第6章
保育園には、いつも花子さんが迎えに来た。たまに孔雀夫人が来ることもあったけれど、ぼくは花子さんのお迎えがよかった。キィィっと古く錆びついた門が押し開けられ、孔雀夫人が入ってくると、園庭の雰囲気が一変してしまったから。
あちこち絵の具の飛び散ったクジャク模様のワンピースをひらひらさせて園庭を歩いてくる孔雀夫人は、突如現れた魔女のようだった。遊んでいた子供たちがピタリと止まり、顔をこわばらせたまま孔雀夫人を見上げる。
「だれ?」
勇気のある子が声を出す。マリちゃんだ。いったい何の目的で、誰を連れにやってきたのかという顔をしている。
「シロのおむかえに来たのよ」
孔雀夫人の真っ赤な口紅が動く。マリちゃんが大きくうなずいてぼくを呼んだ。
「シロくん、おばあちゃんが来たよ」
ぼくがなかなか姿を現さないので、マリちゃんはもう一度さけんだ。
「シロくん、おばあちゃんが来たよ」
すのこの上に置いていた黄色いカバンを取ってくると、子供たちはみな元の遊びにもどっていた。マリちゃんが色オニの輪を抜けて、孔雀夫人に手をひかれ帰って行くぼくを門まで見送りに来た。バイバイ。おまじないのように手を振った。
「何をそんなにむくれているの?」
よほど不機嫌な顔をしていたのだろう。孔雀夫人が言った。
「思っていることがあるなら言ってごらん」
ぼくが振り切った手をいきなりぎゅっと掴まれた。歩道ギリギリを大きな車が過ぎて行った。
「あぶないよ」
孔雀夫人が言った。それからもう一度腰を曲げてぼくを見た。
「思っていることがあるなら言ってごらん」
「……」
「シロ」
孔雀夫人がつないでいた手を軽く揺らした。つまっているものを出せとでもいう風に。
「……花子さんがよかった」
下を向いたまま、ぼくは言った。孔雀夫人の手が一瞬ピクッと震え、ぼくから離れた。それで、ぼくは自分が悪いことを言ったのだとわかった。肩にきゅっと力が入った。
叱られる。ぶたれるかもしれない。
「そうか、そうか」
孔雀夫人がしゃがんでぼくをのぞきこんでいた。クジャクの羽根模様のマニキュアを塗った長い爪のある手でぼくのこぶしをかわるがわる包み、「そうか、そうか」と呪文のように繰り返していた。ひんやりと冷たい手だった。
ぼくは目を逸らした。
「そうか、そうか」
魔女に手を引かれ、ぼくは再び歩き出した。
また同じ夢を見ていた。今まで忘れていた子供の頃の記憶。なぜだろう。クジャクの羽根模様の天井を見つめ、ぼくは考える。桃子さんが赤ちゃんを産んでこの家にもどってきたからかもしれない。陽彩ちゃんを見ていると、ぼくにもあんなに小さい赤ちゃんだった頃があるのかと思う時がある。
それから孔雀夫人が保育園に迎えにくることはなかった。保育園の卒園式も、小学校の入学式も、運動会も授業参観も、来てくれたのは花子さんだ。「花子さんがいい」と言ったのはぼくだ。それなのに、自分が言ったことなんてすっかり忘れて、思春期のぼくは孔雀夫人に当たり散らした。
あれは、たしか孔雀夫人が偶然テレビに出ているのを見た時だった。自身がデザインしたTシャツを途上国に寄付したことで、ニュース番組で特集されていた。
「今回のTシャツにはアーティストならではのこだわりもあるそうですね」
「ええ。遠くから見るとすべて同じデザインのように見えるかもしれないけれど、実は、一着ずつワンポイント変えているんです。オリジナルといった点にもこだわりましたが、お互いのちがうところを見つけるのも楽しいでしょう」
孔雀夫人は嬉々としてインタビューに答えていた。自分はさも善いことをしたという顔をしているのが気に入らなかったし、腹立たしかった。
服を寄付したからなんだと言うのだ。それで途上国の子供たちが救われるとでも勘違いしているのだったらとんでもない偽善者だ。
ぼくのことだって。
恵まれない子を施設から引き取りましたって、自分は誰からも尊敬される素晴らしい人間なんだって、世間にただそう言いたいだけなのだろう。そのくせ面倒なことは全部花子さんに押し付けて、自分はアトリエにこもって制作し、仕事だと言ってしょっちゅう家を空け飛び回っている。
ぼくのことなんてほったらかしだ。
孔雀夫人が本当はどんなひどい人間なのかばらしてやりたい気持ちだった。
「引き取ってくれなんて頼んでない」
たしか夕食の時だった。何かの会話のきっかけで、ぼくは言い放ち、席を立った。
「そうか、そうか」
孔雀夫人が受け流したので、ぼくは余計に腹が立った。救いのない孤独と虚しさがぼくの中で巨大化し、ぼくのイライラは頂点に達していた。衝動的だった。アトリエに立てかけてあった絵を目がけ、勢いよくバケツの絵の具をぶちまけたのは。
「きゃあっ」
孔雀夫人が叫んだときには、絵には真っ黒な大きなシミができていた。傷ついた涙のように汚れた黒い筋がいくつも垂れていた。
「シロ、あなたって子は、なんてことしたの」
「新社屋に飾るために依頼された大事な絵だったのよ」
はじめて孔雀夫人に怒鳴られた。けれど、ぼくの怒りはおさまらなかった。孔雀夫人にとって大事なのは自分の作品で、ぼくなんてどうでもいいのだ。そのことが悔しかったし、悲しかった。自室にこもり、壁に寄りかかって膝を抱えた。ひどいことをしたと反省していたし、謝らなければいけないともわかっていた。けれど、心のどこかに孔雀夫人を許せないぼくがいるのも確かだった。必死で絵を描き直しているのだろう。壁越しにかすかに筆の走る音が聞こえた。いけないぼくは、それすらも恨めしく思ってしまうのだった。
それからしばらくぼくは孔雀夫人とひとことも口をきかなかった。
「いいかげん謝ったら?」
花子さんに何度もそう言われたけれど、ぼくは謝らなかった。事件から何週間も、何か月も経って、さすがにぼくも冷静になっていた。けれど、一方的にぼくだけ謝るのはちがう気がしたし、孔雀夫人と向き合うきっかけもなかった。
「意外と頑固なのね」
花子さんが言った。
「そういうとこ、孔雀夫人に似てるかも」
おでこをつつかれた。いやなこと言う。
高校受験のための三者面談には花子さんではなく孔雀夫人が来ることになった。なんとなく想像はしていたけれど、案の定、担任の浅岡はぼくに美術学校を勧めてきた。
「お母様は芸術家でいらっしゃるけれど、君も芸術に興味関心があるなら公立でも美術に力を入れている学校があるよ」
ため息が出た。芸術なんてどうでもいい。
「いえ。ぼくは、高校を卒業したら、普通に仕事したいと思ってます」
「普通って?」
「普通の会社に就職できればいいです」
「そう。それで、お母様は?」
「あら。進路を決めるのはわたしではありませんよ、先生」
孔雀夫人はそう言って笑った。浅岡に対し、ちょっと失礼な言い方だとは思ったけれど、他の親みたいにあれこれ口出しして来ないのがよかった。すでに三者面談を終えたクラスメイトからは「B高校に行きたいのに親がどうしてもA高校に行けと言ってくる」など愚痴をいくつも聞かされていた。
就職実績のいい高校をいくつか選んでもらった。見学に行ってみるといいと言われたけれど、そこまでするのも面倒で、合格したところにそのまま進学を決めた。楽しくもなかったが、特段いやなこともなく、ただ日常を積み重ね卒業した。就職先にもこだわらず、求人が来ていた会社の中から適当にピックアップして面接を受け、内定をもらったところにそのまま就職した。
どんなところでもよかった。早く大人になって、孔雀夫人の手から離れたかった。
会社へ三駅ほどのところに家賃の安いアパートを見つけ即入居した。
「シロくんが家を出てしまったら、孔雀夫人はさびしがるわね」
花子さんはそんなことを言ったが、そんなことはちっともなかった。ぼくが家を出た後すぐ、孔雀夫人は躊躇なく自宅を取り壊した。カラフルを建てるためだ。シェアハウスにするという。
「シロの部屋もとっておこうか」
孔雀夫人が電話をかけてきたけれど断った。それでは引っ越した意味がない。ぼくが一人暮らしをはじめたのは、継母である孔雀夫人から自立することが目的なのだから。
けれど、入社して三か月ほどたった頃から徐々にしんどくなっていった。配属されたのは営業の部門で、ひとりひとりノルマがあった。営業成績は毎月事務所の壁に貼り出され、成績が芳しくなくグラフが短いと悪目立ちした。成績が悪い日が続くと先輩に呼び出された。
「この数字、どうするの?」
「うちの課で、お前だけだよ」
言葉が出なかった。
「どうするのかって聞いてるんだよ」
先輩が声を荒げた。
「すみません。今月はもっとがんばりますから」
苦し紛れに言う。けれど、先輩は許してくれなかった。
「がんばる、がんばるって、お前、先週もそう言ったよね。俺はね、どうやって成績をあげるのかって聞いてんの。だいたいお前、一日何軒まわっているんだ?」
「……五軒くらいは」
「は? 一日働いていて、たったの五軒?」
「一日あれば最低でも十軒は回れるだろう。俺はな、残業してまでやれなんて言ってない。ちゃんとやりさえすればできることをどうしてお前はやっていないんだって言ってるんだ」
「それとも、お前、さぼっているのか」
「ああ、そうなんだな。俺が見ていないからって、お前はさぼっているんだ」
ちがいます。ぼくは、さぼってなんかいません。そう言いたいのに、言葉が出ない。そのうちにどんどんちがう方向に話を持っていかれてしまう。
「ぼくは、さぼってなんかいません」
やっとの思いで伝えた。
「そんなことどうだっていいんだよ」
「結果を出せって言ってるのがわかんないのか」
バンっと激しい音がして、目の前が真っ暗になった。先輩がテーブルを叩いたのだった。
その日から顔のない男に怒鳴られたり殴られたりする夢を頻繁に見るようになった。営業から帰ってきて事務所にいる時にも、「役立たず」とか「消えちまえ」とかその場にいない人たちの声まで聞こえるようになった。そうするうちに、仕事に行けなくなって、一歩も外へ出られなくなった。
「しばらくゆっくりするといいよ」
心配して花子さんがアパートに来てくれた。孔雀夫人に頼まれたと言って、野菜や果物を冷蔵庫いっぱい入れた。
「ここだけすごくカラフルになったわね」
花子さんはそう言って微笑んだ。たしかに殺風景で暗い部屋で、冷蔵庫の中だけがやたらピカピカ光っていた。
「でも、食べちゃったらおしまいじゃないか」
皮肉をこめてぼくが言うと、
「そうしたらまた買ってきてあげる」
花子さんがいたずらっぽくウィンクした。
「孔雀夫人から伝言」
帰り際、花子さんが言った。
「なに?」
「思っていることがあるなら言ってごらん」
はっとして、一気に落ち込んだ。就職して、一人暮らしをして、すっかり自立した気になっていたけれど、子供の頃からぼくはちっとも変わってなんかいなかった。悔しくて、もどかしかった。
孔雀夫人が直接アパートに来ることはなかったけれど、花子さんは頻繁にやって来た。孔雀夫人から頼まれたと言って、いろんなものを持って現れた。手作りの総菜や寒くなったら毛布も差し入れてくれた。真っ白なキャンバスを持ってこられた時はさすがに驚いた。
「なんでも描いたらいいって、孔雀夫人が」
「どういうこと?」
「ほら、昔みたいに」
花子さんはにやにやした。中学生だったぼくが夫人の絵に絵の具をぶちまけ台無しにした時のことを今でも覚えているのだ。
まったくアーティストのやることは気が知れない。いったいどうすればいいと言うのだろう。キャンバスを斜めにしたり、裏返したりして、しばらく遊んでいたけれど、そんなことをしていてもすぐに飽きてしまい、思い切りベッドの下へ押し込んだ。
そんな矢先、孔雀夫人からカラフルの管理人を引き受けてほしいと連絡があった。
泣き声が聞こえる。陽彩ちゃんだ。キッチンへ様子を見に行くと、桃子さんがパタパタとミルクの用意をしていた。
「もう、なんでよぉ」
なかなか適温にならないと、ブンブン哺乳瓶をふって冷ましている。
この頃、桃子さんは少し神経質になっていると思う。夜中もしょっちゅう陽彩ちゃんに起こされるから、ちゃんと眠れていないせいもあるかもしれない。それだけじゃなくても、まわりの住人に気を遣ってか陽彩ちゃんが少しでも声をあげるとなんとか泣き止ませようと必死になっている。
「大丈夫。赤ちゃんは泣くのが仕事だから」
そんな桃子さんに緑川さんは言う。
「赤ちゃんはね、泣くことでちゃんと自分の気持ちを伝えているんだよ」
ぼくがすっかり感心していると、
「管理人さんも赤ちゃんの時はいっぱい泣いたんだろうね」
緑川さんが言った。
「ほんと。びぃびぃ泣いてたりして」
桃子さんも冗談を言って笑った。まったく意地が悪い。
そうか。そうだったのか。
だとしたら、ぼくはいつからちゃんと気持ちを伝えることができなくなってしまったのだろうか。
「思っていることがあるなら言ってごらん」
頭の中で、孔雀夫人の声が聞こえた。
夏の真っ盛り、花子さんから渡された絵葉書は、白壁一面に青い鉢植えが並んだ写真だった。どの鉢植えにも真っ赤な可愛らしい花が咲いている。スペイン。コルドバのパティオ。
Shiro、元気にしている? 美しいフデリアの小径を散歩するのはまるで絵の中を散歩しているようだわ。白壁に色とりどりの花が咲き乱れるプランターバスケットが並ぶパティオは本当にすてきなの。どのプランターからもおしゃべりが聞こえてきそうよ。
相変わらず気楽なものだ。
夜、キッチンに放っておいた絵葉書をそっと部屋に片付けた。夫人から届いた葉書は、全部外国のクッキー缶の中にしまってある。子供の頃から孔雀夫人はよく絵葉書を送って来た。ぼくが知らない外国の写真も多く、古いものはまわりがすっかり黄ばんでしまっている。
長旅とは言っていたけれど、孔雀夫人はいったいいつ戻ってくるのだろう。ふとぼくは継母に会いたくなった。けれど、孔雀夫人のことだ。ぼくに管理人を押し付けて、すっかり旅を楽しんでいるにちがいない。
「スペインでもどこでも好きなだけ行っていればいいさ」
思わず投げやりな言葉が出てしまって、はっとした。これじゃあ、あの日とまったく同じじゃないか。
花子さんがよかった。
本当は、孔雀夫人が来てくれてうれしかった。この人がぼくのお母さんなんだって、マリちゃんにも、ほかのみんなにも、ちゃんとそう言いたかったのに。




