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俺が本気で愛されているわけがない 〜四人分の食卓と、十年越しの恋〜  作者: バカヤロウ


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第8章 熱のある夜に、頼みごとを一つ


 枕元の目覚まし時計のベルを右手で止めたはずだった。  なのに、耳元でキンキンと響く金属音のような高い声が、いつまで経っても鳴り止まない。  おかしいなと思いながら重いまぶたをこじ開け、手探りで伸ばした指先が触れたのは、時計のストップボタンではなく、空になってへこんだティッシュペーパーの箱だった。カサリと乾いた音がする。


「お父さん。さっきから鳴ってるの、目覚ましじゃなくて私の声」


 襖の向こう側から、呆れたような日菜子の声が飛んできた。


 俺はようやく、自分が敷き布団の上に倒れ込んだままであることを自覚した。  カーテンの隙間から差し込む夏の朝の光が、網膜をナイフで刺すように白く鋭く痛む。起き上がろうと両手に力を入れた瞬間、頭蓋骨の奥で鈍い鐘が乱打され、敷き布団の綿の中に体の下半分を置き忘れてきたような、鉛の重さに引き戻された。関節という関節がきしみ、喉の奥が砂漠のようにカラカラに渇ききっている。


「……分かってる。すぐ起きる、朝飯作るから」 「さっきも全く同じこと言った。十分前にも」


 襖がガラリと数寸ほど開き、日菜子が隙間から顔を覗かせた。  制服ではなく、ヨレた半袖の部屋着のままだ。まだ夏休みなのだから当然なのに、混濁した頭の中で「高校に遅刻するんじゃないか」と頓珍漢な心配がよぎる。


「お父さん、顔が真っ赤だよ。首のところまで赤い」 「……暑いからだろ。熱帯夜だったしな」 「エアコン、二十六度でちゃんとついてるよ」


 言い訳の材料が、目の前から一枚ずつ容赦なく剥ぎ取られていく。  日菜子はため息をついて奥へ引っ込むと、すぐに電子体温計を持って戻ってきた。ピピピとケースから抜く音がやけに甲高く響く。 「ほら、脇に挟んで」と乱暴に手渡され、言われるがままにシャツの隙間へ差し込む。三十秒後、無機質な電子音が鳴り響いた。液晶画面を日菜子が覗き込み、眉をキュッと吊り上げる。


「三十八度四分。完全にアウト」 「……うそだろ」


 数字を聞いた途端、熱がさらに一段階上がったような気がした。  ぼんやりとした頭で、今日の会社の予定を必死に手繰り寄せる。午前十時半に一本、先週の案件の確認電話。午後二時からは課内の定例進捗ミーティング。資料は昨日、共有サーバのフォルダへ格納したはずだ。


「会社には……電話して、午前中だけ休むって伝えれば……昼からなら——」 「病院、ネット予約したよ。九時半から空いてたから名前入れといた」


 娘が差し出したスマートフォンの画面には、近所の内科クリニックの受付完了画面が表示されていた。


「……いつの間に」 「お父さんが『すぐ起きる』ってうわ言言ってる間。はい、保険証と診察券は私がカバンから出しておくから、パジャマ着替えて」


 俺は抵抗を諦め、熱を持った後頭部を枕へと深く沈めた。今日のこの家の主導権は、完全に十六歳の娘に明け渡すしかなかった。


 会社へ連絡を入れると、ワンコールで宮田さんが電話に出た。かすれる声で事情を話し、午前中の折り返し案件と、午後の進捗報告の資料の場所を伝える。


『三十八度超えかよ。分かった、今日の午後の案件は俺が代わりに報告しとくから、メールのチェックもしなくていい。スマホの電源切って寝てな』 「すみません、宮田さん……午後の会議、如月さんにも一言——」 『場所は分かったから大丈夫だって。如月さんにも俺からちゃんと伝えておくよ。お大事にな』


 あっけないほど短い電話で、会社の日常から俺の存在が切り離された。自分が一日いなくても、会社という巨大な組織は何食わぬ顔で滞りなく回っていく。その現実に、安堵と、ほんの少しの寂しさを覚えながら通話を切った。


 日菜子に付き添われて近くの内科を受診し、解熱剤と抗生剤の処方箋を受け取ってアパートへ戻ってきた頃には、午前十一時を回っていた。外の猛烈な日差しに炙られ、歩くだけで息が切れる。  玄関の三和土で靴を脱ぎながら、俺は長年の染み付いた癖で、台所の冷蔵庫の在庫を必死に計算していた。昨日の残りの豆腐がある、卵もある。冷凍うどんを一玉解凍して、かき玉うどんにすれば、日菜子の昼飯も一緒に作れるはずだ——。


「寝て」


 背後から、日菜子が俺の肩から病院の薬袋と財布を取り上げながら、有無を言わせぬ声で言った。


「まだ……何も言ってないだろ」 「顔が思いっきり台所に向かってた」 「顔くらい、どこに向けたっていいじゃないか」 「足のつま先もコンロの方に向いてた。言い訳無用、布団へ直行」


 完全な現行犯逮捕だった。  俺は居間の奥の和室へよろよろと戻り、窓の遮光カーテンを深く閉めて、薄暗くなった部屋の敷き布団へ倒れ込んだ。シーツのひんやりとした感触に顔を埋めた、まさにその時だった。  玄関のインターホンが、控えめな音でピンポーンと鳴った。


「あ、いらっしゃい。鍵開いてるよ」


 廊下で日菜子の声がして、玄関ドアが静かに開く音がした。


「日菜子ちゃん、体温計とアイス枕、これで足りるかしら」


 届いたのは、明美ちゃんの声だった。


「うん、ありがとう! 氷枕、うちの冷凍庫のやつ小さくてすぐぬるくなっちゃってさ。これからスポーツドリンクとゼリー買いに行こうと思うんだけど、明美も一緒に来てくれる?」 「もちろん。あ、お母さんがね、今日ちょうどお昼休みに一度家に戻れるから、何かあったらすぐ呼んでって」


 そこまで話が根回しされていたのか。  白石家の二人に余計な心配と手間をかけさせてしまった申し訳なさに、俺は枕元のスマートフォンに手を伸ばした。LINEでお礼と詫びを打とうとした、その瞬間だった。  和室の襖が、トントンと遠慮がちに二回、ノックされた。


「海斗さん。少しだけ、入ってもよろしいですか?」


 澄んだ、けれど少し息の上がった声だった。


「……あ、霧子さん。どうぞ」


 襖が静かに開き、霧子さんが小さな紙袋を胸に抱えて入ってきた。  会社の昼休みを利用して駆けつけてくれたのだろう、いつものオフィスカジュアルの白いブラウス姿だったが、袖口をテキパキと肘の上までまくり上げ、金属の腕時計を外してポケットへしまっている。氷枕や濡れタオルを扱う時に、冷たい金具が相手の肌に当たらないようにするための、母親ならではの手慣れた仕草だった。


「すみません、霧子さん……わざわざお昼休みに来ていただいて」 「いいんですよ、うちの会社は歩いて十分もかかりませんから。午後は一時半までデスクを空けられますから、それまではここにいられます」 「でも、お昼ご飯は……」 「明美が駅前でおにぎりを買ってきてくれることになっていますから、心配いりません」


 迷いのない穏やかな笑顔だった。  俺が病気で倒れたことで誰かに無理をさせているのではないかという、熱に浮かされた罪悪感を、彼女は柔らかく先回りで摘み取ってくれた。


 霧子さんは畳の上に膝をつき、水滴のついたコップを枕元の小さな木箱の上に置いた。それから、持参した自分の緑茶のペットボトルのキャップに、小さな動物の絵柄の付箋をペタリと貼る。日菜子たちが買い出しから戻った時、飲みかけのボトルを取り違えないようにするための細やかな配慮だった。


「日菜子ちゃんたちが、薬局とコンビニへ買い出しに行ってくれています。海斗さん、今何か、喉を通りそうなものはありますか?」 「いえ……何でも大丈夫です。あまり手間のかからないものでしたら」


 答えると、霧子さんは小首を少し傾げ、困ったように眉を八の字に下げた。


「海斗さん。手前がかかるかどうかは、看病する私たちが決めることです」 「……あ、はい」 「海斗さんは今、何が一番食べたいですか? 栄養とか片付けやすさじゃなくて、ただ食べたいものを教えてください」


 真っ直ぐに問われて、俺は熱で鈍くなった頭で真剣に考えた。  自分の純粋な「食べたいもの」を誰かに聞かれることなど、一体いつ以来だろう。いつもはスーパーの特売シールと、日菜子の栄養バランスと、明日の弁当のおかずに使い回せるかどうかだけで献立を決めてきたのだ。


「……冷たい、ゼリーなら」 「何味がいいですか?」 「……桃」 「ふふ、分かりました。桃ですね」


 霧子さんは目元をふわりと綻ばせ、立ち上がって襖の隙間から廊下へ顔を出した。


「明美、聞こえる? ゼリーもお願いね。海斗さん、桃の味が良いそうです」 「はーい! 日菜子、桃だって!」 「聞いたー! お父さん、桃かあ。なんか意外」 「おい日菜子、何が意外なんだよ」 「別にー。てっきり頑固にプリンって言うかと思っただけ」


 襖の向こうから娘たちの笑い声が届き、バタンと元気よく玄関ドアが閉まった。  二人の足音が遠ざかると、部屋の中は急激に静まり返った。  遠くの国道を走るトラックの微かな重低音と、エアコンの吹き出し口から流れる冷たい風の音だけが、薄暗い部屋を満たしていく。


 霧子さんは、居間から折りたたみのパイプ椅子を持ってくると、和室の入り口近くに静かに広げて腰を下ろした。  膝の上には、隣の自宅から持ってきたらしい一冊のハードカバーの本が置かれている。表紙には、どこか地方の古い商店街にある、蔦の絡まったレトロな名画座の入り口の写真が印刷されていた。


「それ……何の本ですか?」 「これですか? 全国の古い映画館を訪ね歩く写真エッセイなんです。先週、図書館で借りてきて」 「へえ……面白そうですね」 「海斗さんは、目を閉じてお休みになってください。この本の説明を始めると、私、ついつい嬉しくなって止まらなくなってしまいますから」 「そんなに詳しいんですか」 「ええ。劇場によっては、客席のモケットシートの背もたれの擦り切れ具合まで、アップで写真に撮ってあるんですよ」 「それは……確かに話が長くなりそうだ」


 乾いた喉で小さく笑うと、気管が痛んで微かに咳き込んだ。  霧子さんはすっと立ち上がり、コップの水を俺の口元へ運んでくれた。飲み干すのを静かに待ち、手が当たっても絶対に倒れないよう、壁際の安定した場所へグラスを置き直す。


 他人が自分の寝室に座っているというのは、本来なら落ち着かないはずのことだった。  それなのに、彼女が膝の上で静かにページをめくる、シャ、シャ、という紙の擦れるかすかな音は、驚くほど心地よく、耳に優しかった。熱に浮かされて一人で暗闇を漂っていた意識が、その規則正しい音のおかげで、確かな現実の岸辺に繋ぎ止められているような安らぎを覚えていた。


 やがて、遠くの階段を駆け上がってくる足音がして、玄関の鍵が開いた。  日菜子と明美ちゃんが、ビニール袋を分けて居間のちゃぶ台の上に広げるガサゴソという音が聞こえる。明美ちゃんが霧子さんにおにぎりと緑茶を手渡し、日菜子が買ってきたゼリーを冷蔵庫へしまい、レシートを家計簿のノートに挟んでいる。


「お母さん、鮭と昆布、どっちにする?」 「じゃあ、鮭をいただこうかしら」 「はい。冷たいお茶も買ってきたよ」


 霧子さんが和室の入り口から俺の方を振り返ったので、俺は「気にせず、居間でゆっくり食べてください」と掠れ声で伝えた。彼女は小さく頷き、椅子を居間の方へ少し向けて、コンビニのおにぎりのフィルムを開けた。  俺は枕元のアイス枕に頭を預け直した。  襖の向こうのちゃぶ台から、日菜子と明美ちゃんがプラスチックの弁当容器のフタを開けるパキッという音と、割り箸を割るパチンという小気味よい音が届く。  俺がこうして高熱を出して倒れ込み、天井を見つめて寝込んでいる間にも、この家ではちゃんと昼が来て、誰かがご飯を食べ、日常の時間が止まることなく回っていくのだ。その当たり前の光景が、胸を締め付けるほどありがたかった。


 薬が効いてきたのか、まぶたが重くなり、俺はしばらく意識を落としていた。  夢と現実の境目を漂うような、浅い眠りだった。  ふと、畳がきしむ微かな気配を感じて目を開けると、霧子さんがパイプ椅子から音を立てずに立ち上がろうとしているところだった。


「……霧子さん? もう、お仕事の時間ですか」 「いいえ、まだ一時過ぎです。額のタオルが少し温かくなっていたので、洗面所で冷たい水に替えてこようかと思って」 「ああ……すみません、お手数をおかけして」 「海斗さん」


 霧子さんはパイプ椅子の背もたれに片手を置き、静かに立ち止まった。  遮光カーテンの隙間から細く差し込む午後の光が、彼女の白い首筋と、真剣な眼差しを柔らかく照らし出している。


「明美が小学四年の冬に、私が入院した時のこと……覚えていますか?」 「ええ……覚えていますよ。雪が降る、寒い冬でしたね」


 霧子さんが急性の腹膜炎で一週間ほど入院することになり、まだ小さかった明美ちゃんが、泣きそうな顔でアパートの玄関に立っていたあの日だ。大きな大人のダッフルコートを着せられて、袖口から小さな指先がちょこんと出ているだけで。


「あの時、海斗さんが毎朝、明美の分までお弁当を作って学校へ送り出してくださって……退院した日、うちの冷蔵庫に残っていた卵焼きを、私も一口いただいたんです」 「ああ……あの、端っこが少し焦げちゃったやつでしょう」 「端っこだけ、ほんの少しね」 「ずいぶん気を遣った甘い評価ですね」 「ふふ、本当に美味しかったんですよ。明美がラップに包んで、お皿の半分を残しておいてくれたんです。『これ、お父さんが作った卵焼きと似てる味がするから、お母さんも早く元気になって食べてね』って」


 霧子さんは畳の上にしゃがみ込み、冷えた新しいタオルを俺の熱い額の上にそっと乗せた。  水分の重みと、心地よい冷たさが、熱を持った皮膚からじわりと染み込んでいく。


「今度は、私たちが海斗さんに、冷たい桃のゼリーを買ってくる番なんです」


 それだけを優しく言い残すと、彼女は空になった洗面器を持って、音を立てずに和室を出て行った。


 洗面所から、キュッと蛇口をひねる水音が聞こえてくる。  俺はシーツを胸元まで引き上げたが、すぐには眠れなかった。  あの冬の日、白石家の買い物袋を持ったり、明美ちゃんの朝ご飯を作ったりすることに、俺は何の損得も理由も求めなかった。隣で困っている人がいて、自分にできることがあるから、ただ当たり前のこととして手と体を動かした。助かったと笑ってもらえれば、それだけで胸がいっぱいになったのだ。


 それなのに——いざ自分の番になると、どうしてこんなにも申し訳なさに押し潰されそうになり、きっちりと勘定を揃えて借りを返さなければと、頑なに身構えてしまうのだろう。  誰かに頼り、弱みを見せ、甘えるというやり方を、俺は妻が出て行ったあの日以来、完全に心の奥底に封印してしまっていたのだ。


 洗面所から戻ってきた霧子さんが、入り口のパイプ椅子を引き、座り直した。


「海斗さん。私はもうすぐ仕事に戻りますけれど、日菜子ちゃんたちが居間にいますからね。何かあったら、遠慮なく大きな声で呼んでください」 「あの……霧子さん」


 俺は、敷き布団の端の綿を、右手の指先でぎゅっとつまんだ。  コップの水は十分にある。氷枕も冷たい。額のタオルも新しくなったばかりだ。  大人の男として、これ以上彼女を引き止めるべき正当な理由は、何ひとつ存在しなかった。


 けれど、立ち去ろうとする彼女の背中を見つめた瞬間、胸の奥から熱い塊がせり上がってきた。


「……あと少しだけ、ここにいてもらえませんか」


 声に出した瞬間、喉の奥がカッと火がついたように熱くなった。  風邪の熱のせいだけではなかった。  誰かに向かって「行かないでくれ」「そばにいてくれ」と言葉にして頼んだのが、一体いつ以来のことなのか、自分でも見当がつかなかったからだ。


 霧子さんはハッと息を呑み、驚いたように大きな瞳を瞬かせた。  そして、持ち上げかけていた写真エッセイのハードカバーを、両手で包み直すようにして、もう一度ゆっくりと自分の膝の上へ戻した。


「……はい。ここにいますよ」


 パイプ椅子のスチールが、小さくギシと音を立てた。  彼女は静かに座り直し、俺の枕元から少しだけ近い位置へと椅子を引き寄せた。  ページをめくる、微かな、けれど確かな紙の音。  俺はその音を聞きながら、張り詰めていた心のすべての結び目をほどくようにして、深い眠りの中へと落ちていった。


 次に目を覚ました時、和室のカーテンの隙間から差し込む光は、すでに低い山吹色に傾いていた。  熱が引いたのか、寝汗をかいた首筋が少し涼しく、頭の奥の鈍い鐘の音は綺麗に消え去っていた。


 入り口のパイプ椅子は、すでに畳まれて壁際に立てかけられていた。  枕元の木箱の上のコップの下に、四角い小さなメモ用紙が挟まれている。 『お仕事に戻ります。日菜子ちゃんたちに看病の指示は出してありますので、ご安心くださいね。本の続きのお話は、すっかり元気になってから』  几帳面で整った、霧子さんの丸みのあるペン字だった。


 俺はゆっくりと寝返りを打ち、襖の向こうの台所の物音に耳を澄ませた。


「日菜子、これ、お鍋の火もう止めていいのかな?」 「うーん、お出汁が沸騰したから、火を止めてからお豆腐入れた方が崩れないって、霧子さんが言ってたよ。お鍋の横、熱いから気をつけてね」 「分かってるってば。……あ、熱っ! 分かってるって言った瞬間にフタの取っ手触っちゃった」 「ほらー! だから言ったのに! 布巾使いなよ!」


 日菜子と明美ちゃんが、二人で声を掛け合いながら夕飯の支度をしていた。  俺は反射的に「大丈夫か?」と起き上がりかけたが、居間から炊飯器の蒸気の上がるプシューという音が聞こえ、二人が顔を見合わせてクスクスと笑い合う気配が届いた。  包丁を置く場所も、熱い鍋を触る時の注意も、二人はちゃんと自分たちの頭で相談し、失敗しながらも助け合っていた。俺が血相を変えて飛び出していかなくても、この家の台所は、確実に彼女たちの手で前に進んでいたのだ。


 敷き布団の上へ体を預け直し、枕元の木箱の脇を見る。  そこには、冷たい水滴のついたプラスチック容器の、大きな桃のゼリーが二つ並んでいた。  片方には、紙ナプキンに包まれた銀色のスプーンが一本、丁寧に添えられている。  そしてゼリーのパックの蓋の上には、日菜子の筆圧の強い、大きなサインペンで書かれたメモが貼り付けられていた。


『起きて熱が下がってても、今夜はお皿洗い絶対禁止! お父さんの今日のお仕事は、ゼリーを全部食べて、また朝まで寝ることです』


 俺は思わず吹き出し、添えられていたスプーンの紙袋を破ろうとした。  けれど、まだ病み上がりの指先がおぼつかず、プラスチックのフィルムの端っこがうまくちぎれない。


「……日菜子」 「なにー?」 「ちょっとすまない、これ……フタが開かないんだが」


 声をかけると、バタバタと素足の足音が響き、襖が勢いよく開いた。


「もう、任せてよ。今日のお父さんは、本当に手がかかる赤ちゃんだなあ」


 日菜子はそう言って笑いながらスプーンの袋を器用にちぎり、ゼリーの硬いビニールのフタを、汁をこぼさないようにペロリと剥がして俺の手に握らせてくれた。


 スプーンですくって口へ運ぶと、ひんやりとした果汁と、熟した桃の優しい甘みが、熱で乾いていた喉の奥へとすうっと染み渡っていった。


「どう? 美味しい?」 「……ああ。すごく、美味い」 「じゃ、よかった! お鍋できたら、お父さんの分はお椀に取り分けて持ってくるからね」


 日菜子は空になったゼリーのゴミだけをひょいとつまみ上げると、エプロン代わりに腰に巻いたタオルの裾を揺らしながら、誇らしげに台所へと駆けて戻っていった。


 俺はその頼もしい背中を見送りながら、もう一口、桃のゼリーをゆっくりと口に運んだ。  誰かに頼り、弱さを差し出すことは、相手に負担を押し付けることではないのだ。それは、相手の優しさや成長を受け取るための、温かい器になることなのだと、熱の引いた静かな部屋の中で、深く噛み締めるように思っていた。


お読みいただきありがとうございました。

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