第4章
へーっくしょんっ
朝からひっきりなしにくしゃみが聞こえる。黒のくしゃみは大きい。普段は小声でボソボソとしか喋らないのに(そのひと言が結構きつかったりするのだけれど)、くしゃみだけは昼夜問わず大きな音で響いてくる。
花粉症なのだろうか。それならいいお茶を知っているけれど、余計なことを言ったら怒らせてしまいそうで、未だに声をかけられない。黒がカラフルに来てから、もうだいぶ経つけれど、家の中ですれ違っただけでピリピリと緊張が走り、あいさつするのがやっとだ。
きっと嫌な過去がよみがえってくるからだ。働いていた頃、ぼくは常にビクビクしていた。失礼なことを言って相手を怒らせてしまうのではないか。できていないことを指摘されるのではないか。考えるたび息苦しくなって、どうしていいかわからなくなった。そんなだから、納期までに何ひとつ仕上げることができなかったぼくは叱られてばかりいた。
「今まで何をやっていたんだ」
激昂され、雷を落とされるのならまだましだった。
「勘弁してくれよ」
「給料泥棒」
ボソッと吐かれて、そのあと無視される方が傷ついた。あの時の上司の表情や声色が黒そっくりなのだ。緑川さんが八宝菜で冷蔵庫を埋め尽くしていた時以来、黒は何も言ってこないし、ぼくが過敏に反応しているだけなのはわかっている。けれど、こうして自室にいる時も気が休まらず、壁越しの黒の様子が気になってしかたがない。
へーっくしょんっ
また、くしゃみだ。普段はいるかいないかわからないくらい物音ひとつしないのに、突然爆弾が落ちたみたいにくしゃみが弾け、その度に、ぼくの肩がビクッと反応する。
携帯のアラームが鳴った。緑川さんと桃子さんのところへ行く約束の時間だった。それなのに、身体がだるくてとても外出できる気分じゃなかった。できるなら、ここから一歩も出たくない。クジャクの羽根模様にかこまれた部屋は、カラフルの中で唯一ひとりになれる場所だ。入居したての頃は、落ち着かなくてなじめなかったこの部屋は今やぼくの隠れ家だ。籠ってさえいれば、安心だった。
頭が痛いとか、おなかが痛いとか、適当な理由をつけて断ってしまおうか。
けれど、あの緑川さんのことだ。具合が悪いなんて言ったら、それこそぼくを放っておいてくれるわけがなく、余計に面倒なことになりそうだった。
しぶしぶ重い腰をあげ、ぼくは扉を開けた。
へーっくしょんっ
ドアノブを握る手にも振動が伝わるくらいの大きさで、黒のくしゃみが聞こえた。
緑川さんは最近とても明るい。鼻歌を歌いながら料理しているし、食卓に並ぶメニューもカラフルになった。赤や黄色のパプリカに、太陽に照らされた森みたいな色のブロッコリー。この前は、アーティチョークなんていう珍しい野菜を買ってきて、パスタにするのだと張り切っていた。桃子さんが退院して帰ってくるまでに料理の腕をあげて驚かせたいそうだ。
「ママにちゃんと栄養をつけてあげなきゃいけないからね」
八宝菜ばかり作る緑川さんにいろんな料理を教えたのはぼくだったはずなのに、すっかり立場が逆転して、今ではぼくの方が緑川さんに作り方を教えてもらうことの方が多くなった。
出かける前に何かおなかに入れておこうと冷蔵庫をのぞいていたら、青山さんがキッチンにやってきた。流しの蛇口からマグカップに水を注いでいたので、
「水ならミネラルウォーターがありますよ」
と声をかけたけれど、
「こっちのほうがいいから」
ぼくをちらりと見ただけで、青山さんはさっさと二階へあがってしまった。小さくため息をつく。はじめて会った日から感じていたけれど、どうもぼくは青山さんに嫌われているみたいだ。
すれ違いざまに緑川さんがおりてきた。大きなエコバッグを二枚テーブルの上に広げ、
「これならおむつも入るわね」
そう言って、くるくると畳むと、一枚は自分のかばんの中に、もう一枚はぼくに持っていくよう渡してきた。
ベビー室をのぞくと、陽彩ちゃんのベッドが移動していた。手前に陽彩ちゃんよりあとに生まれた赤ちゃんが三人も並んでいた。世の中では少子化、少子化と叫ばれているのに、日に日に新しい命が生まれているのは不思議だった。生まれて何日かしか経っていないのに、奥のベッドですやすやと眠る陽彩ちゃんがお姉ちゃんに見える。
桃子さんは、ぼくたちに色んなことを話してくれた。はじめて母乳をあげたこと。陽彩ちゃんの足が細くておむつがぶかぶかだったこと。それでも毎日測るたびしっかり体重が増えていること。他のママたちは旦那さんや家族が見舞いに来ていて、少しだけうらやましいと思ってしまったこと。けれど、自分にはカラフルのみんなが来てくれるから嬉しいこと。シロのことをみんな旦那さんだと勘違いするのでいちいち説明するのが大変だったこと。陽彩ちゃんが可愛くて仕方がないこと。
帰り道、ドラッグストアでおむつや粉ミルクを大量に買った。
「懐かしいわ。うちの息子もあんな頃があったなぁって」
「管理人さんにもあんな小さい頃があったのよねぇ」
緑川さんが笑顔でそう言って、空を仰いだ。ぼくには想像もつかない。物心ついた頃には孔雀夫人に引き取られ、一緒に暮らすようになっていた。仕事で忙しい夫人に代わって、ぼくの世話をしてくれたのは花子さんだ。施設の記憶はうっすらとしかない。ぼくの本当の母親は誰なのだろう。どうしてぼくは施設に預けられたのだろう。今どこでどうしているのだろう。
へーっくしょん
帰るなり黒が部屋の前で仁王立ちしていた。いったい何だというのだろう。身体じゅうにピリピリと緊張が伝わり、心臓をきゅっとつかまれたような痛みが走った。
「おい、ここはいつからペットOKになったんだよ」
何のことだかわからなかった。
「あの青山って子、猫飼ってるぜ」
へーっくしょん
へーっくしょん
真正面から黒のくしゃみを連発で浴びた。
まさか。黒は、
猫アレルギーなのか。
「マジで迷惑なやつばっか住んでんな」
「あの、猫のこと、青山さんに聞いてみます」
とりあえず本当かどうかわからないし、青山さんに聞かなくてはいけない。そうは言ってもあのとっつきにくい青山さんに声をかけるのは気が引ける。今すぐ逃げ出したいくらいだ。
「ちゃんとやってくれよな、管理人」
吐き捨てるように言って、黒は自室に入ってしまった。そのあとも黒のくしゃみが何度も聞こえた。黒のことはちっとも好きじゃないのに、アレルギーのことは気の毒に思う。
孔雀夫人に託された入居のしおりを読み返した。
ようこそ、シェアハウス「カラフル」へ。
この建物は、わたくしのアート作品でもあり、未完成の作品です。
お部屋の壁紙、照明、インテリア。お好みに合わせて自由にアレンジOKです。
みなさまのアートで「カラフル」は完成するのですから。
管理人 孔雀夫人
これ以外に何もない。ペット可とか不可とか、普通なら契約に書かれているはずのものが何ひとつない。「お好みに合わせて」だけじゃ何にもわからないじゃないか。改めて孔雀夫人の無責任で自由奔放な性分を憎らしく思った。
抜き足差し足で二階へあがり、青山さんの部屋の扉にそっと耳を近づけた。この部屋に本当に猫がいるのだろうか。鳴き声ひとつ聞こえない。黒の勘違いかもしれない。そうだったらいいと願ってしまう。青山さんは猫なんか飼っていなくて、黒のくしゃみは花粉症が原因だった。そうであれば、面倒なことはひとつもない。
「そこで何しているの」
背後から声をかけられてビクッとした。青山さんだった。いつのまに帰ってきていたのだろう。青山さんは、リュックを背負ったまま水の入ったマグカップを手にしていた。
「えっと、あの、青山さん、猫飼っていますか」
勇気をふりしぼって聞いた。一瞬、青山さんの眉がピクリと吊り上がった。
「猫? いるわけないでしょ」
それ以上は聞けなかった。青山さんを疑って、ぼくが感じ悪い人間になっていくのが耐えられなかった。
黒に報告しに行った。手ぶらで行ったら扉を開けるなり怒られそうで、考えたあげくお茶を淹れて持って行った。
「報告に来ました」
部屋をノックすると、黒はすぐに出てきた。
「あの、青山さんの部屋にたぶん猫はいないと思います。それで、墨田さんのくしゃみは花粉症かもしれないと思ってべにふうきのお茶を持ってきました。花粉症に効くお茶なんだけど、よかったら飲んでもらえないかと思って」
しどろもどろになりながら差し出したお茶は、黒にあっけなく押し返されてしまった。こぼれたお茶がお盆に湖を作った。
「ちゃんと確認したのかよ」
「え?」
「あいまいなことを言うなって、言ってるの」
「ちゃんと事実を確かめて、それから俺にどうしますってちゃんと報告してくれなきゃだめだって。お前、管理人だろ」
鈍器で頭を殴られたみたいだった。ジーンと耳まで痛みが走り、視界がぼやける。前の職場で叱られた時の光景がフラッシュバックし、パニック寸前になったぼくは立っているのがやっとだった。
青山さんの部屋の扉をもう一度たたいた。何度声をかけても、青山さんは頑なに扉を開けてくれなかった。けれど、しばらくたって「ミィ、ミィ」と猫の鳴き声が響いてきて、ぼくがびっくりしていると、ようやく青山さんは扉を開けてくれた。
「入って」
「いいから入って」
強引に青山さんの部屋に入れられてしまった。青で統一された青山さんの部屋。無駄なものがひとつもないくらいすっきりとしている。その隅っこに小さなダンボールが置いてあった。
子猫がまるまっていた。身体の色はグレーで、やっと開いたばかりの小さな目はガラスの欠片みたいな澄んだ水色をしていた。
アルバイト先の店の前に捨てられていたという。何人もの人が通りすがったけれど、誰もひきとろうとしなかった。
「みんな口ばっかり」
「かわいそうとか、元気で大きくなるといいね」とか言って、
「でもそのまま見捨てるの」
「同情はするけれど、巻き込まれたくはないって顔して」
青山さんは怒っていた。子猫を置き去りにした飼い主に対しても、子猫を横目で見て憐れんで通り過ぎて行った人たちに対しても。けれど、青山さんの怒りは誰にも届かない。それはとても悲しいことだ。
「だから、わたしがこの子の面倒をみる。わたしはあの人たちみたいに無視したりしない」
青山さんの言いたいことはわかる。でも。
「墨田さんが猫アレルギーなんだ」
ぼくは言った。青山さんがはっとしたような表情でぼくを見た。
「この猫、もと居たところに返せないかな」
「いや。そんなことしたら、この子はどうなると思うの。それに、わたしまであの人たちと同じになってしまう。そんなのって絶対にいや」
なぜだろう。ダンボールを抱きかかえ、必死で子猫を守ろうとする青山さんの姿が陽彩ちゃんを抱いた桃子さんと重なった。何も言えずに、ぼくは青山さんの部屋を後にした。
どうしよう。青山さんは猫を飼いたがっているし、黒は猫アレルギーで身体に支障をきたしている。孔雀夫人はこんな時どうするのだろうと思ったが、夫人は海外だし、ぼくは連絡先も知らされていない。しかたなく、花子さんに連絡した。
「そう。それじゃ、誰か猫を引き取ってくれるお家を見つけないとね」
花子さんはそう言って、知り合いにあたってみると言ってくれた。
「飼い主募集のポスターを作って、区役所とか、図書館に掲示してもらうのはどうかしら。藤島工務店さんも協力してくれると思うわ」
花子さんがそう言ってくれ、少し道が開けた気がして気持ちが晴れた。黒には飼い主が決まるまで待ってほしいと伝え、青山さんにもちゃんと飼い主を見つけるからと約束した。
ぼくは、早速ポスター作りをはじめた。子猫の写真は青山さんが撮った。百枚以上の写真の中からベストショットを選ぶのに相当時間がかかった。首をかしげ、両耳をピンと立てて輝くようなブルーの瞳でカメラを見つめる好奇心旺盛な子猫は、一目見たら抱きしめたくなるくらい可愛かった。
「やるじゃない、管理人さん」
ぼくが作ったポスターを緑川さんはほめてくれた。それから、買い物ついでにあちこちに掲示するのを手伝ってくれた。
花子さんから連絡があったのは、それから一週間後だった。藤島工務店から猫を引き取りたいと花子さんに申し入れがあったそうだ。
「会社で飼うそうよ」
藤島工務店にはもともと看板猫がいた。職人さんたちの癒しにもなっていたその猫が一年前に亡くなって、社長さんは、二代目を迎えるなら保護猫がいいと考えていたらしい。
「いつでも工務店に会いに来ていいって言ってくれてる」
伝えると、青山さんはほっとしたように笑顔になった。実を言うと、青山さんは最後まで自分が子猫の面倒を見るのだと言い張っていた。青山さんが子猫と離れ離れにならなくて本当によかった。
日曜日、ぼくは青山さんと花子さんと一緒に藤島工務店に子猫を引き渡しに行った。藤島社長は、こぼれそうな笑顔で子猫を抱き上げ、
「いい子だ、いい子だ」
何度も何度もそう言って歓迎してくれた。そのやわらかなグレーの毛並みにちなんで、子猫の名前はシルバーになった。
この日から黒のくしゃみはピタリと止まり、聞こえなくなった。
孔雀夫人からぼく宛に絵葉書が届いたと花子さんから渡された。カラフルな家々が連なる海沿いの町は、イタリアのチンクエ・テッレだ。ということは、孔雀夫人は今、イタリアにいるのか。
チンクエ・テッレはカラフルな町だわ。その中でもマナローラは小さな村だけれどとても美しいわ。まるでおとぎ話のなかにいるようよ。世の中には、統一感のある落ち着いた色でまとめたほうがいいという人もいるけれど、これくらいにぎやかなほうが素敵じゃない? 結局、カラフルが一番いいのよ。見ていて飽きないし、ずっと見ていられるもの。
Evviva la vita!
最後のイタリア語はなんと読むのか意味もわからなかった。けれど、どこまでも自由人である夫人のことだ。人の気も知らないで、人生を楽しめとでも言っているのだろう。
へーっくしょん
壁越しに黒のくしゃみが聞こえた。猫はもういないから、アレルギーではないはずだ。寒暖差のはげしい春の陽気に風邪を引いたのかもしれない。
くしゅんっ、くしゅんっ
ぼくまでくしゃみが出た。どうやらぼくも風邪を引いてしまったらしい。今夜は早めに床につくことにした。天井も壁もクジャクの羽根模様の部屋で、枕に頭を沈めると、なぜだか急に幼い子供に戻ったような気分になって、ぼくが熱を出すたびに額にあてられた冷たい手の感触を思い出した。けれど、その手が孔雀夫人のものだったのか、花子さんだったのか、うまく思い出せなかった。




