後日談2 卒業しても、ただいまは同じ
三月の第二金曜日、都立高校の卒業式の朝。 日菜子は玄関の下駄箱の扉を一番下まで全開にし、奥の暗がりを手探りで漁って、二年前の高校一年生の時に靴底がペロリと剥がれかけた、ボロボロの古いローファーを引っ張り出してきた。
「おい日菜子、今日履いていくのは、先月買ったピカピカの新しい方にしとけよ。式の最中に歩いてて、足元で靴底だけ先に卒業されたら困るだろ」 「分かってるってば! 履いていくのは新しい方だよ。これは紙袋に入れて、学校へ持って行くだけ」 「わざわざ古い靴を学校へ持っていくのか?」 「そうだよ。今日を逃したら、もう二度と、あそこの昇降口の下駄箱にこの靴を突っ込むことなんてないんだから」
日菜子のきっぱりとした言葉に、俺はそれ以上何も言えず、そっと口をつぐんだ。 他人から見ればただの薄汚れた履き古しの革靴でしかないものが、どうしても今日この朝、その場所になければならないと願う瞬間。 自分自身の高校の卒業式の朝にも、きっとそんな青臭くて大切なこだわりがあったはずなのだが、三十五歳を過ぎた今の頭からは、その記憶は綺麗さっぱり抜け落ちてしまっていた。
「はい、それよりこれ。お父さんの分の上履きスリッパ」
日菜子が手渡してきたのは、保護者用のチェック柄の携帯スリッパだった。 朝から散々「日菜子、卒業証書入れる手提げ持ったか? 生徒手帳は?」と偉そうに点検して回っていた父親自身が、きっちり自分の足元を忘れて靴下で体育館の冷たい床に降り立つところだった。
今年の春で、娘たち二人は揃って十八歳になった。 明美ちゃんは都内の写真と映像を専門に学ぶデザイン系専門学校へ、日菜子は地元の大学の造形デザイン学科へと進学が決まっている。 新居のこのマンションから電車で通える距離のため、四月以降もしばらくは四人での同居生活が続く。 けれど、四月の一日を迎えた瞬間から、二人はそれぞれ、まったく別の校章が入った新しい学生証をポケットに入れて歩き出すことになるのだ。
三月の柔らかな朝の光が、マンションの玄関のタタキへ真っ直ぐに差し込んでいた。 靴箱の上のキートレイに並べられた四つの革印の鍵が、朝の光を浴びて、それぞれの影を床に濃く落としている。 日菜子の通学カバンの隙間から、あの秋に箱根の美術館で買った山吹色の和紙のしおりが、分厚い国語便覧のページに挟まれて半分顔を出していた。 玄関台の横にビニール紐で十文字に縛られた赤本や参考書の山は、放課後、部活の後輩たちが新居まで譲り受けに取りに来る手筈になっているのだという。
「式場で出席番号を呼ばれたら、しっかりお腹から声を出して返事するんだぞ」 「返事の練習なら、小学校の入学式から数えて十二年間もやってるんで、今さら心配ご無用ですー」 「私、幼稚園の卒園式の時はすごく大きな声が出たのに、なんで大人になる今の方が、先生の前で声を出すのが恥ずかしいんでしょうね」
靴紐を結び終えた明美ちゃんが、鏡の前で紺色のブレザーの襟元を整えながら笑った。
「よし、じゃあ今ここで、本番前のリハーサルをやろう。……しろいし、あけみさーん!」 「はーい!」 「今日のお弁当箱、ちゃんとカバンに入れたかー?」 「卒業式の日に、お弁当箱なんて持っていくわけないでしょ!」
玄関に明美ちゃんのツッコミが響き渡り、四人で一斉に吹き出した。 二人は俺たち親よりも一足早く、同じ紺色の制服の袖を引き合いながら、紙袋に入った古いローファーをカタカタと揺らして、駆け出すようにドアを開けて出ていった。
*
午前十時。 春とはいえ、体育館の冷え切った空気とパイプ椅子のスチールの冷たさは、スーツのズボンを通して容赦なく体温を奪っていった。 隣に座る霧子さんは、膝の上に抱えていたトートバッグから、薄手の布製座布団を二枚取り出して、一枚を俺の太ももの下へと滑り込ませてくれた。 端切れの布をパッチワークのように継ぎ合わせて縫い上げられたその手作り座布団は、娘たちが幼い頃に使っていたひざ掛けの生地を再利用したもので、ところどころ縫い糸の赤や青が不揃いに顔を出していた。
「あなた。校長先生の式辞をちゃんと前を向いて聞いてくださいね。私の座布団の縫い目は、どこにも逃げませんから」
耳元でクスクスと囁かれ、俺は背筋をピンと伸ばした。
厳かなオルガンの前奏が終わり、担任による卒業生の呼名が始まった。 壇上に立つ若い男性の体育教師の声だった。 最初は緊張で少し上ずっていた声が、クラスの出席番号が進むにつれて次第にゆっくりとした間を取るようになり、生徒一人ひとりの返事の余韻を、教壇の上でしっかりと噛み締めるように待っているのが分かった。
保護者席の斜め前の列で、日菜子がすっと立ち上がった。 春の冷たい体育館の天井へ向けて、透き通るような、よく通る声で「はい!」と返事をした。 毎朝、アパートの台所で俺を呼んでいたあの元気な声を、たったひとつの澄んだ音に凝縮して放ったような、見事な声だった。 俺はパイプ椅子の上で、二歳の頃のあの日と同じように、思わず「なあに」と立ち上がって返事をしてしまいそうになり、慌てて両手で膝を抑え込んだ。 あの日、クレヨンで塗られた画用紙の魚を差し出してきた小さな手のひらは、いつの間にか、大勢の人々の前で堂々と自分の存在を告げる、立派な大人の身体へと成長していた。
続いて、隣のクラスの列から、明美ちゃんが立ち上がった。 日菜子よりも少し低めの、落ち着いた、けれど語尾のまったく揺らがない力強い返事だった。 隣の席の霧子さんが、ハンカチを握りしめたまま、どこかで借りてきたようなやけに硬い声で「よし……!」と短く呟いたのを、俺は見逃さなかった。
壇上で卒業証書を受け取る総代の男子生徒の胸元には、紺のブレザーによく映える、深紅の布製のリボンが飾られていた。 式が終わったあとで日菜子から聞いた話によると、文化祭実行委員と美術部の有志が、下級生のために作ったコサージュの余り布を集めて、前日の放課後までかかって縫い上げたものだったらしい。 言われてみれば、あのリボンの角の少し不器用な縫い目の中に、我が家の娘の指先の痕跡が、確かに混ざり合っていたのかもしれない。 どのリボンを誰が縫ったのか、俺はあえて詮索しないでおいた。 子どもの門出の日の最高の一枚の景色というのは、親がその舞台裏のすべてを知り尽くしている必要など、どこにもないものなのだ。
式典が終わり、教室での最後のホームルームが終わるまで「二十分ほど」と案内されていた時間は、結局四十分を過ぎても終わらなかった。 校庭の片隅では、白梅の花びらが春風に吹かれてハラハラと舞い散り、校舎の壁際のコンクリートには、歴代の生徒たちが赤い上履きのかかとで擦りつけた古い跡が残っていた。 俺と霧子さんは校門の脇の自販機で缶コーヒーを二本買い、ベンチに腰を下ろして、冷めないうちに一口ずつすすった。
「私たち……子どもを待つのが、ずいぶんと上手になりましたね」 「いや、俺はさっきからすでに三回ほど、教室の様子を見に行こうとして立ち上がりかけましたけどね」 「ふふ、でも三回とも、ちゃんと私の隣の席へ座り直してくれましたよ」
やがて、昇降口のガラス戸が開き、色とりどりの花束を抱えた生徒たちが校庭へと溢れ出してきた。 遠くの人混みの中から、日菜子が俺たちを見つけて、頭の上で大きく両手を振った。 俺も大きく右手を振り返すと——日菜子はそのままこちらへ駆け寄ってくることもなく、そのままくるりと向きを変え、仲良しの女子グループの輪の中へと吸い込まれていってしまった。 ただ、父親と母親がそこにちゃんと立っていることを、遠目から確認したかっただけらしかった。 それで良かった。保護者として、今日も立派に役目を果たせたのだ。
渡り廊下の屋根の下では、合唱部の生徒たちが顧問の先生を囲んで、涙を流しながら合唱曲を歌っていた。 そのすぐ脇の校舎の壁際で、明美ちゃんが友達と肩を寄せ合い、一眼レフカメラを構えて何十枚も写真を撮り合っているのが見えた。 袴姿の女性の担任教師に花束を渡す生徒、卒業アルバムの白ページにサインペンでメッセージを書きっこしている生徒、自転車の荷台に大きな段ボール箱をくくりつけている生徒。 一生に一度きりの切ない別れの真っただ中にありながら、その誰もが、ひどく具体的で忙しそうな、次の未来への仕事を持っていた。
日菜子は最後に、昇降口の下駄箱の自分のスペースへあの古いローファーを一度だけ収め、スマートフォンのカメラでパシャリと記念撮影をして戻ってきた。 見せてもらった画面の中では、木製の下駄箱の底板が、四人分連続で、まったく同じ右下の角のところだけ丸く擦り減っていた。
「見てよ、お父さん。みんな右利きだから、靴を突っ込む時に同じ場所を擦るんだよね。こういう毎日の生活の擦り減り方の観察って、大学のデザインの講義でポスターの余白を決める時にも、すごく役に立つんだよ」 「俺には何がどうポスターに役に立つのかさっぱり分からんが……日菜子、それは面白いのか?」 「うん! ものすごく面白い!」
娘は一切の迷いなく、満面の笑みで即答した。
正門の石柱の横へ移動した時、ちょうど頭上の灰色の雲がサッと風に流され、春の柔らかな日差しが、石に深く刻まれた校名をくっきりと照らし出した。
「ここで、四人で撮りましょう!」
明美ちゃんがブレザーの裾を払い、愛用のカメラを構えた。 それから、持参していた細い三脚を慣れた手つきでパパッと広げ、正門前の植え込みの前にセットした。 俺が近くにいた他の家族連れにシャッターをお願いしようと見回すよりも、ずっと早い手際の良さだった。
「日菜子、コートの裾を踏まないようにね。海斗さん、顎を引いて。お母さん、座布団の袋は足元に隠してね。……じゃあ、セルフタイマー十秒、いきます!」
ピピッ、ピピッ、と電子音が小気味よく鳴り響く。 シャッターが落ちる直前、小走りで戻ってきた明美ちゃんを、日菜子が両手を広げてガシッと正面から抱き止めた。 カシャリ、と一度目のシャッター音が鳴った。 次の瞬間——春の強い突風がビュッと吹き抜け、明美ちゃんの頭からベレー帽がフワリと宙へ舞い上がった。 カシャリ、と二度目のシャッターが切れる。 俺が慌てて落ちていく帽子を空中でキャッチしようと前のめりに手を伸ばし、日菜子が大きな口を開けて大笑いし、霧子さんの手が優しく帽子のつばに伸びた瞬間——カシャリ、と三度目のシャッターが落ちた。
カメラの液晶画面に並んだ三枚の連続写真を見比べながら、駅から自宅へ向かう帰り道の間中、どれが一番の傑作かで意見が真っ二つに割れ続けた。
*
その夜、卒業祝いの夕飯のリクエストは、手作りの煮込みハンバーグだった。 子ども用に小さく丸めて焼く必要などとっくになくなったというのに、俺は大きなボウルからタネを分ける時、四つのうち二つだけを、無意識に厚く大きく丸めてしまう。 キッチンへやってきた霧子さんがその大きな一つをひょいと奪い取り、真ん中を親指でキュッと窪ませてから、自分のフライパンへと並べた。十年の母としての手際が、実に鮮やかだった。
「四月から大学が始まったら、夕飯を外で友達と食べてくる日が増えるかも」
ダイニングテーブルの上を拭きながら、日菜子が何気ない調子で言った。
「了解。その場合は、何時くらいまでに連絡をもらえると助かるかな?」 「お昼休みに新しい友達ができて、その日の夕方に『今からご飯行こうよ!』って急に誘われた場合は?」 「それはもう、俺が台所で挽き肉をこねたあとの時間だな。その時はそのまま焼いておいて、明日の朝の誰かのパンに挟んで食べるよ」 「お父さん、平日の昼間から挽き肉なんてこねたことないくせに」 「お前の友達ができるかどうかの話だって、まだ完全な取らぬ狸の皮算用だろ」 「おっ! 言うようになったじゃん、大宮主任!」
四つのハンバーグは、デミグラスソースの中でふっくらと見事に煮上がった。 明美ちゃんは、四月から専門学校のロケ撮影の授業で、朝早くから海や山へ出かける日もあるのだと話してくれた。 早朝の電車は親として少し心配だったが、まだ誰もファインダーに収めたことのない、朝露に濡れた街の景色を自分の足で見つけ出したいのだという。 キッチンの冷蔵庫に貼られたカレンダーの予定表は、来月のマス目を四分割するか、それとも一人一枚ずつの新しい手帳を買い足すか、まだ決まっていなかった。
食後の苺のタルトを食べ終えたあと、今夜は日菜子が「お父さんは座ってて!」と率先して洗い場に立ち、俺はその横で木綿の布巾を持って皿を受け取った。 水道から流れるジャージャーという水音に紛れて、日菜子が泡だらけの手を動かしながら、ポツリと言った。
「……ねえ、お父さん」 「ん?」 「あの夏の夜……私が言ったこと、覚えてるよね」 「……ああ。忘れるわけないだろ」 「私ね、高校を卒業して大人になったら……いつかお父さんに『あの時の話、恥ずかしいから全部なかったことにして』って、自分から頼むのかなって、ずっと思ってたんだ」 「……頼まないのか?」 「うん。頼まない」
日菜子はきれいに泡を洗い流した平皿を、タオルを構える俺の指先へと、そっと差し出した。
「今日で十八歳になったけど……やっぱり、お父さんにはずっと覚えていてほしい。私が本気でお父さんのことを好きになって、お父さんが逃げないで、ちゃんと私に向き合って断ってくれたこと」
水切りカゴの網の上には、朝の卵焼きの黄色い油が少し残ったフライ返しと、今夜のハンバーグの茶色い大皿が並んでいた。
「これから大学へ行ったら、私、また変なことでいっぱい悩んだり、立ち止まったりすると思う。人のアドバイスは全然聞かないくせに、自分の話だけはお父さんに聞いてほしくて喚いたりして」 「任せてくれ。いくらでも聞くよ。そのあとで、甘い卵焼きをいくらでも焼いてやる」 「……最初は、何も口出ししないで、黙って聞くだけでお願いします」 「了解。肝に銘じておくよ」
俺たちはそれ以上、過去のその話をしなかった。
ダイニングテーブルの方を見ると、明美ちゃんが新聞紙で厳重に包まれた、大きな平たい包みを解いているところだった。 留め口のセロハンテープの真ん中に、あの文化祭の展示の余り紙で作った、小さな青い小鳥の切り絵が貼られていた。
手作りの写真集だった。 ハードカバーの表紙には、白い箔押しの文字で、ただ一行だけタイトルが刻まれていた。 『玄関から歩けるところ』
誰の顔写真も載っていない、静かな表紙だった。 ページをめくると、一番最初のカットは、この新居の靴箱の上で四つ並んだ、あの革細工のキーホルダーの写真だった。 次の一枚は、駅前商店街の曲がり角にある、タバコ屋の店先のあの丸いパイプ椅子。 ベランダの室外機の横で、春の新しい緑の若芽を伸ばし始めたローズマリーの鉢植え。 美術室の机の上で、油絵の具で青く染まったクラスメイトの指先。 マットワイン色の眼鏡を少し押し上げて、休日の窓辺で文庫本を読む霧子さんの穏やかな横顔。 そして数ページ先には、去年の夏祭りの赤い提灯の下で、俺が目を三角にして射的のコルク銃を構えている決定的瞬間が大きく引き伸ばされていて、覗き込んだ日菜子と俺は同時に「それは全部外したやつ!」と声を揃えた。
そして——写真集のいちばん最後のページには、今日、高校の正門の前で撮影したばかりの写真が、一枚だけ、四隅に透明なコーナーシールで大切に差し込まれていた。 二枚目の、突風で明美ちゃんのベレー帽が宙へと舞い上がった瞬間の写真だった。 俺は驚いて間抜けに彼女の方を振り返り、日菜子は口を大きく開けてお腹を抱えて笑い、霧子さんの白い手が、空中で落ちていく帽子のつばへと優しく伸びていた。
「明美ちゃん。……本当によく、こんなにたくさん撮りためてくれたね」
俺の声が、少しだけ熱を帯びて震えた。 明美ちゃんは写真集のページをそっと撫で、それから最初の『四つの鍵』のページへと、もう一度ゆっくりと戻した。 そして、その重みのある手作りの本を、俺の両手の上へと差し出してくれた。
「はい。でも……この家から歩いていける場所には、私が撮りたい景色が、まだまだいくらでもあるみたいです」
*
卒業式の翌朝、土曜日。 午前七時半に、まず写真のロケへ出かける明美ちゃんが、大きなカメラバッグを背負って「行ってきます!」と元気に出ていき、その十分後、大学の入学前ガイダンスへ向かう日菜子が「行ってきまーす!」と私服で飛び出していった。 二人とも、玄関のドアを開ける直前、タタキの上での靴紐の結び直しがやけに長かった。 水筒は持ったか、定期券の更新は済ませたか、電車の乗り換えは大丈夫か。 父親として頭に浮かんだ小言の半分も口に出す前に、ドアはバタンと閉まり、春の冷たい風を遮った。
静まり返った広いリビングへ戻ると、霧子さんがダイニングテーブルいっぱいに朝刊を広げていた。 この家では、朝一番最後に家を出る人間が、鍵をかけて戸締まりをする決まりだ。 そして今日、俺たちは二人揃って、久しぶりに午後まで何ひとつ用事のない、完全な休日の朝を迎えていた。
「海斗さん。来週の土曜日、何か観たい映画はありますか?」
霧子さんの指先が、新聞の片隅にある名画座の上映スケジュール欄をトントンと叩いた。 小さな活字の横に、見覚えのある朱色の太鼓橋のイラストが載っていた。 去年の夏、四人で観に行ったあの映画——『水門の町』のリバイバル上映だった。
「あのラストシーン、もう一度確かめに行きますか?」 「いいですね。でも私、あの子は育ててくれたおばあさんに、ちゃんと『行ってきます』を言いに帰ったんだって思っていますよ。今でも」 「俺はやっぱり、あのまま町を出て行くのをやめて、日常に残ったと思うけどな」 「ふふ、じゃあ、同じ映画なのに、二人で二倍楽しめてお得ですね」
俺は椅子を引き寄せ、霧子さんの隣に座って、肩を並べて小さな上映時間を覗き込んだ。 上映開始は、来週の土曜日の午前十時半。 壁掛けカレンダーの来週の土曜日の枠には、まだ誰も何も書き込んでいない、真っ白な四角形が静かに待っていた。
「座席の予約、何枚にしますか?」
子どもたちにも声をかけましょうか、と続くのかと思ったら——霧子さんは顔を上げて悪戯っぽく微笑み、俺の目の前で、スッと白い指を二本だけ立ててみせた。 彼女の左手の薬指で、春の朝の光を反射したプラチナの指輪が、小さくきらりと輝いた。
「うん。……今度も、二枚で」
玄関には四つの鍵があり、冷蔵庫には四人分の麦茶が冷えている。 夕方になれば、腹を空かせた二人の娘が「ただいま!」と勢いよくドアを開けて帰ってくる。 それでも——これからの俺たちには、二人きりで並んで映画へ出かけ、夕暮れの街を歩いて、四人分の待つ我が家へ帰ってくる時間が、いくらでも残されていた。
光の満ちたキッチンから、二人分の、淹れたての温かいコーヒーの香りがふわりと漂っていた。
(完)
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