第13話(前編):朝食の卓と、王立図書館館長の焦燥
王都ルミナスの朝は、石畳を叩く馬車の蹄の音と、どこか遠くで鳴り響く教会の鐘の音と共に幕を開けた。
王宮での実演から一夜明けた宿屋の一室。そこには、昨日の熱狂と戦慄が嘘のように、穏やかで、ありふれた家族の時間が流れていた。
丸い木製テーブルの上には、焼きたての香ばしいパンと、具沢山の野菜スープ、そして新鮮な果物が並んでいる。
「……はぁ。アルス、昨日は本当にお疲れ様。父さんはまだ、あの火柱が目に焼き付いて離れないよ。宿のベッドに入ってからも、天井にあの光の残像が見えていたくらいだ」
父カイルが、スープを一口啜りながら、しみじみとした口調で言った。元勇者として数々の冒険をこなしてきた彼も、昨日の実演がこの国の常識を根底から揺さぶった衝撃の大きさを、肌で感じ取っているようだった。
「本当ね。でも、アルスが一番頑張ったのは、あのおじさんの長いお話を聞いていた時じゃないかしら。お母さん、横で聞いていて、頭の中に霧が立ち込めてくるかと思ったもの」
母リーサが、パンを小さく千切りながら、僕に向かって優しく微笑む。彼女は僕が最短の術式で魔法を放った瞬間も、ただ「片付けが上手な息子が、散らかったお話を綺麗に整えた」という、日常の延長線上にある誇らしい一幕として見てくれている。
「おじさん、一生懸命お話ししてたから。……でも、スープが冷めちゃう前に食べよう、父さん。せっかく王都のおいしい野菜が入っているんだから」
僕は丁寧に応え、温かいスープを一口口に運んだ。野菜の甘みが体に染み渡り、昨日から感じていた王都の喧騒による情報のノイズが、少しずつスッキリと凪いでいくのを感じる。
王宮で起きたことは、僕にとっては「情報の不純物を整理した」という、当たり前で誠実な工程の一つに過ぎない。それよりも今の僕にとっては、父さんが「おいしいな」と笑い、母さんが「今日はお買い物に行きましょうか」と楽しそうに計画を立ててくれる、この朝食の時間こそが、何よりも大切で、守るべき純度を持ったものだった。
しかし、その平穏な時間は、宿屋の廊下から響いてきた、どこかおぼつかない、けれど必死さを感じさせる足音によって破られた。
部屋の扉が、遠慮がちに、けれど何度もノックされる。
カイルが「おっと、誰だ? また王宮の使いか?」と眉を寄せながら扉を開けると、そこには、王宮の文官や魔術師たちとは明らかに質の異なる、一人の男性が立っていた。
少しふくよかな体型を、着古された、けれど清潔に保たれた官服に包んだその男性は、眼鏡の奥の瞳を不安げに揺らし、手にしたハンカチで絶えず額の汗を拭っている。
「……突然の訪問、誠に、誠に申し訳ございません。私は、王立図書館にて館長を務めております……ハミルトと申します。カイル殿、リーサ殿……そして、アルス様」
館長さんは、僕たちの前で深々と、それこそ床に頭がつくのではないかというほど低姿勢に頭を下げた。
「王立図書館の、館長さん?」
リーサが驚きと共に問いかけると、ハミルト館長は眼鏡を指で押し上げ、申し訳なさそうに言葉を継いだ。
「はい。昨日、当館の司書であるセリスから……その、アルス様が彼女の長年の悲願であった魔導書の封印を、一瞬にして……それはもう、言葉では言い尽くせないほど鮮やかに解かれたと聞きまして。さらに、エレナ様からも、王宮でのあの……最短の術式の噂を耳にいたしました」
ハミルト館長は、再び汗を拭い、僕を真っ直ぐに見つめた。その瞳には、権威を笠に着た傲慢さなど微塵もなく、ただ現場を守る責任者としての、切実な苦悩と期待が宿っていた。
「セリスから強く推挙されました。あの子が、あんなに熱烈に誰かを語るなど、司書を始めてから一度もなかったことです。……アルス様。恥を忍んで、ご相談に参りました。今の王立図書館は……魔導書に関する、あまりにも巨大な問題を抱えているのです」
僕はスプーンを置き、館長の言葉を誠実に受け止める準備を整えた。
昨日出会った、本を愛しながらも絶望の中にいたセリスさんの顔。
そして、白亜の建物の中で埃を被り、情報の死を待つだけになっていた本たちの悲鳴。
「魔導書の相談だね。……ハミルト館長。よかったら座って、ゆっくり聞かせて」
僕が椅子を勧めると、ハミルト館長は恐縮しながらも、震える手でテーブルの端に腰を下ろした。
王立図書館という、この国の英知の頂点を預かる館長の口から語られたのは、外観の美しさからは想像もできない、情報の迷宮と化した書庫の、あまりにも「もったいない」現状だった。




