第9章
「墨田君、今度、弟くんが入部してくるわよ」
顧問の丸岡がにこにこしながら俺に近づいてきた。「なんで?」と思った。お前は小さい頃からずっとバスケをやっていたじゃないか。それなのに、なぜ写真部? 中学でもバスケやるんじゃなかったのかよ。
俺の領域に入ってくるな。
この世で一番目障りな人間は誰かと聞かれたら、間違いなく弟の影斗だと答える。昔から生意気で、気に食わない奴だった。俺の真似ばかりして、俺の領域を侵してくる。おもちゃやゲームだけじゃない。小学校に入って俺がバスケを始めると、幼稚園からサッカーをやっていた影斗は急にバスケがやりたいと言い出した。パート勤めをしながら影斗の練習や試合の引率に追われていた母は、これはチャンスだと思ったらしい。影斗の面倒を全部俺に押し付けてきた。断ったけれど、ダメだった。
「お兄ちゃんでしょう」
すべてがこのひと言で押し切られてしまう。
影斗といっしょだとペースを乱される。寄り道をしたり、忘れ物を取りに戻ったり、自由人の影斗は俺の言うことなんか少しもきかない。練習時間に遅刻するのも日常茶飯事だ。そのくせ体育館につくやいなやリュックを放り出し、まるで「最初からいましたけど」とでもいうように涼しい顔でドリブル練習に加わっていたりするからむかつく。
コーチに叱られるのはいつだって俺だ。
「遅刻したらまずここへ来てあやまるものだろう」
「そういうだらしないところが試合にも出るんだ」
そんなの嘘だ。コーチだってわかっているんだろう。試合に勝てないのは、俺に才能がないからだって。そんなこと、言われなくてもわかっている。
「今日ね、四年生と試合して、影斗たちが勝ったんだよ」
「ほんと? すごいわね。黒は、お兄ちゃんなのに負けちゃったの?」
「そうだよ。それで、黒がファウルしたんだよ」
「あらあら。それは黒がいけなかったわね」
あの時、ぎゅっと握りしめていた拳を振り上げ、影斗の頭を思い切り殴った。影斗が泣き叫び、母は化け物を見るような目で俺を見た。
それきり俺はバスケをやめた。影斗はその後もバスケを続け、ぐんぐん上達した。六年生でキャプテンをつとめ、地元の小さなチームを全国大会へ連れて行った。
中学に入っても、影斗はバスケを続けるものとばかり思っていた。
それなのに、なんで?
もともと写真に興味があったわけじゃなかった。仮入部の時、先輩から借りたカメラで撮った校庭の葉桜の写真がほめられたのだ。
「いい写真だね。墨田君、もしかして、才能あるんじゃない?」
サッカーやバスケはさんざんだったけれど、これならできるかもしれないと思って入部した。一年後に入学してくる影斗が絶対に選ばない部活だからというのもあった。四階の隅にある写真部の部室は、体育館からもっとも遠い場所にあった。誰にも侵されることのない自分だけの場所がほしかった。
入部届に保護者の印を押してもらい、父にカメラを買ってほしいと頼むと、休みの日にビックカメラへ連れて行ってくれた。さすがに先輩と同じカメラを買う余裕はなかったけれど、
「ボーナス払いだ」
父は笑いながらそう言って、ひとつ前の型の一眼レフを買ってくれた。
家に帰ると、呆れた母は父を責めた。
「こんな高いもの、子供に買うなんてどうかしてるわ。黒は何だって長続きしないんだから。サッカーもバスケも嫌になってやめたでしょう。今回だっていつまで続くかわからないわ」
母はちっともわかっていない。俺はサッカーやバスケが嫌になってやめたんじゃない。俺が嫌だったのは、影斗だ。俺の領域にずかずかと踏み込んできて、いとも簡単に俺の欲しかったものを奪っていく影斗が許せないということに。
なんで? なんで写真部? また俺の領域を奪うつもりか。いや、でも、今度こそ大丈夫かもしれない。俺には才能があると、先輩が太鼓判を押してくれたし、構図や光の作り方もわからない素人の影斗が俺よりいい写真が撮れるわけがない。
思った通りだった。影斗の撮る写真は、どこかバランスが悪く、被写体がぼけていた。ちゃらんぽらんな性格は健在で、締め切りだって守れない。それなのに、なぜか影斗は悠々としていて、部員からも人気があった。
自分用のカメラを持たず、部の共有のカメラで、気ままに撮影を楽しんでいる影斗は撮影会に出かけても、のんびりと景色を見ていることが多かった。夏休みの合宿で海へ出かけた時も、影斗はレジャーシートを広げてずっと浜辺に寝そべっていた。ようやく起き上がったと思ったら砂をいじったり、裸足で波を蹴ったりしていた。
ようやく影斗が撮り出したのは、帰り際になってからだ。
水平線に陽が沈む
燃えるような夕陽
紫から紺碧に染まっていく空
きらめく海は鏡
完璧なコントラストだった
今この瞬間をカメラに収めなければ。俺はあわててカメラを構えた。連続でシャッターを切る。早くしないと太陽が沈んでしまう。空も、海も、水平線も、一番美しい瞬間を記録したい。俺はシャッターを押しまくった。
影斗も同じ景色を撮っているようだった。俺のカメラのシャッター音に混じってカシャリ、カシャリと音が紛れ込んでくる。ずいぶんゆっくりだなと思った。最高の一枚を残したければ、とにかく沢山シャッターを押して、撮れた中から完璧な一枚を選ぶべきなのに、いったい何をやっているのだろう。ちらりと影斗を横目で盗み見た。
驚いた。
影斗はカメラを首にぶらさげて、じっと水平線を見つめていた。
勝ったと思った。これだけは、写真だけは、お前に譲らない。俺は夢中でシャッターを切った。
影斗が撮った海辺の写真が全国学生写真コンクールで金賞に選ばれた。三百枚以上撮った写真の中から選りすぐった作品を出品したが、俺の写真は箸にも棒にもかからなかった。影斗に、最後の領域を奪われた気分だった。
「影斗の写真は天才的だな」
「この一瞬にすべてがこめられている感じがするよ」
「やみくもにシャッターを切るだけがいいわけじゃないんだよね」
影斗は先輩から絶賛され、全校集会で表彰された。写真を撮ってほしいとわざわざ校舎の四階まで来る女子もいた。母は、受賞した作品をプリントしたものを持ち歩き、知り合いに見せては息子の快挙を自慢した。
「ほらね。高いカメラだからいい写真が撮れるってものじゃないのよ。センスよ、センス。影斗は昔からセンスのある子だなって、お母さん、そう思ってたのよ」
母の嫌味を何度も聞かされた。
もう無理だと思った。何をやっても影斗にかなわない。俺には才能なんてなかったのだ。カメラをやめてしまおうかとも思った。
それでも俺は写真にしがみついた。コンクールの直後、影斗の方が写真部をやめてバスケ部に転部したことや兄弟で別々の高校に進んだことで、俺は、俺だけの場所でなんとか息ができるようになったから。
大学でジャーナリズムを勉強し、報道カメラマンを目指した。就職は惨敗だった。それでも家族と折り合いが悪かった俺には、家を出るしかなかった。食べていくために就いた仕事が葬儀屋の社員だった。
主に遺影の加工を任された。預かった写真を遺影用に加工するのだ。遺影をあらかじめ準備している家族はごくまれで、大抵は家中をひっかき回して見つけてきたと思われるピンボケの写真や小さすぎるスナップを渡される。集合写真を見せられて、「この人です」と指さされた時には正直困ってしまったこともある。
遺族に説明をする時、毎回緊張した。
「このお写真ですと、引き伸ばすとどうしても輪郭がぼけてしまいます。ネガがあればいいんですけど」
そう言うと、大抵の遺族が納得してくれたが、中には無理難題を言う遺族もいた。
「この鼻のところにあるホクロ、取ってくれるかしら? 母は、すごく気にしていたのよ」
美容整形と勘違いしているのではないだろうか。これはもう遺影加工の範疇を超えている。俺は、マネージャーに愚痴った。
「別人みたいにして、一体どういうつもりなんでしょうかね」
「まあまあ、墨田君。気持ちはわかるけど、ご遺族の思いが一番だから」
このいい加減な事なかれ主義のマネージャーにも腹が立つ。写真は事実をありのままに伝えるものだ。写真は嘘をつかない。嘘をついてもいけない。
正直、こんなことはやりたくなかった。けれど、ここで放り出してしまったら、俺には行き場はない。釈然としないまま、俺はホクロを見えないように加工した。
紗雪は遺族の孫娘だった。カメラに興味があると言って、俺の作業を見学したいと言った。俺が何をするにも興味津々で「すごい、すごい」と言ってくれたので、ついその気になってしまったのが大きな間違いだった。
今思えば、紗雪が俺の領域に踏み込んできた時に断るべきだった。
「二人で住めば家賃だって半分で済むでしょ」
そう言って、紗雪は半ば強引に俺のアパートに転がり込んできた。葉っぱが色づきはじめた秋のことだ。
「きれいにしているんだね。男の人の部屋って、もっとごちゃごちゃしているんじゃないかって思ってた」
紗雪は言って、持って来た荷物を広げた。俺は紗雪のために少しずつスペースを空けた。ものの三十分で、俺の部屋は二人暮らしの部屋になった。洗面所には色違いの歯ブラシが並び、クローゼットの右側には俺の黒い服、左側には紗雪のパステルカラーの服が並んだ。
キッチンの棚に二人分の食器を仕舞うと、俺たちはコンビニに買い出しに行った。ビールとスナック菓子を買って、二人で映画を見ようということになった。それから紗雪とは何度も映画を見たり、写真の技術について話した。つい喋り過ぎてしまう俺を紗雪は楽しそうに笑って見ていた。漠然とだったけれど、こんな風に日々を重ねて、いつか結婚するのかもしれないと思っていた。
それなのに、紗雪が急に別れたいと言い出した。付き合いはじめてまだ半年もたたない雪の夜だった。いつものコンビニで、紗雪が、アイスが食べたいと言い出した。外は雪が降っているのに、どうしてそんなものが食べたいのだろうと思いながら、書架の雑誌をパラパラとめくっていたら、ショーケースの前にいた紗雪から手招きされた。
「ねえ、これ食べたい」
紗雪が欲しいと言ったのは、ひとつ四百円もするアイスだった。もっと安くておいしいものがあるはずだ。紗雪はちゃんとショーケースを見たのだろうか。俺は、並んだアイスの中からおすすめのアイスを選んだ。
「こっちにもあるよ」
今度は俺が紗雪を呼んで、リーズナブルでおいしいアイスを教えてやった。それなのに、紗雪はちっとも喜ばなかった。
「いらない。やっぱアイス、いい」
突然、不機嫌になった。意味がわからなかった。アイスを食べたいと言ったり、急にいらないと言ったり、一体どうしたいというのだろう。はっきり言ってわがままだ。
アパートへ帰る道中、紗雪はずっと無言だった。何も喋らずにいると、雪の音が聞こえるものなんだと俺は思った。
「言いたいことがあるなら言えばいいじゃないか」
紗雪があまりにもひどい態度なので、俺が言ったら、紗雪は「別れたい」と言い出した。これから一緒に夜中まで映画を見ようという時に、寝耳に水だった。
「なんでだよ。別れるなんて、まったく意味がわからない」
思わず激昂した。紗雪が、堰を切ったように喋り出した。
「黒くんは、わかんないんだね」
「じゃ、はっきり言うよ。黒くんといても楽しくないからだよ」
「嘘だろ。映画見たり、ご飯食べたりしたじゃないか」
「そういうことじゃないの」
「あれだけ俺に奢らせておいて、今さら楽しくなかったっていうのか?」
「だから、そうじゃないって」
「わたしがね、別れたいって思った一番の理由はね」
「黒くんがわたしに興味ないからだよ」
「なにそれ」
「黒くんはね、いつだって、自分のことばっかり」
「わたしのことなんてちっとも考えてないんだよ」
「そんなことない」
「じゃあ、どうしていつもわたしからなの?」
「手をつなぐのも、抱きしめるのも、ぜんぶだよ」
「わたしだって、抱きしめられたいって思ったこと、たくさんあったよ」
「でもね、黒くんにはそれがわからないんだ」
「わたしがどれだけ淋しかったなんて、どれだけ話を聞いてほしかったかなんて少しもわからないんだよ」
まさか紗雪が泣くなんて思ってもいなかった。紗雪という人間がわからなくなった。恩着せがましいところも気に入らなかった。
「黒くんにとって、わたしは安いアイスとおんなじなんだね」
「人間とアイスを比べたってしょうがないだろ」
「ほら、そういうとこ。全然わかってない」
深夜、雪の降る中、紗雪は部屋を出て行った。追いかけるのも面倒だった。俺は朝まで眠れなかった。ここは俺の領域だ。紗雪の痕跡を消したかった。床を磨き、壁を拭き、俺はひたすら部屋を掃除した。それでも元にもどらないことがわかると、俺は引っ越すことにした。
不動産屋へ行くと、いい物件があると言われ、カラフルを紹介された。アーティスト物件でシェアハウスだという。人と一緒に住むのはもうこりごりだと思ったが、家賃が良心的だった。それに、大家兼管理人もいるから大きなトラブルもないし、何かあればすぐに相談できるという。専門の工務店が入っていて、部屋の壁紙も自分流にアレンジできるというのも魅力的だった。
今度こそ誰にも侵されない俺だけの領域が欲しかった。
ところが入居初日、俺の部屋に勝手にあがりこんでいたやつがいた。
「ここ、俺の部屋なんだけど」
そう言うと、ペコペコしながら出て行った。
シロ。こいつが管理人だとは思いもよらなかった。
「管理人? あんたが?」
「えっと、管理人といっても、その、母の留守中だけなんですけど」
なんだ、管理人の代理か。しかも引きこもりと来た。まあ、いい。俺の領域さえ守られれば、今度こそ俺は安心して暮らせる。それだけを願っていた。
「天井も壁も真っ黒にしちゃうと結構暗くなるから少しアクセントになる色を入れたほうがいいと思うけど、どう?」
「たとえば、白とか、スポットでもストライプでも、少し入れるだけでだいぶ印象が変わるよ」
塗装に来た藤島工務店の職人はそう言ったけれど、敢えて黒一色にした。誰も侵すことのできない、ここは、俺だけのスペースだ。




