第15話:帰り道の風と、変わらない笑顔
王都ルミナスを発つ馬車の中、父カイルは窓の外を眺めながら深い溜息をついた。
「……まさか神様まで出てくるとはな。父さん、今回の旅で寿命が三年は縮んだぞ」
「あなた、アルスが頑張ったんですもの。それくらいで丁度いいわ」
母リーサが、当然のことのように言ってのける。父さんは何も言い返せずに、ただ天井を仰いだ。
「……なあ、リーサ。お前は何も驚かないのか。息子が女神を味方につけて、国王を説き伏せて、王立図書館を丸ごと買い取るんだぞ。普通、もう少し動揺するだろう」
「でも、アルスがやったことは全部、もったいないものをあるべき姿に戻しただけでしょう? それがこんなに大きなことになるなんて、この国の人たちが不思議なんじゃないかしら」
リーサはティーカップを傾けながら、穏やかに微笑んだ。
父さんは口を開け、何かを言おうとして、閉じた。
「……お前、たまに怖いな」
「そうかしら」
二人のやりとりを聞きながら、僕は膝の上に置いた手を静かに見つめた。
王立図書館の全権。
魔導書の分解と再構築。
女神の神託と、国王の承認。
それらはすべて、情報の澱みを取り除くための、最短の工程だ。
難しいことをしたつもりはない。ただ、もったいないものを、あるべき姿に戻したかっただけだ。
「アルス、一つ聞いていいか」
カイルが、珍しく真剣な声で僕を見た。
「王都でのこと、後悔してないか。あれだけのことをやって、怖くなかったか」
僕は少し考えてから、正直に答えた。
「怖くはなかったよ。でも、本が可哀想だって思う気持ちの方が、ずっと大きかったから」
父さんはしばらく黙って、それから大きな手で僕の頭をぐしゃりと撫でた。
「……そうか。お前がそう言うなら、父さんはもう何も言わないぞ」
照れ隠しなのか、すぐに窓の外へ視線を戻してしまう父さんの横顔を、僕は静かに見つめた。
言葉は少ないけれど、その手のあたたかさに、不純物は何一つなかった。
(早く、家に帰りたいな)
窓の外で、王都の石畳が緑の野道へと変わっていく。
空は高く、風は柔らかく、情報のノイズが少ない。
僕の胸は、少しずつ一本道に凪いでいった。
◇
我が家の見慣れた木の門が見えてきた頃、先に気づいたのは向こうの方だった。
「あ! アルスくん!」
弾けるような声が、夕暮れの空気を真っ直ぐに突き抜けてきた。
門の前で、フィナが駆けてくる。
三つ編みの端が風に揺れ、頬がほんのり赤い。走ってきたのだろう。
「おかえり! 待ってたんだよ、毎日!」
彼女は僕の目の前でぴたりと止まり、息を切らしながら、まっすぐに笑った。
一点の濁りもない、いつものフィナの笑顔だった。
「ただいま、フィナ」
僕は自然と、そう答えていた。
「ねえねえ、王都ってどんなところだった? すごく遠いんでしょ? おっきい建物があるって聞いたよ?」
フィナは僕の隣に並んで歩きながら、次々と言葉を繰り出す。
結論もなければ、整理された順序もない。
けれど、彼女の声には余分なノイズが一切ない。純粋な好奇心だけが、真っ直ぐに届いてくる。
「建物は大きかったよ。でも、中の本が少し可哀想だったから、これから助けに行くんだ」
「本を助けるの? アルスくんらしいね」
フィナはあっさりとそう言って、くすくすと笑った。
驚きも、疑問も挟まない。
ただ「アルスくんらしい」という一言で、すべてを受け取ってくれる。
その真っ直ぐさが、何よりもスッキリとして、あたたかかった。
「フィナは、この数日、何してた?」
「えーとね、お花を押し花にしようとしたんだけど、うまくいかなくて。あと、カイルおじさんの畑の草取りをお手伝いして。それから……あ、あのね!」
フィナが急に足を止め、僕を見上げた。
その手に、小さな紙の束が握られていることに、僕は今さら気づいた。
「これ、アルスくんがいない間に作ったの。押し花、うまくできなかったから、代わりにお花の絵を描いてみたんだよ」
差し出された紙には、拙いけれど一生懸命に描かれた花の絵が並んでいた。
青い花、黄色い花、白い花。
線は少し歪んでいるが、色の選び方が、花の本質をちゃんと捉えている。
「……すごくいいね、フィナ。この青い花、本物と同じ色だよ」
「ほんと? やった! アルスくんに見せたくて、ずっと取っておいたんだ」
フィナが嬉しそうに笑う。
僕はその絵を受け取り、丁寧に折りたたんで胸のポケットに入れた。
「大切にする」
「えへへ」
フィナは照れくさそうに、少し俯いた。それからすぐに顔を上げて、また歩き始める。
「ねえ、明日、押し花また一緒にやってみる?」
「うん。うまくできる方法、考えておくよ」
「やった! 絶対ね、約束だよ!」
フィナが小指を差し出してくる。
僕はそれに自分の小指を絡めた。
あたたかい。
夕陽が二人の影を長く伸ばし、家までの道を橙色に染めていた。
◇
夜、自室の窓から星空を見上げながら、僕は今日一日を静かに整理していた。
王都で起きたことは、どれも必要な工程だった。
ゼノスさんの十二年。バルトさんたちの百年。エレナさんの信念。
それらの「澱み」を粉砕したのではない。本質だけを救い出しただけだ。
ルナミスが地上に降りてきた時の、あの食堂全体が凍りついたような静寂。
エレナさんとセリスさんが一緒に飛びついてきた時の、あの予想以上の熱量。
(……みんな、もったいないものを、ちゃんとわかってくれている)
それが、僕には何よりも嬉しかった。
ふと、胸のポケットに手を当てた。
フィナが描いた花の絵が、そこにある。
前世で、ユイが話してくれたとりとめのない話と、同じだ。
整理する必要がない。そのままが、一番あたたかい。
王都で世界をどれだけスッキリさせても、この感覚だけは、整理しなくていい。
僕は窓を静かに閉め、机の上の魔導書に目を向けた。
明日からまた、準備を進めよう。
図書館の本たちが待っている。
でも今夜は、胸のポケットの花の絵と、フィナの小指のあたたかさを、ただ大切にしていたかった。
部屋に静寂が満ちる。
デスクの上は、どこまでも真っ白で、美しかった。




