第1章 夏野菜カレーは、四人分
八月最初の土曜日、うだるような熱気が部屋の隅に溜まっていた。エアコンを二十七度に設定していても、古い木造アパートの居間は西日を浴びてじわじわと室温を上げていく。 畳の上に腹ばいになっていた十六歳の日菜子が、のそのそと這い出して首振り運転の扇風機の前に座り込んだ。網の目に顔をぎりぎりまで近づけ、喉を鳴らすように言う。
「お父さん、お昼」
プラスチックの羽根が切る風に声が遮られ、最後の一音だけが妙に震えて部屋に響いた。
「冷蔵庫に昨日の残りがあるぞ」 「知ってる。タッパーの鮭でしょ。それを見たうえで、お父さんに相談しています」 「丁寧に言われても、焼き魚は温め直しても焼き魚だ」 「じゃあ、素麺。つるっとしたやつ」
最初からそう言えばいいのに、とは口に出さなかった。俺自身、この湿気の中で魚の小骨をちまちまと箸で分ける元気が残っていなかったからだ。
昨夜は総合商社の営業第一課で、後輩の仕事のミスを手伝って終電間際の帰宅になった。三十五歳を過ぎてからというもの、金曜の夜に無理をしたツケは、土曜の午前中を丸ごと泥のように眠ってもまだ抜けない。 一方で、高校一年生の日菜子は昼前まで泥のように寝ていたくせに、起きて十分もすれば当たり前のように腹を空かせている。同じ四畳半と六畳の狭い部屋で暮らしているのに、体の代謝も体力の収支もまるで違っていた。
日菜子が二歳の夏、妻は別の男のところへ出て行った。 『あの子のお父さんは、本当はあなたじゃないの』 靴箱の上のメモにそう書き残されて、俺はしばらく自分が立っている床の感覚を失った。ひどい一日だった。けれど夕方、事情も知らずに保育園へ迎えに行くと、まだ舌足らずな日菜子が、赤いクレヨンではみ出すほど塗られた画用紙の魚を両手で差し出してきた。 『おとうさん、きょう、これ食べよ』 二十一歳だった俺は、涙も出ないまま真顔でその平べったい魚を受け取り、どうやって夕飯の食卓に出したものかと、夕焼けに染まる帰り道じゅう真剣に考えた。
あの日から十四年。妻の言葉の真偽を確かめることもせず、俺たちは暮らしてきた。幸いだったのは、うちでは二人とも、どんなに途方に暮れた日でも毎日ちゃんと腹が減ったことだ。腹が減るから米を研ぎ、火を使い、向かい合って座る。それは生き延びる上で、なかなかにありがたい体の仕組みだった。
台所へ立ち、深鍋に水道水をたっぷり張ってコンロの火をつけた。青い炎がゴウと音を立てると、気配を察した日菜子がのっそりと引き戸を開けてやってくる。
「何する? 手伝うよ」 「薬味と、つゆの準備を頼む」 「ネギは?」 「冷凍庫の右側の引き出し。ジッパー付きの袋に入ってる」 「分かってたか。私がまな板出して切らないこと」 「切ると言うなら止めないが、包丁洗うのもお前だぞ」 「じゃあ迷わず冷凍」
日菜子は躊躇なく冷凍の刻みネギを選び、つゆを入れるガラスの小鉢を二つ並べた。俺も異存はない。手抜きができるところは徹底して手を抜くのが、男手ひとつの家事の鉄則だった。
吊り戸棚の奥から、青みがかったガラスの大鉢を取り出す。昔、日菜子がまだ小学生に上がったばかりの頃、手伝いをしようとしてこの重い鉢を両手で持ちたがり、落として割りそうになってきつく叱ったことがあった。 だが今は、俺の手元からひょいと長い指が伸びてきて、危なげなく受け取ると、そのまま流しの横へ置いてしまう。いつの間にか、背丈も手の大きさも母親の面影を追い越そうとしていた。
「氷、入れていい?」 「全部使わないでくれよ。製氷機が夕方まで追いつかないから」 「ちゃんと残すってば」
冷凍庫の引き出しを勢いよく引いた拍子に、四角い氷がひとつ、フローリングの床に跳ねて転がった。
「……日菜子。これは、残した分か?」 「今拾います。滑る前に拾います」
沸騰した湯に白い麺の束を落とし、吹きこぼれないよう火加減を調節しながら箸でほぐす。茹で上がった素麺を一気にザルにあけ、水道の冷水でぬめりを取るようにもみ洗いした。氷を浮かべたガラス鉢に麺を泳がせ、ちゃぶ台の上に運ぶ。 日菜子が扇風機の向きを二人の中間に変え、首振りのスイッチを押した。冷房の効いた部屋で、氷水に浸かった冷たい素麺をすする。それだけで、やっとこの重苦しい夏の暑さに一歩だけ勝てたような気がした。
二口、三口と調子よくすすっていた日菜子が、ふと箸を止めた。 ガラス鉢の底で、溶けかけの氷がカランと小さな音を立てる。
「ねえ、お父さん。私がずっと欲しいって言ってたもの、明美も欲しいって言うんだよ」 「明美ちゃんが? なら、同じのを二人で買えばいいじゃないか」 「買えないの」 「売り切れなのか?」 「そうじゃない。二つないの。世界に一つしかないやつ」
話が見えず、俺はめんつゆの器を持ったまま首を傾げた。 日菜子が言っているのは、先週から夢中になっていた雑貨屋の限定品のことらしかった。古い輸入文具を扱う駅前の店で、一点もののアンティーク調のペンケースが入荷したのだという。高校生のお小遣いでもなんとか手の届く額で、日菜子は今月の小遣いが入ったら買うのだと息巻いていた。
「同じ色違いとか、似たような別の型はないのか?」 「ないから言ってるんじゃん。革の染まり方が一個ずつ違うやつなんだもん」 「じゃあ、順番に一緒に使うとか」 「それも違う。そういうものじゃない」 「となると、どっちかが譲るしかないな。先に目をつけてたのは日菜子なんだろ?」 「お父さんは、すぐそうやって簡単に言う」
日菜子は不満そうに唇を尖らせ、つゆの中でくるりと回る刻みネギを箸の先で追いかけ回した。小鉢の底をつつくカチカチという硬い音が、狭い部屋にやけに響く。
「……明美ちゃんと、そのことで喧嘩でもしたのか?」 「してない。別に、口利いてないとかじゃないもん。今日もこれから一緒に文化祭の準備するし」 「なら、よかったじゃないか」 「よくないから話してるのに。お父さん、全然分かってない」
難しい。職場の後輩から受ける業務の相談や、取引先との納期交渉よりもずっと正解が見えない。同じものを欲しがった友人とどう折り合いをつけるかなど、十代の女子にとっては世界の均衡を左右するほどの大問題なのだろうが、三十半ばの男親には踏み込みようがなかった。
「俺に分かることなら、夕飯の時にでもちゃんと聞くよ」
逃げるような言い方になってしまった自覚はあった。日菜子は俺の顔をじっと見つめ、何か言いたげに息を吸い込み、それから諦めたように息を吐き出して素麺をすくった。
「……うん。あとでね」
結局、その話の続きが掘り下げられることはなく、冷や麦のような沈黙の中で昼食は終わった。
午後はベランダに出て、日差しでカラカラに乾いた洗濯物を取り込んだ。取り込んだバスタオルを畳んでいるうちに猛烈な眠気に襲われ、俺は畳の上の座布団に頭を乗せて横になった。 遠くで聞こえる雷鳴のようなトラックの走行音と、規則正しい扇風機の唸り。ふと気配を感じてまぶたを開けると、薄暗くなった部屋の中で、日菜子が扇風機の首の角度をそっと持ち上げているところだった。
「……ん、日菜子?」 「顔に風が当たりっぱなしだったから。喉痛めるでしょ」 「ああ。すまない、ありがとう」 「夕飯、カレーがいい」 「親切のあとに、しっかり見返りがついていたか」 「見返りじゃなくて、お腹が空いたの。夏野菜のカレー」
部屋の隅の置き時計を見ると、すでに午後四時を回っていた。遮光カーテンの隙間から差し込む光が、昼間の白から、濃い山吹色へと変わり始めている。 俺たちは使い古した麻のエコバッグを二つ持って、歩いて五分ほどの近所のスーパーへ向かった。アスファルトの道路からは、昼間に蓄えられた熱気が靴底を通して伝わってくる。
スーパーの自動ドアをくぐると、冷気とともに青果売り場の瑞々しい匂いが迎えてくれた。 日菜子はカゴを持つ俺の前を歩き、並べられた夏野菜を物色し始めた。黒紫に光る茄子を手のひらに乗せ、ヘタのトゲを確かめるようにしてからカゴへ放り込む。一本、二本、三本。さらには緑のズッキーニと、鮮やかな赤パプリカまで手に取った。
「日菜子、そんなに入れるのか? 二人分だぞ」 「夏野菜カレーって言ったでしょ。野菜がゴロゴロ入ってないと意味がないじゃん」 「煮込む分と上に乗せる分を考えても、少し多すぎないか」 「多い分には困りません」
精肉売り場で牛こま切れ肉の小パックを手に取り、玉ねぎと、日菜子の希望である甘口のカレールーを棚から取った。ふと米の残量が心もとなかったことを思い出し、精米コーナーから五キロの米袋もカートの下段に乗せる。 会計を済ませると、荷物はなかなかの重量になった。レジ袋の有料化以来、我が家では俺が重い米と調味料を抱え、日菜子が野菜と肉の入ったバッグを持つのが暗黙のルールになっている。
「重い」
スーパーの自動ドアを出て、横断歩道の手前で早くも娘が足を止めた。
「まだ三十歩しか歩いてないぞ」 「野菜って水分だから、思ったよりずっしりくるの。肩紐が食い込む」 「それを考慮して、カゴに入れる量を手加減しろと言ったんだが」
俺が米袋を抱え直し、日菜子のバッグも一緒に持とうと手を伸ばした、その時だった。
「海斗さん、こんにちは」
背後から、澄んだ声がかけられた。 振り返ると、白い半袖シャツに藍色のロングスカートを履いた少女が立っていた。長い黒髪を後ろでひとつに束ね、肩から大きなキャンバス生地のトートバッグを提げている。日菜子の幼馴染で、隣のマンションに住む白石明美ちゃんだった。
「明美、来てたんだ」 「うん。学校の帰りに、駅前のカメラ屋さん寄ってきたの」 「写真部のか?」 「はい。文化祭の展示用の写真、大きいサイズで何枚か試し刷りしてもらって」
明美ちゃんのトートバッグの口から、折れ曲がらないように厚紙で補強された大きな茶封筒が覗いていた。 真面目そうな目元に、少しだけ疲れた色が滲んでいる。高校生とはいえ、炎天下の中を歩き回るのは堪えるはずだ。
「明美ちゃん、今日の夕飯はもう決まってるのか?」 「え? いえ、まだです。今日はお母さん、月末の処理で仕事が遅くなる日なので。家にあるもので適当に済ませようかなって」 「そうか。もしよかったら、うちでカレーを食べていかないか。見ての通り、日菜子が夏野菜を買いすぎて困ってたんだ」 「買いすぎじゃないってば、必要なの!」
隣で日菜子がすかさず口を挟んだが、俺は構わず野菜の詰まった重いバッグを持ち上げて見せた。明美ちゃんの整った眉がふっと下がり、控えめな笑みが口元に広がる。
「いいんですか? ……海斗さんの作ったカレー、私、大好きです」 「日菜子の強い希望で、甘口のルーだけど大丈夫か?」 「甘口だけど、って何よ。カレーは甘口がいちばん美味しいの」 「私も、海斗さんの作るあの甘口のカレーが好きです。玉ねぎがたくさん入ってるやつ」
明美ちゃんがそう答えると、日菜子はどこか誇らしげに、けれど少しだけ複雑そうに口元をむずがゆそうに歪めた。昼休みに話していた「二つない限定品」のことが、一瞬だけ日菜子の脳裏をかすめたのかもしれない。 だが、明美ちゃんが「荷物、ひとつ持ちますよ」と自然に手を伸ばすと、日菜子は慌てて自分のバッグを引き戻した。
「いいよ、これは私が言い出しっぺなんだから持てる」 「でも、さっき肩紐が食い込むって止まってたじゃない」 「持てるってば。……あ、じゃあ、お肉のパック入ってる小さい方の袋、お願いしていい?」 「うん、任せて」
二つの荷物が二人の少女にうまく振り分けられ、俺の手元には米袋だけが残った。物理的にも、気分的にも、ふっと肩の荷が軽くなる。
「二人とも、ありがとうな。助かった」
俺が礼を言うと、明美ちゃんは「どういたしまして」と背筋を伸ばし、日菜子は「最初からこうやって手分けすればよかったのよ」と歩き出す。二つの背中が並んで夕暮れの歩道を歩き始めると、先ほどまでアスファルトから立ち上っていた鬱陶しい熱気が、すうっと和らいでいくような気がした。
二人の少し後ろを歩きながら、俺はポケットからスマートフォンを取り出した。 白石霧子さん——明美ちゃんの母親に連絡を入れるためだ。 俺たちが住む古い木造アパートのすぐ隣にある、三階建ての小さなマンション。その二階で、霧子さんは明美ちゃんと二人で暮らしている。 日菜子と明美ちゃんが近所の公立幼稚園で出会って以来、もう十年以上の付き合いになる。母親のいない我が家と、父親のいない白石家。どちらからともなく、足りない調味料を貸し借りしたり、急な残業の時に子どもを預かり合ったりしながら、綱渡りのような生活を支え合ってきた間柄だった。
呼び出し音が四回鳴って、カチャリと通話が繋がった。
『もしもし、海斗さん?』
耳元に届いたのは、少し早口で、けれどどこかホッとしたような落ち着いた声だった。受話器の向こうからは、フロアを歩く革靴の音や、コピー機が稼働する機械音が遠く混ざって聞こえる。
「あ、霧子さん。仕事中にすみません、大宮です」 『いえ、ちょうど一段落してデスクに戻ったところでした。何かありましたか? 日菜子ちゃんがどうかしたとか……』 「いえ、そうじゃないんです。今、スーパーの帰り道で明美ちゃんに会いまして。うちで夕飯に夏野菜のカレーを作るんですが、明美ちゃんも一緒にどうですかと誘ったんです」 『まあ……本当ですか? あの子、今日はお惣菜でも買って食べなさいってお金を渡してあったんですけど、助かります』 「それでですね、もし霧子さんも仕事が終わるなら、一緒にうちで食べていきませんか。野菜を日菜子が調子に乗って買いすぎてしまって、四人前以上あるんです」
電話の向こうが、一瞬だけ静まり返った。 紙をめくるパサリという音が止まり、受話器の奥で、霧子さんが小さく息を呑む気配がした。
『……私も、お邪魔していいんですか?』 「もちろんですよ。カレーくらいしか出せませんけど、たまには誰かが作った温かいご飯を食べて、ゆっくりしてください。いつも遅くまで大変でしょう」
再び、少しの間が空いた。 オフィスのざわめきから少し離れたのか、周囲の雑音が遠のき、彼女の吐息の温度がそのまま伝わってくるような、低くて柔らかい声が落ちてきた。
『それは……とても、ありがたいです』
ただの礼の言葉のはずなのに、さっきまでよりずっと近くで、耳元に直接囁かれたような錯覚を覚えた。抱えていた五キロの米袋が急に腕の中で収まり悪くなり、俺は歩道の上で無意識に持ち直した。
『あと三十分ほどでこちらの書類も片付きます。何か、途中で買って向かいましょうか?』 「何もいりませんよ。手ぶらで、気をつけて帰ってきてください」 『ふふ、分かりました。なるべく急ぎますね』
通話を終えて画面を暗転させると、前を歩いていた二人がピタリと足を止め、振り返ってこちらを見ていた。
「……なんだよ、二人とも」 「別にー」
日菜子が意味ありげに口角を上げ、わざとらしく視線を逸らして歩調を速める。隣の明美ちゃんに至っては、俯いて肩を小さく震わせ、必死に笑いを噛み殺していた。
「おい、日菜子。そんなことより、カレールーは一箱全部甘口でいいんだな?」 「そんなことより、って、自分から話題逸らしたのお父さんだからね」
言われてみればまったくその通りで、俺はそれ以上何も言い返せなくなった。夕方の西日が、首筋のあたりをやけに熱く照らしていた。
家に着くと、狭い玄関に三足の靴がひしめき合った。 「手洗っておいで」と声をかけると、二人は素直に洗面所へ向かい、戻ってくるなり腕まくりをした。
「お父さん、私がお米研ぐ」 「じゃあ私、野菜洗いますね」
築年数の経ったアパートの台所は、大人が二人立つだけで肩が触れ合うほどの狭さだ。三人がひしめき合うと完全に身動きが取れなくなる。俺は二人に下ごしらえを任せ、居間との境目に立って、切られた野菜を順次フライパンで炒める役に回ることにした。
日菜子が手際よく五合の米を研ぎ、炊飯器のスイッチを入れる。その横で明美ちゃんが、茄子とズッキーニをまな板の上で等間隔の輪切りにしていった。包丁をトントンとリズミカルに落とす手つきは、普段から母親の留守を預かって料理をしていることがよく分かるものだった。
「茄子とパプリカは、カレーと一緒に煮込むと色が悪くなるからな。油で別に焼いて、最後に皿の上に乗せるぞ」 「海斗さんのカレーって、カフェのご飯みたいでおしゃれですよね」 「おしゃれっていうか、単にお父さんが煮崩れた茄子の食感が苦手なだけでしょ」 「日菜子、余計な種明かしはしなくていいんだよ」
フライパンにサラダ油を熱し、薄切りにした玉ねぎを投入する。チリチリという小気味よい音とともに、甘く香ばしい匂いが換気扇へと吸い込まれていく。 玉ねぎが透き通ってきつね色に色づき始めた頃、居間のちゃぶ台の上に置いてあった俺のスマートフォンが、けたたましい電子音を鳴らした。
画面には『如月 凛』と表示されている。会社の直属の後輩だった。 「悪い、ちょっと火を見ててくれ」と日菜子にフライ返しを預け、居間へ戻って通話ボタンをスワイプした。
「もしもし、大宮です。如月さん、どうしました?」 『あ、大宮先輩! お休みのところ、突然お電話して本当にすみません……!』
受話器から飛び込んできたのは、如月さんの切羽詰まった、けれどどこか弾んだ声だった。
「いえ、大丈夫ですよ。昨日の案件、何か進展がありましたか?」 『はい! 先ほど先方の担当部長から直接メールがありまして、昨日修正していただいた条件で正式に稟議を通すと連絡がありました! 朝の引き継ぎメールでもお伝えしたんですが、どうしても週明けを待てずに、先輩に直接お礼を言いたくて……』 「ああ、そうですか。よかった。如月さんが最初のヒアリングの段階で、相手の要求をきっちり箇条書きにして整理してくれていたおかげですよ。あれがなければ、俺も夜中にどこを直せばいいか分からなかった」 『そんなことありません! 先輩が嫌な顔ひとつせず残業に付き合ってくださったからです。本当に、ありがとうございました』
台所の方を見ると、日菜子がフライ返しを握ったまま、炒め物の手を止めてじっとこちらを見ていた。背後で換気扇が回るゴーという音がしている。
『あの、先輩。もしご迷惑でなければ、今回の件のお礼をさせていただけないでしょうか。来週のどこかで、お昼をご馳走するとか、お食事にでも……』 「そんな、気にしなくていいですよ。同じ課のフォローをするのは主任の役目ですから。俺だってそのうち大きなミスをして、如月さんに泣きつく日が来ます。その時にしっかり手を貸してくれれば、それで十分おあいこです」 『……はい。絶対に、その時は全力で助けます』
電話口の返答は、単なる社交辞令とは思えないほど強く、真っ直ぐな響きを帯びていた。入社三年目になる彼女の、普段の会議で見せる生真面目さを思い出して、俺は少しだけ気圧された。
「じゃあ、せっかくの土曜日なんだから、如月さんも仕事のことは忘れてゆっくり休んでくださいね。月曜にまた」 『はい! 失礼いたします』
通話を終えて台所へ戻ると、日菜子が米の計量カップを片手に持ったまま、じとっとした視線を俺に向けていた。
「……会社の人?」 「ああ。昨日、遅くまで一緒に仕事を手伝ってた後輩の如月さんだ」 「ふうん。ご飯、誘われたの?」 「仕事のお礼だって言われただけだよ。断ったけどな」 「あっそ」
日菜子はそっぽを向き、炊飯器のフタをパチンと音を立てて閉めた。さっき自分で押したはずの『炊飯』の赤いボタンを、確認するみたいにもう一度無言で強く押し込んでいる。思春期の娘の機嫌の変わり目は、やはり職場のトラブルシューティングよりも読めない。
時計の針が六時十五分を指した頃、玄関の呼び鈴が控えめに鳴った。 「はーい」と明美ちゃんが真っ先に小走りで向かい、鍵を開ける。
「おかえり、お母さん」 「ただいま、明美。海斗さん、遅くなってすみません」
三和土に現れた霧子さんは、仕事着の紺色のサマーウールジャケットを細い腕に掛け、A4サイズの書類カバンと、小さな銀色の保冷バッグを提げていた。 きっちりと後ろで束ねられた黒髪から、数本の後れ毛が汗ばんだうなじに張り付いている。オフィスの冷房と外の猛暑を行き来したせいか、いつもは抜けるように白い頬が、ほんのりと上気して赤みを帯びていた。
「ちょうど今、ルーを溶かし終わったところです。どうぞ上がってください」 「すみません、何もいらないと仰っていたのに……駅前でスイカがあまりにも美味しそうだったので、一切れだけ買ってきてしまいました」
恐縮するように差し出された保冷バッグを、俺は両手で受け取った。持ち手が触れ合った瞬間、彼女の指先から微かな冷気と、石鹸のような清潔な香りがふわりと届いた。 受け取ったあとも、俺が玄関の狭い上がり框に立ったままドアを押さえていたため、霧子さんがどこか戸惑ったように目をパチクリとさせた。
「あ、すみません。突っ立ってないで、どうぞ中へ」 「ふふ、お邪魔します。今日は本当に、誘ってくださってありがとうございます」 「こちらこそ。普段は二人きりなので、四人分作れると思うと料理もやりがいがありますから」 「ちょっとお父さん。二人の時は適当に作ってるってこと?」
台所の影から日菜子が眉をひそめて突っ込み、明美ちゃんが声を立てて笑った。霧子さんもつられるように口元を綻ばせ、玄関先で張り詰めていた仕事の緊張感が、ようやく解けていくのが分かった。
居間のちゃぶ台を水拭きし、食器棚を開ける。 しかし、我が家には元々、揃いの白いカレー深皿が二枚しかなかった。長年、父と娘の二人だけで暮らしてきたのだから当然だ。残りの二枚は、以前引き出物でもらった青い絵付けの浅鉢と、来客用の平皿を引っ張り出してくることになる。
「俺がこの平皿を使いますよ」 「だめ。お父さんはその浅鉢。こっちの深皿は私が使うから」
日菜子が俺の手から白い深皿を素早く奪い取り、自分の席の前に置いた。
「お前、そっちの方が深くてルーがたくさん入るからだろ」 「お代わり何回もするの面倒くさいじゃん。最初の一回で美しく完成させたいの」 「どんな理屈だ」
呆れる俺の横で、霧子さんが真面目な顔をして「一理ありますね」と頷いた。大鍋を抱えて台所から運んできた俺と目が合うと、悪戯が見つかった子どものように、悪戯っぽく破顔した。
四枚の不揃いな皿に、炊きたての白いご飯をよそい、湯気を立てる褐色のルーを流し込む。その上に、フライパンで香ばしく焼き色をつけた茄子、ズッキーニ、真っ赤なパプリカを彩りよく乗せていく。 食卓の上に並んだ四つの皿は、まるで小さな花が咲いたように鮮やかだった。
「わあ、すごく綺麗……!」
明美ちゃんが目を輝かせ、スプーンで一口すくって口へ運んだ。ハフハフと熱そうに息を吐き出しながら、すぐに顔を綻ばせる。
「美味しい……! 海斗さんのカレー、玉ねぎがすごく甘くて、野菜がジューシーです」 「お父さん、カレーの玉ねぎだけは弱火で延々と炒めるからね。普段の炒め物は雑なくせに」 「雑とはなんだ。だが、玉ねぎだけは最初にしっかり甘みを引き出さないと、ルーの味が決まらないんだよ」 「ええ。前にうちの台所で作り方を教えてくださった時も、まったく同じことを仰っていましたね」
不意に霧子さんからそう言われ、俺はスプーンを持った手を止めた。
「……霧子さん、そんな昔のこと、覚えてましたか?」 「ええ、覚えていますよ。玉ねぎは色が変わるまで絶対に触りすぎるな、って。そこが一番大事なところなんでしょう?」
霧子さんは小首を傾げ、悪戯っぽく微笑みながら、自分の皿のルーをゆっくりと口に運んだ。 何気なく教えただけのつまらない家庭料理の手順を、この人は何年も前の記憶として、ちゃんと大切に覚えていてくれた。その事実が、じんわりと胸の奥の柔らかいところを温めていく。
五合炊いたはずの炊飯器は、驚くべき速さで底をついた。 育ち盛りの日菜子と明美ちゃんが競うようにしてお代わりをし、最後には霧子さんまで「少しだけ、ご飯足してもいいですか?」と恥ずかしそうにお代わりをしてくれたからだ。 残さず綺麗に空っぽになった大鍋と炊飯釜を見つめながら、俺は胸のすくような充実感を味わっていた。休日の夕暮れに、誰かのために火を使い、作ったものを誰かが美味しいと笑って食べてくれる。それは、この十年余りの間、俺がずっと求めてやまなかった食卓の風景そのものだった。
食べ終えた皿を重ねて流し台へ運ぶと、背後から衣擦れの音がして、霧子さんがすっと隣に並んだ。 俺が止める間もなく、彼女の手が調理台の上にあった清潔な乾いた布巾を取る。
「海斗さん、洗ってください。私、拭く方をやってもいいですか?」
断る言葉を探すよりも先に、彼女の横顔の真剣さに押されて、俺は蛇口のレバーをひねった。
「じゃあ……すみません、お願いします」
ジャーと水が流れ、スポンジの泡が白い皿を包んでいく。 肩を少し引けば、大人二人がなんとか並んで立てるほどの、小さな古い台所。 ぬるま湯で泡を洗い流し、キュッと水気を切って隣へ差し出す。霧子さんの細い指が皿の底を受け取り、布巾で丁寧に水滴を拭い去っていく。 渡す皿から伝わるわずかな温度と、すぐ隣で動く彼女の規則正しい息遣い。 風鈴の音が遠くでチリンと鳴る中、二人の沈黙は、居間から聞こえる娘たちの笑い声の中に、静かに溶け込んでいった。
お読みいただきありがとうございました。
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