第21話:崩れ落ちた重鎮と、師を慕う弟子
図書館の書庫に、少しずつ秩序が戻ってきていた。
基礎術式系の魔導書は、整理がほぼ完了に近づいている。清書された紙が棚に並び始め、以前は無秩序に積み上がっていた通路が、人が歩ける道として機能し始めた。書庫に入った瞬間の、あの澱みに満ちた重苦しい密度が、日を追うごとに薄れていく。本たちが、少しずつ呼吸を取り戻している。
その変化を一番敏感に感じ取っているのは、毎日この場所にいるセリスだった。
今朝も彼女は目録の更新作業をしながら、棚に並んだ清書済みの紙を時折眺めては、眼鏡の奥の瞳を柔らかく細めていた。その横顔が、図書館に来た最初の日の疲れ果てた司書官のものとは、もう全く違って見える。
一方、書庫の別の区画では、今日も同じ光景が繰り広げられていた。
「私はただ、アルスくんの整理の所作を記録として残しておきたいだけで、それは図書館の整理にとっても有益な情報であって――」
「記録でしたら、私が担当します。エレナ様はあちらへ」
セリスの穏やかな、しかし一切の妥協を感じさせない声が、書庫に静かに響く。エレナが渋々自分の区画へと戻っていく背中を見送りながら、セリスは何事もなかったように目録の作業へと戻った。
「……セリス、あなた最近手強くなったわね」
少し離れた場所から、エレナの呟きが聞こえた。
「図書館の整理が最優先ですので」
セリスが振り向きもせずに答える。その声には、エレナへの敬意と、アルスの作業を守るという静かな意志が、過不足なく込められていた。僕は二人のやりとりを聞きながら、手元の魔導書へと視線を戻した。
そこへ、ハミルトが小走りで駆け寄ってきた。
「アルス様、一つご報告が。用途不明系の記号についてなのですが、知人の古文書研究家に問い合わせてみることにしました。何かわかれば、すぐにお伝えします」
「ありがとう、ハミルト館長。よろしくお願いするよ」
ハミルトは嬉しそうに頷き、また小走りで去っていった。用途不明系の記号が何を意味するのか、まだわからない。でも、焦る必要はない。整理には順番がある。
◇
午前の作業が一段落した頃、脳内にあの賑やかな声が響いてきた。
(アルス~! 整理が順調そうで、女神として本当に嬉しいのですが、一つだけ助言を授けてあげようと思いまして。まずこの図書館の魔力の流れについて説明すると――)
(女神様、まとめてから来てください)
(も、もう少しだけ! ほんの少しだけでいいので、今回は本当に短くまとめてきたんです、聞いてもらえれば――)
(まとめてから来てください)
(うぅ……わかりました……。でも次は必ずまとめて来ますからね……! 絶対ですよ……!)
女神の声が、いつもより早く遠ざかっていった。
珍しい。いつもならもう少ししぶとく食い下がってくるのに、今日は素直に引いた。何か考えがあるのだろうかと思いながら、僕は思考のスイッチを戻した。
◇
午後になって、図書館の入り口に来客があった。
セリスが応接室へ案内してきたのは、二人だった。
一人は、王宮の演習場で「私の十二年が……」と崩れ落ちていたゼノスだ。あの時の威圧的な重鎮の空気とは打って変わり、今日の彼はどこか静かで、穏やかな佇まいをしていた。もう一人は、ゼノスと同じ色合いの深い紺のローブを纏った、二十代前半の女性だった。真っ直ぐな目でこちらを見ている。その目に、敵意はない。ただ、真剣な好奇心が、一点の曇りもなく宿っていた。
「少し、話せるかね」
ゼノスが静かにそう言った。
セリスがお茶を用意し、「ご用があればお呼びください」と気を利かせて席を外した。応接室に、僕とゼノス、そして彼の連れの女性の三人が残された。
「こちらは、私の一番弟子のリディアだ。師匠が崩れ落とされた相手を、自分の目で確かめたいとずっと言っていてな。今日は一緒に連れてきた」
リディアが、真っ直ぐに僕を見た。その目が、思っていたより幼い相手を前にして、わずかに揺れる。
「……これが、師匠を崩れ落とした方ですか」
「はじめまして、リディアさん。ゼノスさんの術式には、確かな価値があると思っています」
リディアが「……え?」と小さく声を上げた。仇を確かめに来たわけではなく、純粋な好奇心で来たとしても、まさか最初から師匠の術式を肯定されるとは思っていなかったのだろう。少し面食らった顔をしている。
ゼノスは静かに苦笑いして、テーブルの上のティーカップを手に取った。
「アルス殿。今日来たのは、一つ聞きたいことがあったからだ」
「はい」
「お前は……なぜ整理するのだ」
応接室に、しばらくの静寂が流れた。
僕は少し考えてから、正直に答えた。
「もったいないから、です。価値のある知識が澱みに埋もれているのが、ただもったいなくて。本来なら多くの人に届くはずのものが、届かないままになっているのが……どうしても放っておけないんです」
ゼノスは目を細め、静かに頷いた。それからしばらく沈黙して、ゆっくりと口を開いた。
「……正直に言おう。お前に崩された時、怒りよりも安堵の方が大きかった」
リディアが、ハッとしてゼノスを見た。師匠の口からそんな言葉が出るとは、思っていなかったのだろう。
「安堵、ですか」
「そうだ。私は長い間、難解さこそが魔法の価値だと信じてきた。苦労した分だけ価値が生まれると。……だが、実は私自身も、ずっと疑問に思っていたのだ。なぜこれほど複雑にしなければならないのかと」
ゼノスの声は静かで、穏やかだった。王宮で「我が至高の術式『紅蓮の審判』は……」と朗々と語っていたあの声とは、まるで別人のようだ。
「周囲がそれを求め、私もそれに応え続けるうちに、複雑さが目的になってしまっていた。だからお前が、私の術式の本質を一瞬で取り出して見せた時、怒りを感じる前に……ああ、やはりそうだったのかと、胸の中の何かが解けていくのを感じたのだ」
リディアが、静かに俯いた。師匠がずっとそんな思いを抱えていたとは、知らなかったのだろう。その肩が、わずかに震えている。
「ゼノスさんの術式には、確かな発見があります。私が整理したのは澱みだけで、本質は最初からゼノスさんの中にあった。リディアさんが受け継いだものも、同じです」
ゼノスは長い沈黙の後、静かに呟いた。
「……お前は、優しいな」
僕は少し照れくさくなり、耳が熱くなるのを感じた。視線をティーカップに落として、「そんなことはないですよ」と答えた。
ゼノスが、おもむろに立ち上がった。
「アルス殿。一つお願いがある」
「はい」
「このリディアを、しばらくお前のそばに置いてやってほしい。私の術式を誰よりも忠実に受け継いだ娘だが……お前のそばで学ぶことで、その本質がさらに研ぎ澄まされると思う。私が教えられることは、もう教え切った。あとは、お前のような存在に触れるしかない」
リディアが「師匠……!」と声を上げた。突然のことで、表情が驚きと戸惑いと、師匠への敬愛が入り混じった複雑なものになっている。
「私は……師匠のそばで学び続けたいのですが」
「お前が私のそばで学べることは、すでに学んだ。次の段階に進む時だ」
ゼノスが穏やかに、けれど確信を持った口調で言った。リディアはしばらく俯いていたが、やがて静かに頷いた。
僕はリディアを見て、それからゼノスを見た。
「わかりました。リディアさんがよければ、喜んで」
リディアが顔を上げ、真っ直ぐに僕を見た。その目に、好奇心と、師匠への敬愛と、少しの照れが混ざっている。
「……よろしくお願いします」
ゼノスが立ち上がり、帰り際に振り返った。
「アルス殿。一つだけ言っておこう。図書館の整理で行き詰まることがあれば、遠慮なく声をかけなさい。私の知識が役に立てるなら、いつでも来よう」
「ありがとうございます、ゼノスさん」
ゼノスは深く頷き、静かに応接室を後にした。
扉が閉まった後、応接室にリディアと二人が残された。しばらくの沈黙が流れ、リディアが小さく息をついた。
「……師匠が、あんな顔をするのを、初めて見ました」
「どんな顔でしたか?」
「荷物を下ろしたような顔です。ずっと重いものを背負っていた人が、ようやく地面に置いたような……」
リディアは静かにそう言って、窓の外を見た。その横顔が、柔らかかった。
「あなたが整理したのは、術式だけじゃなかったんですね」
僕はその言葉を、静かに受け取った。
整理するのは、魔導書の澱みだけじゃない。長い年月をかけて積み重なった、人の中の澱みも、ちゃんとあるべき姿に戻せる。そのことを、リディアの言葉が教えてくれた気がした。




