後日談1 一泊二日、箱根の秋
結婚して最初の秋、夫婦水入らずでの一泊二日の温泉旅行を具体的に予約したのは、日菜子からまったく同じ台詞で背中を押された、三回目の夜のことだった。
「だからお父さん、その週末、私と明美は家で全国模試の過去問を解いてるだけだってば!」 「そうは言ってもだな、十一月の半ばだし、急に冷え込むかもしれないし……留守中に何か急病でもあったら——」 「何かあったら、その四角いスマートフォンで即座に電話をかけますー。お父さん、まさかロマンスカーに乗った瞬間、スマホを箱根の芦ノ湖に投げ捨てるつもりなの?」
ダイニングテーブルの隣で、霧子さんが手元の手帳から顔を上げて声を立てて笑った。 笑っている当の彼女も、娘二人の週末の予定と常備薬の引き出しの位置を念入りに点検するのは、今夜ですでに二回目だった。
食卓の端っこに積み上げられた分厚い大学受験用の英語の参考書を、明美ちゃんが自分の手元へとズリリと引き寄せた。
「行きたいなら、早く宿の予約ボタンを押しちゃった方がいいと思いますよ。海斗さんたちがいなければ、私たちもお昼ご飯を好きな時間に、好きなメニューでダラダラ食べられますし」 「普段から、お前たちが好きな時間に食べていいんだぞ」 「休日に私が午前十一時に早めのお昼を食べ始めると、海斗さん、匂いにつられて一緒にお腹空いたって台所に来ちゃうじゃないですか」
まったくもって反論の余地がなかった。
一泊分の旅費は、春の入籍以来、リビングのチェストの奥に置いた封筒へ、二人で毎月少しずつ出し合って積み立ててきたものだった。 娘たちには、もしもの時の実家の母・裕子の電話番号と、箱根の旅館の電話番号をメモして冷蔵庫にマグネットで貼った。 そこまで厳重に段取りを整えてからスマートフォンの宿泊予約サイトを開くと、最後に大人の男が指先で押すべき場所は、画面の真ん中にある『この内容で予約を確定する』という、たったひとつの赤いボタンだけだった。
*
土曜日の朝、午前八時十五分。 小田急線の特急ホームの売店で、俺は無意識のうちに、棚から緑茶のペットボトルを四本、トレイの上に取っていた。
「海斗さん」
隣に並んでいた霧子さんが、俺の手元を覗き込んで、悪戯っぽく微笑んだ。
「今日、二人で四本も、箱根に着くまでに飲み干すおつもりですか?」
俺は照れ笑いを浮かべながら、二本のボトルを元の冷蔵棚へと戻した。 棚に戻した瞬間、家でまだ寝ているだろう日菜子と明美ちゃんは、昼時にちゃんと自分たちで飲み物を用意できるだろうかと心配になりかけ——すぐにその過保護な思考を振り払った。 我が家の大きな冷蔵庫のドアポケットには、昨夜のうちに俺が沸かして冷やしておいた麦茶が、二リットルたっぷり入っているのだ。
「ふふ、私も人のこと言えませんね。さっき駅の構内のベーカリーで、お昼用のクロワッサンを四つ、トングで掴みそうになっていましたから」 「パンなら、俺が引き受けて二つとも食べられましたけどね」 「だめです。今夜の旅館の懐石料理まで、ちゃんとお腹を空かせて楽しみにしておきたいですから」
霧子さんは小さなイチジクのパンを二つだけ選び、その紙袋を俺の手にそっと預けてくれた。
箱根湯本へ向かう特急ロマンスカーの車内は、秋の行楽シーズンを楽しむ観光客で満席だった。 パノラマの大きな車窓の向こう側を流れていく丹沢の山々には、燃えるように鮮やかな赤に染まった箇所と、まだ夏の名残を留めた深い緑の箇所が、モザイクのように混ざり合っていた。 隣の席で、霧子さんが膝の上に広げた観光ガイドのパンフレットを指先で追っている。俺は出発までの数日間、会社の昼休みにインターネットで調べ上げた分刻みのツアープランを、手帳にびっしりと書き込んで持ち込んでいた。
「湯本に着いたら登山バスに乗り換えて、まず彫刻の森美術館へ行って、そのあと庭園に寄って、芦ノ湖の海賊船のダイヤに間に合えば——」 「海斗さん。予定、もうひとつだけ減らしませんか?」
手帳の上へ、霧子さんの白い人差し指がそっと置かれた。 彼女の指先が止まっていたのは、山の中にある小さな美術館の写真の上だった。
「ここで、時間を気にしないで、気の済むまでゆっくり絵を見て歩きたいです」 「分かりました。では、そのあとの遊覧船をどこか別の時間にずらして……」 「そのあとは、最初から何も決めないでおきませんか?」
霧子さんの柔らかく、けれど揺るぎない提案に、俺は少しの間を置いてから、手帳のタイムスケジュールに引いていた二本のボールペンの横線を、静かに二重線で消した。
山あいの静かな美術館に到着すると、石畳の通路の向こうに、木々に囲まれた瀟洒な展示棟が佇んでいた。 展示室の中には、十九世紀のヨーロッパの古い田舎町や、細い路地を描いた油彩画が何枚も静かに並んでいた。 風景の真ん中に描かれた人物たちはみな驚くほど小さく、ガラスのそばまで顔を寄せなければ、その人たちが一体何をしているのか判別がつかない。
霧子さんは、ある一枚の淡い夕暮れの絵の前で、ふと足を止めた。 俺は順路通りに次の部屋の彫刻を一通り眺めてから戻ってきたが、彼女はまだ、薄暗い展示室の同じ絵の前に立ち尽くしていた。
「この絵の人……誰かを待っているんでしょうか」
絵の中の小さな人物は、石造りの古い家の玄関の前に、ポツンと一人で佇んでいた。足元には、茶色い小さな革カバンのようなものが置かれている。
「これから旅に出かけるところかもしれませんよ」 「でも、ほら。手のひらが、こうやって前で重なっているから」
霧子さんは自分の両手を胸の前で合わせ、所在なげに指先を絡めてみせた。
「家の鍵を中に忘れてしまって、ドアの前で締め出されて途方に暮れている人にも見えませんか?」
静かな展示室で、俺は思わず喉を鳴らして吹き出してしまった。引っ越しの初日の夕方、玄関の内側から鍵を開けようとして真っ赤になっていた明美ちゃんの姿が、鮮やかに重なったからだ。
「そう言われると、もう鍵を忘れて困り果てている人にしか見えなくなってきましたよ」 「困りましたね。下のプレートの解説を読んだら、『愛する人の帰りを待つ敬虔な祈り』とか、全然違う立派なタイトルがついているかもしれませんよ」
二人で額縁の右下にある小さな真鍮のプレートに目を凝らした。 そこにはただ素っ気なく、『ノルマンディーの路地 一八八七年』と地名だけが刻まれていた。 俺たちは顔を見合わせ、もう一度、鍵を忘れて締め出されたかもしれない名もなき愛しい人物の背中を、温かな笑顔で見つめ直した。
出口の手前にあるミュージアムショップで、今度は俺の足がピタリと止まった。 展示されていた絵画の色彩をモチーフにした、手漉き和紙の美しいしおりが何種類も並んでいた。 深い夜空のような藍色のしおりに手を伸ばし、けれど隣にあった、夕暮れの光を溶かし込んだような山吹色のしおりも捨てがたかった。 隣に立つ霧子さんは、先ほどの「鍵を忘れた人」の絵葉書を一枚手に取り、俺が迷っているのを急かすこともなく、静かに待っていてくれた。
「……霧子さん。そんなに迷うくらいなら、二枚とも買えばいいでしょうか」 「本を二冊、同時に並行して読めば、両方とも使えますね」 「同じ一冊の本に、二枚とも挟むのはどうですか?」 「それも贅沢で素敵ですね。ただ……次に本を開いた時、どっちのページに戻ればいいのか、よく分からなくなりそうですけれど」
俺は藍色と山吹色、二枚のしおりをレジへ持っていった。 霧子さんは、店を出る時にも、一度も腕時計に目を落とさなかった。
美術館の外へ出ると、山の空気は思ったよりもひんやりと冷たく澄み渡っていた。 彼女がスプリングコートの襟元をかき合わせ、前ボタンを留めるのを待ち、落ち葉を踏みしめながら、近くの静かな喫茶店で遅めの昼食を取った。
「手帳の予定、消しておいて本当に良かったですね」
温かいオニオンスープのカップを両手で包みながら霧子さんに言われ、俺はそこで初めて、左腕の腕時計を見た。 午後二時五十分。 当初の俺の分刻みの計画通りなら、今頃はバス停の列に並び、混み合う遊覧船の乗り場へ向かって小走りで急ぎ足になっていた時間だった。
夕方四時過ぎ、渓流沿いに佇む静かな温泉旅館に到着した。 和室に荷物を置き、別々に大浴場の湯に浸かった。 湯上がりに部屋へ戻ると、霧子さんが障子を開け放った広縁の籐椅子に腰掛け、ドライヤーで濡れた黒髪を乾かしているところだった。 俺もその隣の椅子に腰を下ろし、夕暮れに染まる庭園のモミジの木から、赤い葉がひらひらと露天風呂の岩肌へ落ちていくのを眺めた。
誰かに「お風呂湧いたぞ」と声をかける必要も、次に風呂へ入る娘たちの時間を気にする必要もない。 習慣で洗面所のドアの方を振り返りそうになってから、ここはいつものアパートでも新居でもないのだと、ゆっくり思い出した。
部屋の大きな漆塗りの座卓に、季節の懐石料理の小鉢が色鮮やかに並べられた。 最初の二皿を食べ終えたあたりで、俺たちはどちらから促されたわけでもなく、ほとんど同時に、座布団の脇に置いてあったスマートフォンを手に取った。 パッと視線がぶつかり合う。
「……霧子さん、子どもたちから何か連絡、来ていますか?」 「いえ、何も。……そちらは?」 「うちも、来ていませんね」
俺たちは照れくさそうに笑い、申し合わせたように端末を画面伏せにして卓の隅へと置いた。 それから五分も経たないうちに、霧子さんのスマートフォンが、机の上でブルルと一度だけ振動した。
『晩ご飯、冷凍のグラタン温めて食べたよ。今、二人で模試の数学の解き直し中』
明美ちゃんからのメッセージだった。 添付された写真には、空になったグラタン皿のすぐ真横に、赤ペンでびっしり直された数学の解答用紙がだらしなく広がっていた。写真の端っこに、頬杖をついて頭を抱えている日菜子の寝癖のついた後頭部が、しっかりと写り込んでいる。
「先に机の上を片付けてから勉強しろ、って言おうか」 「いいえ、言わなくて大丈夫ですよ」
霧子さんはふわりと微笑み、短い返信を打って端末を伏せた。
「何て返したんですか?」 「『私たちも、今、とっても美味しいお料理をいただいています』って、それだけです」
それで十分だった。親がいなくても、彼女たちは自分たちのペースでちゃんとご飯を食べ、自分たちの力で机に向かっているのだ。 俺は箸を伸ばし、紅葉の葉が添えられた甘鯛の幽庵焼きを口に運んだ。
仲居さんが布団を二枚並べて敷いてくれたあと、座卓の上でお茶を淹れた。 急須を傾けすぎて、片方の湯呑みだけが濃い深緑色になってしまう。 霧子さんは二つの湯呑みを見比べると、自分の薄い方のお茶を俺の湯呑みへ少し注ぎ、俺の方から濃いお茶を少し自分の湯呑みへと戻した。
「これで、ちょうど同じ濃さになりましたね」 「結婚して最初の旅行の夜に、お茶の濃度の微調整をさせてしまってすみません」 「大事なことですよ。お茶は、これから毎朝、何千回と淹れ合っていくものですから」
俺は温かい湯呑みを両手で持った。 障子の外の庭園はすっかり闇に包まれ、山の木々の輪郭も見えなくなっている。 俺は昼間に買ったあの青と黄色の二枚の手漉き和紙のしおりを、卓の上に並べてみた。
「霧子さん。明日の朝は、すぐにチェックアウトしなくていいんですよね」 「ええ。朝ご飯をいただいたあと、十時半のチェックアウトまで、お部屋でゆっくりできますよ」 「よかった。……生まれて初めて、目覚まし時計をかけずに朝寝坊してみたいです」 「じゃあ、明日の朝のアラームは——」 「かけないでおきましょう」
俺が枕元の携帯電話へ伸ばしかけた手を、霧子さんの温かい右手が、上からそっと包み込んで止めた。 二人で顔を見合わせて小さく笑い、そのまま指を離さず、しばらくの間、静かに手を重ねていた。
霧子さんの左手の薬指に、和室の丸いペンダントライトの光が、細い銀色の輪となって小さく反射していた。 あの雨の日の蕎麦屋で箱を開けた時は、彼女の返事を聞くまでの数秒間、緊張で自分の指先が氷のように冷たくなっていたことすら気づかなかったのだ。
「どうしました、海斗さん?」 「いえ……やっぱり、この指輪は、あの雨の日に二人で決めて良かったなと思って」
霧子さんは自分の左手の薬指を見つめ、目を細めた。
「私、もし一人きりでお店へ行っていたら、どれを選んでいいか分からなくて、何時間も迷い続けていたと思います」 「俺も同じですよ」 「じゃあ、今日のあの二枚のしおりも、私が横から一枚に決めて差し上げればよかったですね」 「いや、あれは二枚とも俺に必要なんです」
きっぱりと言い切ると、彼女は肩を揺らして、本当に可笑しそうに吹き出した。
広縁のガラス戸の隙間から、夜の箱根の冷たい山の空気が、スーッと足元へ忍び寄ってきた。 霧子さんは湯呑みを置き、立ち上がった。
「あなた。……そちらの窓のカーテン、少しだけ閉めていただけますか?」
俺は腰を浮かしかけた姿勢のまま、固まった。
「……えっ?」 「あ、いえ……カーテンを……」
彼女も自分が今、何気なく口にした呼び名に気づいたのか、途中で言葉を失い、耳たぶから首筋にかけて、みるみるうちに林檎のように真っ赤に染まっていった。 俺たちは二人とも、声も出せずに、ただ開け放たれた広縁の窓ガラスをじっと見つめ合った。
「……閉めてきます」
俺がやっとの思いでそれだけを口にして立ち上がると、霧子さんは空になった湯呑みを両手でぎゅっと握り直した。 俺が広縁の厚い遮光カーテンをシャッと閉め、座卓へ戻るまでの間、彼女は一度も俺の方へ視線を合わせようとしなかった。
「あの……霧子さん。できれば、もう一度だけ、今のを呼んでもらっても……」 「お茶がすっかり冷めてしまいますよ、海斗さん」
いつもより三倍くらい丁寧でよそよそしい敬語になっていたので、俺はそれ以上おねだりするのをやめた。 その代わり、彼女のすぐ隣の座布団へ腰を下ろすと、霧子さんは逃げることなく、すっと自分の細い肩を、俺の腕の側へと寄り添わせてくれた。 俺も少しだけ体を傾け、その柔らかな重みを受け止めた。 湯上がりの彼女の髪から、旅館の石鹸の匂いと、アパートの廊下でいつも嗅いでいた懐かしい柔軟剤の香りが、優しく混ざり合って届いた。
「来年の秋は、どこへ行きましょうか」
俺の肩に頭を預けたまま、霧子さんが静かに囁いた。 俺は、来年の秋は日菜子と明美ちゃんの大学や専門学校の受験の真っ只中で、それどころじゃないかもしれない、と親らしい小言を言いかけた。 けれどそれを飲み込み、彼女の髪にそっと触れた。
「霧子さんは、どこへ行きたいですか?」
聞き直すと、彼女は少しだけ考えてから、目を細めて言った。
「広い海も、見に行きたいです。……でも、今日行ったあの美術館の路地の絵も、また二人で観に来たいですね」 「それだと、二箇所になっちゃいますね」 「ええ。あなたの手元の、二枚のしおりと一緒です」
俺は、霧子さんが売店で選んだあの『鍵を忘れて困っている人』の絵葉書を、座卓の上でそっと裏返し、大切に手帳の間に挟み込んだ。
*
翌朝は、結局二人とも、平日の朝とまったく同じ午前六時前に、パチリと目が覚めてしまった。 目覚まし時計をかけなかったからといって、十四年間染み付いた父親と母親の体内時計は、そう簡単に狂ってはくれなかった。
それでも、布団からすぐに起き上がりはしなかった。 隣の敷き布団から霧子さんが白い腕を伸ばし、シーツの上を手探りで探してきたので、俺は自分の方から指先を絡めて、ぎゅっと握りしめた。 窓の障子の向こう側が、朝の山の清々しい光で、淡く白んでいく。
「まだ……朝ご飯の時間まで、一時間以上ありますよね」 「ええ。たっぷりありますよ」
繋いだ手のひらの温もりを感じながら、俺たちはもう一度、浅くて幸福なまどろみの中へと沈んでいった。
朝食を終えたあとも、急いで席を立つことはなかった。 家にいれば誰よりも早く立ち上がり、テキパキと食器を下げ始める霧子さんが、広縁の椅子に座り、窓の外の紅葉を眺めながらゆっくりとほうじ茶を口に運んでいる。 俺も急須からもう一杯注ぎ、その隣で、同じ秋の光を見つめながら静かに湯呑みを傾けた。
日曜日の夕方五時。 新居のマンションの玄関ドアを、茶色の革印の鍵で開けて入ると、広いリビングの奥からすぐに日菜子の元気な声が響いた。
「お帰りー! 温泉まんじゅう、買ってきてくれた!?」
東向きの部屋のドアが開き、シャープペンシルを耳に挟んだ明美ちゃんも顔を出した。
「お帰りなさい、海斗さん、お母さん。温泉、ゆっくりできましたか?」 「ああ、すごく良いお湯だったよ。ほら、これ二人の分のお土産だ」
箱根の老舗の焼き印の入ったお菓子の箱を手渡す。 日菜子はその場で箱を破こうとして、「あ、まだ手を洗ってなかった!」と洗面所へドタドタと駆け戻っていった。
俺は旅行カバンを床に置き、ベランダのガラス戸越しに、室外機の横の植木鉢を見た。 佐藤さんからもらったローズマリーは、出かける前とまったく同じ場所で、秋風に青々とした枝を揺らしていた。 部屋の中に、旅先の旅館の香りと、新居のフローリングの清潔な匂いが溶け合っている。
「海斗さん、お洗濯するタオルとお着替え、こっちのバスケットに出してくださいね」
霧子さんが床にカバンを広げ、手際よく荷物を仕分け始めていた。 俺もその隣にしゃがみ込み、二人で並んで服を畳む。 あっという間に、見慣れた生活の手つきへと戻っていく。
「お父さん!」 洗面所から戻ってきた日菜子が、キッチンのカウンター越しに声を張り上げた。
「今日の夜ご飯、冷蔵庫のお野菜でお鍋にしようと思って切っといたの! お父さん、鶏肉とお豆腐入れる係やって!」 「おう、任せとけ。すぐ行くよ」 「お母さん、ポン酢とお醤油の準備、お願いします!」
明美ちゃんの呼ぶ声に、霧子さんが「はいはい、すぐ行きますよ」とエプロンを手に取って立ち上がる。
並んで洗面所で手を洗い、キッチンへ向かう。 リビングのダイニングテーブルの上には、まだどの本にも挟まれていない、あの藍色と山吹色の二枚のしおりが、仲良く並んで置かれていた。
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