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カラフル  作者: 佐藤瑞枝
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第3章

 わたしはなんて馬鹿だったのだろう。よく考えればわかることだったのに。光太は最初から父親になる気なんてなかった。それなのに、わたしったらひとりでいい気になって夢見て、本当に間抜けだ。


 光太がいなくなった。


 仕事から帰ったら、荷物が全部持ち去られていた。宅配ボックスに投げ込まれていたカギには、ふたりで旅行へ行った時に買ったおそろいのキーホルダーがついたままだった。


「マジか」


 思わずつぶやいていた。


「マジか」


 あの日、わたしが妊娠したと伝えた時、光太も言った。おどろいた顔で、得体のしれない生き物を見るような目でわたしの身体を舐めるように見て、呆れたように煙草の臭いのする冷たい息を吐いた。


「そうか、そうか」

「おれの子かぁ」

「男の子かなぁ。女の子かなぁ」

「なんて名前にしようか」


 光太がスマホを手に取って、赤ちゃんの名づけサイトを調べはじめたのでほっとした。画数は何角がいいとか、やっぱり名前は響きが一番だよねとか、キラキラすぎる名前は年をとったらちょっと恥ずかしいとか、光太にしては珍しくはしゃいでいた。


 光太は赤ちゃんが生まれてくるのを楽しみにしてくれている。

 ちゃんと父親になってくれる。


 わたしは、すっかり安心していた。相変わらず部屋で煙草を吸うのも、気が乗らないという理由だけでバイトも休んでしまうのも、光太はちっとも変わらなかったけれど、子供が生まれればいずれ変わるだろう。そう信じていた。それに、「まだ早い」とか「面倒だ」とか何かと言い訳をして避けてきたわたしの実家へも挨拶に行くと言ってくれた。


 二週間後、電車を乗り継いで光太とわたしの両親に会いに行った。この日のために光太がクローゼットの奥から出してきた紺のスーツは、五年以上も前の成人式に着たものだったらしい。肩幅も全然合っていなかったし、やたら光沢があって悪目立ちしていた。小学生が無理して大人になったみたいで、わたしは思わず笑ってしまった。


「いいんだよっ」


 照れながらそう言った光太は、相当緊張していたのだろう。歩き方が変だった。右手と右足が同時に出ている。必死で笑いをこらえ、わたしは光太の背中を追いかけ手をつないだ。


「だいじょうぶ。きっと守ってくれるよ」


 もう片方の手をおなかにあて、心の中でそっとささやいた。


 両親には妊娠どころか付き合っていることさえ言っていなかったので、光太へのあたりはきつかった。


「順番がちがうとか、今時そういうことは言うもんじゃないとわかっているよ。でもね、君に家族をちゃんと養っていけるだけの稼ぎがあるのか」


 光太は終始頭を下げたままだった。父から何を言われても、「はい」「そこはなんとか」「努力します」と小さな声でうなずいていた。見ていて辛かった。今はちがうと言いながらも、時代錯誤のようなことを言う父が憎く思えた。光太の前で愛想よく振舞っていた母も、台所でわたしと二人だけになると、光太を悪く言った。


「あの子、ちょっと、どうかしらね。別にいいわよ。今日はお客さんとして来たんだし。でもね、お父さんより先に料理に箸をつけるなんて」


 父にも母にも大きなバツ印をつけられて、わたしはすっかり落ち込んだ。家族になるのだから、もっと歓迎してほしかった。精一杯、挨拶したのに。応援してもらえると思ったのに。それなのに。


「身体を冷やさないようにしなさい」


 帰り際、母はそう言ってコートを手渡してくれた。けれど、心の中では赤ちゃんが生まれてこない方がいいと思っているのだろう。そう思ったら泣きたくなった。


「俺、あの人たちマジ無理だわ」


 光太も辟易している。両親に会わせたのは時期尚早だったのかもしれない。いらぬ気を遣わせ、光太を傷つけてしまった。

 ここは光太の肩を持ち、頭の固い父や母の文句を言えばよかったのだろうか。けれど、わたしには今まで育ててもらった両親を悪く言うなんてできなかった。そんなことをしたら自分の存在まで否定することになってしまいそうで怖かった。結局、どっちつかずのわたしは、100パーセント光太の味方になれなかった。


 光太が出て行った日は、ふたりで婚姻届を提出して、母子手帳をもらいにいこうと約束していた日だった。仕事を半日で切り上げ、いよいよ人生が変わるのだとうきうきして帰宅した日のことだった。


 人生は変わった。

 思いもよらぬ方向に。


 バチが当たったのだと思った。両親の過干渉から逃れたくてひとり暮らしをはじめ、光太と同棲して、両親の望むような結婚、妊娠をしなかった自分に罰が下ったのだ。


 どうしよう。これからどうしよう。


 光太の気配がどんどん薄くなっていく部屋の真ん中に座り込んで途方に暮れた。何をすればいいのか、どうすればいいのか、見つからない。実家に帰ればいいのだろうか。いや、実家には戻れない。光太と別れたなんて言ったら、両親がなんて言うかわからない。優美や麻子なら話を聞いてくれるだろう。けれど、今わたしが直面している問題は、どうしたって彼女たちが解決できる種類のものではないのだ。


 どうすればいいのだろう。


 その時、ぐるりと何かが這うような感触がおなかを走った。もしかして、これが胎動というものだろうか。不思議な感覚だった。もう一度聞けるだろうか。おなかに手をあて、そっと耳を澄ませてみる。しばらくそうしていたら、もう一度だけ小さな生き物がおなかにちょこんと寄りかかるような感触があった。


「ボクはここにいるよ」とでも主張するかのように。


 ああ、もう何もわかっていない。君がすべての悩みの根源だというのに。それなのにどうしてだろう。無邪気であたたかい。君の存在がわたしを突き動かす。わたしに立ち上がれと言う。


 そうだ。母子手帳。

 母子手帳だけでも取りに行かなきゃ。


 たったひとりで市役所に行った。渡された母子手帳に、名前を書くよう言われ、ぐっと握ったペンを走らせる。


 胡桃澤 桃子


 光太の名字になれなかったわたしの名前。父親の名前は書かなかった。


 孔雀夫人に出会ったのは、その日の帰り道だった。わたしは不動産屋の前で硝子に貼られた物件情報を見ていた。出産したら仕事を休まなくてはならない。当面は貯金をくずしてなんとかなるにしても、お金はあっという間に消えていくだろう。今よりも安い物件が見つかれば引っ越した方がいいかもしれない。そう思いながらわたしは家賃と図面の書かれた紙を順番に見ていた。


 自動ドアから颯爽と出てきた孔雀夫人は、薄絹のヴェールを重ねたようなワンピースを着ていた。透き通るような緑色の生地に、クジャクさながら青と黒を重ねた大きな目玉のようなスポットがあしらってある。おしゃれな人だなというより、町の雰囲気にそぐわないちょっとぶっ飛んだ感じの人だなというのが正直な印象だった。後にアーティストだと聞いて合点がいった。


「部屋を探しているの?」


 いきなり声をかけられたのでびっくりした。


「わたしね、シェアハウスをはじめたの」


 そう言って、カラフルのことを語り出した夫人は、見た目からは想像できないほど気さくな人だった。


「まだひとりしか住んでいないのよ」

「あなたが来てくれたら、もっとカラフルになるわ」


 それで、わたしは何となく自分のことを全部話してしまった。恋人に逃げられてしまったこと。お腹の中には赤ちゃんがいてもうすぐ生まれてくること。たったひとりで産み育てなければいけないこと。


「まあ、それは大変ね」

「育児休暇中のことは心配いらないわ」

「家賃は免除してあげる」


 本当にそんなこといいのだろうか。実はうまい話を持ち掛けてきて、わたしを陥れようとしているのではないだろうか。けれど、その時のわたしは平常ではいられなかった。たったひとりでどうにもこうにも困っていたし、藁をもつかむ思いだった。どうにでもなれという気持ちで夫人の話に乗ることにした。


 引っ越しの日、孔雀夫人のアシスタント兼マネージャーだという花子さんが車を出してくれた。荷物も全部運んでくれ、わたしは最後にさっとワイパーをかけるだけでよかった。


 カラフルに到着した時にはもう藤島工務店と刺繍のついた作業服姿のお兄さんがいて、孔雀夫人と打ち合わせしていた。


「桃色にしましょうよ」


 孔雀夫人が言った。

「桃子さんにぴったりだし、明るい気持ちになるわ」


 そしてみるみるうちに天井も壁も全部にピンク色のクロスが貼られていった。仮住まいだと思っていたのに、こんなにカスタマイズされてしまってどうしようかと思っていたら、夫人は笑っていた。


「好きなだけここにいていいのよ」

「赤ちゃんが無事生まれて、また働けるようになったら、家賃はちゃんといただくつもりよ」


「描いてもいい?」


 孔雀夫人が持ってきたバケツには壁よりもワントーン濃いピンク色のペンキが揺れていた。太い筆や細い筆を器用に使って、孔雀夫人は絵を描いた。ドア横の壁に浮かび上がったのは二羽のクジャクだ。大きなクジャクと小さなクジャクが一羽ずつ。ぴったりと寄り添っている親子のクジャクはなんとも可愛らしくて、わたしの宝物になった。


「クジャクはね、社交的で群れで生活するのに、子育てはたったひとりでするの」

「そんなにがんばらなくていいと思わない?」

「子育ては、みんなですればいいのよ」

「うちには緑川さんだっているし、花子さんもいる」

「だから、きっとだいじょうぶよ」


 孔雀夫人が言ってくれたから、安心して妊娠生活を送ってきた。緑川さんは何かと気をつかってくれ、自分が買い物に行くたびに声をかけてくれる。花子さんは、わたしの貧血がひどかった時に一緒にクリニックに来てくれた。あとから入居してきた大学生の青山さんは、一見クールでちょっととっつきにくい感じだったけれど、話してみると全然ちがった。


 それなのに、孔雀夫人が急に家を空けると言い出した。今までもしょっちゅう仕事で留守にすることはあったが、今回は長くなるらしい。もうすぐ臨月を迎える。孔雀夫人がいない状態で出産を迎えるなんて、そんなの不安すぎる。取り乱したわたしに孔雀夫人にと当たり散らした。けれど、孔雀夫人は頑として予定は変えられないのだと言った。


「だいじょうぶ」

「桃子さんはもう立派なお母さんだし、家のことなら息子がやってくれるわ」

「シロっていうの」

「ちょっとたよりないところはあるけれど、優しくていい子だから」

「桃子さんのことも力になってくれる」


 孔雀夫人がそう言ってくれたので、孔雀夫人二世の息子に期待していた。けれど、シロがやってきた日、あまりにも彼がおどおどしていたので呆れてしまった。たよりないと聞いてはいたけれど、ここまでかとイライラもした。

 断ればいいのに、緑川さんが大量に作った八宝菜をすすめられるまま毎回食べてはトイレで吐いていた。あげくのはてに、緑川さんがどうして八宝菜ばかり作るのかなんて聞いてくる。馬鹿じゃないかと思う。管理人なのに、何ひとつ自分で判断できず、いちいちわたしに相談してくる面倒な奴だ。

 そんなだから黒にだって下に見られるのだ。そう思うのに、なぜか放っておけない。シロのことをいい奴だと思う。


 少なくとも、シロは光太みたいに逃げたりしない。


 シロと歩いた並木道で拾った桜の花びらをしおりにした。この子が生まれたら、孔雀夫人と出会った日のこと、わたしの部屋に描かれているクジャクの親子のことを話してあげたい。


 痛っ。


 さっきからおなかがぎゅうっと急に痛くなる。しばらくするとおさまるのだけれど、また同じ痛みがやってくる。痛みはだんだん増してくるような気がする。どうしよう。陣痛かもしれない。這うようにして、わたしは隣りの緑川さんの部屋を叩いた。


「緑川さん、緑川さん」


 静けさが拳に伝わってきた。どうしよう。緑川さんは出かけている。あわてて反対側の部屋をふりむいたけれど、今日は平日で、青山さんはとっくに大学へ行ってしまっている。


「誰か、助けて」


 その場にうずくまる。そうだ、呼吸。クリニックで教えてもらった呼吸法。どうだったっけ。


 ひっひっ、ふぅ

 ひっひっ、ふぅ


 目の前が真っ暗になる。バタバタと音がした。誰かが階段を上がってくる。すがるような思いで見上げると、そこにいたのはシロだった。


「助けて」


 シロのズボンの裾を握りしめていた。


 シロが呼んでくれたタクシーに乗って、クリニックへ行った。ひとりで大丈夫だと言ったのに、シロはわたしが入院する時のために用意しておいた荷物を持ってついてきた。タクシーの中で、何度も襲ってくる陣痛に苦しむわたしの背中をずっとさすってくれた。


「ご主人ですか? 立ち合われますか?」


 人が変わったみたいにテキパキと対応してくれたシロだったけれど、わたしをクリニックに送り届けてしまうとほっとしたのか、いつものシロに戻っていて、看護師さんに見当違いなことを言われ、どぎまぎ答えに困っていた。


「もういいから、帰って」 

 わたしは何度も言ったのに、シロはおどおどわけのわからないことを言ってとうとう帰らなかった。


 産声が聞こえた瞬間、わたしは泣いていた。自分でも気づかないうちに涙が勝手に出ていたのだ。


「2700グラム。元気な女の子ですよ」


 生まれたばかりの赤ちゃんを看護師さんがわたしの胸に乗せてくれた。わずかな重力と圧倒的な存在感。真っ赤な顔をくしゃくしゃにしてひたすら泣きさけぶ赤ちゃんを見て、わたしは今度こそ本当に泣いた。


 最初に見舞いに来てくれたのは、もちろんクリニックで寝ずに過ごしたシロで、次の日には緑川さんと花子さんが、週末には青山さんが来てくれた。ベビールームのガラス越しにこぞって赤ちゃんをのぞいてはそれぞれに「自分に似ている」と主張しているのが愉快だった。

 それで、この子の名前を思いついた。


 ()(いろ)


 いろんな光を浴びているみたいだったから。これから子育てが始まる。決してたやすいことでないことくらいわかっている。でも、カラフルにいれば、きっと何とかなる。そう思えた。


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