第16話:小指の約束と、旅立ちの朝
王都へ発つ朝、僕は自室で荷物の最終確認をしていた。
机の上に静かに並べたのは、整理した魔導書の写しが十枚、予備の羽ペンが二本、インクが一瓶、そして着替えが三日分。それだけだ。前世の白いデスクと同じように、必要なものだけが、必要な場所に収まっている。それ以上でも、それ以下でもない。
扉の隙間から、父カイルが部屋を覗き込んだ。元勇者として数々の修羅場を潜り抜けてきた大きな体が、息子の荷物の少なさを前にして、何とも言えない顔をしている。
「……アルス。それだけか? 王都に住むんだぞ。半年、いや、もっと長くなるかもしれないのに、その荷物で本当にいいのか」
「必要なものだけあれば十分だよ、父さん。増やすと、管理するものが増える一方だから」
カイルは何か言いかけて、口を閉じた。息子の言葉に反論できないのではなく、むしろその言葉が正論すぎて、返す言葉が見つからないのだろう。元勇者として、遠征の荷物の重さには人一倍苦労してきたはずだ。彼は大きな手で頭をぐしゃりと掻きむしり、諦めたように溜息をついた。
そこへ、母リーサが静かに部屋へ入ってきた。いつもの穏やかな微笑みを浮かべ、その手には小さな布袋が握られている。袋の結び目は、几帳面に、けれど温かみを感じさせる形で結ばれていた。
「はい、アルス。お母さんが昨夜焼いたクッキーよ。王都でも、甘いものは大切だから、ちゃんと持っていきなさいね」
「でも、荷物は最小限に――」
「これはノイズじゃないわ。お母さんの気持ちよ」
穏やかで、しかし一切の反論を許さない完璧な一言だった。僕はその布袋を受け取り、荷物の中へ丁寧に入れた。母さんの気持ちは、整理する必要のないものだ。
◇
出発まで、少しだけ時間があった。
居間のテーブルに向かい合って座ると、カイルが腕を組み、いつになく真剣な顔をしていた。普段の能天気で豪快な父さんとは違う、かつて勇者として世界を駆け巡っていた頃の、静かな重みを感じさせる表情だ。
「アルス。父さんからお前に、王都での心得を一つだけ言っておきたい」
僕は静かに頷き、父さんの言葉を待った。
「……お前は、いつでも帰ってきていいんだぞ」
カイルは、それだけ言うと、照れ隠しのように視線を窓の外へ逸らした。勇者の武勇伝でも、王都の処世術でも、魔法の心得でもない。ただ、それだけだった。けれどその一言には、父親としての不純物のない愛情が、真っ直ぐに込められていた。
「……ありがとう、父さん。ちゃんと覚えておく」
僕が誠実に返すと、カイルは「ああ」とだけ言って、ぶっきらぼうにスープを啜った。その横顔が、耳の端だけわずかに赤くなっているのを、僕はちゃんと見ていた。
母リーサは、そんな二人のやりとりを見て、ただ静かに微笑んでいた。
◇
庭に出ると、フィナがもう来ていた。
朝露が残る草の上に立ち、僕の家の扉をじっと見つめていた。弾けるような笑顔で駆けてくるいつものフィナとは、ほんの少しだけ違う。その背筋は真っ直ぐで、笑顔も崩れていない。けれど、どこかいつもより静かな気配が、朝の空気に滲んでいた。
僕の顔を見た瞬間、彼女はいつも通りに笑った。その笑顔に、一点の濁りもない。
「おはよう、アルスくん。……お天気でよかったね」
「おはよう、フィナ。早かったね」
「うん、なんか目が覚めちゃって」
フィナはそれだけ言って、それ以上は話さなかった。僕も、余計なことは聞かなかった。
二人で、家の周りの道を少しだけ歩いた。朝の空気は冷たく澄んでいて、遠くで鳥が鳴いている。情報のノイズが少ない、僕の好きな時間帯だ。
「ねえ、アルスくん。王都って、ここよりずっと遠いんだよね」
フィナが、前を向いたまま、静かに言った。
「うん。馬車で半日くらいかかるよ」
「……半日か」
彼女は小さくその言葉を繰り返した。それから少しの間、二人で黙って歩いた。言葉がなくても、その沈黙は澄んでいて、不純なノイズが一つもなかった。
やがて、フィナが立ち止まった。
「ねえ、アルスくん。押し花、もう一回ちゃんと練習しておくね。うまくできたら、王都に持っていってあげるから」
「うん。待ってるよ、フィナ」
彼女は僕の言葉を聞いて、少しだけ俯いた。それから顔を上げ、真っ直ぐに僕を見た。その瞳に、いつもの澄んだ光がある。
「……帰ってくるよね? アルスくん」
「帰ってくるよ。約束する」
フィナが、小指をそっと差し出した。
僕はその小指に、自分の小指を絡めた。
あたたかい。
王都で世界をどれだけスッキリさせても、この感覚だけは、整理する必要がない。前世でユイが隣にいてくれたあの時間と同じように、フィナの隣にいるこの時間だけは、僕はただの「アルス」でいられる。
「約束だよ、絶対ね」
フィナはそう言って、小さく笑った。繋いだ小指が、一瞬だけ、ぎゅっと強く握り返してきた。
僕はそれを、黙って受け取った。
◇
馬車が動き出した。
窓から外を見ると、フィナが見えた。門の前に立ち、大きく手を振っている。笑っている。いつも通りの、一点の濁りもない笑顔で、僕が見えなくなるまで手を振り続けていた。
村の家々が遠ざかり、見慣れた木々の輪郭が小さくなっていく。フィナの姿が、橙色の朝の光の中に溶けていくように遠ざかり、やがて完全に見えなくなった。
僕は静かに窓から視線を戻し、膝の上で手を重ねた。
(整理できないものが、また一つ増えた気がした)
隣では母リーサが、穏やかな顔でティーカップを傾けている。向かいの席では、カイルが腕を組んで目を閉じている。眠っているのか、考え込んでいるのか、判断がつかない。
馬車が野道を揺れながら進み、景色が少しずつ変わっていく。緑の野原が広がり、遠くに王都の尖塔の影が薄く見え始めた頃、母さんが不意に口を開いた。
「アルス。王都でも、ちゃんとご飯を食べるのよ。セリスさんたちに任せっきりにしないで、自分でも気をつけること」
「うん、わかった」
「睡眠もよ。整理が楽しくなると、あなたはすぐ夜更かしするから」
「……気をつける」
母さんはティーカップを置き、少しだけ間を置いた。それから、何でもないことのように、静かに続けた。
「……ねえ、アルス。フィナちゃんのこと、好き?」
僕は、答えられなかった。
耳が、じわじわと熱くなっていくのがわかる。視線をどこに置けばいいかわからなくて、膝の上に落とした。胸のポケットの中に、フィナが描いた花の絵がある。昨日からずっと、そこにある。
「……スッキリした答えが、まだ出てこないんだ」
それが正直な言葉だった。前世の僕なら、どんな複雑な情報でも三枚の紙に収められた。でも、この胸の中にあるものだけは、整理の仕方が、まだわからない。
母さんは何も言わずに、ただ微笑んだ。
「それでいいわ。焦って整理しなくていいものもあるから」
その一言が、静かに、真っ直ぐに届いた。
馬車の窓の外で、王都の尖塔がはっきりと見え始めていた。白亜の石造りが朝の光を受けて輝き、その向こうに、整理を待つ無数の魔導書たちが眠っている。
僕は胸のポケットに、そっと手を当てた。
フィナが描いた花の絵が、そこにある。
あの図書館の本たちが待っている。埃を被ったまま、情報の澱みの中で眠り続けている知識たちが、整理される日を待っている。それは確かだ。
でも今この瞬間、この小さな紙切れ一枚だけが、僕の胸の中で一番スッキリと、一本道に輝いていた。
「さあ、始めよう」
僕は静かに、そう呟いた。
馬車は王都へ向かって、迷いなく走り続けた。




