第8章
「それは……」
桃子さんから家賃はもらわなくていいと花子さんから聞いていた。出産を控えているし、子供が産まれたらしばらくは働きに出られないのだから。孔雀夫人がそう決めたと教えてくれた。
「桃子さんは、陽彩ちゃんがいるし」
言いかけて、黒に遮られた。
「は? どこのどいつが家借りてて、家賃払わなくていいんだよ? そんな馬鹿な話、日本中どこをさがしたってあるわけないだろ」
会社勤めをしていた頃、同じように叱責されたシーンがよみがえり、身体の震えが止まらなくなった。何も言い返せずにいると、黒はますます険しい表情で声を荒げ、畳みかけてきた。
「子供がいるから家賃がタダなんて、ありえないよ」
「働いて毎月ちゃんと家賃を払っている俺が馬鹿みたいじゃないか」
「不公平だ。管理人として不誠実だと思わないのか」
何かが違うと思うのに、説明できる言葉が浮かんでこない。激しい言葉を浴びせられているうちに、黒の言うことが正しくて、ぼくが間違っていたのだと思えてくる。黒の言い分は、筋が通っているし、反論の余地もない。
ぼくは、あやまるしかなかった。
「すみません」
なんとか声を絞り出した。
黒は、眉を吊り上げ、憎しみをこめた眼でぼくを睨んでいる。
「あやまるくらいならちゃんと仕事してくれって言ってるの」
「あいつからちゃんと家賃とって、公平に対応してくれればいいだけだから」
言い捨てて、黒は部屋に戻っていった。
「来月から家賃、安くなるかな」
扉が閉まる瞬間、黒が一瞬ぼくを見て笑ったのが見えた。身体がかっと熱くなった。来月。期限を切られ、最後の追い打ちをかけられた気分だった。
ああ、もうどうすればいいのだろう。
本当に馬鹿なことをしてしまった。家計簿を開きっぱなしにするなんて。ぼくがうっかりしなければ、こんな面倒なことにならなかったのに。
どうにかならないかずっと考えたが、結局何も思い浮かばなかった。桃子さんに話して家賃を払ってもらうしか解決方法はないのだ。意を決して、ぼくは桃子さんがひとりでキッチンにいる時間を見計らって声をかけた。桃子さんの腕の中で陽彩ちゃんはすやすや眠っていた。
「あの、桃子さんは、義母から家賃を払わなくていいって言われたんですよね」
今までこんな話をしたことがなかったので、急にどうしたのだろうという顔で、桃子さんがぼくを見た。
「そのことなんですけど、あの、来月から家賃、払えませんか」
部屋で何度も練習したセリフを一気に吐いた。
桃子さんの顔色が変わった。
「何で? なんでそうなるの」
「もしかして、誰かに言われた?」
「あ、わかった。黒でしょ」
「だったらあいつの言うことなんか聞く必要ないから」
片手をひらひらさせてそう言われ、背中を向けられてしまった。ちゃんと話をしようと思ったのに、軽くあしらわれてしまった。
「でも、みんな働いて家賃を払っているわけだし」
「桃子さんだけ払っていないっていうのもどうかっていうか……」
しどろもどろになりながら桃子さんの背中にむかって話しかける。黒が言っていたことをできるだけ角が立たないように伝えた。間違ったことは言っていない。けれど、少しも自信がなかった。
振り向いた桃子さんが見たこともないくらい恐い顔をしていたので思わず怯んだ。ああ、やってしまった。ぼくは、まずいことを言ってしまったのだ。
「無理だよ」
「見てわからない?」
さっきまで桃子さんの腕の中で気持ちよさそうに眠っていた陽彩ちゃんが目を覚まし、急に泣きだした。
「あ~あ」
桃子さんが立ちあがった。すれ違いざまにギロリと睨まれ、思わず後ずさった。
桃子さんの身体からはがされ、おむつ替えシートの上に寝かせられた陽彩ちゃんがこの世の終わりかとでもいうように大声で泣きわめいている。桃子さんがおむつを替え、キッチンでミルクを作っているあいだじゅう陽彩ちゃんは泣き続け、どうにかなってしまうのではないかと心配になるくらいだった。
「出て行ってほしいなら、はっきりそう言えばいいじゃない」
赤ちゃん用のマグを手にした桃子さんと再びすれ違った時、さぁっと冷たい空気が通り抜け、桃子さんとぼくとの間に明らかな境界線が見えた。
「出て行ってほしいなんて、そんな。ただ、家賃をお願いできないかと思っただけで……」
「同じことだよ」
何を言っても聞いてもらえないだろうとは思っていたけれど、桃子さんに呆れられてしまうと、ぼくは自分がとても悪いことをした気分になった。リビングにいる桃子さんたちが遠くにいるように見えた。陽彩ちゃんがマグをつかみ、必死に食らいついている。陽彩ちゃんが飲みやすいようマグを傾けてあげているのは桃子さんだ。
桃子さんの言う通りだ。
陽彩ちゃんを置いて、桃子さんが外に出られるわけがない。
黒になんて言おう。そう思うと憂鬱でしかなかった。黒とは家賃の一件があってからできるだけ顔を合わせないようにしていた。けれど、宅配便を取りに出た時、トイレから出てきた黒と廊下で鉢合わせてしまった。
「ちゃんと仕事してくれたんだろうな」
いきなり威圧的に言われ、身が縮んだ。そのまま部屋に入ってくれればいい。願ったけれど、黒はすんなりとは部屋へ戻ってくれなかった。壁に寄りかかり、腕組みしてぼくを見ている。早く答えろ。目だけでそう言っていた。
「家賃のことは聞いたよ」
「でも……」
「……桃子さんが家賃を払うのは、今は無理だと思う」
正直に言った。
「無理って、どういうことだよ」
「そんな理由がまかり通るなら、俺だって家賃なんて払わないぞ」
「お前、管理人だろ。だったらちゃんと仕事してくれって」
「だいたい甘いんだよ。あの桃子ってやつも、お前も」
「俺はな、どんなことがあっても仕事を辞めたりしない。どうしてかわかるか? お前みたいなひきこもりの甘ちゃんとはちがうからだよ」
乱暴に扉を閉められる。
図星だった。ぼくはひきこもりで、管理人とは名ばかりで、家賃も払わずここで暮らしている。恥ずかしかった。
けれど、桃子さんはちがう。黒は桃子さんとぼくを一緒くたにしたけれど、同じにはしてほしくない。桃子さんは、甘えてなんかいない。たったひとりで陽彩ちゃんを育てている。
どうすればいいのだろう。
正直、ぼくにはわからない。
クジャクの羽根模様のベッドに背中を預け、天井を見つめた。ぐるぐると考えをめぐらせるけれど、何も浮かばない。
もしも桃子さんが家賃を払っていないことがわかったら、ほかのみんなはどう思うのだろう。パートをしながらできるだけ節約し、安い食材を選んで料理をしている緑川さんは? 学費を稼ぐため、アルバイトをしている青山さんは? もしも黒がこのことをみんなに喋ってしまったら、桃子さんが責められるだけでなく、ぼくだってここに居られなくなってしまうだろう。
孔雀夫人を憎らしく思った。そもそも桃子さんに家賃は払わなくていいと言ったのは孔雀夫人だ。あの義母のことだ。桃子さんのことだって、何も考えず、ただノリで「家に来なさいよ」とでも言ったのだろう。
いい加減な手引書だけで事情のある人を住まわせて、面倒なことは全部ぼくに押し付けて、自分は自由に世界中あちこち飛び回っているのだから腹が立つ。
「思っていることがあるなら言ってごらん」
声が聞こえ、はっとしてベッドから飛び起きた。一瞬、孔雀夫人が帰って来たのかと思ったけれど、すぐに勘違いだとわかった。扉はぴっちり閉まっていたし、ぼくはひとりだった。きっとクジャクの羽根模様の天井を見つめてグルグル考えていたせいだ。
「ああ、言ってやるよ」
「もう管理人なんてごめんだ」
大声で叫んでみたけれど、管理人を辞められるわけでもなければ、孔雀夫人が帰ってくるわけでもない。行き場のない声がクジャクの羽根模様の天井にただ吸い込まれていくだけだった。緑川さんと料理をしたり、青山さんと一緒になってシルバーとじゃれ合ったり、陽彩ちゃんの服をみんなで選んだりした日が遠い昔のことのように感じられた。
「ちょっと、管理人さんっ。大変よぉ」
緑川さんの叫び声で目を覚ました。あわててキッチンに行くと、桃子さんがいないという。
「朝ごはんの時間なのにおりてこないから部屋まで呼びに行ったの。そしたら陽彩ちゃんの声もしないでしょ。悪いと思ったけど、あたし、部屋に入ったのよ」
部屋は空っぽで、桃子さんも陽彩ちゃんもいなかったと言う。
「今まで桃子さんが朝ごはんに来ないことなんてなかったのに」
ぼくのせいだ。ぼくが桃子さんを困らせるようなことを言ったから、桃子さんは陽彩ちゃんを連れて出て行ってしまったのだ。そうでなければ桃子さんは今朝だってここに居た。
「ねぇ、管理人さん、桃子さんがどこへ行ったか聞いていない?」
緑川さんに見つめられ、思わず目を逸らした。
どうしよう。ぼくは、とんでもないことをしてしまった。
騒動を聞きつけて、青山さんもおりてきた。
「どこに行ったかわからないの?」
「さがしに行った方がいいんじゃない?」
「うるせぇな」
ぼやきながら部屋を出てきたのは黒だ。桃子さんがいなくなったというのに、その原因を作った張本人だというのに、顔色ひとつ変えず、うすら笑っている黒を呪いたくなった。ぎゅっと握ったこぶしで殴ってやりたい衝動を抑え、ぼくは精一杯黒を睨みつけた。
その時だった。
「こいつが追い出したんだろ」
黒がぼくを指さした。
緑川さんと青山さんがぼくを振り向いた。
「胡桃澤が家賃払ってないから、こいつが追い出したんだ」
「なんてこと」
「まじか」
緑川さんが悲鳴をあげた。
驚きと軽蔑の眼差しで、青山さんもぼくを見ている。
「ち、ちがうんだ」
言い訳のしようもなかった。緑川さんと青山さんの顔が次第にぼやけていく。
ああ、前にもこんなことがあった。あれは、たしかぼくが小学生の時だ。ぼくの机の中からユキちゃんの音楽の教科書が見つかった。ぼくが知らないうちに意地悪で誰かが入れたのだろう。けれど、そのことを誰にも話せないまま結局ぼくが盗んだことになってしまった。そのせいで、ぼくはクラスメイトから無視されるようになった。
どうしていつも上手くいかないのだろう。
何かがやさしく手に触れる感触がして、気づくと誰かがぼくの手を握っているみたいだった。だんだんとその手に力がこめられていく。ぼやけていた視界が少しずつ輪郭を取り戻す。緑川さんと青山さんがぼくを見ていた。
「あたしたちがさがしに行くから、管理人さんは家で待っていてくれる?」
「桃子さんが帰ってきたときに、居てくれたほうが安心だから」
救われた気持ちだった。桃子さんにひどいことを言って、桃子さんがいなくなって、責められたって仕方のないようなことばかりしてきたぼくに、まだやれることがあると言ってくれた。ぼくは、精一杯うなずいた。
リビングは一気ににぎやかになった。
「部屋から陽彩ちゃんの着替えとおむつ持ってきて」
「ベビーフードも持って行ったほうがいいよね。レトルトの」
「かぼちゃのおかゆと魚、どっちがいいかな」
「どっちも」
「おしりふきは入れた?」
まるで遠足にでも行くかのような騒ぎだった。パンパンになったリュックを緑川さんが背負い、桃子さんが行きそうな場所を青山さんがスマホの地図に打ち込んでいった。
玄関を出た二人がすぐにもどってきて、「思ったより風が冷たいから羽織るものを持ってきてほしい」と言われ、コートハンガーにかけてあった桃子さんの白いパーカーと陽彩ちゃんのピンク色のカーディガンを渡した。
桃子さんが見つかったら青山さんからLINEが入ることになっていた。どうか桃子さんと陽彩ちゃんがあたたかい場所で過ごせていますように。祈るような気持ちでスマホを見つめていた。
「大人なんだから、いなくなったくらいで心配するほどのことかよ」
黒がぼそっとつぶやいたのをぼくは無視した。面白くなさそうにチッと舌打ちして黒が部屋へ引っ込んだので、少しだけ気持ちが大きくなった。
とにかく早く桃子さんに帰ってきてほしかった。
桃子さんは、公園にも、スーパーにも、藤島工務店にもいなかった。とっくに昼を過ぎていた。桃子さんはご飯を食べただろうか。陽彩ちゃんは、おなかをすかせていないだろうか。考えだしたらきりがなかった。
青山さんから連絡があったのは、午後の二時過ぎで、桃子さんは無事見つかって、みんなで花子さんの家にいるというものだった。
ほっとして、どっと疲れが出た。
「ピザ、とった」
「食べたら帰るね」
青山さんのLINEには宅配ピザを囲んでみんなで食べている写真も添えられて、なんだか楽しそうだった。家に残ったぼくだけが仲間外れかと思うとなんだか損した気分だった。
夕方、花子さんがみんなを車で送って来た。せまい玄関はたちまち靴で埋め尽くされカラフルになった。黒に小言を言われる前に片づけるのは大変だったけれど、ようやく日常が戻って来たことに不思議と心が落ち着いた。
「シロくん、ちょっといい?」
花子さんに声をかけられた。キッチンで向かい合って座った。
「桃子さんに聞いたよ。家賃のこと」
「それで、シロくんはどう思っているの?」
聞かれると思っていた。けれど、どう答えていいかわからなかった。ぼくには正解がわからなかったし、目の前の問題は難しすぎた。
「わからないよ。桃子さんには陽彩ちゃんがいるし、部屋をタダで貸すのは違うと思うし」
正直に言うと、花子さんはふふふと笑った。
「答えはもうとっくにシロくんの中にあるはずだと思うけどな」
まるで花子さんは答えを知っているみたいな言い方だった。
「そうだ、これ」
花子さんから手渡された絵葉書は、孔雀夫人からだった。ギリシャのサントリーニ島。白壁と青い屋根の家々が断崖に沿って並んでいる。家がこんなことになっていることなんてつゆ知らず、のんびり自由にやっているかと思うと義母を恨めしく憎らしく思う。
イアの夕陽は世界一美しいわ。いつまでも見ていたいと思うけれどだめね。でもね、夜の帳に染まっていく空のごく一部だけ、穴があいたような場所ができて、それは激しく真っ赤に燃えているのよ。「わたしを忘れないで」って、ありったけの色を尽くして言っているみたい。
そう言えば、Shiroは昔からすぐ周りに染まってしまうところがあったけれど、名前をつけたわたしのせいかしらね。だとしたら、そんなつもりじゃなかったのよ。イアの夕陽みたいに、世界一美しいあなただけの色を出してもいいと思わない?
相変わらず適当なことばかり言っている。芸術家の言うことだとあきらめて、読み流しておくことにした。唯一、葉書に描かれた島の景色は美しく、孔雀夫人の言うように、息を呑むほど美しい夕陽が見られるのだろうと思った。
いつか自分の足で同じ場所に立ち、同じ景色を見てみたい。
勇気をふりしぼって黒の部屋をノックした。真っ黒な背景に黒のシャツとスラックス姿の黒が浮かび上がる。
「おお、ここに来たってことはちゃんと仕事してくれたんだろうな」
相変わらず嫌な言い方をする。
「はい」
「やっぱり今の桃子さんから家賃をとることはしたくありません」
何度も考えても同じ結論にしかならなかった。花子さんが言っていたもうとっくにぼくの中にあるという答えだった。
納得を得られない答えだとわかっていた。黒に叱られることも覚悟の上だった。桃子さんと陽彩ちゃんにはもう少し時間が必要だ。ぼくが考えて、そう結論を出した。
「は?」
黒が呆れた顔でぼくを見ている。肩を落とし、はぁっとわざとらしいため息をつく。
「そんなことを言うために来たのかよ。お前、自分が何を言っているのかわかっているのか。だったら時間の無駄だ。ちゃんと仕事をしてから出直して来い」
黒がドアノブに手をかけ、扉を閉めようとした。
「待ってください、あの」
口ごもっていると黒の表情がどんどん険しくなっていくのが暗がりでもわかる。けれど、もうひとつ伝えなければいけないことがあった。
「あの、ぼくが払います」
「働いて家賃を払います」
ちゃんと働いて家賃を払ってカラフルに住む。いつかはそうしなければいけないと思っていた。この家は孔雀夫人のものだし、ぼくはいつか自立しなければいけない。
驚いた黒が一瞬眉をひそめた。けれど、すぐに、真っ黒な瞳が意地悪く吊り上がった。
「へぇ。胡桃澤の家賃をお前が払うんだ」
「だったら俺の家賃もお前が払ってくれよ」
どうしてそうなるのだろう。桃子さんから家賃はとらないとさっき伝えたばかりじゃないか。爪あとがつくくらい強く両拳を握りしめ、叫びたい気持ちをぐっとこらえた。
「桃子さんの家賃をぼくが肩代わりするなんて、そんなこと言ってません」
「桃子さんには、家賃を払わないでいい理由がちゃんとあります」
「でも、ぼくには理由がありません」
「だから、ちゃんと働いて払います」
「は? ひきこもりが就職なんてできるのかよ」
痛いことを言う。ぼくだって、ちゃんと仕事を見つけられるか不安だ。けれど、そう決めたのだ。
「管理人だからと言って甘えるわけにはいきませんから」
できるだけ胸を張って言った。できた。ちゃんと言えた。
「勝手にしろ、馬鹿が」
呆れたようにそう言って、黒は扉を閉じてしまった。一気に緊張が解けたぼくはそのままへなへなと床に座り込んでしまった。
乾ききった喉に水を流し込もうとキッチンへ行くと、緑川さんも桃子さんも青山さんもいた。
「やったね、管理人さん」
黒とのやりとりを全部見られていたのだ。
「ありがとう」
桃子さんが頭を下げた。そんなことをされると照れる。コップに注いだ水を一気に喉に流し込むと変なところに入ってしまいむせて咳が止まらなくなった。桃子さんが笑いながらぼくの背中をトントン叩く。
「一緒に求人見る?」
そういう青山さんも就活中だ。「お願いします」と今度はぼくが青山さんに頭を下げた。「まちゅ!」とぼくを真似て陽彩ちゃんが叫び、みんなで笑い合った。
カラフルの日常が戻ってきた。




