第20話:十枚の紙の波紋と、崩れる大人たち
その朝、図書館の入り口でハミルト館長が待っていた。
いつもは僕が到着すると同時に「おはようございます、アルス様!」と弾んだ声で出迎えてくれるのだが、今日は少し様子が違った。両手で分厚い帳簿を抱え、眼鏡の奥の瞳をいつもより真剣な色に染めて、僕の顔を見るなり「少し、よろしいでしょうか」と静かに切り出した。
書庫の作業に入る前に、僕たちは図書館の小さな応接室へと向かった。
テーブルの上に帳簿が置かれる。ハミルト館長は一度深呼吸をしてから、丁寧にページをめくり始めた。その手が、わずかに震えている。
「アルス様。十枚の紙の収益についての報告です。写しが王都だけでなく、各地へと広まり始めておりまして……魔法学校、魔導師団の支部、冒険者ギルド、個人の魔法使いたち。様々な場所で使われ始めているようです」
「そうなんだね。いろんな人が使ってくれているんだ」
僕が静かにそう返すと、ハミルト館長は眼鏡を指で押し上げ、帳簿の一点を指差した。
「それで、その……収益なのですが」
「うん」
「この図書館を、十軒ほど買える程度には……なっております」
応接室に、しばらくの沈黙が流れた。
僕は帳簿の数字を眺めながら、脳内でその情報を整理した。数字そのものよりも、それだけ多くの人たちの手に十枚の紙が届いたという事実の方が、ずっと大きく感じられた。王都の魔導師団が百年かけて積み上げてきた虚飾を、あの十枚が少しずつ解きほぐしている。それが、この大陸の様々な場所で起きているということだ。
「司書のみなさんの給料に充ててほしいんだ。それと、残りは図書館の修復費用に使おう。傷んでいる棚や、湿気対策の設備も、ちゃんと整えた方がいいと思うから」
ハミルト館長が、帳簿を持ったまま固まった。
それから、眼鏡をずらして目元を拭い、「修復費用まで……! アルス様、あなたは一体どこまで……!」と震える声で呟き、そのままゆっくりと椅子からずり落ちた。
僕は静かに立ち上がり、ずり落ちた館長の隣にしゃがんで、「ハミルト館長、大丈夫?」と声をかけた。館長は床に膝をついたまま、「大丈夫でございます……ただ、感極まって……」と答えた。
◇
その日の夕方、ハミルト館長の提案でご両親への報告も兼ねて、手紙を書くことにした。
机の前に座り、羽ペンを手に取る。何を書くべきかは、すでに整理されていた。
『父さん、母さん。王都は元気にやっています。十枚の紙がいろんな場所で使われているみたいで、ハミルト館長が図書館を十軒買えるくらいになったと言っていました。収益は司書のみなさんの給料と、図書館の修復費用に充てることにしました。図書館の整理も少しずつ進んでいます。セリスさんがちゃんと食事を用意してくれているので、心配しないでください』
迷いのない筆致で、必要なことだけを記した。便箋一枚に収まった。
数日後、カイルから返事が届いた。
封を開けると、父さんらしい大きな文字が便箋いっぱいに広がっていた。
『アルスへ。図書館を十軒。お前は本当に……父さんは心臓がいくつあっても足りないぞ。母さんも読んで倒れそうになっていた。元気そうで何よりだ。セリスさんにもよろしく伝えてくれ。ちゃんと飯を食え』
最後の一行だけが、いつもの父さんだった。
僕は手紙を丁寧に折りたたみ、机の引き出しに入れた。胸のポケットのフィナの花の絵と同じように、整理しなくていい温かさが、そこにあった。
◇
数日後、国王レオン三世からの使者が図書館を訪ねてきた。
「陛下が、一度顔を見せるようにとのことでございます」
王宮の謁見室へ向かうと、レオン三世はいつもの紅蓮の法衣を纏い、玉座に深く座っていた。僕の顔を見るなり、豪快な笑い声を上げた。
「がはははは! よく来たな、小僧! 相変わらず小さいが、やることは大きいな!」
「お呼びと聞いたので参りました、陛下」
僕が誠実に答えると、レオン三世は笑いを収め、鋭い眼光で僕を見据えた。一国の主としての重みが、その瞳の奥に宿っている。
「単刀直入に言おう。お前の十枚の紙が、この国の税収を動かし始めているぞ。魔法の習得速度が上がって、冒険者の数が増えて、それに伴う経済活動が活発になってきている。国としても、無視できない規模になってきたわけだ」
レオン三世が腕を組み、僕を真っ直ぐに見つめた。その表情には、揶揄う色も、試す色もなかった。ただ、純粋な事実として告げている。
「税収より、みんなが魔法を使えるようになった方が嬉しいです。魔法は難しいものじゃなかったんだと、知ってもらえる方が」
レオン三世が、一瞬だけ固まった。
豪快な笑いも、王としての威圧も、その瞬間だけ消えた。彼はゆっくりと玉座に深く沈み込み、天井を仰いで静かに呟いた。
「……カイルの奴め。いい息子を持ちやがって」
その一言は、謁見室の広い空間にひっそりと溶けていった。
◇
図書館に戻ると、エレナが応接室の前で待っていた。
僕の顔を見るなり立ち上がり、熟練魔法使いとしての凛とした佇まいを保ちながらも、その瞳の奥に抑えきれない熱を宿して歩み寄ってきた。
「アルスくん、聞いたわ。十枚の紙が大陸中に広まっているって。魔法学校でも、冒険者ギルドでも、あなたの整理した術式が使われているって」
「うん。いろんな人が使ってくれているみたいで、嬉しいよ」
「当然よ。あの純度が、世界に届かないはずがないもの。私が最初に目にした時から、これは大陸の常識を塗り替えると確信していたわ。アルスくんの整理した知識は、どこに届いても、受け取った人の魂を真っ直ぐに射抜く。それはもう、止められない光なのよ」
エレナが胸に手を当て、うっとりとした表情で語り続ける。自分のことのように誇らしげで、いつもより少し熱量が高い。僕は「ありがとう、エレナさん」と誠実に返した。その一言で、エレナの頬がじわじわと赤く染まっていった。
そこへ、セリスが静かに歩み寄ってきた。
いつもの落ち着いた足取りで、銀縁の眼鏡を指で軽く押し上げながら、僕の隣に立つ。エレナの熱量とは対照的な、穏やかで静かな存在感だった。
「アルス様。今日、図書館の外に、お客様が来ていました」
「お客様? 今は閉館中なのに」
「はい。十枚の紙で魔法を学んだという、子供たちでした。図書館が開いたら、ここで勉強がしたいと言っていて……扉の前で、しばらく待っていたようです」
僕は少し驚いて、セリスの顔を見た。彼女は静かに、けれど確かな喜びを滲ませた表情で、続けた。
「扉越しに、ここにいるだけで何か伝わるものがあると言っていた子もいました。早く開けてあげたいと思って、お伝えしようと思いまして」
「……そうか。早く開けてあげないとね」
子供たちが、扉の前で待っている。十枚の紙を手にして魔法を学び、その知識の源へと足を向けてきた。その事実が、胸の奥に静かに、真っ直ぐに届いた。
◇
その夜、書庫の整理を終えて外に出ると、夜の王都が静かに広がっていた。
十枚の紙が外の世界を動かしている。国の税収を変え、大陸中の魔法使いたちの手に届き、国王が静かに呟くほどの波紋を生んでいる。
でも、今の僕にとって一番大切なのは、この書庫の中にある、まだ眠っている本たちのことだ。昨日整理した複合術式の著者が遺した発見も、まだ誰も読めていない用途不明系の記号も、奥の禁書エリアに静かに佇む気配も。外の世界がどれだけ動いても、この場所の本たちは、ちゃんと向き合ってくれる人を、ただ静かに待っている。
(一冊ずつ、ちゃんとやろう)
僕は白亜の図書館を振り返り、静かにそう思った。
建物は夜の中で、朝よりも少しだけ柔らかく、穏やかに呼吸しているように見えた。




