第3章 四枚の映画の半券
駅の中央改札口の脇、黄色い点字ブロックを避けた柱の陰に立った時、腕時計の針はまだ九時四十八分を指していた。 待ち合わせの約束は十時だ。日菜子は改札の頭上に光るLEDの電光掲示板と俺の顔を交互に見比べ、何も言わずにすっと腕を組んで改札の柱の横に並んだ。俺も何も言わなかった。電車が遅れるかもしれないし、切符の購入やICカードのチャージに手間取るかもしれない。何事も早い分には困らないはずだ。
けれど、実際には隣のマンションの棟を出るところまで見通せる距離なのだから、最初からエントランスで声をかけて一緒に来ればよかったのだ。わざわざ改札前待ち合わせなどという形をとったせいで、改札を通る人の波を見つめながら、無意味に何度も腕時計に目を落とす羽目になっていた。
「お待たせしました、海斗さん」
人の流れの切れ間から、涼やかな声が届いた。 顔を上げると、霧子さんと明美ちゃんが約束の五分前に改札を抜けてくるところだった。
霧子さんは、透け感のある淡い若草色のブラウスに、足首まで届く落ち感のあるアイボリーのプリーツスカートを合わせていた。普段、仕事帰りにスーパーやアパートの前で顔を合わせる時の、きっちりまとめ髪にジャケットという装いとはまるで違う。肩のあたりでふわりとゆるくまとめられた黒髪が、歩くたびに柔らかく揺れていた。近所で十年間見慣れてきたはずの隣人なのに、正面から声をかけられると、喉の奥が乾いてすぐには返事が出てこなかった。
「……あ、暑かったですね。日差しが強くて」
やっとの思いで口から絞り出せたのは、駅前で配られているうちわの広告と同じくらい誰にでも言える、平凡極まりない挨拶だった。
「ええ。外は日差しが厳しいですね。でも、電車や映画館の中は冷えそうですから」
霧子さんは肩に掛けたトートバッグの口を少しだけ広げ、中に畳んで入れた薄手のカーディガンを覗かせて見せた。
「映画館、絶対に寒いよ。お母さん、冷房が強いと毎回そう言って肩すぼめてるもん」 「だって、前に途中で肩が冷えて寒気が止まらなくなって、映画の内容どころじゃなくなっちゃったことがあったのよ」
明美ちゃんの軽口に、霧子さんが照れ隠しのように眉を寄せて笑う。 俺も何か羽織るものを持ってくればよかったと、今さらながら後悔した。普段は出かける前に「日菜子、タオル持ったか? 水筒は?」と娘の荷物ばかり入念に点検しているくせに、自分のこととなるとアイロンのかかった青いシャツ一枚で平然と飛び出してきてしまう。このあたりの抜かりなさは、父親としてちっとも進歩していない。
二駅先のシネマコンプレックスへ向かう電車は、日曜の朝ということもあって適度に空いていた。 日菜子と明美ちゃんは吊り革に並んでつかまり、網棚の上の吊り広告を見上げながら、文化祭の展示で使う模造紙の色合いについてあれこれと小声で熱心に話し合っている。 霧子さんは俺のすぐ隣に立ち、白い指先でシルバーの吊り革を握った。電車がポイントを通過してガタゴトと揺れるたび、彼女の若草色の袖が、俺の青い麻のシャツの腕に触れるか触れないかの距離でかすかに擦れ合った。ふわりと、朝の身支度でつけたらしい柑橘系の微かなコロンの香りが鼻腔をくすぐる。
「海斗さん、昨日のカレー、今朝少しだけ温めていただきました」 「あ、そうでしたか。でも霧子さん、昨夜はうちは朝は食パン派だって仰っていませんでしたっけ?」 「ふふ、それは海斗さんのお宅でしょう? うちはお米でもパンでも、美味しいものなら朝から大歓迎なんです」
自分で昨夜口にした適当な言い訳を、他人の家の台所ルールとごちゃ混ぜにしてしまっていたらしい。霧子さんが悪戯っぽく微笑み、俺もつられて吹き出した。
「タッパー、わざわざ重くなかったですか。昨夜も言いましたけど、返すのは何かのついででよかったのに」 「プラスチックの軽いものですから、全然重くありませんよ。映画が終わってお茶でもする時に、忘れずにお返ししますね」
彼女のバッグの隙間から、見慣れた青い半透明のフタがちょこんと頭を覗かせていた。昨日の夜までうちの古びた流し台の横にあった安物のタッパーが、今は綺麗に洗われて、休日の装いをした大人の女性の私物の中に収まっている。たったそれだけのことなのに、自分の生活の断片が彼女の生活の隙間に溶け込んだような、なんとも言えないくすぐったい感覚が胸の底に湧き上がってきた。
駅ビルの上層階にある映画館に到着すると、ロビーは日曜日の午前中を楽しむ家族連れやカップルで予想以上に混雑していた。 キャラメルポップコーンの甘く香ばしい匂いと、大型モニターから流れる様々な予告編の爆発音や音楽が混ざり合い、独特のざわめきを生み出している。 俺はスマートフォンを取り出し、自動発券機の液晶パネルの前で予約番号のバーコードを表示させようとした。すると、横から日菜子がスッと首を伸ばして俺の手元の画面を覗き込んできた。
「お父さん、それ昨日のスーパーの買い出しメモ。『パプリカ・牛肉こま切れ・甘口ルー』って画面にデカデカと出てる」 「わ、分かってるよ。今ブラウザのタブを切り替えるところだ」
口先では冷静を装ったが、まったく分かっていなかった。焦れば焦るほど指先が滑り、画面の中で買い物メモが小刻みに上下にスクロールする。隣で明美ちゃんが「ふふっ」と吹き出し、霧子さんが優しく目元を緩めて見守っていた。
なんとか発券機から吐き出された四枚の長細いチケットを受け取り、コンセッションの売店へ移動した。 日菜子が「ポップコーンも絶対に食べる」と言い張り、明美ちゃんも「私も少し食べたいかも」と同調した。だが、甘いキャラメル味を推す日菜子と、映画館なら王道の塩味に限ると主張する明美ちゃんで意見が真っ二つに割れ、結局、真ん中に仕切りの入った一番大きなハーフ&ハーフの巨大な紙箱を一つ買うことで手を打った。
「で、席の並び順はどうする?」
売店の脇でトレイを受け取りながら俺が尋ねると、日菜子はすでにチケットの座席番号をじっと見比べて頭の中でシミュレーションを済ませていたらしい。手際よく四枚の券を並べ替えた。
「私がお父さんの隣。明美がその横。でお母さんが一番右ね」 「うん、それでいいよ。お母さん、こっちの端っこの席ね」
左から、俺、日菜子、明美ちゃん、霧子さん。 特に異論を挟む余地のない、ごく自然で平和的な並び順だった。ただ、俺の席からポップコーンの箱までは日菜子の膝を越えなければ手が届かないし、何より、映画の最中に霧子さんの表情を盗み見るには、娘たち二人の横顔を飛び越えなければならなくなった。
開場のアナウンスが流れ、薄暗いシアターの長いスロープを上がっていく。 指定された中央の列の座席に腰を下ろすと、ふかふかとしたシートが深く沈み込んだ。 右端に座った霧子さんが、言っていた通りにカーディガンを広げ、膝の上にそっと掛けた。ふと視線を感じて日菜子たちの向こうへ目をやると、薄明かりの中で霧子さんと目が合った。彼女は小さく目礼し、悪戯っぽく首を傾げてみせる。こちらも慌てて頷き返した瞬間、場内の照明がすうっと一段階落ち、映画泥棒のコミカルな警告映像がスクリーンいっぱいに映し出された。
やがて完全に暗闇が落ち、『水門の町』のオープニングが静かに始まった。
最初に劇場を包み込んだのは、サラウンドスピーカーから流れる、豊かで透明な川のせせらぎの音だった。 古びた家々の土台の下を、青く澄んだ水がとうとうと流れている。朝の柔らかな光が水門の鉄扉を照らし、住人たちが木製の雨戸をカラカラと開けて、軒先に打ち水を撒いていく。 主人公の高校生の少年は、この夏の終わりに、生まれ育ったこの小さな水門の町を出て都会へ行く決意を固めている。駅へと続く赤い欄干の橋を渡りさえすれば、新しい生活が始まるはずだった。 しかし少年は、毎朝荷物を背負って家を出るたびに、町の誰かに呼び止められては引き返すことになる。
派手なカーチェイスも、劇的な事件も何ひとつ起こらない物語だった。 近所の自転車のチェーンが外れて直すのを手伝わされたり、急な用事ができた八百屋の店番を押し付けられたり、突然の夕立に降られて、渡しそびれた傘を届けに走ったりする。 中盤、頑固で口の悪い魚屋のおじいさんが、少年に重いトロ箱を運ばせたくせに、感謝の言葉を述べるより先に「おい、歩く時の腰が入ってねえぞ!」と理不尽に怒鳴りつける場面があった。 客席のあちこちから控えめな笑い声が漏れ、俺も思わず喉を鳴らして笑った。すると、二つ隣の席のさらに向こう側から、クスクスと息を殺して笑う気配が届いた。
日菜子と明美ちゃんの黒いシルエットの向こうに目を凝らすと、暗闇の中で霧子さんが両手で口元をぎゅっと押さえ、肩を小さく震わせていた。青白いスクリーンの反射光が、彼女の通った鼻筋と、長く伏せられたまつ毛の影を綺麗に浮かび上がらせている。
俺は慌てて正面のスクリーンへ視線を戻した。 けれど、それ以降、物語の重要な展開よりも、次にあの魚屋の老人が登場した時、彼女がどんな顔をして見つめているのかばかりが気になって仕方がなくなっていた。
終盤、少年はようやく誰にも呼び止められることなく、ひとつのボストンバッグを手に下げて、夕暮れの赤い橋へとたどり着く。 町の人々は、今日が彼の旅立ちの日だと知っているのか、誰も呼び止めようとはしない。 少年は朱色の欄干の手前で足を止め、長い影を落としながら、静まり返った懐かしい町並みを一度だけ振り返る。 そして次の瞬間——少年はボストンバッグを抱え直すと、来た道を全速力で走って戻っていった。
スクリーンには夕暮れの空を映して茜色に染まる川と、静かに佇む赤い太鼓橋だけが残され、美しいアコースティックギターの旋律とともに、静かにエンドロールが流れ始めた。 俺は座席の背もたれに深く体を預け、息を吐いた。 少年は、町を出るのをやめて、この愛しい日常に残る決断をしたのだと、俺はそう受け止めていた。
シアターの明かりがゆっくりと灯ると、隣の日菜子が「んーーっ」と両腕を伸ばしかけて、後ろの席の客に気づいて慌てて途中で引っ込めた。
「背景の空と川の色、めちゃくちゃ綺麗だったね……!」 「うん。橋の下を水が流れる時の音も、家でイヤホンで聴くのと全然違って、お腹に響く感じがした」
明美ちゃんが興奮気味に瞳を輝かせて答える。二人の膝の上の大きな紙箱の底には、弾け損ねた硬いとうもろこしの粒だけが、寂しそうに転がっていた。
劇場を出たあと、昼食は同じフロアにあるレトロな雰囲気の洋食レストランに入ることにした。 店頭のベンチで席が空くのを待つ間、明美ちゃんが買ったばかりのパンフレットの美術設定のページを食い入るように覗き込み、日菜子はスマートフォンで主題歌の歌詞やアコースティックギターの奏者を熱心に検索している。
やがて四人掛けのボックス席に案内され、ハンバーグやオムライスの注文を済ませると、俺は水差しからグラスに冷たい水を注ぎながら、ずっと胸の中に残っていた疑問を口にした。
「なあ、みんな。あの映画のラストシーンだけど、あの男の子、結局は町に残ることにしたのかな?」
向かいに座っていた霧子さんが、手元のお冷のグラスをコトンとテーブルに置いた。
「私は、あの子はやっぱり町を出て行ったと思いました」 「えっ、でも、最後に赤い橋の前から走って引き返しましたよね?」 「ええ。でもあれは、もう一度だけ家へ帰ったんじゃないでしょうか。育ててくれたおばあさんに、ちゃんと顔を見て『行ってきます』を言うために」
俺はテーブルの上のパンフレットをめくり直した。映画のラストカットは茜色に染まる橋と水門だけで、少年が家へ戻り、おばあさんと対面する場面などは一切描かれていない。
「そういう具体的な場面、どこかにありましたっけ?」 「いえ、描かれてはいませんでした。だから、完全に私の勝手な想像なんですけれど」
霧子さんは小首を少し傾げ、困ったように、けれど確信を込めて微笑んだ。
「あの子、町中の人たちには挨拶回りをしていたのに、毎朝ご飯を作ってくれていたおばあさんにだけ、本当に出て行く日を言っていなかったでしょう?」
そう指摘されて、俺はハッとした。 中盤の何気ない食卓の場面だ。少年がおばあさんの前で何かを言い淀み、結局何も言えずに、自分の皿の焼き魚の身を箸でおばあさんの茶碗へと移す短いカットがあった。俺はあれを、単なる田舎の静かな生活描写のひとつとして見流していたのだ。
「ああ……確かに、そう言われてみれば、そんな場面がありましたね」 「でも、海斗さんの仰る通り、本当に町に残ったのかもしれません。海斗さんは、どうして残ったと思ったんですか?」
自分の解釈を否定されたわけではなかった。むしろ、俺が感じた物語の余白を大切に受け止めて、同じテーブルの上に並べて広げてくれるような聞き方だった。それが、驚くほど心地よく、話しやすかった。
「あの町の人たちって、口は悪いけれど、みんな少年のことを気にかけて毎日いろんな用事を頼んで引き止めていたじゃないですか。でも最後の橋の前では、誰一人として用事を頼みに来なかった。町の人たちも、彼を送り出す覚悟を決めていたんだと思うんです。だからこそ、少年は誰に引き止められたわけでもなく、自分の意思で『ここに残ろう』と決めたのかなと」 「ああ……なるほど。そういう捉え方も、すごく温かくて素敵ですね」
霧子さんが胸に手を当てて深く頷く。俺もまた、彼女が心の中で補完した物語の結末を、もう一度頭の中で愛おしく反芻した。誰にも告げずに逃げるように去るのではなく、きちんと「行ってきます」を伝えるために戻る少年。それは、どこまでも真面目で誠実な霧子さんという人が、心から信じたいと願う人間の姿そのもののように思えた。
「私ね、赤い橋の川面に映った空の色が、最初と最後で全然違っていたのが気になったんです」
明美ちゃんがパンフレットの劇中カットを細い指先で指し示した。
「最初に出て行く時は水が冷たい青色だったのに、引き返した時はすごく濃いオレンジ色になってて。たぶん、橋のたもとであの子、結構長い時間立ち止まって考えてたんじゃないかなって」 「ずっと迷って立ち尽くしてたってこと?」 「うん。そうかもしれないし、単に作画の人が夕方の演出にしたかっただけかもしれないけど」 「その『単に夕方にしただけ』の影の色の濃淡で、背景美術の人は何日も寝ないで悩んでるんだよ、きっと」
日菜子の少し大人びた分析が面白くて、明美ちゃんが吹き出し、霧子さんも声を立てて笑った。 運ばれてきた熱々の料理を食べながらも、映画の話題は尽きることがなかった。同じ時間、同じ暗闇の中で、同じスクリーンを見つめていたはずなのに、心に残った場面も、拾い上げた台詞も、四人それぞれで見事に違っていた。もし俺が一人きりで劇場へ足を運んでいたら、少年が走り去ったあとの夕暮れの美しさにただ漠然と浸るだけで、橋のたもとで流れた時間の重さにも、おばあさんの茶碗に移された魚の温もりにも、二度と気づくことはなかったはずだ。
店を出ると、日菜子と明美ちゃんが「上の階の大型文具店に寄りたい」と言い出した。文化祭の看板に使う特殊なカラー工作用紙と、写真のキャプション用の特殊インクのペンを見たいのだという。 俺が財布を持ってついて行こうとすると、日菜子がすっと片手をかざして制止した。
「お父さんたちはいいよ。私たち、紙のサンプル見比べるだけで平気で三十分以上かかるから。下でゆっくり座って待ってて」
霧子さんも、ヒールのあるパンプスで歩き回ったせいか、少し足元が疲れているように見えた。俺たちは娘たちを見送り、エスカレーター横の吹き抜けに面したベンチに並んで腰を下ろした。俺は近くの自動販売機で冷たい緑茶のペットボトルを二本買い、一本を彼女に差し出した。
「ありがとうございます、海斗さん」
霧子さんは冷えたボトルを受け取ると、ふうと息を吐きながら、火照った額にボトルの冷たい側面をそっと当てた。その無防備な仕草が、普段のしっかりした母親の顔とは違って見えて、俺は慌てて視線を前方のガラス手すりへ向けた。
「映画館、本当に久しぶりでしたか?」 「ええ。休日に一人でフラッと入ることはたまにあったんですけど、こうして映画が終わったあとに誰かとあそこが良かった、あそこはどうだったって感想を言い合えたのは……本当に、何年ぶりか分からないくらいです。明美も最近は友達と出かけることが増えましたし」 「そういえば、あの子たちがまだ小学校に上がる前、映画の途中でロビーに出ちゃったこともありましたよね」 「ありましたね! 懐かしい。明美が、劇場のスピーカーの音が大きすぎて怖いって泣き出しちゃって」
あの日のことは、俺も鮮明に覚えていた。 日菜子がどうしてもアニメの続きを観たがって座席から動こうとしなかったため、俺が日菜子に付き添って劇場の中に残り、霧子さんが泣きじゃくる明美ちゃんを抱き上げてロビーへ出たのだった。
「あの日の映画、結局どうやって終わったのか、ロビーのベンチで海斗さんから身振り手振りを交えて全部教えてもらったんですよね」 「俺の説明、ひどいもんだったでしょう。怪獣がドカーンと倒れて大爆発して終わり、みたいな雑な要約で」 「ふふ、日菜子ちゃんが横から『お父さん違うよ! あそこは合体したロボットがビームを出したんだよ!』って何度も細かく訂正してくれました」
霧子さんが懐かしそうに目を細めて笑う。
「今日は、本編の最初から最後まで、誰にも邪魔されずに座っていられました」
そう言って、彼女は膝の上に置いていた薄手のカーディガンの生地を、愛おしそうにそっと撫でた。
「家で録画した映画をテレビで観ていると、途中でどうしても現実に戻されちゃうんです。あ、洗濯機の脱水が終わったな、とか、お湯が沸いたな、とか」 「分かります。あとで巻き戻して観ればいいやと思って、リモコンで一時停止ボタンを押して」 「そうなんです。それで家事を済ませて戻ってくると、どこまで観ていたのか分からなくなって、少し前から再生し直すんですよね」
俺は深く頷いた。霧子さんは緑茶を一口飲み、キャップをきゅっと閉めた。 映画館の暗闇の中では、洗濯機も回らなければ、誰かからの業務連絡のチャイムも鳴らない。自分を父親という役割から、あるいは母親という責任から完全に切り離して、ただの一個の人間として座っていられる。そんな当たり前の贅沢を、自分がいかに長い間忘れていたかに気づかされていた。
「霧子さんは、子どもが生まれる前は、映画によく行っていたんですか?」 「学生の頃は、本当によく通っていましたよ。映画サービスデーとか、レイトショーとか、チケットが安くなる曜日に合わせて、自分の空き時間と上映時間がぴったり合うものを何でも観ていました。全然前知識のない知らない映画の方が、かえって大人になっても心に残っていたりして」 「へえ、例えばどんな作品ですか?」
尋ねると、霧子さんは記憶の糸を手繰り寄せるように、綺麗な眉を少し寄せて天井を見上げた。 二人で古い外国映画の断片的なあらすじや、登場人物の乗っていたクラシックカーの特徴などをあれこれ並べてみたが、結局、最後までタイトルは思い出せなかった。それでも、彼女が少女のように楽しそうに映画の記憶を語る横顔を見つめている時間は、信じられないほど短く、心地よいものだった。
「また、こうして来られるといいですね」
俺の口から、自然と言葉が滑り落ちていた。
「今日は……子どもたちも、あんなに楽しそうにしていましたし」
二人で、と言い直す勇気はまだなかった。 霧子さんはゆっくりとこちらへ顔を向け、それから文具店の袋を両手に下げてエスカレーターを降りてくる娘たちの姿を見つめた。その黒目がちな瞳が、夕方の光の中で一瞬だけ、柔らかく揺れたように見えた。
「ええ。また、四人で来ましょうね」
その言葉が優しく着地した瞬間、「お待たせー!」と大きな紙袋を抱えた日菜子と明美ちゃんが駆け寄ってきた。
夕方、アパートの部屋に戻ると、日菜子は買ってきたばかりの青と黄色の厚紙をさっそくちゃぶ台いっぱいに広げた。 俺は台所の流しへ行き、持ち帰った青いフタの保存容器を洗剤で洗い、水切りカゴへ伏せた。綺麗に洗われて戻ってきたはずの容器をもう一度自分で洗い直していることに気づいて、苦笑いを浮かべる。
映画のパンフレットを本棚のいつもの隙間に収めようとした時、ズボンの右ポケットに指先が触れた。 二枚の細長い半券が入っていた。映画館の発券機から出てきた、機械印字の紙切れだ。一枚は俺の分、もう一枚は、ポップコーンを食べる時に「お父さん、邪魔だから持っといて」と日菜子から預かったままになっていた分だった。 俺がその半券をパンフレットの表紙の裏にそっと挟み込もうとすると、背後からスッと日菜子の手が伸びてきた。
「お父さん、そっちの端っこが折れてるやつ、私の」 「ああ、悪い。捨てていいのかと思ってた」 「捨てるわけないじゃん。取っておくの」
日菜子は俺の指先から自分の半券をひったくるように受け取ると、自分の勉強机の引き出しを開け、筆箱の奥の大切なものが入っている缶菓子の箱へとそっとしまい込んだ。
俺は本棚の前に立ち尽くしたまま、手の中に残った自分の一枚の半券を見つめた。 それからスマートフォンを取り出し、ブックマークしてあった映画館の上映スケジュールを画面に呼び出した。来週、再来週、その先。 次にどんな映画が公開されるのか、俺はまだ何も知らなかった。けれど、あの四枚並んだ座席の、さらにその先にある時間を、心のどこかで強く探し求めている自分がいた。
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