↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
俺が本気で愛されているわけがない 〜四人分の食卓と、十年越しの恋〜  作者: バカヤロウ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
5/23

第5章 写真の外にいた女の子


 水曜日の午後六時過ぎ。  外回りの営業先から直帰し、アパートの古びたアルミサッシの玄関ドアを開けた瞬間、居間の方から「はあぁぁ……」と見事なまでに重なった二人分のため息が聞こえてきた。


「ただいま。……どうした、二人揃って世界が終わったような顔をして」 「数学」


 ちゃぶ台の前に座り込んでいた日菜子は、振り返りもせずに短くそれだけ呟いた。顔の半分を畳に押し付け、死んだ魚のような目で天井の蛍光灯を見上げている。それだけで、何が起きたのかを説明するには十分すぎるほどの説得力があった。


 ローテーブルの上には、広げられた高校一年生の数学の教科書と、殴り書きの計算式で埋まったルーズリーフ、そして使い込まれたシャープペンシルが散乱していた。  日菜子の向かい側には、制服の半袖ブラウスの袖をきれいに折った明美ちゃんが、正座をして教科書とにらめっこをしている。手元の麦茶のグラスの底からは溶けた氷の水滴が滴り落ち、木製のテーブルの上に丸く濃い輪染みを広げていた。


「お帰りなさい、海斗さん」 「二人とも、お疲れさま。学校の帰りにここで勉強会か?」 「うん。この問題だけ、どうしても解けなくて……あと一問解けたら、今日のノルマが終わるのに」


 明美ちゃんが困ったように細い眉を八の字に下げ、ルーズリーフの余白を指差した。  俺はネクタイを緩めてカバンを畳の隅に置き、洗面所で石鹸をつけて手を洗ってから、二人の間の空いているスペースへ胡座をかいて腰を下ろした。


「どれどれ、お父さんに見せてみろ。高校の数学なんて十数年ぶりだけど、基礎的な問題ならまだ勘は残ってるはずだ」 「あんまり大口叩かない方がいいよ。去年の中学の連立方程式でも、移項の符号間違えてたんだから」 「あれはただの計算ミスだ。で、何だこれ……条件付き確率か」


 ルーズリーフに書かれた問題文に目を走らせる。白玉と赤玉が入った袋から、元に戻さずに続けて二個取り出す時の確率を求める標準的な問題だった。


「どこまで分かったんだ?」 「最初の一個目を取り出した時の分母までは、二人で計算できたんです」 「よし、それなら八割がた解けたも同然だ。こういうのはな、頭の中でこねくり回すより、樹形図を紙の端っこに素直に描いた方が早いんだよ」


 俺は日菜子の筆箱からシャープペンシルを一本抜き取り、ルーズリーフの空いている隅っこに、枝分かれする直線をテキパキと描き込んでいった。高校生二人の真剣な視線が、俺の手元の一点に集中する。


「一個目に赤が出たパターンがこれで、白が出たパターンがこれ。で、それぞれの枝の先に確率を掛けて足し合わせる。だから、ほら、答えは三分の一だ」


 自信満々に数字を太い丸で囲んでみせた。  だが、日菜子も明美ちゃんも、丸で囲まれた「1/3」を見つめたまま、ピクリとも動かなくなった。部屋の中に、柱時計のカチカチという秒針の音だけが響く。


「……ん? どうした、二人とも。あまりの鮮やかさに言葉も出ないか?」 「海斗さん」 「なんだい、明美ちゃん」 「その右側の枝……一個目で白玉を取り出したあと、袋の中に『玉を戻さずに』二個目を選ぶって問題文に書いてあるので、二回目の分母は一個減ってないとおかしくないですか?」


 明美ちゃんが細い指先で、問題文の三行目をそっとトントンと叩いた。そこには確かに、太字で『ただし、取り出した玉は袋に戻さないものとする』と書かれていた。


 俺はシャープペンシルを握ったまま静止し、問題文をもう一度頭から念入りに読み直した。そして、何も言わずにペンの後ろの消しゴムをカチリと押し出した。


「……えー、これはですね。問題文の条件をよく読まないと、大人でもこうして恥をかくという、非常に教育的な反面教師の見本です」 「最初から堂々と先生面して間違えたの、お父さんだからね!」


 日菜子が吹き出し、明美ちゃんも両手で顔を覆って肩を震わせて笑い出した。さっきまで居間に漂っていた重苦しい空気は一瞬で吹き飛び、三人で消しゴムのかすを散らかしながら、樹形図の枝をもう一度引き直した。  今度は明美ちゃんが分母の数字を一行ずつ確認し、日菜子が素早く約分を計算する。


「ほら、出た! 五分の二だ!」 「よし、正解だ。三人寄れば文殊の知恵だな」 「お父さん、二回目は横で見て頷いてただけじゃん」


 まったく反論の余地がなかったので、俺は苦笑いしながら立ち上がり、夕飯の支度へ逃げ込むことにした。


 台所へ向かうと、炊飯器の液晶パネルにはすでに「炊飯中」の赤いランプが灯っていた。日菜子が勉強の合間に、きちんと米を研いで浸水させてくれていたらしい。冷蔵庫を開けると、豚の薄切り肉とキャベツ、もやし、人参が入っている。野菜炒めと豆腐の味噌汁を作れば、十五分もあれば夕飯の食卓が整う。


「明美ちゃん、もしよかったら今日も夕飯、うちで食べていかないか? 野菜炒めで良ければすぐできるぞ」 「えっ、いいんですか? ありがとうございます。お母さん、今日も残業で遅くなるって言っていたので、すごく助かります」 「じゃあ、お母さんに『海斗さんの家で夕飯ごちそうになります』ってLINEだけ先に入れておいてね」


 明美ちゃんが「はい」と頷き、トートバッグからスマートフォンを取り出そうとした、その時だった。  引っ張り出した拍子に、バッグの口から一通の大きな茶封筒が滑り落ち、畳の上へバサリと音を立てて落ちた。先週の土曜日に駅前で見かけた、あの現像プリント店の名前が印刷された分厚い封筒だ。中から、現像されたばかりの大判の写真が数枚、扇のように畳の上へ滑り出した。


「あ、ごめんなさい……!」 「大丈夫だ、慌てなくていいよ。麦茶のグラスから離そう」


 俺はテーブルの上の結露したグラスを端へ寄せ、畳の上に散らばった写真を丁寧に拾い上げた。  一番上に重なっていた写真に、ふと目が留まった。


 写っていたのは、見慣れた駅前商店街の裏通りだった。  夕暮れの強い斜光が路地に差し込み、古びた金物屋の錆びたシャッターの、上半分だけを燃えるような朱色に染めている。下半分は深い青紫色の影に沈み、道路のアスファルトのひび割れが、光と影の境界線をくっきりと際立たせていた。  俺も毎日、仕事帰りにスーパーへ向かう時に通り過ぎているはずの道だった。それなのに、写真の中に切り取られたその路地は、どこか遠い異国の静かな街角のように美しく、息を呑むような静謐さを湛えていた。


「これ……明美ちゃんが撮ったのか?」 「あ、はい……文化祭の展示に出す写真の、最終候補なんです」


 明美ちゃんは受け取った写真を、ルーズリーフを片付けたテーブルの上に一枚ずつ丁寧に並べ直した。  夕方の川面のきらめき、電柱に立てかけられた古い自転車の長い影、八百屋の店先に置かれた発泡スチロールのプランター。どれも俺たちの生活のすぐ隣にある日常の風景のはずなのに、ファインダーを通すと、まるで時間がそこで永遠に止まってしまったかのように見えた。


「いつも歩いてる商店街なのに、こんなふうに見えるんだな……すごいよ」 「夕方のこの時間だけ、ビルの隙間から光が一本だけ差し込むんです。五分でも時間を外すと、もう全部がただの暗い影になっちゃって」


 写真の説明をする明美ちゃんの声が、普段の控えめなトーンから、少しだけ早口に熱を帯びていく。


「何回くらい通ったんだ?」 「三回通いました。最初の一回は、途中で雲が出て夕日が隠れちゃって失敗して」 「三回もか。粘り強いな」 「自分でもちょっとしつこいかなって思うんですけど……でも、この光を見た時、どうしても写真に残したくて」


 明美ちゃんは照れくさそうに笑い、写真の端を指先できっちり揃えた。


「こっちは、同じ日の夕方に撮ったんです」


 差し出されたもう一枚の写真は、タバコ屋の店先の風景だった。  閉まりかけのシャッターの前に、小さな丸いパイプ椅子がひとつ、ぽつんと置かれている。誰も座っていない。けれど、座面のビニールクッションがわずかに窪み、さっきまでそこに誰かが座って、夕涼みをしながら通りを眺めていたかのような、確かな生活の温もりと気配が濃密に残っていた。


「ここ、お店はお休みだったのか?」 「いえ、おばあちゃんがお店の奥に引っ込んだ瞬間に撮らせてもらったんです。椅子を店の中に片付けちゃう前の、ほんの数十秒の隙間に」


 俺は写真の中の小さなパイプ椅子を見つめた。  俺が普段その店の前を通る時、見ていたのは「タバコ屋が開いているか閉まっているか」という記号だけでしかなかった。明美ちゃんは同じ道を歩きながら、誰かが立ち去ったあとの椅子の窪みや、そこに残る人の気配に足を止め、静かにレンズを向けていたのだ。


「でも……写真部の顧問の先生からは、『風景や物ばかりじゃなくて、もっと生きた人間が写っている写真も撮りなさい』って言われちゃって。風景だけだと、どうしても展示全体が似通った印象になっちゃうからって」 「明美、人間の写真だってちゃんと撮ってるじゃん。私の変顔とかいっぱい持ってるでしょ」 「日菜子が急に変なポーズ取って動くから、ブレて変顔になっちゃうの!」 「動かないで真面目な顔して変顔になるより、動いてブレた方がマシでしょ」


 日菜子が自分のスマートフォンを取り出し、画面を俺に見せてきた。  そこに写っていたのは、段ボールの大きな空き箱を頭の上に高々と掲げ、口を大きく開けて何かを叫んでいる日菜子の姿だった。ブレているけれど、笑い声がそのまま聞こえてきそうな、実に生き生きとした写真だった。


「これは、何をしてる場面なんだ?」 「文化祭の教室の入り口のアーチの高さを測ってたの。メジャーがないから段ボールを積み上げてて」 「遊んでるようにしか見えないがな」


 俺が笑うと、日菜子は「失礼な、大真面目な作業風景だよ」と胸を張った。


「そういえば、昔の写真なら、お母さんがアルバムにいっぱい持ってるって言ってたよ」


 日菜子が立ち上がり、居間の本棚の一番下の段の扉を開けた。  そこから、背表紙に『小学校』と手書きのラベルが貼られた薄いビニール張りのアルバムを一冊引っ張り出し、ちゃぶ台の上にバサリと広げた。


「ほら、これ。小学三年の時の、秋の運動会のやつ」


 セピアがかったカラー写真の中に、白線が引かれた土のグラウンドが広がっていた。赤白帽をかぶり、体操服の胸にゼッケンをつけた小さな女の子二人が、並んで誇らしげに写っている。


 小学三年の秋。あの日の記憶が、鮮やかに蘇ってきた。


 アルバムのページをめくると、砂埃が舞うトラックの片隅で、片膝をついて砂まみれになりながら、明美ちゃんの細い足首に赤いハチマキを巻きつけている俺の姿が写っていた。  娘を撮るつもりで持参した一眼レフカメラを、見かねた近所の保護者仲間が途中で預かってくれたおかげで、珍しく父親である俺自身の姿が何枚も写真に残されていたのだ。


「これ……あの時の二人三脚のか」 「そう! 私、お父さんと走ったあと、喉がカラカラになって麦茶がぶ飲みしたの覚えてる」


 日菜子が懐かしそうに指を差した。


 あの年の秋、霧子さんは勤め先の大規模なシステム移行のトラブル対応で、どうしても仕事を抜けることができなくなってしまったのだ。  運動会の午後の目玉競技である親子二人三脚の時間が近づいても、明美ちゃんは校舎の裏のベンチで体操服の膝を抱え、「私は出ないからいい」と俯いて頑なに動こうとしなかった。お弁当も日菜子と一緒に食べるのだから、親がいないなら俺が一緒に走ればいいじゃないかと思い、本部にいた担任の先生に掛け合って、特別に最終組に混ぜてもらったのだった。


 日菜子とは前の組で先に一度走っていたので、俺だけが二回連続で走る羽目になった。


 スタートラインに立った時、明美ちゃんは恥ずかしそうに隣のレーンの親子ばかりを見ていた。本当の父親ではない、隣のおじさんと足を縛り合って走るのが、周りの友達に見られるようで気まずかったのかもしれない。


『明美ちゃん、右足から行くぞ。って、どっちの右足だ?』 『どっちも同じですよ。外側の足です、こっち』 『よし、地面をトントン叩いてリズムを合わせよう』


 俺が運動靴の先でグラウンドの砂をトントンと叩くと、明美ちゃんも小さな白い上履きで同じようにトントンと合わせてくれた。  そこまでは完璧だった。  だが、スタートのピストルが鳴り響いた瞬間、俺が緊張のあまり号令と反対の内側の左足を前に出してしまい、二人はスタートからわずか三歩で派手にバランスを崩してよろけたのだ。


 アルバムの写真には、その直後の決定的瞬間が残されていた。  前のめりになって転びそうになりながら、明美ちゃんが口を大きく開けてお腹の底から大笑いし、俺は必死に体勢を立て直そうと、片手を滑稽なほど大げさに宙へ突き出している。青く澄み渡った秋の空が、写真の背景でどこまでも広がっていた。


「危なかったよなあ、これ。もう少しで二人で派手に顔面からスライディングするところだった」 「お父さん、私の時も最初の一歩目、思いっきり足間違えてたからね」 「二回走っても直ってなかったのか、俺は」


 俺と日菜子が笑い合う横で、明美ちゃんはアルバムの写真からじっと目を離さなかった。その細い指先が、フィルム越しに写真の中の俺の姿を、そっと撫でるように触れている。


 その時、居間の壁掛け時計を見た日菜子が、ハッと声を上げた。


「あ、やばい! 文化祭のパンフレットの校正印刷、今日中にコンビニのネットプリントで出さなきゃいけないんだった!」 「おいおい、何時までなんだ?」 「八時までに入稿しないと、明日の朝の印刷に間に合わないの! 私、ちょっと走ってコピー機行ってくる!」


 明美ちゃんも「私も一緒に行こうか?」と立ち上がりかけたが、日菜子が手で制止した。


「いいよいいよ、私のスマホにデータ入ってるから一人でできる! すぐ帰ってくるから、明美は休んでて!」 「気をつけて行けよ。車道走るなよ」 「分かってる! 歩いて二分のコンビニだから!」


 日菜子が財布とスマートフォンをひっつかんで玄関へ駆け出し、バタンと勢いよくドアが閉まった。  足音が階段を駆け下りていくのが聞こえ、狭いアパートの部屋に、急激な静寂が訪れた。


 居間には明美ちゃんが一人、広げられた古いアルバムの前に正座したまま残されていた。  俺は台所のコンロへ戻り、豚肉と野菜を炒める準備を始めた。フライパンに火をつけ、トントンとまな板の上で人参を刻む。包丁の乾いた音だけが、台所に響いていた。


 しばらくして、背後の畳がきしむ微かな音がした。  振り返ると、明美ちゃんが台所の入り口の柱の陰に立ち、両手をエプロンのない腰の前でぎゅっと組んで、俺の背中を見つめていた。


「……明美ちゃん? どうした、お腹空いたか? もうすぐ炒め終わるぞ」 「海斗さん」


 呼びかける声は、いつもの明るいトーンではなく、どこか喉の奥で震えているような、静かで張り詰めた響きを帯びていた。


「あの時……運動会の二人三脚の時、私、本当に嬉しかったんです」 「え? ああ……あの運動会のことか」


 俺は包丁をまな板の上に置き、火を弱めて彼女に向き直った。


「あんなに派手に転びそうになって、順位も最下位だったからさ。足手まといになって、明美ちゃんに恥ずかしい思いをさせちゃったんじゃないかって、後から反省したんだよ」 「順位なんて、速さなんて、どうでもよかったんです」


 明美ちゃんは少し語気を強めて言った。それから、自分の言葉の強さにハッとしたように、キュッと唇を噛み締めた。  夕暮れの薄暗い光が差し込む台所で、彼女の瞳が潤んでいるのが見えた。


「あの日……お昼休みが終わったあと、みんながお父さんやお母さんと笑いながら競技の準備をしているのを見て、私、すごく怖かったんです。今日は誰も私のところには来てくれないんだ、私だけ一人ぼっちなんだって思って、校舎の裏でずっと泣きそうになってて……」


 俺は何も言えず、彼女の言葉を待った。


「でも、海斗さんが走って呼びに来てくれて。『明美ちゃん、一緒に走ろう』って言って、私の足にハチマキを巻いてくれた時……世界がパッと明るくなった気がしたんです。海斗さんと転びそうになって、一緒に笑えたから、私、あの日の運動会、最後はちっとも寂しくなかったんです」


 彼女の細い指が、制服のスカートの生地をギュッと強く握りしめた。


「あの頃から……私にとっては、海斗さんはずっと、特別でした」


 換気扇の低い回転音だけが、ゴーと部屋の空気を吸い込んでいく。  夕方の台所の蛍光灯の下に立つ明美ちゃんは、小学三年生の頃の面影をどこかに残しながらも、もう俺が見上げて抱き上げることのできる子どもではなくなっていた。すらりと伸びた背丈、整った顔立ち、そして何より、その瞳に宿る熱情は、明らかに一人の大人の女性のものだった。


 俺は息を呑み、胸の奥がきつく締め付けられるのを感じた。  如月さんからの告白とは、また違う種類の衝撃だった。十年もの間、隣の家の子どもとして、日菜子の親友として、近所のおじさんとして見守ってきた少女が、心の奥底でそんなにも長い間、俺への感情を温め続けていたのだ。


 けれど、俺は彼女の父親代わりとして生きてきた。日菜子の父親として、この二人の成長を一番近くで見守ってきたのだ。その境界線を曖昧にして、彼女の幼い初恋に甘えるような真似は、絶対に許されない。


「……明美ちゃん」


 俺は静かに、けれど逃げ場のない真っ直ぐな声で口を開いた。


「あの日のこと、そんなふうに大切に覚えていてくれて、本当にありがとう。すごく嬉しいよ」


 それだけを伝えると、明美ちゃんはハッとしたように一度伏し目がちになり、長いまつ毛を細かく震わせた。  彼女は聡明な子だ。俺がそれ以上の踏み込んだ言葉を紡がなかったことで、俺の引いた大人の境界線を、痛いほど正確に察知してしまったのだろう。  何かを言いかけようと小さく開いた唇を、彼女は自らの力でキュッと結び直し、無理に作ったような小さな微笑みを浮かべた。


「……あの、この写真。あとでスマホで撮らせてもらってもいいですか? 今日帰ったら、お母さんにも見せてあげたいので」 「ああ、もちろん撮っていっていいよ。確か、押し入れの奥の箱に、焼き増しした現物の写真も残っていたはずだから、探してあげよう」 「本当ですか? ありがとうございます」


 俺は居間の戸棚の奥へ行き、古いアルバムの箱をごそごそと探した。明美ちゃんは俺のすぐ後ろに立ち、その背中をじっと静かに見つめていた。  見つかった茶封筒から、当時の運動会の焼き増し写真を何枚か手渡すと、彼女は一枚ずつ、壊れ物に触れるような手つきで確かめた。スタート前、足をもつれさせて笑っている瞬間、そしてゴールしたあとに二人で泥だらけになって笑っている顔。


「明美ちゃんは、これから文化祭が終わったら、どんな写真がいちばん撮りたいんだ?」


 空気を変えようと尋ねると、明美ちゃんは写真を胸に抱えたまま、少し首を傾げて考えた。


「まだ、自分の中で言葉にするのは難しいんですけど……人が何かをしている時の、『手』を撮りたいんです」 「手?」 「はい。部活の時に、油絵を描いている友達の手をふと見たら、指先や爪の間にいろんな色の絵の具がついていて。本人はそれに全然気づかないで、夢中で筆を動かしていたんです。その手の感じが、すごく綺麗だなって思って」


 彼女は自分の両手を広げ、蛍光灯の明かりにかざして見せた。


「商店街の写真も、遠くから景色として撮るだけじゃなくて、本当はお魚を捌いているおじさんの手とか、お惣菜を油から揚げているおばあちゃんの手元を、もっと近くで撮りたいんです。でも……まだ恥ずかしくて、声をかける勇気が出なくて」 「いつも通ってる店でも、いざカメラを向けていいですかってお願いするのは緊張するよな」 「はい。撮っていいよって言ってもらえても、どうやってポーズを取ってもらえばいいのか分からなくなっちゃって」


 知らなかった。明美ちゃんがそんなにも深い想いを抱いて、毎日あの商店街をファインダー越しに見つめていたなんて。  俺が感心して頷いていると、外の階段をドタドタと駆け上がってくる騒がしい足音が聞こえ、玄関のドアが勢いよく開いた。


「ただいまー! ネットプリント、無事に八時前に間に合った!」


 汗だくになった日菜子が、プリントアウトされたばかりのA4の紙を掲げて居間へ飛び込んできた。


「あ、明美、写真見せてたの?」 「うん。海斗さんが、商店街の写真すごく褒めてくれたよ」 「でしょ? 明美の写真はいいんだって! それより見てよ、このパンフのレイアウト、写真の位置ここにしたんだけど、文字の大きさ読みやすいかな?」


 二人はあっという間にちゃぶ台の上に紙を並べ、頭を突き合わせて相談を始めた。さっきまで台所に流れていた張り詰めた熱気は、日菜子の賑やかな帰還とともに、何事もなかったかのように日常の喧騒の中へと溶けていった。  俺は台所のコンロへ戻り、強火で一気に野菜炒めを仕上げた。フライパンから上がる香ばしい醤油の匂いが、居間いっぱいに満ちていく。


 三人で囲んだ夕飯の食卓は、いつものように賑やかだった。日菜子が学校の先生のモノマネをし、明美ちゃんが笑い、俺が味噌汁をお代わりする。  やがて八時を回り、明美ちゃんが帰る準備を整えた時、彼女はトートバッグから小さな銀色のコンパクトカメラを取り出した。


「海斗さん」 「ん? 忘れ物か?」 「今度……文化祭が終わったら、海斗さんの写真を撮らせてもらえませんか」 「えっ、俺の写真?」 「はい。人が何かをしている時の手元を撮る練習の、最初のモデルになってほしくて」


 俺は自分の着ているヨレたTシャツと、ボサボサの頭に手をやった。


「い、今夜じゃなくて、今度でいいんだよな?」


 俺が本気で焦って尋ねると、明美ちゃんは今夜一番の、声を立てた少女らしい笑顔を咲かせた。


「はい。今度、海斗さんが台所でお料理している時に、お願いしたいです」 「よし、それなら腕によりをかけて、見た目のいい料理を作るよ」


 俺が頷くと、明美ちゃんは「約束ですからね」と嬉しそうにカメラをバッグへしまった。  玄関のドアが閉まり、二人の「バイバイ」という声が夜の廊下に響く。  その背中を見送りながら、俺は自分の右手のひらを見つめた。包丁ダコのある、何の変哲もない大人の手だ。けれど、この手で守り、支えてきた日々の時間は、彼女たちの心の中に、俺が想像するよりもずっと深く、確かな足跡を残しているのだということを、噛み締めるように思っていた。


お読みいただきありがとうございました。

少しでも楽しんでいただけましたら、ブックマークや評価(☆☆☆☆☆)をいただけますと大変励みになります!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。