第5章
氏名、青山蒼。性別、男・女・答えたくない。バイトに応募するだけでどうしてこんな情報が必要なのだろう。男ではないから、わたしは女だ。けれど、女だと胸をはって言う自信もない。かといって、「答えたくない」にマルをつけるなんて自意識過剰に思われそうでもっと嫌だ。
三人きょうだいの末っ子に生まれた。兄が二人。はじめての女の子だったが、ちやほやされた記憶はない。工場勤務の父と専業主婦の母。決して裕福な家庭ではなかった。女の子だからと言ってフリルやリボンのついたブラウスやスカートを買ってもらったことなどなく、兄二人のお下がりばかり着せられていた。三番目の男の子として育てられたようなものだ。
遊び相手は兄の友達ばかりで、ケイドロにドッジボール、野球にバスケと男の子の遊びしかしたことがない。生まれつきの負けん気の強さで小学校までは十分互角に戦えた。けれど、全力で挑んでも男の子たちにかなわない時はあって、悔しくて泣くと、「男のくせに泣いてらぁ」とからかわれ、泣いている妹を面倒だと思った兄たちは、わたしを公園に置き去りにした。
泣きべそをかいて家に帰り、兄がわたしにどんな仕打ちをしたかを台所にいる母に訴えた。けれど、母はそのたびにうんざりした顔で言うのだった。
「いい加減、泣き止みなさい。みっともない」
父そっくりの顔立ちをしていたせいもある。閉じているか開いているかもわからない細い目はメダカのようだったし、だんご鼻につんと尖った顎先。おせじにも可愛いと言える見た目ではなかった。生まれつき発育がよく、同級生の男の子より体も大きかった。小学校を卒業するまで背の順で並ぶときは必ず一番後ろだった。朝礼の時、前列の男子から振り向きざまに「男」とささやかれたこともある。思わず睨み返してやったが、その子は舌を出し、面白そうに首をすくめただけだった。
みっともない。
母にそう言われてから、わたしは決して泣かなかった。男の子たちは、何かとわたしにちょっかいを出しからかってきたけれど、わたしは決して泣かなかった。そして、何を言われてもわたしが泣かないことがわかると、男の子たちはつまらなくなったのかそのうち何も言わなくなった。
中学に入ると、制服はスカート(これが子供時代、唯一のお下がりでない服だった)だった。わたしは初めて女子のグループに入った。麻衣、優花、理央とわたしの四人。お互いのキャラを家族に見立て、麻衣を「ママ」、優花を「おねえちゃん」、理央を「赤ちゃん」と呼んだ。わたしは「父ちゃん」だった。お兄ちゃんでもパパでもなく、トーチャン。
それでも麻衣たちと登下校し、一緒に話すのは楽しかった。テレビや音楽の話題で盛り上がった。ファミレスでテスト勉強し、お互いの部活が終わるまで教室で待った。はじめて親友と呼べる、しかも女の子の友達ができたことがわたしは嬉しかった。
わたしだけ除かれたLINEグループの存在を知るまでは。
日曜日、理央がクラスの男子と仲良さそうに歩いているのを偶然目撃してしまったわたしは、麻衣たちに教えなきゃとLINEを送った。まるでスクープ現場をおさえた記者みたいに、高揚した気分で文字を打った。
聞いて!
理央、彼氏いるよ。
二人でいるとこ見ちゃった。
送信ボタンを押すと、すぐに既読がついた。うそ。きゃーっ、全然知らない。彼氏って誰? 驚いた二人からきっとこんなLINEがくるはずだ。そう思ってワクワクした。それなのに、
そだよ。
三組の山崎くんでしょ。
麻衣や優花からの返信は、わたしが想像していたものではなかった。知らないのはわたしだけだった。いったいいつ麻衣や優花は知ったのだろう。なぜわたしにだけ話してくれなかったのだろう。
なんで教えてくれなかったの?
問い詰めるように送ると、ポンポンと吹き出しが浮かび上がった。
普通、父ちゃんには言わないでしょ
ママには言うけど、父ちゃんには、ちょっとね
興奮してLINEを送った自分が恥ずかしくなった。麻衣や優花はだいぶ前から理央の恋愛相談に乗っていたという。それで、トーチャンを除いたLINEグループの存在を知った。ショックだった。親友だと思っていたのに、わたしだけ外されていた。いっそ怒りをぶちまけて、麻衣も優花も理央も、全員殴ってやりたかった。「もう知らない」と言い放ち、離れられたらスカッとするだろう。
けれど、わたしはそうしなかった。学校という場所は、誰かと一緒にいなければ、どこかのグループに所属しなければ生きられない、あまりにも特殊な世界だった。ひとりになる勇気はなかった。その代わり、教室で息継ぎをするためにわたしが考えたこと。
トーチャンキャラを演じ続ける。
それで、二人にLINEを返した。
そうか、そうだよねぇ。
やっぱ彼氏のこととか父ちゃんには言えないかぁ。
その後も麻衣が体操着を忘れたと言ったら貸してやり、優花の掃除当番を代わり、理央が彼氏と別れた時には泣き叫ぶ娘をよしよしと抱きしめてやった。おかげで卒業式のサイン帳には麻衣たちからトーチャンへの愛の言葉が並んだ。
これからもわたしたちの頼れるトーチャンでいてね
人生において期待されるキャラでいることは大事なことだ。痛い中学時代にわたしが学んだことだった。
高校では、ショートカットでクールな八方美人を演じた。スカートを選ぶ女子が圧倒的に多い中で、わたしはパンツスタイルの制服を選んだ。演劇部に入り、男役を買って出ると、ハマり役にカーテンコールで女子の黄色い声援を浴びた。
「蒼くん、かっこいい」
トーチャンとは呼ばれなくなった代わりに、わたしの愛称は蒼くんになった。女子生徒からファンレターを渡されたり、告白されたこともある。休日に兄のお下がりを着て出かけてもお洒落だと賞賛された。
学校で、蒼くんでいることは生きやすかった。だから、わたしは常に蒼くんならどう振舞うかよく考えた。たとえば教室で指名され答える時も、買い物をする時も。そうするうちに、わたしはどんどん蒼くんになっていった。
蒼くんでいることは、母の受けもよかった。
「うちなんか三人とも男きょうだいみたいなものよ」
母は、近所のおばさんたちによくそう言って笑った。ちっとも女の子らしくない娘。けれど、内心わたしがほかの女の子たちのように化粧品や衣服にお金を遣ったりしないことに安堵していたにちがいなかった。
一度だけ、蒼くんでいることに失敗したことがある。その日に限って、いつもは何も見ずに素通りする花屋の前でわたしは立ち止まってしまった。店先に並んだリンドウの花がとてもすてきだったから。ラッパのように開いた花弁は紫に近い青色をしていた。
「きれい」
思わず漏れてしまった声を店員さんは聞き逃さなかった。
「すてきでしょう? わたしもこの花が大好きなのよ。野菊の墓っていう小説にも出てくるの。主人公の民子がね、恋い慕う政夫さんに、あなたはリンドウのような人だって言うの」
タイトルは聞いたことがあったけれど、読んだことはなかった。
「花言葉はね、どんな時も寄り添ってくれる愛しい人」
そう言われると、ますますリンドウが欲しくなった。群生せず、単独で自生する植物だということも、どこか自分に似ている気がした。家には花瓶など洒落たものはないけれど、探せばペットボトルのひとつくらい見つけられるだろう。財布の中の小銭をかき集め、わたしはリンドウを一輪握りしめて帰った。
アパートの下で母が近所の人たちと喋っていた。
「あら、お帰り」
母のハイトーンヴォイスが飛んできた。近所の人たちと話すときのよそ行きの声。それからわたしが手にしていた花に気づいて言った。
「何それ」
顔がかっと熱くなる。母に見られたくなかった。そのまま背中を向けてアパートの階段を登った。
「ま、お花なんてすてきな趣味」
「蒼ちゃんだって、やっぱり女の子らしいところがあるのねぇ」
近所のおばさんたちが口々に母をほめそやかす。すると、母が言った。
「いやだ。あの子ったら、色気づいちゃって」
憎しみの滲んだ冷たい声だった。それで、わたしは自分がとんでもない間違いをしたことに気づいた。どうしてわたしは花なんか買ってしまったのだろう。ちっとも似合わないのに。蒼くんが花を買うキャラかどうかなんて、よく考えればわかることだったのに。
部屋に入るなり、リンドウをゴミ箱に捨てた。わたしはなんて馬鹿だったのだろう。毎日水を変え、ずっとそばで眺めていたかったのに。わたしはただゴミ箱の中で萎びていく花を見つめていることしかできなかった。
カラフルに入居を決めたのは、家賃も格安で、大学にも歩いて通える場所だったから。学費は奨学金でまかない、生活費は自分で稼ぐこと。それが大学へ進学するための条件だった。不動産屋を何十件も巡り、やっと見つけたのがカラフルだった。アーティスト物件でシェアハウス。そんな物件があるなんてはじめて聞いた。
キッチンやバスルームが共有なのは難だけど、大学まで交通費もかからないし、料理好きの入居者がいるから好き嫌いさえなければ食費も浮くと言う。空いている二階の部屋に即入居を決めた。
大家の孔雀夫人は、祖母と同じくらいの年齢だろうか。同じ家の一階に住んでいた。クジャクの羽根をペイズリー風にデザインしたワンピースを着ている小柄な女性だった。ざっくばらんな性格であまり口うるさくないのも心地よかった。
部屋は好きにカスタマイズしていいと言われ、契約したその日に藤島工務店から来たという職人が部屋で待ちかまえていた。どうしよう。壁紙は、天井は、何色にしたらいいだろうか。カタログには、色や質感のちがう壁紙のサンプルが数えきれないほど綴じられている。
蒼くんならどうするのだろう。
いつもの癖でわたしは考えていた。大学でのキャラはまだ決めていなかったけれど、蒼くんでいれば安全だとなんとなく思っていた。
「好きな色にしていいのよ」
孔雀夫人が言った。
「わたしの?」
「そう、あなたの好きな色」
そう言われても急には思いつかない。蒼くんに似合う色は何色だろう。
「どんな色がいいでしょうか」
気づいたら夫人に聞き返していた。
「あらいやだ。あなたの好きな色はあなただけが知っているというのに」
孔雀夫人は微笑んだ。それから耳に手をあて、そっと目を閉じ、孔雀夫人はわたしの答えをじっと待っていた。
「青、かな」
わたしは言った。その時、まぶたに思い浮かんだ色。
「すてき!」
夫人は小さく叫んで、うっとりとした。
「ねぇ、教えて。どんな青? 青と言っても数えきれないほどあるじゃない? ラピスラズリにエジプシャンブルー。空の青、海の青。どれひとつ同じ青じゃないし、時間でも変化するのね。ああ、なんて素敵!」
わたしが呆気にとられていると、夫人は「あら、ごめんなさい」とはにかんだ。
「今はあなたの好きな青色を選ぶ時間だったわね」
孔雀夫人がもう一度目を閉じた。わたしの声を聞くため、耳を澄ませる。
「…リンドウの」
「リンドウの?」
「リンドウの青」
トーチャンでも蒼くんでもないわたしが、心からきれいだと思って手にした青。あの日、守ることができなかった花の色。
「すてき!」
孔雀夫人が叫んだ。こんなふうに誰かから肯定されたのは初めてで、くすぐったいような居心地が悪い気分だ。
やがてわたしの部屋は、リンドウを彷彿とさせる青紫の落ち着いた雰囲気の部屋に仕上がった。孔雀夫人が描きあげたばかりだと言って持ってきたフレームをベッドサイドに飾った。水彩で描かれたリンドウは、まるであの日の花が生き返ったみたいだった。
夜、ベッドにあおむけになって天井を見ていた。ふうっと長く息を吐いて、やっぱりここは落ち着くなと思った。じんわりとあたたかいものが耳に流れていくのに気づき、あわてて耳をおさえた。泣いていたのだ。自分が泣こうと思わなくても、勝手に涙が出ることがあるのだとはじめて知った。
みっともない。
思い出したら笑ってしまった。それで、わたしは笑いながらまた泣いた。泣いたのなんて何年ぶりだろう。わたしはまだ自分の中にこんなにたくさん涙が残っていたことにびっくりしたし、ほっともした。もう一度、ふうっと大きく息を吐いてから、部屋の空気をたっぷりと吸うと、わたしだけが知っているリンドウの香りが鼻腔に届いた。
どんな時もあなたに寄り添う。
もうだいじょうぶ。ここは安心な場所だ。
バイトの店先に猫が捨てられていたのは、開店前の朝のことだった。掃除をするために、ほうきとチリトリを持って外に出ると、出勤する時にはなかったダンボールが置かれていて、中には子猫がまるまっていた。まだ生まれたばかりの、手のひらに乗るくらいの大きさの子猫。ぬれた灰色の毛がまるでネズミみたいだった。
わたしは店で飼えないか店長に聞いた。震える子猫の身体をさすってやりながら店長はしばらく考えていた。
「さすがに店では飼えないしなぁ」
「猫カフェだってあるのに?」
「そりゃそうだけど、うちは飲食店だし、猫嫌いのお客さんもいるだろうしさ」
そんなやりとりのあと、店前に貼り紙をして、置いておくことにした。何人もの人が前を通ったけれど、誰ももらってくれる人はいなかった。夕暮れが近づくと、おとなしかった子猫がミィミィと甲高い声で鳴き始めた。「助けて」と叫んでいるみたいだった。
こんな小さな身体で。
誰かが見捨てたら死んでしまう。
「わたしが連れて帰ります」
気づいた時にはそう言っていた。言ってしまってから、カラフルの住人たちがなんて言うか不安になった。緑川さんは賛成してくれるとして、赤ちゃんを産んで戻ってきたら桃子さんは嫌がるかもしれない。最近引っ越してきた黒は一番うるさそうだ。今すぐ出て行けと怒鳴られそうだ。
孔雀夫人ならいい案を出してくれそうな気がするけれど、今の管理人はどこか頼りなかった。わたしに会った時だって、ちょっと睨みをきかせただけでビビッていたし、この間も黒にクレームを言われておどおどしていた。
黙って飼うのは気が引けるけれど、仕方ない。わたしが部屋で世話するしかない。まだ小さい子猫だ。隣室まで聞こえるような大きな声は出さないだろうし、ダンボールの中で食べたり眠ったりするだけなら誰に迷惑をかけることもないはずだ。
どんな時もあなたに寄り添う。
もう決めたのだから。
キッチンに誰も居ない時間を狙ってカラフルに戻った。部屋の隅にダンボールを置き、子猫の育て方をネットで調べると、ミネラルウォーターや牛乳はおなかを壊す原因になるから絶対にやってはいけないらしい。
マグカップに水道水を注いでせっせと運んだ。指を湿らせ、子猫の口元にそっと近づけると、思ったよりずっと強い力で吸い付いてきた。そのたびにちゃんと生きているんだと実感できて嬉しかった。
「えっと、あの、青山さん、猫飼っていますか」
部屋にやってきた管理人のシロを一度は追い返したが、いつまでも隠し通せるわけがなかった。黒は猫アレルギーでくしゃみが止まらなくなっていた。シロは猫を元いた場所へ返せと言ってきた。
「いや。そんなことしたら、この子はどうなると思うの」
抵抗しても力ずくで子猫を奪われ、退去を命じられるかと思っていた。けれど、ちがった。このお人好しな管理人は、必ず飼い主を見つけるからと言って、本当に飼い主を見つけてきた。(実際には藤島工務店に口利きしてくれた花子さんのお手柄なのかもしれないけれど)しかも、新しい飼い主のところへわたしはいつでも会いに行っていいことになった。
今まで頼りない管理人とばかり思っていたのに、この一件でシロは孔雀夫人と同じくらいわたしにとって特別な人になった。シロは孔雀夫人の息子だから、似ているのかもしれない。もしかしたら、野菊の墓に出てくる政夫さんもシロみたいな人だったかもしれない。リンドウみたいな人。そうだったらいい。
桃子さんの出産祝いを贈ろうと言い出したのは緑川さんで、わたしはシロと三人デパートの子供服売り場にいた。
「プレゼントですか?」
店員さんに話しかけられると緑川さんはうれしそうにおしゃべりをはじめた。
「そうなの。どれも可愛くて迷っちゃうわね」
「もしかして、お孫さんですか」
「あらいやだ。でも、そんな感じよ」
緑川さんは終始笑顔であれこれ夢中になって選んでいた。
「管理人さんはどれがいいと思う?」
「これなんかどうですか」
シロが水色のロンパースを遠慮がちに指さした。
「いやだ。それは男の子の色じゃない」
緑川さんは言ってのけ、選んだピンクの服をゆずらない姿勢だ。水色を男の子の色と決めつけるのはどうかと思ったがわたしはだまっていた。
すると、今度はシロが
「陽彩ちゃんが、自分で選んでくれたらいいのになぁ」
と愉快なことを言った。ゼロ歳の赤ちゃんが口をきけるはずもないのに。緑川さんは呆れていたが、わたしはシロのそんなところが好感がもてると思う。
さんざん悩んだあげく、クリーム色のロンパース、赤いガラガラのおもちゃと白のスタイを選んだ。
夕焼け道をわたしたちは三人並んでカラフルへ歩いた。
「あの水色のロンパース、やっぱり可愛かったわね」
思い出したように緑川さんが言った。
「男の子の色なんじゃなかったんですか」
わたしが嫌味っぽく言っても緑川さんには響かない。
「だってさっきすれちがった女の人、水色のワンピースがすごく似合っていたじゃない」
と言った。
「不思議ねぇ。女の人だって水色の服を着るのに、どうして女の子の赤ちゃんの服はピンクって決まっているのかしらね」
緑川さんは眉間にしわをよせ、真剣に考えこんでいる。
「本当は決まってなんかいないんじゃないですか」
シロが言った。わたしも同じことが言いたかったから先を越されたと思ったけれど嬉しかった。
「きっと赤ちゃんだって何色を着たっていいんですよ」
シロの言葉に緑川さんは妙に納得した様子だった。それからデパートの手提げをちょっと持ちあげて、
「やっぱりあの水色のロンパースにすればよかったかしら」
と言った。
「もう買っちゃったし、いいじゃないですか」
わたしが言うと、
「そうね。これもじゅうぶん可愛かったわよね」
緑川さんは心底安心したように言った。空がだいだいからうす紫に、それからだんだんと深い紺色に変わっていく。カラフルが近づいてくる。もうじきわたしたちはそれぞれの色のある部屋へたどり着く。それから夜も更けた時、おそらく誰もがプレゼントを受け取った時の桃子さんや陽彩ちゃんの笑顔を想像し、満ち足りた気持ちで眠りにつくのだ。




