第7章
朝六時。黒が起きる時間だ。ベッドメイクの布団がかぶさる音やクローゼットを開く音が壁越しに聞こえる。黒のポロシャツにスラックス。全身真っ黒な(緑川さんが言うには炭みたいな)格好で、冷蔵庫から500ミリリットルのペットボトルを掴み颯爽と出かけていく。毎日同じルーティンだ。1分のずれもない。機械みたいだ、と思う。
黒は、律儀に外からガチャリと鍵をかける。その音を聞き届けるとほっとする。肩の力がぬけ、全身が息を吹き返す。
朝日が差し込み、世界が動き出す。
賑やかでカラフルな一日の始まりだ。
緑川さんがキッチンにおりてきて、スクランブルエッグを作る。青山さんがゼリー飲料をくわえ、パタパタと出かけていく。青山さんは、大学へ行く前に必ず藤島工務店に寄っているらしい。猫のシルバーに朝ごはんをやるのだ。青山さんや藤島工務店の職人さんたちに可愛がられて大人になったシルバーは、まるまると太って立派な看板猫になっている。
眠そうな顔でキッチンにおりてくるのは桃子さんだ。陽彩ちゃんを抱っこしたまま緑川さんの作った朝食を食べる。桃子さんの口が動くのを見て、陽彩ちゃんもモグモグ口を動かし、だらりとよだれを垂らしている。
「はい、これ陽彩ちゃんのぶん」
緑川さんがすりつぶしたおかゆをあたためてテーブルに置く。桃子さんが作って冷凍しておいたものだ。桃子さんがスプーンですくって、ふうふう冷まして口元へ運ぶと、陽彩ちゃんはまだ歯の生えていない口であむあむと元気よく食べる。
陽彩ちゃんは、生命力にあふれている。
「今日もごきげんでちゅね」
緑川さんが話しかける。
「そんなことないわよ。さっきまでぐずってたんだから」
桃子さんがつっこみを入れる。最近、夜泣きがひどいらしい。おむつを変えても、ミルクを飲ませても、夜泣きはおさまらず、桃子さんがただひたすら抱っこしてあやし、陽彩ちゃんが泣き疲れて寝るのを待つのだという。
「眠いならすんなり寝てくれればいいのに」
そう言って、桃子さんはため息をつく。
「あはは、しようがないよ。赤ちゃんは泣くのが仕事だもの」
緑川さんが笑う。
「でもさ、結構気をつかうよ。ベビーカーで町を歩いててもさ、あからさまにじゃまだって顔されるし、電車の中で泣かれたりしたら、もう最悪。早く駅に着かないかって気が気じゃないんだから」
「そんなこと気にしなくたって、堂々としていればいいんだよ」
陽彩ちゃんが生まれてから、緑川さんはいつだって桃子さんの味方だ。
「外だけじゃないよ。家にいたってさ、墨田のやつ、陽彩がちょっと何か触っただけで嫌そうな顔するし、じゃあ、どうすればいいのって感じ」
「ああ、あの人は確かに嫌な感じだね」
「不愛想っていうか、何考えてるのかわかんないっていうか」
二人のおしゃべりは続く。
「この間だってリビングでテレビ見ていただけで睨まれたし」
「へぇ」
「陽彩が昼寝している間にちょっとドラマ見てただけだよ?」
「何か悪いことしました、わたし? って思っちゃった」
「もう何なんだろ、あの態度」
「それって最近よく言うなんとかハラみたいじゃないか」
「でしょ。でも、何ハラなんだろ。職場でもないからパワハラじゃないし、お客じゃないからカスハラでもないし」
「あ、でも管理人から見たらカスハラか」
桃子さんが突然ぼくを振り向いて言った。さっきまでぼくなんか見えていないみたいに二人で夢中で喋っていたのに、いきなり振られて動揺した。
「そうそう。管理人さん、あれは立派なカスハラだよ」
緑川さんもうなずいている。
下手なことは言えないと思った。緑川さんと桃子さんは、お互い文句を言いながらも楽し気に話している。話の腰を折るようなことを言えば、きっとその場を白けさせてしまう。
空気の読めないやつだと思われたくなかった。じゃあ、どうすればいい? 頭の中でグルグルと黒いものが絡まっていく。どうしよう。どうしたらいいかわからない。それでも……
この場は軽いノリで行ったほうがよさそうだ。
ぼくは、賭けた。
「ほんとですか。じゃ、ぼく、訴えてもいいってことですか?」
おちゃらけた感じでそう言うと、桃子さんの顔がぱっと明るくなった。
「そうよ。あんな人、追い出しちゃえ」
「たのむわ、管理人さん。あはは」
緑川さんにバンっと腰のあたりをたたかれた。二人とも大声で笑っている。よかった。上手くのれた。
その後は、不思議なくらいスルスルと言葉が出てきた。
「じゃ、ほんとに追い出しちゃおうかな」
ぼくが言うと、どんどんノリがよくなって、緑川さんも桃子さんも声をそろえて叫んだ。
「そうだ、そうだ。追い出せ、追い出せ」
まるで何かのデモみたいだ。
「よーし、追い出してやるぞー」
二人を真似て握りこぶしを振りあげ叫ぶとすっきりした。腹の中に貯めこんでいた鬱屈が一気に弾け吹き飛んでいく。それからしばらく黒のあることないこと言い合って三人で大笑いした。それは、「パートに行く時間だ」と緑川さんが席を立つまで続いた。
「きゃっ。ちょっとぉ、管理人さんっ」
シンクで皿を洗っていた緑川さんが叫んだ。見ると、シンクの蛇口を両手で必死に押さえている。
「水、止まらない」
手を離すと蛇口から噴水のように水が噴き出してくる。蛇口をめいっぱい「止」方向にひねり、ドレーン部分を見てみても何がどうなっているかわからない。藤島工務店に連絡するしかないが、こんな朝早く電話に出てくれるだろうか。
出かけなければいけない緑川さんに代わってぼくが蛇口をおさえ、桃子さんに電話をかけてもらった。
運よく社長さんが電話に出てくれ、水道の元栓を閉めておくよう言われ、場所とやり方を教えてもらった。溢れていた水がようやく止まって、ほっとしてキッチンにもどると、陽彩ちゃんが桃子さんのスマホを握って遊んでいた。さっきの桃子さんさながら、スマホにむかってなにやら必死でしゃべっていて(まだ言葉を話せない陽彩ちゃんは喃語なのだけれど)笑ってしまった。
まもなく、社長さん自らカラフルに来てくれた。
「あいにく職人がみんな出払っててね」
笑顔でそう言い、藤島さんはキッチンの蛇口や水道管を丁寧に点検し、あっという間に直してしまった。身体の一部みたいに器用に工具を使いこなす藤島さんをかっこいいと思った。
「手に職があるっていいな」
そう思った。ひきこもりのぼくなんかが憧れることすらおこがましいのかもしれないけれど、いつか藤島さんのように自分の手で誰かの役に立てるようになれたらと思う。
「これでよしっと」
藤島さんが立ちあがり、作業服の腕で額の汗をぬぐった。
「もう大丈夫だ。部品も全部交換しておいたから」
「ありがとうございました」
「そう言えば、シロくんは孔雀夫人の部屋をそのまま使っているんだって? クロスは変えなくていいのか」
唐突に聞かれて驚いた。
義母の孔雀夫人からは天井も壁紙も変えていいと言われている。最初来たときはむせるような香水の香りと部屋を囲むように広がっているクジャクの羽根模様に押しつぶされそうで窮屈に感じていた。けれど、暮らしているうちに気にならなくなった。住めば都とはこういうことを言うものなのか。今ではクジャクの羽根模様だらけの部屋も悪くないと思っている。壁越しに黒の生活音が気になるけれど、部屋にいると不思議と落ち着いて、夜もぐっすりと眠れている。
「はい」
ぼくがうなずくと、
「そうか。ならよかった。必要な時はいつでも頼んでくれ」
藤島さんはそう言って、帰って行った。
それからぼくは外に出た。緑川さんがスパイスカレーに挑戦したいと言っていたので材料を買いに行くのだ。陽彩ちゃんのおむつも買ってきてほしいと頼まれている。「助かるわ」と歌うように言って、最近はなんでもぼくに頼むのだから、桃子さんは本当に調子がいい。
藤島さんの車が走って行った道をゆっくりと歩き出す。
日差しの中に少しだけ秋の気配を感じた。
夕方、キッチンで家計簿をつけていた。家賃や光熱費などカラフルに関わるお金を記録する。書き方は花子さんから教わった。一人暮らしの時と違い、五人も暮らしているシェアハウスの光熱費はすごい金額になる。家賃で足りないものは孔雀夫人の私費で賄われている。カラフルは孔雀夫人のアート作品だ。とはいえ、なかなかの維持費に驚くばかりだ。
ガチャリと鍵の開く音がして心臓が飛び跳ねる。うっかり時間を忘れていた。午後六時。黒が帰って来たのだ。毎日同じ時刻に黒は仕事から帰ってくる。どんな仕事をしているのか、ぼくは知らないけれど、残業もない落ち着いた職場なのだろう。
「おい、管理人。靴、散らかってるぞ」
いきなり大声で指摘され、あわてて玄関へ走る。すれ違いざまに一瞬目が合い背筋が凍った。今朝、桃子さんたちとさんざん悪口を言ったことを思い出し、あの場に黒はいなかったはずなのに、もしも聞かれていたらどうしようと考えてしまい震えが止まらなくなった。
とにかく靴を片づけなくては。
隠れるようにぼくはかがんで靴を並べた。
ベビーカーを置くようになって、玄関は前より狭くなった。大人五人の靴があるだけでいっぱいになってしまう。黒が怒るのも無理なかった。この家に最後に帰って来た時、すでに足の踏み場もなくなっていた。
黒や茶色の靴の山の中に、花が咲いたように明るい色の靴があった。十センチほどの小さな靴は陽彩ちゃんのものだ。やわらかいデニム地の靴。ストラップには七色の虹の絵が描かれている。先月の給料日に緑川さんが買ってきたものだ。
「さすがにまだ歩かないよ」
そう言いながらも桃子さんは嬉しそうだった。陽彩ちゃんは日に日に成長し、つかまり立ちもできるようになった。そのことは、ぼくたちの日常に驚きと喜びを与えたし、どんなにぐずって泣かれても、陽彩ちゃんのおだやかな寝顔を見れば全部ちゃらになってしまうのだった。
「おい」
キッチンから黒の声がした。今度は何だと言うのだろう。あわててキッチンにもどると、黒が鬼の形相で仁王立ちしていた。
「なんだよ、これ」
黒が、テーブルの上に開いたままの家計簿を叩いた。
「え?」
「どういうことだか聞いてるんだよ」
何のことだかわからなかった。
「家賃だよ、家賃」
「胡桃澤桃子の家賃が0円ってどういうことだよ」




