第4章 お礼だけでは、誘いません
週明けの月曜日の朝、午前八時四十分。 東都総合商社のオフィスビルは、まだ空調の冷房がフロア全体に行き渡りきっておらず、週末の間に淀んだぬるい空気が窓際に重く滞留していた。 営業第一課の自分の島へたどり着いた俺は、使い古した革のビジネスバッグをデスクの脇に置き、壁際のガラス窓に掛けられた棒状の寒暖計に目をやった。目盛りは二十八度を指している。月曜の朝はいつもこの数字を確認するのが無意識の癖になっていたが、見たからといって体感温度が下がるわけでもない。ネクタイを少しだけ緩め、冷めきっていない自販機の缶コーヒーを一口飲んだ。 昨日の日曜日に映画館で感じたあの心地よい暗闇と、隣に座る霧子さんの微かなコロンの香りが、もう何週間も前の出来事のように遠く感じられた。
「おはようございます、大宮先輩」
パーテーション越しに、涼やかでよく通る声がかけられた。 隣の席の如月凛さんだった。 入社三年目の彼女は、襟の詰まった真っ白なブラウスに清潔感のあるライトグレーのスラックスを合わせ、艶のある黒髪を耳より低い位置でタイトに束ねている。デスクの上には、すでに今日使う書類の束が四隅を寸分の狂いもなく揃えて積まれ、端々には要点を色分けした細い付箋が幾重にも几帳面に貼り巡らされていた。
「おはようございます、如月さん。今週も早いですね」 「月曜日の朝は、中央線が遅延することが多いですから。ギリギリに出勤して慌てたくないので」
そう言って書類をめくろうとした拍子に、デスクの隅に立ててあった小さな折りたたみ式の手鏡に彼女の指先が触れた。鏡の中に自分の顔が不意に映り込んだらしく、如月さんは耳たぶをカッと赤く染めると、慌てて手鏡をデスクの一番深い引き出しの中へと滑り込ませた。
「あの、大宮先輩。金曜日の夕方に修正していただいた件ですが、先ほど先方の購買課から正式に承諾の返信が入っていました。先輩が手を入れてくださった配送費の内訳で、何の問題もないそうです」 「ああ、そうですか。よかった。週明け一番に揉めるのだけは避けたかったから、ホッとしましたよ。では、九時半からの課内ミーティングで課長に報告しましょう」
俺がそう言うと、如月さんの強張っていた細い肩が、吐息とともにようやく数センチほど下りた。
そこへ、通路を挟んだ向かいの席から、椅子をギシギシと鳴らしながら宮田さんが身を乗り出してきた。
「大宮、聞いたよ。先方の担当部長、今朝電話で話したらやけに機嫌が良くてさ。こっちが同じ納期の確認を二度聞き直しても全然怒らないんだよ。奇跡だな」 「宮田さん、それ、いつも怒られてるあなたの聞き方に問題があるんじゃないですか?」 「おいおい如月さん、週明けの朝から手厳しいねえ。大宮の真面目さがすっかり伝染しちゃってるよ」
宮田さんは俺と同い年の三十五歳で、営業の現場で修羅場を何度も一緒にくぐり抜けてきた腐れ縁のような同僚だ。デスクの引き出しにはいつも大袋の果汁飴を常備しており、仕事の合間によく俺のところへ愚痴をこぼしにやってくる。金曜の夜も別の取引先のトラブル対応で直帰していたが、深夜のうちに俺宛てに『残業代わってもらって助かった、月曜に飴やる』と短いメッセージをくれていた。
午前九時半からの朝の打ち合わせでは、如月さんがトラブルの経緯と解決策を淡々と、けれど淀みなく説明した。 社内の基幹システムの受注データと、先方の資材部から届いた変更依頼書に数量の食い違いが生じ、今月末の納品数が一時的に確定できなくなっていたこと。先週の金曜の夜、俺と如月さんで過去半年の発注履歴の元データを一行ずつ突き合わせ、先方の入力ミスだった箇所を特定したこと。
「今回の件を教訓にして、次回以降は先方からの変更依頼メールを受信した段階で、受注番号と変更履歴を自動で紐付けるチェックシートを作成することにします」
如月さんがモニターの資料を指し示しながら締めくくると、宮田さんが感心したように片手を挙げた。
「そのチェックシート、うちのチームの案件にも横展開させてよ。似たような資材の分納案件で、いつも手作業の確認に手間取ってたんだよね」 「はい、共有フォルダの営業一課テンプレートに入れておきます。自由に使ってください」
単なるミスの指摘や謝罪で終わらせず、次への仕組み化まで持っていく。彼女の仕事の早さと責任感の強さは、課内でも頭ひとつ抜けていた。俺は自分の手帳の週間予定表に、案件完了の赤ペンでチェックをひとつ書き加えた。
午前中の業務が一段落し、フロアに正午を告げるチャイムが鳴り響く少し前、如月さんがノートパソコンを小脇に抱えて、俺のデスクの脇へすっと歩み寄ってきた。
「大宮先輩。今日のお昼休み、何かもうご予定は入っていますか?」 「いや、特には。地下一階の売店でいつものサンドイッチでも買って、デスクで食べようかと思ってたところですけど」 「でしたら……もしよろしければ、一緒に行きたいお店があるんです」
土曜日の夕方、自宅の台所で夏野菜のカレーを煮込んでいた時にかかってきた、あの電話の声を思い出した。
「如月さん。金曜日の残業のお礼なら、本当に気にしなくていいですよ。あれは主任としての通常の業務範囲ですから」 「それもあります。でも……それだけじゃなくて。先輩に、少しお話ししたいことがあるんです」
如月さんは手に持ったノートパソコンの端にふっと視線を落とし、それから意を決したように、俺の目を真っ直ぐに見つめ返した。その瞳の奥には、仕事のプレゼンで見せるのとは全く質の異なる、静かで強い光が宿っていた。
「会社から歩いて三分で、一時間以内に確実にオフィスへ戻れるところです」
そこまで条件を整えられてしまっては、断る理由などどこにも見当たらなかった。
オフィス街の裏通り、雑居ビルの地下へ続く狭い階段を降りたところに、そのイタリア料理店はあった。 表に目立つ看板はなく、木製の重いドアを開けると、ニンニクとオリーブオイルの食欲をそそる香りがふわりと漂ってくる。店内は近隣のオフィスからやってきた客で八割方埋まっていたが、如月さんが事前に電話で席を確保してくれていたようで、一番奥の、フロアから一段仕切られた二人掛けの半個室へとスムーズに案内された。窓辺の小さな鉢植えのアイビーの影が、白いテーブルクロスの上に涼しげに落ちている。
「ここ、同期の女子と時々来るんです。ランチの生パスタがすごく美味しくて」 「へえ、会社のこんな近くに、こんな落ち着いた店があったんですね。全然知りませんでした」 「先輩はいつも、地下の売店でおにぎり買うか、駅前の立ち食い蕎麦ばかりですもんね」 「あそこは注文してから三十秒で出てきますからね。早いのは正義ですよ」 「今日は、その三十秒を忘れて、少しゆっくり食べてください」
如月さんが手渡してくれた革張りのランチメニューを開く。 俺は彼女のおすすめに従い、エビとズッキーニのトマトクリームパスタのセットを注文した。食後のセットドリンクにホットコーヒーまで付いていると聞き、反射的に左腕の腕時計に目をやると、向かいの席からクスリと笑い声が漏れた。
「大丈夫ですってば。ちゃんと一時前にはデスクに戻れますから」 「いや、如月さんを疑っているわけじゃなくて、単なる長年のサラリーマンの職業病ですよ」
苦笑いしながら言い訳を口にすると、自分でもなんだか可笑しくなってきた。
「昨日の日曜日は、お体をゆっくり休められましたか?」
運ばれてきたレモン水のグラスに口をつけながら、如月さんが何気ない調子で尋ねてきた。
「ええ。まあ、半分は休んで、半分は娘たちに引っ張り回されて映画を観に行っていました」 「……娘たち、ですか? 大宮先輩のお子さん、日菜子ちゃん一人でしたよね」 「ああ、うちの日菜子と、その同級生の幼馴染の女の子です。隣のマンションに住んでる親子で、お母さんも一緒に、四人で観に行ったんですよ」
如月さんは持っていたカトラリーのフォークをそっと紙ナプキンの上に置いた。その細い指先が、ほんの一瞬だけピクリと強張ったように見えた。
「……もしかして、『水門の町』ですか?」 「えっ、どうして分かったんですか?」 「以前、残業中に給湯室でお茶を淹れていた時、大宮先輩が『今度、川の町を舞台にした映画が公開されるらしい』って、スマホの予告動画を見ながら呟いていらっしゃったので」
いつ話したのか、自分ではすっかり忘れていた。 残業中の独り言のような他愛のない呟きを、この後輩はそんなところまで正確に拾い上げて、記憶の引き出しにしまっていてくれたのだ。その細やかさに感心すると同時に、どこか申し訳ないような居心地の悪さが胸の奥をかすめた。
「映画、どうでしたか?」 「すごく良かったですよ。ただ……一緒に観た人と、ラストシーンの受け止め方が真っ二つに分かれましてね。俺は主人公が町に残ったと思ったんですが、彼女は『おばあさんに挨拶をするために一時的に引き返しただけで、最終的には町を出て行ったはずだ』って言うんです。なるほど、そういう深読みもあるのかと驚かされました」
話しているうちに、自分の口調が普段の業務連絡のそれよりも、少しだけ柔らかく緩んでいることに気づいた。 如月さんは手元のメニューの端を指先でなぞりながら、伏せていたまつ毛をゆっくりと持ち上げた。
「その、お隣のお母さんとは……長いお付き合いなんですか?」 「ええ。日菜子が幼稚園に入った頃からですから、もう十年以上になりますね。向こうも一人でお嬢さんを育てていらっしゃるご家庭で。お互いに仕事で手が回らない時なんかは、夕飯を一緒に食べたり、買い出しを手分けしたりして、ずっと助け合ってきたんです」
説明を重ねるうちに、俺は霧子さんの話を、会社の後輩である如月さんにどこまで詳しく話すべきなのか分からなくなり、自然と口を噤んだ。
如月さんはそれ以上、詮索するように踏み込んでくることはしなかった。 静かな店内に、厨房から立ち上るフライパンの炒め音と、周囲の楽しげな話し声が低く響いている。
「大宮先輩。去年の秋の、課の親睦会の夜のこと……覚えていますか?」
不意に、まったく別の方向から投げかけられた問いだった。
俺はテーブルの上の水のグラスを見つめた。 去年の十月。半期の目標達成を祝う課の飲み会の席でのことだ。大口の取引先の重役をゲストとして招いた席で、その役員が酒の勢いに任せて、如月さんの隣に陣取り、執拗にプライベートな連絡先を聞き出そうとしていた。彼女が明らかに困り果てて笑顔を強張らせ、何度も丁重に断っているにもかかわらず、相手は二次会のバーへ二人きりで連れて行こうと腕を掴む始末だった。
「覚えていますよ。あの役員、かなりタチが悪かったからな」 「はい」 「あの時、如月さんが困っているのを見て、俺が二人の間に入って『彼女はこの後、明日の早朝プレゼンの最終資料の確認でオフィスに戻る指示を出してありますので、ここで引き揚げさせます』って言って連れ出したんですよね。裏ですぐ宮田さんにアイコンタクト取って、タクシーの手配と相手の宥め役をお願いして」 「あの後、翌朝一番に、先輩は課長と部長に事の経緯を正確に報告してくださって。会社側から先方の総務へ正式に抗議を入れて、二度と私に個人的な連絡が来ないように根回しまでしてくださいましたよね」 「それは当然の対応ですよ。職場の部下や後輩が、取引先の理不尽なハラスメントに晒されているのを放置する主任なんて、給料泥棒ですから」
俺が当たり前のこととして返答すると、如月さんは首を小さく横に振った。
「私が嬉しかったのは、そのことだけじゃないんです」 「え?」 「あの事件のあと……他の男性社員の中には、私に妙に腫れ物に触るみたいに気を遣って、重要な出張や大きな商談から外そうとする人もいました。『女の子だから守ってあげなきゃ』って。でも、大宮先輩だけは違いました」
如月さんは膝の上で両手をきゅっと握りしめた。
「先輩は翌週からも、私に他の人と同じように厳しい案件を振ってくださって、私が一人でやり切ったところは、社内の誰よりも真っ先に正当に評価してくださいました。気を遣って過保護にするんじゃなくて、私が一人の営業担当としてどうありたいかを、ずっと見ていてくださったんです」 「それは……如月さんが優秀で、逃げずに努力していたからですよ。俺が評価したんじゃなくて、君自身の仕事が結果を出したんです」 「そうやって……いつも自分の手柄を譲ってしまうところも、です」
如月さんはテーブルの上の紙ナプキンに視線を落とした。 白く細い指先が、微かに震えている。
「あの日、助けていただいた一回だけじゃないんです。日々の仕事の中で、私が迷ったり、自分の判断に自信を失いそうになった時、先輩はいつも一番近くで、私の足元を照らしてくださっていました」
言葉を選ぶような、息の詰まる沈黙が二人の間に落ちた。 ちょうどそこへ、「お待たせいたしました、本日の生パスタです」とウェイターが二つの深皿をテーブルに運んできた。 立ち上る湯気とともに、濃厚なトマトと生クリーム、そしてソテーされたエビの香ばしい匂いが立ち込める。ウェイターが伝票を置き、会釈をして離れていくと、再び食器のカチャカチャという乾いた音が耳に戻ってきた。
「如月さん。そんなに過大評価されると、さすがに照れ臭いですよ」
俺は空気を和ませようと、フォークを手に取って笑いかけた。
「後輩のフォローをするのは、役職手当をもらっている主任の当たり前の業務ですから。俺だって、いつも宮田さんや課長にフォローされてばかりですし」 「先輩、分かっていらっしゃらないんですね」
如月さんは、テーブルの上のフォークに一切触れようとしなかった。 背筋をピンと伸ばし、白いテーブルクロス越しに、俺の顔を正面から見据えている。
「私は今、仕事の業務の相談としてここへお誘いしたわけではありません」
俺の手が、パスタの上でピタリと止まった。
「大宮先輩と、二人きりで、仕事以外のプライベートな時間を過ごしたかったんです。休日に先輩がどんな音楽を聴いて、どんな景色を見て、どんなことで笑うのか……そういう、会社の看板を下ろした先輩のことを、もっと知りたかったんです」
彼女の膝の上で重なっていた指先が、布地を白くなるほど強く握りしめた。
「私は、大宮先輩が好きです。頼れる優しい職場の先輩としてではなく、一人の男性として、ずっとお慕いしています」
店内のBGMが、まるで遠い異国のラジオのように輪郭を失って後退していった。 聞き違いでも、耳鳴りでもなかった。
如月さんは真っ直ぐに俺を見ていた。 普段、取引先の役員を前にプレゼンテーションを行う時と同じくらい凛とした真剣な眼差しで、けれどその瞳の奥は、今にも壊れてしまいそうなガラス細工のように細かく震えていた。
「……俺を、ですか」 「はい。大宮海斗さんという、あなたが好きです」
俺は、右手に持っていたフォークを静かに皿の縁へ置いた。 銀色の金属が陶器に触れ、チリンと小さな硬い音を立てる。
頭の中が真っ白になり、次に出てくるべき言葉を探して必死に思考を巡らせた。 ありがとうございます、と礼を言えばいいのか。それとも、最初に自分の年齢や境遇を盾にして断るべきなのか。 けれど、そんなことは彼女だって最初から百も承知のはずだった。俺が今年で三十五歳になること。高校生の娘を一人で育てているシングルファーザーであること。そして十四年前に、妻に裏切られて離婚していること。
ふいに、十四年前のあの日——妻の沙織が出て行った翌朝の記憶が、鮮烈な痛みを伴って脳裏に蘇った。 朝の冷たい光が差し込む六畳の台所で、俺はパイプ椅子に座ったまま一睡もできずに夜明けを迎えていた。冷蔵庫の低いモーター音だけが響く部屋で、壁掛けのカレンダーを見つめていた。そこには、妻が出て行く前日、俺自身の筆跡で『来月、三人で動物園』と黒いマジックで間の抜けた文字が書き込まれていたのだ。 自分は家族を愛し、愛されていると無邪気に信じ込んでいた。けれど、その足元はとっくの昔に崩れ去っていたのだ。 誰かに好意を向けられるたび、心の奥底で警報が鳴り響く。 『俺のような男が、本気で愛されるわけがない』 『また浮かれて、相手の本当の気持ちを見落とし、最後には全部失うことになるぞ』 その臆病な防衛本能が、十四年経った今でも、俺の胸の柔らかい部分を硬い氷で閉ざそうとしていた。
けれど——今、目の前の白いテーブルクロスを挟んで座っているのは、あの日の元妻ではない。 自分のプライドも、仕事上の立場も、傷つくリスクもすべて投げ打って、真っ直ぐに想いをぶつけてきている、一人の誠実な女性だった。
「如月さん。……すみません。急なことで、すぐにうまい言葉が出てこなくて」 「謝らないでください。急に自分の気持ちを押し付けたのは、私の方ですから」
如月さんは一度だけ、震える手でレモン水のグラスを持ち上げて口を湿らせた。
「今すぐ、この場でお返事をいただこうとは思っていません。先輩に背負っているものがたくさんあることも、分かっています。ただ……冗談だったとか、後輩の気まぐれだったということにして、なかったことにはしてほしくないんです」
そこまで言わせてしまった自分の不甲斐なさに、顔から火が出るほど羞恥と申し訳なさが込み上げてきた。この人は、俺が一番ずるい形で逃げ出すことまで見越して、先回りで釘を刺してくれているのだ。
「冗談だなんて、これっぽっちも思っていません」
俺は逃げずに、彼女の真っ直ぐな瞳を正面から見据えた。
「ただ……俺は、誰かとそういう関係になることを考えるのが、ずっと怖くて、長い間ずっと避けて生きてきました。君のその真っ直ぐな気持ちに対して、俺も中途半端な誤魔化しではなく、自分の気持ちをちゃんと整理して向き合いたい。だから……少しだけ、考える時間をいただけませんか」
如月さんは驚いたように目を瞬かせ、それから張り詰めていた糸がふっと緩んだように、長いため息を漏らした。
「……はい。ありがとうございます。それだけで、十分です」 「仕事の間は、お互いにやりにくくなるかもしれませんが……」 「いいえ、仕事の間は、絶対に今まで通りにしてください。大宮先輩が私を贔屓したり、逆に気まずそうに距離を置いたりしたら、それこそ社内中の噂になってしまいますから。私も、プロとしてきっちり割り切ります」 「分かりました。俺もそうします」
そこだけは、いつもの営業課の頼もしい如月凛の声に戻っていた。
俺たちは、少し表面が冷めてしまったパスタにようやくフォークを入れた。 濃厚なトマトクリームの甘みと酸味が口いっぱいに広がり、麺のモチモチとした歯ごたえが心地よかった。「美味しいですね」と俺が呟くと、如月さんの唇が、今日初めて見る柔らかで少女のような笑顔を描いた。
食後のホットコーヒーが運ばれてきた時、彼女はカップの取っ手を両手で包み込むように持ち、ふうふうと息を吹きかけた。 カチャリとカップがソーサーに当たる小さな音がした。 落ち着かないのは俺だけではないのだと、その微かな震えでようやく理解できた。普段ならプレゼンが終わった後、背筋を伸ばしてテキパキと荷物を片付ける彼女が、今は所在なさげに自分の爪先を見つめている。
「よかったです。店選びまで失敗してたら、どうしようかと思っていました」 「いや、本当に美味しかったですよ。ごちそうさまでした」 「あ、今日はお礼ですから、私が払います」 「だめです。今日は自分の分は自分で払わせてください。そういう約束でしょう?」
レジの前で少し押し問答になったが、最後は彼女が「分かりました。頑固ですね、先輩は」と苦笑いして折れ、きっちり割り勘で精算を済ませた。ここで彼女に奢られてしまったら、今日交わした言葉の重みまで、単なる『ご馳走になった貸し借り』の中に埋もれてしまう気がしたからだ。
店を出て、強い日差しが照りつける通りを二人で並んで歩いた。 オフィス街のビルが落とす濃い日陰に入ると、ヒヤリとした風が通り抜けていく。互いに次の話題を探しながら、けれど沈黙がちっとも気まずくない不思議な距離感だった。
「本当に、美味しいパスタでした」 「ふふ、それ、お店を出てからもう二回目ですよ」
如月さんが横で楽しそうに笑った。その横顔は、いつものオフィスで見せる完璧なキャリアウーマンの鎧を脱ぎ捨てて、どこまでも瑞々しく輝いて見えた。
午後、オフィスに戻ってからの彼女は、見事なまでに普段通りの後輩だった。 先方の購買課へテキパキと確認の電話をかけ、隣の俺のデスクへ回覧書類を回してくる。俺もまた、見積書の最終確認に集中し、彼女から指示された修正箇所を淡々と処理していった。 だが、書類の端を受け渡すたび、至近距離で触れ合う彼女の指先の温度に、さっきの地下の店の白いテーブルクロスと、レモンの香りがした水のグラスが鮮烈にフラッシュバックした。
定時のチャイムが鳴り、如月さんが「お先に失礼します」と爽やかに一礼して先にオフィスを出て行ったあとも、俺は残業のデスクで一人、スマートフォンの画面を何度も開いては閉じていた。
『今日はランチ、ご馳走様でした。助かりました』
メッセージアプリにそう打ちかけて、俺は親指をピタリと止めた。
助かった、ではない。 彼女が今日、あの薄暗い半個室で俺の目の前に差し出してくれたものは、俺の仕事を終わらせるための便利な手助けなどでは断じてなかった。 傷つくことを恐れず、俺という一人の男を真っ直ぐに選び取ろうとしてくれた、かけがえのない真剣な好意だったのだ。
俺は入力した文字をすべてバックスペースで消去した。 蛍光灯が半分消され、人気が少なくなった静まり返るオフィスの中で、俺は暗転したスマートフォンの黒い画面を見つめたまま、深い息を吐き出した。
お読みいただきありがとうございました。
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