第7章 先輩、今日は私の番です
見積書の右下、合計金額欄のすぐ隣に、赤いボールペンの二重丸が三つ、規則正しく並んでいた。
午前十時十七分。冷え切った缶コーヒーを口に含もうとしていた俺は、カップを持ったまま固まり、そのまま息を止めた。
「納品先の営業所が、三か所に分かれています」
隣の席からすっと伸びてきた細い指先が、確認用に出力されたA4用紙の配送条件欄をトントンと指差す。如月さんだった。
新しく郊外に営業所を開設する大手食品卸の取引先から、オフィス用のスチール書庫とデスク、会議用テーブルを一括で受注した大型案件だった。 当初の計画では、都内にある先方の本社倉庫への一括納品だった。だが先週の木曜日、先方の総務から「開設スケジュールを前倒しするため、それぞれの営業所へ直接分納してほしい」と急な変更要請が入ったのだ。 俺は週末の残業の合間に、各拠点の希望数量と納期のスケジュールを急いで修正した。しかし、一番肝心な「トラックのチャーター費用と拠点ごとの配送費」の欄だけ、以前の一括納品の金額のまま手付かずで放置してしまっていたのだ。
「……本当だ」
血の気がサーッと引いていく感覚とともに、デスクのモニターの基幹システムを叩く。昨日、先方の購買課へメール送信した正式な見積書データのPDFを開くと、画面の中にも全く同じ、古い配送費の金額が堂々と居座っていた。 送信済みトレイのタイムスタンプが、金曜日の午後八時四十二分をきっちりと記録している。こういうトラブルの時に限って、社内システムは実に律儀で融通が利かない。
「契約の最終捺印前ですよね、大宮先輩」 「ああ。先方の常務決裁が、明後日の水曜日だ」 「でしたら、今日中に修正の差し替え見積書を直接お持ちすれば、決裁の差し戻しにはならずに間に合います。運送会社への正確なチャーター費用の再確認は、まだ済んでいませんよね?」 「これから電話する。……如月さん、本当にありがとう。よく気づいてくれた」
俺は右手の中の紙コップを机の隅に置いた。表面の黒い液体が微かに波打っている。 金額の差額そのものは、十数万円程度だ。案件全体の利益が吹き飛ぶほどの致命的な数字ではない。だからといって、「こちらの見落としでしたので差額は自社で全額被ります」と営業部長の決裁を通して簡単に済ませられる話でもなかった。先方には、すでに提示した金額をベースに社内稟議の準備を進めてもらっているのだ。
頭の中で、処理すべきタスクの優先順位が猛スピードで回転し始める。 まず運送会社の配車担当に電話を入れて正確な差額を確定させる。次に家具メーカーの工場へ連絡し、納品先ごとの梱包の分け方を指示する。修正した見積書を作成して営業課長に報告し、平謝りの電話を先方の購買担当者へ入れ、午後のアポを取って手持ちで持参する。その上で、社内の出荷手配票の伝票番号もすべて差し替える。
そこまで段取りを並べ立てた瞬間、今日の午後一時から予定されていた、別の食品容器メーカーとの定例商談のプレゼン資料を、まだ一部も印刷していなかったことを思い出した。午前十一時までに折り返すと約束していた別の顧客からの電話もある。
「如月さん、ありがとう。あとは全部、俺一人で巻き取って処理するから」
俺は彼女の手元にある赤丸のついた用紙を受け取ろうと手を伸ばした。 土曜日に母から言われた『あんたは何かあるとすぐ意固地になって全部一人でやろうとする』という言葉が、苦い後味とともに脳裏をかすめた。
だが、如月さんは紙を引かなかった。 赤丸のついた見積書は、彼女の白い指先の下に固定されたまま、俺の元へ戻ってこなかった。
「大宮先輩」 「うん?」 「午後一時からの南條商会さんのプレゼン資料、まだ出力していませんでしたよね」 「それは……昼休みに急いで印刷機を回せば間に合う」 「お昼ご飯を食べて、午後の体力を蓄えるのも昼休みの業務です」
どこまでも正論だった。反論の余地など一ミリも残されていなかった。
如月さんは自分の席へ戻ると、黄色いメモ用紙を一筆箋のように引きちぎり、デスクの上にサッと滑らせて置いた。 そこには彼女の几帳面な角張った文字で、上から順に『1.運送会社チャーター費確認』『2.メーカー梱包指示』『3.見積書修正・課長承認』『4.先方アポ取り』『5.出荷手配票再発行』と、俺が頭の中で並べた手順がそのまま整理されて書かれていた。
「私、メーカーごとの納品条件と梱包資材の確認を担当します。先週届いた先方からの変更メールの添付ファイルも、受注番号ごとに照合できます。納品先一覧のExcelシート、共有ドライブのパスを教えていただけますか?」 「でも、如月さん自身の今日のノルマがあるだろ。今週は四半期の締め作業も重なってるはずだ」 「午後三時までに課長へ提出する集計表は、今朝の九時までにすべて終わらせてあります」
迷いのない真っ直ぐな瞳だった。 俺は返事に詰まり、彼女の差し出したメモを見つめた。渡せば、確実に自分の負担は半分以下になる。作業のスピードも倍になるだろう。
けれど——昨日、あの地下のイタリアンで告白され、返事を保留にしている相手に、自分の初歩的な凡ミスの尻拭いをさせていいのか。 その男としての情けなさと罪悪感が、喉の奥に小骨のように引っかかって取れなかった。
「……今回は、完全に俺の確認不足なんだ。主任の俺が一人で責任を取るべき仕事だよ」 「はい。ですから、確認する人間の目を増やした方がいいと思います」
如月さんはオフィスの雑音に紛れるよう、ほんの少しだけ声のトーンを落とした。
「いつか先輩が困った時は、全力で手を貸してほしいって……土曜日の電話で、そう仰ってくださいましたよね」
自宅の台所で、夏野菜のカレーを煮込みながら受話器を握っていた光景が、鮮やかに蘇った。 あの時の俺は、後輩の気を楽にさせてやるための、都合のいい「頼れる先輩」のセリフとしてあの言葉を口にしたのだ。それを彼女は、単なる社交辞令として聞き流すのではなく、一人の仕事のパートナーとして、今この瞬間に言葉通りの行動として差し出してくれている。
「……覚えてたのか」 「たった二日前のことです。忘れるわけがありません」 「そうだな」 「それに……私が去年、取引先の入力ミスでパニックになった時も、先輩は嫌な顔ひとつせずに深夜まで一緒に付き合ってくださいました。今度は、私に先輩を助けさせてください」
俺は、デスクの隅に置いた冷めきったコーヒーをもう一度見つめた。 意地を張って一人で抱え込み、結果として先方に迷惑をかけることと、責任を果たすことは全く別物だ。自分のつまらないプライドよりも、取引先への誠実さを優先すべきだった。
「……分かった。仕入先メーカーの条件確認と、他の発注データに変更漏れがないかの照合をお願いできるか。運送会社との交渉と、先方への謝罪電話は俺がやる」 「はい!」 「見積書を直したら、二人でダブルチェックしよう」 「承知いたしました」
如月さんはパッと表情を明るくし、赤丸のついた紙をようやく俺へ手渡した。
「宮田さん、少し手を借りてもいいですか?」
通路の向こうへ声をかけると、宮田さんが口の中に飴を放り込んだまま顔を上げた。
「ん? 大宮が俺に自分から頼み事してくるなんて珍しいね。何?」 「南條商会さんへの折り返し電話、在庫の納期回答だけ先に伝えておいていただけないでしょうか。詳細な提案書は俺が午後一時からの商談で直接持参して説明すると」 「了解。在庫データは共有フォルダの黄色い行のやつね?」 「はい、それです」 「オッケー、三分で終わらせとくよ。俺の机の飴が欲しい時も、それくらい素直に頼んでくれよな」 「いつも勝手に無断で拝借してるみたいに言わないでください」 「先週の金曜、残業中にグレープ味を二個持ってったのを俺は見逃してないぞ」
オフィスの記憶力のいい同僚に苦笑いしながら、俺は運送会社の配車センターへ電話をかけた。 一括納品から三拠点分納への変更差額を交渉する。荷降ろしの時間指定についても細かく詰める。 受話器を耳に当てていると、隣の如月さんから付箋が貼られたメモがスッと差し入れられた。 『三か所の営業所のうち、埼玉の第二拠点だけ、ビルの荷物搬入用エレベーターの使用時間が午前十時までに制限されています。先方のメールの添付地図の最下段に注記あり』
添付ファイルの隅っこに小さく書かれていた搬入制限の条件だった。俺一人で焦って処理していたら、確実にまた見落として、納品当日にトラックの運転手を現地で何時間も立ち往生させていたところだった。 俺はそのメモの箇所を赤ペンでなぞり、運送会社の担当者に読み上げた。午前九時半必着の便に指定することで、無駄な待機費用の発生を未然に防ぐことができた。
先方の購買担当者へ電話をかけたのは、午前十一時を少し回った頃だった。
「株式会社東都総合商社の大宮です。平素より大変お世話になっております。……実は、先ほどお送りいたしました見積書の配送費の内訳に、こちらの確認不足による誤りがございました。大変申し訳ございません」
言い訳を挟まず、まず頭を下げて事実を報告した。受話器の向こうで、キーボードを叩くカタカタという乾いた音がピタリと止まる。
『大宮さん、明後日の水曜日の午前中が役員決裁なんですよ。今から金額が変わるとなると、稟議書の書き直しになりますが……』 「重々承知しております。本日午後二時に、各拠点ごとの詳細な内訳を記載した差し替え見積書を、手持ちで直接お届けに伺います。今回の分納に伴う追加の搬入時間制限についても、運送会社と調整を完了させておりますので、貴社にお手間は取らせません」 『……分かりました。こちらも急な分納をお願いした経緯がありますからね。大宮さんがそこまで迅速に手配してくれているなら、差し替えで通しましょう。ただ、次は最初の見積もりの段階で教えてくださいね』 「はい、誠に申し訳ございませんでした。必ず再発防止を徹底いたします」
受話器をフックに戻し、深く息を吐き出した。 顔を上げると、モニターの隙間から如月さんがじっとこちらを見つめていた。俺が「承諾もらえたよ」と小さく頷くと、彼女の口元がふっと緩み、同じように小さく頷き返してくれた。 それだけで、ガチガチに強張っていた背中の筋肉が、すうっと軽くなっていくのが分かった。
正午のチャイムが鳴り響く直前、修正されたすべての見積書と出荷手配票が完成した。 俺と如月さんは会議室の隅のテーブルに並び、電卓を叩いて数字を読み上げ、配送条件を一件ずつ声に出して読み合わせた。最後に、出荷手配票の最下段に、修正前の古い発注番号がそのまま残っているのを俺が見つけ出した。
「如月さん、ここ。古い番号のままだ」 「あ……本当ですね! すぐ打ち直します」
如月さんは舌を少し出し、嫌な顔ひとつせずに修正ソフトを操作した。 誰かと一緒に仕事をするというのは、こういうことだったのだ。 俺がすべてを完璧に背負い込む必要もないし、相手がすべてを正しくこなすわけでもない。お互いの見落としを補い合い、足りないところを埋め合って、ひとつの形にしていく。
十二時十分。整えられた書類の束を持って、営業課長のデスクへ報告に向かった。 ミスの原因、先方の担当者からの了承、そして如月さんが搬入制限を洗い出してくれたことや、宮田さんが別の連絡を巻き取ってくれたこともすべて包み隠さず伝えた。
「よし、分かった。すぐ先方へ行ってきなさい。……それと大宮、次からは分納案件のチェックシートをチーム全員で共有して、誰が見ても変更箇所が分かるように仕組みを変えよう」
課長のサインをもらい、自分のデスクへ戻ると、如月さんが引き出しから淡い花柄の布で包まれた小さな弁当箱を取り出しているところだった。
「如月さん、お昼休みにずれ込ませてしまって本当にごめんなさい」 「まだ十二時十五分ですよ。先輩、お昼はどうされるんですか?」 「地下の売店で何か適当に買って、デスクで食べながら午後の準備をするよ」 「『何か適当』ではなくて、ちゃんと栄養のある温かいものを食べてください」 「……俺は小学生か」 「お弁当も持たずに適当に済ませようとする人には、同じ注意をします」
如月さんがぷっと吹き出し、俺も思わず笑ってしまった。 俺は財布をポケットに入れ、立ち上がりかけてから、もう一度彼女の顔を真っ直ぐに見つめた。
「如月さん」 「はい」 「本当に……君が隣にいてくれて助かった。心から感謝してる」
如月さんは弁当包みの結び目に指を添えたまま、一拍の間を置いて、柔らかく微笑んだ。オフィスで見せるどんな笑顔よりも、優しく、穏やかな表情だった。
「お役に立てて、本当によかったです」
その笑顔の温もりに甘えて、昨日彼女が伝えてくれた告白を曖昧に流したり、仕事の貸し借りで誤魔化したりすることだけは、絶対にすまいと思った。
「それと……昨日の話だけど」
如月さんの指先が、弁当の布地の上でピタリと止まる。
「聞かなかったことにして逃げたりは絶対にしない。ちゃんと時間をもらって、真剣に考えてるから」 「……はい」 「今日は、仕事の仲間として助けてもらったお礼。そこだけは、ごちゃごちゃに混ぜたくなかったんだ」
少し硬い、不器用な言い方になってしまったかもしれない。 けれど、如月さんは逃げずに、澄んだ瞳で俺を見つめ返してくれた。
「私も同じ気持ちです。仕事を手伝ったからって、私の告白の返事を有利にしてくださいなんて、そんな卑怯なことは考えていません」 「うん」 「でも……先輩が真面目に考えてくださっていると聞けただけで、すごく嬉しいです」
俺は深く頷き、今度こそ地下の売店へ向かった。 サンドイッチの棚へ向かいかけたが、ふと足を止め、温かい具沢山の豚汁のカップも一緒にレジへ運んだ。なぜか耳の奥で、如月さんの『ちゃんと』という声が響いたような気がしたからだ。
午後、先方へ出向いて直接手渡した差し替え見積書は、担当部長に「大宮さんの迅速なリカバリーに免じて」と無事に受け取ってもらえた。 帰りの満員電車の中で社用スマホから営業課へ報告のメールを送ると、数分もしないうちに、如月さんから『承知いたしました。本当によかったです!』と短く、けれど力強い返信が届いた。俺は画面を閉じて、ようやく深く座席の背もたれに体を預けた。
その日の帰宅は、午後七時半を回っていた。 アパートのドアを開けると、風呂上がりらしく首にタオルを巻いた日菜子が、ちゃぶ台の上に画用紙を広げて文化祭の案内図の清書をしていた。
「お帰り、お父さん。今日はトラブルで遅くなるかと思った」 「ただいま。仕事でちょっと見積もりの数字を間違えちゃってな」
日菜子の定規を握る手が止まった。
「えっ、大丈夫だったの? 怒られた?」 「すぐに直して、先方にも直接行って説明してきたよ。後輩の如月さんと、宮田さんがものすごく手伝ってくれてな」 「……ふーん。如月さん、仕事できるんだね」 「ああ、ものすごく優秀な後輩だよ。助けられっぱなしだ」
日菜子は肩の力を抜き、再び定規を当てて黒いペンを走らせ始めた。
「お父さんでも、仕事で間違えることあるんだね」 「しょっちゅう間違えてるぞ。完璧な人間なんていないんだから」 「カレーに隠し味で砂糖入れすぎて、激甘にした時みたいに?」 「あれは隠し味の分量をちょっと測り間違えただけだ」 「全然隠れてなかったけどね」
日菜子が笑い、俺も笑いながらカバンを置いた。 仕事でミスをしても、失敗を娘に正直に打ち明けても、夕飯の時間が消えてなくなるわけではなかった。台所の冷蔵庫には日菜子が冷やしておいてくれた麦茶があり、ちゃぶ台の端には俺の箸と茶碗が、きちんと揃えて置かれていた。
「ポスターの清書、手伝おうか?」 「ううん、これは私の担当だから自分でやる。お父さんは早く手を洗って、ご飯食べて」 「ちゃんと、だな?」 「当たり前じゃん。ちゃんと食べなきゃ力出ないでしょ」
今日、二人目だった。 俺は洗面所で手を洗い、日菜子が温めてくれた湯気の立つ生姜焼きの皿を、両手で大切に抱えて食卓へと運んだ。
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