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俺が本気で愛されているわけがない 〜四人分の食卓と、十年越しの恋〜  作者: バカヤロウ


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第2章 帰っていく人、残った容器


 食後の熱気とカレーのスパイシーな匂いが、まだ六畳の居間に濃く滞留していた。  食べ終えた四つの不揃いな深皿を重ねて流し台へ運ぶと、霧子さんが保冷バッグから出しておいた小玉スイカに目を落とし、居間のちゃぶ台を振り返って声をかけた。


「スイカを切る人と、お皿を拭く人。どっちがいい?」


 ちゃぶ台の前に座り込んでいた日菜子と明美ちゃんは、互いに顔を見合わせるまでもなく、反射的に二人揃ってスイカを指差した。迷いのない二本の細い人差し指が、蛍光灯の下でぴたりと宙に揃う。


「そこは息がぴったり一致するんだな」 「じゃんけんで負けたら拭くつもりだったけど、選べるなら食べる準備の方がいいに決まってるじゃん」 「二人で協力して切ってくれる? お皿はこちらで準備するから」


 霧子さんがエプロン代わりにブラウスの袖をきゅっと肘までまくり直して言うと、日菜子は「了解」と立ち上がり、台所の隅から使い込まれた木のまな板を取っていった。洗い物の片付けから逃げる時だけは、部活の短距離走並みに足取りが軽い。


 霧子さんが持参してくれた小玉スイカは、高校生の娘たち二人に包丁を任せても持て余さない手頃な大きさだった。  まな板ごとちゃぶ台へ運ばれた緑と黒の縞模様を囲み、日菜子と明美ちゃんがステンレスのペティナイフを前に頭を寄せ合っている。種を取りやすいように一口大の四角にサイコロ状に切るか、それとも夏らしく半月型の三角に切り分けるか。二人で真剣に刃を入れる角度を相談し始め、しばらく賑やかな論争が続きそうだった。


 居間の楽しげな笑い声を背中に聞きながら、俺は水道の蛇口をひねった。  シンクに溜まった四枚のカレー皿に冷たい水を行き渡らせる。隣に立った霧子さんが、邪魔にならないよう、ステンレスの水切りカゴの位置を手前に少し引き寄せて場所を空けてくれた。


「海斗さん、ここ、置いても大丈夫ですか?」 「ええ、ありがとうございます。大きい鍋だけ、あとでそっちのコンロの脇に出しますね」


 黄色いスポンジに洗剤を泡立て、皿のこびりつきを撫で落としていく。  水で泡を流して手渡すと、霧子さんは清潔な木綿の布巾を両手で構え、まず皿の底の丸い高台から水気を拭き取った。それから手首を返して縁をくるりとひと回り拭き、吊り戸棚のガラス扉を開けて、元の位置へ音を立てずにすっと収める。  十年の付き合いの中で、何度も二人でやってきた台所仕事だ。どこに深皿があり、どこに小鉢を重ねるのか、いちいち俺が言葉で説明する必要はどこにもなかった。うちの台所の配置を、俺の次に正確に把握しているのは、間違いなく日菜子ではなくこの人だった。


 それなのに、今夜はなぜか自分の指先が妙にぎこちなく感じられた。  さっきまで日菜子や明美ちゃんが使っていたただの日常の食器なのに、霧子さんへ手渡す瞬間だけ、泡の流し残しや油のぬめりがないかを二度も指腹で確認してしまう。濡れた皿の縁を彼女が受け取る時、指先同士が触れ合わないよう無意識に間隔を空けようとして、かえってその距離感ばかりを意識してしまうのだ。


「霧子さん、お仕事、土曜日もあるんですね」 「ええ。月に一度くらい、経理の締めと月初の請求処理が重なる週だけ出勤なんです。海斗さんも、昨夜はずいぶん遅かったんでしょう?」 「日菜子から聞きましたか?」 「夕方に買い出しへ行く前、明美からメッセージが来ました。『今日はお父さんが昨日の残業でくたくたに疲れてるから、カレーができるまで休ませる係を日菜子とするんだ』って」


 居間の方へ視線をやると、日菜子がペティナイフを握り、明美ちゃんがスイカの両脇を真剣な顔で押さえていた。  休ませる係と言っていたくせに、本人はちゃっかり昼寝から起きた俺に「夏野菜カレーがいい」と図々しくねだっていた気がする。けれど、あの寝起きの薄暗い部屋で、風が直接当たらないよう扇風機の首をそっと持ち上げてくれた娘の手つきを思い出すと、胸の奥が少しだけ温かくなった。


「おかげさまで、昼過ぎに少し仮眠が取れました。金曜の疲れが翌日丸一日残るようになって、我ながら情けないですけど」 「そんなことありませんよ。日菜子ちゃんを一人で育てながら、平日は毎日朝から満員電車に乗って、お弁当まで作って出勤されているんですから」


 霧子さんはそう言って柔らかく目元を細め、俺の手から濡れた青い絵付けの浅鉢を受け取った。布巾で水滴を吸い取るシュシュという乾いた音が、心地よいリズムを刻む。


 ふと、居間の隅に置いてある小さな液晶テレビから、音楽が流れ始めた。  土曜の夜の映画番組の合間に、近日公開される新作映画の予告編が始まったらしい。  夏の強い日差しに反射する、透明な川面のきらめきが画面いっぱいに広がる。古い木造家屋が立ち並ぶ商店街、川沿いの細い砂利道、そして欄干が鮮やかな朱色に塗られた古い太鼓橋。その橋の真ん中に自転車を止めた詰襟姿の少年が、名残惜しそうに一度だけ振り返るカットが映し出された。


「……あ、これです」


 皿を拭いていた霧子さんの手が止まり、布巾を持ったまま画面に視線を留めた。


「気になっていた映画」 「あ、『水門の町』ですね」 「海斗さんも、ご存じだったんですか?」 「ええ。原作の小説を昔読んでいて、映画化されると聞いてから、実は明日どこかの劇場へ行こうかと思っていたんです」


 自分の声が、思ったよりも弾んで少し大きくなった。  居間でスイカに刃を入れていた日菜子が、包丁の動きを止めてこちらの様子を窺うように振り返る。


 映画は昨日、全国で公開されたばかりだった。この監督の過去の作品が好きで、公開日の朝にも会社のパソコンで上映時間をこっそり調べていたくらいだ。ただ、仕事と家事に追われる休日に、映画を一本見るためだけに一人で電車に乗り、半日を自分のためだけに使うという行為に、どうにも気後れと罪悪感を覚えて踏み切れずにいたのだった。


「私、この監督の前作の映画、DVDで何回も繰り返し見てしまって」 「あの、雪深い山の無人駅の話ですよね」 「ええ、そうです。あの映画で、吹雪で列車がもう来ないと分かっているのに、年老いた駅員さんが待合室の石油ストーブの上で、ずっと薬缶のお湯を沸かし続けている場面があって。私、あそこが本当に好きで」


 俺は洗っていた手を止め、蛇口のレバーを下げた。シンクから水の流れる音が消え、居間のテレビの予告編のナレーションだけが静かに響く。


「あそこ、いい場面ですよね。時刻表を見れば、最終列車が雪で運休になったって一番よく知っているはずなのに」 「ええ。でも駅員さんは、『もし万が一、誰かが雪山から迷い込んできたら、すぐ温かいお茶が飲めるだろう』って笑うんですよね」


 霧子さんの答えがあまりにも真っ直ぐで飾り気がなく、俺は思わず小さく吹き出してしまった。


「そうですね。本当に、そういうことなんですよね」 「私、映画の難しい裏の意図とか、映像の凝った技法とか、そういう考察は全然得意じゃないんです。ただ、あの静かな暗闇の中に座って、誰かの人生の時間をじっと見つめている時間が好きで」 「俺も同じですよ。映画通の人のレビューを読んでも、小難しいことはさっぱり分かりません。パンフレットを買って後から読んで、なるほどそういう意図だったのかと感心するばかりです」


 霧子さんが布巾をきれいに四角く畳み直した。  シンクの洗い桶の中には、もう拭くべき皿は残っていなかった。並んで立つための作業が、とうとう終わってしまったのだ。


 俺は濡れた両手を腰のエプロンで拭いた。  頭の中で言葉を整える時間も惜しいくらいに、気がつけば喉の奥から衝動のように声がこぼれ落ちていた。


「霧子さん。もしよかったら、明日、一緒に行きませんか」


 霧子さんが驚いたようにパッと顔を上げた。  台所の淡い電球の光が、彼女の黒目がちな瞳の中に、丸く小さな白い光となって反射している。


「あ、いや、ご迷惑でなければですが。俺も一人で行くか迷っていたところですし、ちょうど……」 「行きたいです」


 俺が言い終わるのを待たずに返ってきた彼女の声は、普段の落ち着いたトーンよりも半音高く、少しだけ息が弾んでいた。


「私でよければ、ぜひご一緒させてください」


 背筋がピンと伸びた。  ただ隣の住人と休日に映画を見る約束を取り付けただけなのに、職場で数千万円の新規プロジェクトを受注した瞬間よりも、心臓が肋骨の内側で激しく警鐘を鳴らしている。


「何時の回がいいでしょう。午前中の一番早い回なら、まだ座席も——」 「ちょっと待って。お父さん、映画って、明日のこと?」


 居間のちゃぶ台から、日菜子の鋭い声が飛んできた。  見ると、スイカの解体作業はいつの間にか完了しており、大皿の上に三角と四角に切られた赤い果肉が山盛りに積まれていた。日菜子はまな板を脇に押しやり、身を乗り出すようにしてこちらを見ている。


「ああ。『水門の町』を観に行こうかって話になってな」 「それ、私も観たい! 先週から美術部の友達の間ですごく話題になってて、背景の美術がめちゃくちゃ綺麗だって噂になってるの」 「私もです」  日菜子の隣から、明美ちゃんも控えめに、けれどしっかりとした口調で手を挙げた。 「写真部の先輩が初日に観に行って、光の使い方がすごく勉強になるから絶対観に行けって言われてたんです」


 台所で、俺と霧子さんの視線が自然とぶつかり合った。  霧子さんは一瞬だけ困ったように眉尻を下げたが、すぐに慈愛に満ちた母親の柔らかな微笑みを浮かべ、居間の娘たちに向き直った。


「じゃあ、みんなで四人で行きましょうか」 「やった! お父さん、今すぐスマホで席取れる?」 「あ、ああ。今ならまだ並びで取れるはずだ」


 俺はズボンのポケットからスマートフォンを引っ張り出し、劇場の予約アプリを開いた。画面に表示された座席指定のマップをタップする。  ずらりと並んだ空席のアイコンを見つめながら、俺の指が一瞬だけ止まった。


 二人だけなら、もっと後ろの、静かな端の席が選べた。


 頭の隅をよぎったその思考にハッとして、俺は慌ててスクロールバーを動かした。自分の浅ましい下心に、顔から火が出るほど恥ずかしくなる。四人で出かけるのが嫌なわけではない。日菜子も明美ちゃんも観たがっているのだから、これがいつもの、一番平和で正しい「四人」の形のはずだった。


「海斗さん、そこだと少し前すぎませんか? 首が疲れちゃうかも」  後ろから画面を覗き込んできた霧子さんの声に、肩がびくりと跳ねる。 「え? あ、そうですね。画面全体が見渡せる、中央の列にしましょう」


 上映スケジュールを三十分ずらし、午前十時半の回に決めた。娘たちがちゃぶ台からスイカの大皿を両手で運んでくる。座席の予約購入を確定させるボタンを押しながら、俺は四人分の予約名義が必要なのかと一瞬迷った。代表者である俺の名前ひとつで、予約番号はあっけなく発番された。


 霧子さんが持ってきてくれた小玉スイカは、冷蔵庫で冷やしていたわけでもないのに、瑞々しくて驚くほど甘かった。  日菜子は「やっぱり手で持ってかぶりつく三角が一番夏らしい」と主張し、明美ちゃんは「フォークで一口で食べられる四角の方が、種を出すのが圧倒的に楽」と譲らない。霧子さんは二つの切り方を一切れずつ小皿に取り、「どっちの切り方でも、みんなで食べると美味しいわね」とお茶を濁した。


「お母さん、その全方位にいい顔する答えはずるい」 「本当にそう思ったんだから仕方ないでしょう?」


 二人の小皿からぽろぽろとこぼれ落ちそうになる黒い種を、俺はティッシュを広げた空き皿で甲斐甲斐しく受け止めた。


 居間の柱時計の針が午後九時を回ると、霧子さんがすっと背筋を正して立ち上がった。


「すっかり長居してしまいました。明美、そろそろお暇しましょう」 「うん、ごちそうさまでした」


 明美ちゃんが大きなトートバッグを肩に掛け、日菜子と「明日は何色の服着ていく?」と小声で打ち合わせを始める。霧子さんは持参した銀色の保冷バッグを手早く四角く畳み、手元のスマートフォンで明日の天気を確かめていた。  見慣れた、いつもの白石家の帰り支度の光景だ。何十回、何百回と繰り返されてきた日常のはずだった。


「あの、霧子さん」  俺はコンロの上の大鍋のフタを開けた。 「カレー、少し容器に入れて持って帰りませんか。明日の朝か昼、二人で温めればちょうど食べ切れるくらい残っていますから」 「そんな、海斗さんたちの明日の朝ご飯の分がなくなってしまうんじゃ……」 「うちは朝は食パン派なので大丈夫です」 「お父さんは前の日のカレーが残ってたら、朝からトーストに乗せて喜んで食べるくせにね」  日菜子が余計な補足を挟んできたが、俺は聞こえないふりをした。


「……なら、お言葉に甘えて、半分だけいただいてもいいですか?」  霧子さんの承諾を得て、俺は吊り戸棚から使い古した四角い保存容器を取り出した。青い半透明のプラスチックのフタがついた、どこにでもあるタッパーだ。まだ温かい褐色のルーをお玉でたっぷりと注ぎ入れ、粗熱が抜けるまでフタを少しずらして調理台に置く。明美ちゃんが身を乗り出して「上に乗せる焼き野菜も一緒に入れていいですか?」と尋ねてきた。


「もちろん。野菜は味が移らないように、こっちの小さい丸いタッパーに入れよう」 「いつも容器ばかりお借りしてしまって、すみません」 「気にしないでください。洗って返すのは、また何かのついででいいですから」


 霧子さんが、熱を帯びた青いフタのタッパーの角を、両手の指先でそっと包み込むように支えた。


「では……明日の映画が終わったあと、容器をお返しするついでに、お茶でも……」


 そこで、彼女の言葉がふつりと途切れた。  ハッとしたように瞬きをし、白い頬をわずかに染めて視線を泳がせる。


「あ、いえ。明日、映画館で会うんですものね。十時に、駅の改札前でしたね」 「ええ。中央改札の外の、券売機のあたりで」


 途切れてしまった「お茶でも」の続きをもう少しだけ詳しく聞きたかったが、霧子さんはすでに畳んだ保冷バッグを広げ、手際よく二つのタッパーを中に収めてしまっていた。


 玄関の三和土で明美ちゃんがスニーカーを履き、日菜子に「また明日ね」と小さく手を振る。霧子さんはドアノブに手をかけたところで、くるりとこちらへ振り返った。


「ごちそうさまでした、海斗さん。本当に、美味しかったです」 「お粗末様でした。明日は気をつけて来てください」


 隣のマンションの棟までは、歩いて一分もかからない。敷地を隔てるブロック塀の切れ目を抜ければ、もう彼女たちのエントランスだ。  それでも俺はサンダルをつっかけて外の廊下へ出て、二人の背中がマンションのガラス扉の向こうへ消えるまで、夜の生ぬるい風に吹かれながら見送った。霧子さんの羽織っていた薄い上着が、街灯のオレンジ色の光の下で、一度だけ頼りなく白く揺れた。


 部屋へ戻ると、日菜子がちゃぶ台の上の細かなゴミを集めて、濡れ布巾で拭き清めているところだった。


「日菜子、そこはもういいよ。俺がやるから」 「もう終わる。それよりお父さん、さっきから冷蔵庫のドアが少し開けっぱなし」


 慌てて台所へ戻り、パッキンが吸い付く音を確かめて閉める。  流しの脇には、霧子さんが最後に使った木綿の布巾が、角と端をきっちり揃えて、四角く几帳面に畳まれて置かれていた。霧子さんはいつもそうだ。誰の目にも留まらないようなところで、丁寧に自分の仕事を終わらせていく。


「日菜子。明日の映画、急に決めてしまって悪かったな。友達と別の予定とかなかったか?」 「明日? 何もないよ。部活も月曜からだし。なんで?」 「いや。日菜子も観たい映画なら、よかったと思ってな」


 娘は雑巾を片手に立ち止まり、俺の顔をじっと探るように見つめていたが、やがて何も言わずに「お風呂入ってくる」と洗面所へ消えていった。


 居間に一人残された俺は、台所へ戻り、日菜子と明美ちゃんが使った二つのガラスのコップを水で流した。  さっきまで四人の声で満たされていた部屋は、潮が引いたあとの砂浜のように、急に輪郭を失って広くなったように感じられた。テレビをつけて適当なバラエティ番組でも流せばよかったのかもしれないが、なぜかリモコンに手を伸ばす気にはなれなかった。


 翌朝、目覚まし時計が鳴るよりも三十分早く目が覚めた。  東側の窓のカーテンを開けると、すでに八月の眩しい太陽が照りつけており、空は雲ひとつない濃い青色に染まっていた。


 枕元のスマートフォンを手に取ると、画面に霧子さんからのメッセージ通知が表示されていた。受信時刻は午前六時四十分。 『おはようございます。昨日は美味しいカレーをごちそうさまでした。上映時間、十時半からで間違いありませんね。それと、お借りした青いふたの保存容器、きれいに洗ったので今日持っていきますね』


 俺は画面をタップし、キーボードを呼び出した。


『容器は、わざわざ持ってこなくて大丈夫です。また今度ゆっくりで』  打ってから、すぐに消した。それではまるで、彼女が容器を口実に会いに来てくれるのを拒絶しているように読めてしまう。


『ご丁寧にありがとうございます。本日はどうぞよろしくお願い申し上げます』  これでは取引先の総務課へ送るメールと同じだ。馬鹿馬鹿しくなってこれも全文字消去した。


「朝から何やってるの、お父さん」


 パジャマ姿の日菜子が眠そうに目をこすりながら台所へ現れ、トースターに山型食パンを二枚放り込みながら聞いてきた。


「……返信だよ」 「そんなに眉間にシワ寄せて? また会社の難しいトラブル?」 「いや、霧子さんから昨日のタッパーの件で連絡が来ててな」 「『待ち合わせは十時だよね、了解!』って一言送ればいいじゃん。文章こねくり回してるから時間がかかるの」


 高校生のアドバイスは実に明快でぐうの音も出なかったが、大人の男としては、それだけでは何かが決定的に足りないような気がしたのだ。何が足りないのかは、自分でも最後まで分からなかったけれど。


 結局、朝早くからの連絡に対する礼と、昨日のお礼、そして十時に駅前で待っているという短い返信を打った。送信ボタンを押す直前、なぜか指が勝手に動いて、文末に『今日の映画、すごく楽しみにしています』と一行だけ書き足してしまった。  送った途端、その一行だけが画面の中でやけに浮き上がって見え、心臓がきゅっと縮んだ。


 送信を取り消すことなどできるはずもなく、冷や汗をかきながら画面を見つめていると、数秒も経たないうちに既読がついた。  画面が小さく光り、霧子さんから返信が届く。


『私もです。楽しみにしていますね』


 たったそれだけの一行を何度も目で追っていると、「お父さん、食パンが冷めちゃうよ」と日菜子に呆れた声で呼ばれた。手元の皿を持ったまま仁王立ちしていたことに気づき、俺は何事もなかったような澄ました顔でテーブルへ座り直した。  日菜子はトーストにたっぷりとマーガリンを塗りながら、俺の落ち着かない表情を横目で見て、吹き出すのを堪えるように小さく笑っていた。


 朝食を片付けたあと、俺は寝室の衣装ケースを開けた。  近所の映画館へ行くだけなら、いつも着ている着古した綿の無地Tシャツで十分だ。そう思って一番上にあった黒いTシャツを引っ張り出したが、首回りのリブが洗濯で少し伸びてヨレているのが目に入り、無言で引き出しの奥へ戻した。  別の棚から襟付きのポロシャツや半袖の開襟シャツを引っ張り出し、鏡の前で自分の胸元にあてがっていると、廊下を通りかかった日菜子がドアの隙間からひょっこりと顔を出した。


「お父さん。それ、ちゃんとアイロンかかってるやつは、一番奥のハンガーにかかってる青いシャツだよ」


 俺は娘に背中を向けたまま、咳払いをひとつして「ああ、ありがとう」と短く礼を言った。  言われた通りに奥から取り出した青い麻混のシャツは、しわひとつなくパリッとした感触で、袖を通すと朝の光の中で心地よく肌に馴染んだ。


お読みいただきありがとうございました。

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