第13話(後編):分解の理論と、元勇者の重い腰
ハミルト館長は、震える手で何度も眼鏡の端を押し上げ、手にしたハンカチがぐっしょりと濡れるほど汗を拭いながら、絞り出すように言葉を繋いでいた。
彼の口から語られたのは、白亜の殿堂という外面の虚飾に隠された、あまりにも深刻な機能不全の実態だった。
「アルス様……。王立図書館にある魔導書の多くは、もはや開くことさえ許されない状態なのです。至高魔導師団の面々は、難解であることこそが価値だと宣い、複雑怪奇な封印や、不純な術式をこれでもかと積み上げてきました。その結果、情報の縺れは修復不可能な次元にまで達し、知識はただの重石として、地下の奥深くで静かに眠るばかりなのです」
館長の言葉には、現場を預かる者としての無力感が色濃く滲んでいた。
魔導書が呼吸を止め、先人たちの知恵が誰にも届かずに死蔵されている。その「もったいなさ」の極致を、僕は一言も聞き漏らさぬよう、静かに受け止めていた。
「……お願いです、アルス様。どうか、あの場所に光を……」
ハミルト館長の切実な願いが、宿屋の静かな食堂に重く響く。父カイルと母リーサも、館長の吐き出した現状の重さに、朝食の手を止めて真剣な面持ちで聞き入っていた。僕は、館長の潤んだ瞳を真っ直ぐに見つめ返した。僕の中にある、最短の答えは既に導き出されていた。
「……ハミルト館長。もしよければ、王立図書館を僕に買い取らせてほしいんだ」
その一言が落ちた瞬間、宿屋の食堂の空気が凍りついた。
「……い、いやいや、無理ですよ! アルス様、何を仰るんですか! あそこは国の施設ですよ! アルス様が買い取るなんて、前代未聞です!」
ハミルト館長は椅子から転げ落ちんばかりに狼狽し、眼鏡をずらして絶句した。
「もちろん、ずっと自分のものにしたいわけじゃないよ。でも、あの場所をスッキリさせるためには、誰にも邪魔されない環境が必要なんだ。今のままの状態で、魔導書が出入りされたら、整理にいくら時間があっても足りない。情報の純度を取り戻すための最短ルートを通すには、外部のノイズを完全に遮断する期間が必要なんだ」
僕は、狼狽する館長に向けて、具体的な『整理』の工程を論理的に説明し始めた。
「今の魔導書が読めないのは、長い年月で不純な術式が絡まり合い、情報の流れが止まっているからだ。だから、僕は魔導書を一度すべて『分解』しようと思っている。綴じられた糸を一度解き、ページを一枚ずつ不純物から引き剥がして、情報の純度を元に戻してから、もう一度正しく再構築するんだ。そのためには、一時的に管理権を僕に移して、図書館を完全に閉鎖する必要がある」
「分、分解……!? 国の至宝を、バラバラにするというのですか……?」
ハミルト館長の顔が蒼白になる。
「壊すんじゃないよ。あるべき姿に戻すための、最短の修復なんだ。今のまま放置しておく方が、本にとっては、ずっと残酷なことだよ」
「しかし……しかしですね、アルス様。仮にそれが正しいとしても、我々の仕事もありますので……。図書館を閉鎖し、管理を離れてしまえば、残された司書たちの生活はどうなるのですか?」
館長としての、最も切実な問い。僕はそれに対しても、揺るぎない解決策を提示した。
「心配いらないよ。僕が整理した『十枚の紙』の収益を、そのまま司書のみんなの給料に充ててほしいんだ。整理の間も、みんなには僕の助手として、情報の仕分けや紙の修復を手伝ってもらいたい。……そして、すべての魔導書が整理されて、誰でも読めるようになったら、図書館はそのまま国へ返却するよ」
司書たちの給料を保障し、さらに最終的には国へ返す。圧倒的に合理的な提案に、ハミルト館長は震える手で眼鏡をかけ直し、僕という存在に圧倒されたように沈黙した。
「……まさか、司書たちの給料まで。……アルス様、あなたは、どこまで……」
館長が感極まったように声を震わせる中、父カイルが深く、重い溜息をついた。
「はぁ~……。アルス、お前がそこまで言うなら、父さんも覚悟を決めるしかないな」
カイルは頭を掻きむしりながら、宿屋の備え付けの羊皮紙とペンを手に取った。
「王立の施設を動かすには、館長一人の首じゃ足りないだろう。……ハミルト館長、これを持っていけ」
カイルが力強い筆致でさらさらと書き上げたのは、一通の親書だった。
「これは……国王陛下への紹介状ですか?」
「ああ。アイツとは、勇者時代からの腐れ縁でね。アイツは理屈より根性を好むが、俺の頼みなら最低限、話を聞く席くらいは設けるはずだ。……全く、誰に似たんだか。うちの息子は、親を引っ張り出すのが上手すぎる」
カイルは館長に手紙を託すと、椅子に深く沈み込み、天井を仰いだ。
「……はぁ。アイツに、一度捕まると宴会が長いんだよな。今回、王都にいる間は会わないで済むと思ったのに。勘弁してくれよ」
親友であり、かつての戦友でもある国王との再会を予感し、心底嫌そうに愚痴をこぼす父さん。けれど、その横顔には、息子の誠実な情熱を全力で支えようとする決意が滲んでいた。
「必ずや国王陛下へこの件をご報告し、了解をいただくための食事会をセッティングいたします! アルス様、カイル殿……このハミルト、命に代えてもこの話を、王宮の最奥まで届けて参ります!」
勇者からの親書という、最強の鍵を手にしたハミルト館長。王宮の最高権力者を巻き込んだ、王立図書館買収という名の「国家規模の整理」が、一通の熱い手紙と共に、いよいよ現実味を帯びて動き出した。




