていて。長年研究しているのですが、完全な解読には至っていない。でも、部分的にはわかっていることがあります」
「どんなことが?」
「これは文字です。今は使われていない、古代語の文字体系で書かれている。魔法が今よりもずっと原始的だった時代の言語だと言われています」
「古代語……」
「その時代の人たちは、魔法を言葉で操るのではなく、もっと直接的な形で扱っていたらしい。詠唱も、儀式も、何もなかった。ただ、現象を引き起こすことだけを、シンプルに」
オーウェンがそう言った時、僕の脳内で何かが反応した。詠唱も儀式も必要としない。ただ現象を引き起こすだけ。それは、僕が整理した術式と方向が同じだ。
「解読済みの記号表を持ってきています。一緒に照合しましょう」
オーウェンが旅鞄から、何度も書き直されたような、端が黒ずんだ羊皮紙を取り出した。そこには、見たことのある記号と、その横に意味と思われる短い言葉が並んでいる。完全ではないが、地図の断片のように、いくつかの場所だけが埋まっている。
用途不明系の一冊を開き、オーウェンの記号表と照合し始めた。
最初は手探りだった。でも、しばらく眺めているうちに、整理のプロとしての本能が静かに動き始めた。
「この記号の群、三つずつに分かれてる」
オーウェンが「……!」と前のめりになった。
「三つずつ? どういう意味で?」
「配列に規則性があるんだ。この記号と、この記号と、この記号が必ず一組になって出てくる。それが繰り返されている」
オーウェンが羊皮紙に視線を落とし、指先で記号を追い始めた。それから「……気づきませんでした」と静かに呟いた。長年研究してきた人間が、初めて地図の新しい部分が埋まった顔をしている。
「三つ一組が何を表しているか、追っていくよ」
脳内で記号の配列を整理しながら、現代の術式の構造と対応させていく。一組目の記号は、毎回異なる。属性のようなものを示しているのかもしれない。二組目の記号は、方向を示しているように見える。三組目は、何かの程度を表しているようだ。
「一組目が現象、二組目が方向、三組目が強さ……これ、術式の構造と同じだよ」
オーウェンが「術式の構造と」と繰り返した。
「うん。現代の術式も、基本的にはこの三つの要素で成り立っている。ただ、現代はそれぞれの要素の周りに、膨大な補足と手順が積み重なっているだけで」
「……そういうことか」
オーウェンが椅子に深く座り直し、天井を仰いだ。長い沈黙が流れた。
「だから解読できなかったのか、私は。複雑なものを探していたから、シンプルすぎて見えなかった。この記号が術式の核心だけを表しているなら、そりゃあ短いわけだ。百ページかかることを、十個の記号で書けるわけだから」
「うん。著者は必要なことだけを書いていたんだと思う。澱みがない分、見慣れた目には単純すぎて、逆に意味が見えなかったんじゃないかな」
オーウェンが「澱みがない、か」と繰り返した。その言葉を噛みしめるように、また記号に目を向ける。
完全な解読にはまだ時間がかかる。一部の記号の意味は見えてきたが、全体の体系を理解するには、もっと多くの文例が必要だった。
「もう少し時間をください。これだけわかれば、あとは私が研究を進められます。三つ一組という発見があれば、照合の速度が全然違う」
「一緒に進めていこう。僕も整理しながら考えてみる」
オーウェンが「ありがとう」と言った。言葉は短かったが、その目に確かな感謝が宿っていた。
◇
オーウェンが帰り際、上着を羽織りながら何気なく言った。
「そういえば、この古代語の記号、王都の別の場所にも似たものがあると聞いたことがあります。どこだったかな……ああ、確か、この図書館の奥の方に、封印された区画があると」
「……禁書エリアですか」
「そうそう、そこです。以前、別件でこの図書館を訪れた時に外から感じた気配が、この記号と似ていて。入れてもらえなかったのですが、外に漏れ出てくる魔力の質が、この本たちと同じ種類のものに感じられて」
オーウェンが「まあ、私の感覚だから確かではありませんが」と言いながら、旅鞄を担いだ。「また来ます。次はもっと解読が進んだ状態で」と言い残して、颯爽と去っていった。
書庫に戻ると、セリスが目録の作業をしていた。
「どうでしたか?」
「古代語の記号に、三つ一組の構造があることがわかった。現代の術式の骨格と同じで、ただシンプルすぎて見えなかっただけだったんだ。……それと、禁書エリアとの繋がりも少し見えてきた」
「禁書エリアと、古代語が?」
「うん。オーウェン先生が、禁書エリアから漏れ出る魔力の質が、古代語の本と同じ種類だと感じたって。まだ確かめたわけじゃないけど、繋がっているとしたら……古代語の解読が進めば、禁書エリアに近づける日が来るかもしれない」
セリスが静かに考えてから「……順番があるんですね」と言った。
「うん。まず古代語を理解してから。焦らなくていい」
「それは、アルス様がいつもやっていることですね」
セリスが静かに微笑んだ。その言葉が、さりげなくて、でも確かに届いた。
その夜、脳内にルナミスの声が響いてきた。
(アルス~! 今日すごい発見をしましたね! 女神として一言だけ……)
(まとめてから来てください)
(今日はちゃんとまとめてきたんです! 要点は一つ、古代語の解読を急いでください。禁書エリアへの鍵になりますから)
僕は少し驚いた。いつもなら「まとめてから来て」と言う前に話し始めるルナミスが、今日は本当に一点だけを伝えてきた。
(……珍しく、ちゃんとまとめてきたね)
(でしょう! ……あと一つだけ言ってもいいですか)
(一つだけね)
(あなたがどんどん核心に近づいてきていて……女神として、とても嬉しいです)
それだけ言って、声が静かに消えていった。
いつもの賑やかな去り際ではなかった。余計な言葉も、装飾もなく、ただそれだけを伝えて消えた。
(女神様、今日はいつもと違ったな)
脳内でそう思いながら、机の上に古代語の記号を書き写した紙を並べた。オーウェンの記号表と照合しながら、現代の術式と対応させていく。三つ一組の構造が、少しずつ全体の体系を見せ始めている。
シンプルなものを、シンプルなまま見る。
それは整理の基本だった。でも、慣れ親しんだ複雑さに目が慣れると、シンプルすぎるものが見えなくなる。オーウェンが長年解読できなかったのも、僕が最初に複合術式で苦戦したのも、根っこは同じところにある気がした。
作業をしながら、静かに楽しかった。
禁書エリアへの道が、少しずつ形を見せ始めている。まだ遠い。でも、確かに近づいている。




