第21章 今日は、帰らなくていい
区役所へ婚姻届を提出しに行く朝、俺の白いワイシャツは、日菜子の高校の制服のセーラーブラウスと一緒に、アイロン台の脇のハンガーラックに並んで掛かっていた。 自分の制服を手に取った日菜子が、父親のシャツの右袖にもスッと指を通し、皺を確かめるようにしてそっとアイロンの折り目をしごいた。
「これ、肘の裏のところ、ちょっとだけ座りジワ残ってるけど」 「大丈夫だよ。上にスーツのジャケットを羽織るから見えない」 「お父さんの人生二度目の結婚の日に、我が家の初代アイロン係の名誉がかかってるんだけど」 「うちのアイロン係、いつの間に俺からお前に代替わりしたんだよ」 「昨日から今日までの期間限定雇用です。休日特別手当は、金曜日に駅前のケーキ屋さんでまるごとプリンね」
今年で十七歳になった娘は、涼しい顔で洗面所のドアノブの木札を裏返し、『あとちょっと』の面にしてから中へ入っていった。 すぐに閉まったドアの隙間から、ドライヤーの音に混じって声が飛んでくる。
「お父さん! あの指輪の箱、忘れずにスーツのポケットに入れときなよ! もう春なんだからね!」 「分かってるよ。もう入れた」
指輪の箱は、あの冬の凍える雨の日、向かいの蕎麦屋で鴨南蛮を食べながら開けた、あの小さな白いベルベットの箱だった。 アパートを引き払うまでの四か月間、机の真ん中の引き出しの奥で静かに眠っていた。新居へ運ぶ間は紛失しないよう自分の通勤カバンの内ポケットに入れ、新居に着いてからは再び新しい寝室の引き出しにしまっていた。 指にはめて日常を過ごすよりも前に、俺たちは指輪の箱がしまってある場所の座標について、すっかり詳しくなってしまっていた。
霧子さんは、娘たち二人を「車に気をつけてね」と玄関まで見送ったあと、パジャマの上に薄いグレーのカーディガンを羽織ったまま、リビングに掃除機をかけ始めた。 だが、吸い込みのモーター音が妙に高く「ヒューン」と悲鳴を上げているのに気づき、本体からダストカップを引き抜いた。 俺も隣にしゃがみ込んで覗き込むと、引っ越しの荷造りに使ったビニール紐の切れ端が、吸い込み口の回転ブラシに頑固に絡まりついていた。
「海斗さん、ハサミ取ってきましょうか」 「いや、爪で引っ張れば解けそうですよ。……ほら、取れた」 「ふふ、ありがとうございます。……海斗さん、今日、区役所は何時に行きましょうか」 「予約制じゃないですからね。今日という一日が終わるまでなら、いつでも大丈夫ですよ」 「じゃあ……あと十六時間くらいは猶予がありますね」 「急ぐ旅でもないですしね。先に霧子さんの髪が乾くのを待ちましょうか」 「四月いっぱい待ってくださってもいいですよ?」
フローリングの床の上に並んで座り込んだまま、絡まったビニール紐を持った手で、二人で顔を見合わせて声を出して笑った。 紐は綺麗に解けたというのに、掃除機掛けは一向に前へ進まなかった。
*
午前十一時の区役所の戸籍住民課は、春の進学や就職の異動シーズンということもあり、大勢の人々でごった返していた。 待合ロビーの天井から吊り下げられた大型モニターの中では、お昼の情報番組の料理コーナーで、料理研究家の女性がアスパラガスの根元の筋をどう折ると綺麗に取れるかを熱心に実演していた。 俺は見入ってしまい、頭上のスピーカーから呼び出しの電子音がポーンと鳴ったことに、隣から霧子さんに袖を引かれるまでまったく気づかなかった。
「海斗さん、呼ばれましたよ」 「あ、すみません!」
窓口のカウンターの内側で、老眼鏡をかけた職員の男性が、俺たちが提出した一枚の緑色の紙——婚姻届の記載事項を入念に点検した。 夫になる人の欄に『大宮 海斗』、妻になる人の欄に『白石 霧子』。 そして右側の証人欄には、実家の母・裕子が少し右上がりの力強い筆圧で書いてくれた『大宮 裕子』の名前と、朱肉の鮮やかな認印が押されていた。 印刷された無機質な四角い枠の上に、生まれ育った場所も、背負ってきた年月の痛みも、書く時の手の震えもまったく違う人間たちが、それぞれに俺たちの新しい門出のために大切な線を引いてくれたのだと実感した。
奥の机で職員が別の係長と書類の突き合わせをしている間、俺たちは窓口の丸椅子に座って待っていた。 ふと、霧子さんがコートの袖からスッと細い手を伸ばし、俺の膝の上で固く握りしめられていた右手の拳に、自分の人差し指を一本挟んできた。 『そんなに力いっぱい握りしめていたら、あとで指輪が通りませんよ』 声には出さず、唇の動きだけでそう言って笑う。 俺は苦笑いし、ゆっくりと指の力を抜いて、彼女の指先をそっと包み込んだ。
「大宮さん、白石さん。お待たせいたしました。不備はありませんので、本日付で正式に受理いたします。おめでとうございます」
立ち上がる拍子に、俺は窓口のカウンターの角に肘を思いっきりゴツンとぶつけた。 「いっ……」と呻いて肘を押さえる俺の隣で、霧子さんが口元を手で押さえ、必死に笑いをこらえて肩を震わせていた。 その姿を見た瞬間、視界のピントが急激に合い、世界が驚くほど色鮮やかに立ち上がってきた。 春の光が差し込む区役所の自動ドア、薄いトレンチコートを着て行き交う人々、待合ベンチでうたた寝している男の子の、片方だけ脱げ落ちた靴下。 そのすべての日常の景色の真ん中に、今日から、俺の妻がいる。
区役所の庁舎を出ると、通りの街路樹の足元をぐるりと囲む木製の円形ベンチがあった。 俺はスーツの胸ポケットから、あの小さな白いベルベットの箱を取り出した。 フタを開けると、四か月の時間を超えて、二本の銀色のプラチナリングが、春の陽光を浴びて静かに輝いていた。
「失くさないで、ちゃんと持ってきましたよ」 「見事なお手柄でしたね」 「では……お手をどうぞ」
霧子さんの左手を取り、細い薬指にリングをそっと滑り込ませた。 彼女は自分の左手を裏返し、光にかざして指を開いたり閉じたりしてみせた。新しいフライパンの重みや包丁の握り心地を確かめる時のような、彼女らしい愛おしい手つきだった。 続いて、彼女が俺の左手の薬指に、少し大きめのリングを通してくれる。関節のところでカチリと心地よい手応えを残して収まった。 二人の戸籍を一つにして、法的な責任を背負い合うという重い手続きを済ませてきたばかりだというのに、俺たちはただ「指輪のサイズがぴったり合って抜けない」という、それだけのことに一番安心したような笑顔を交わし合っていた。
「海斗さん。これ、これからの生活で緩くなったりしないでしょうか」 「俺の最近の食欲だと、むしろ指が太くなって抜けなくなる方の心配をした方が良さそうですよ」 「じゃあ……帰りのお昼ご飯は、やっぱりお蕎麦ですね」 「蕎麦はダイエットに効くんですか?」 「いえ、鴨南蛮は、私たちにとって一番縁起の良い食べ物ですから」
あの冷たい雨の日に入った、駅前の古い蕎麦屋の暖簾を再びくぐった。 今回ばかりは、湯気の立つ熱い鴨南蛮が運ばれてくるのを待つ間、俺は晴れ渡った空の下でずっと言いたかった言葉を、真っ直ぐに彼女の目を見て伝えた。
「霧子さん。結婚、おめでとう」 「ありがとうございます。海斗さんも、おめでとうございます」 「……そういえば、新しい名字の『大宮』を最初に書く書類は、何になるんだろうな。俺、隣で見ていてもいいですか?」 「見物だけなんてずるいですよ。住所を変更したばかりの各種書類を、また全部名義変更し直すんですから。横でお茶とお菓子を献上する係を任命します」 「承知いたしました、大宮さん」
お品書きの木札を両手で立てて、霧子さんは顔の半分を隠して耳まで赤くした。 「不意打ちでその呼び方をするのは、反則だと思います」と抗議の声が漏れる。
注文の品を運んできた割烹着姿の店のおばさんが、二人の手元の新しい銀色の輪を見て、目を丸くした。
「あら! あんたたち、もしかして結婚したのかい?」 「ええ、今日。さっき区役所へ行ってきたところなんです」 霧子さんが少し照れくさそうに答えると、おばさんは「まあ! ちょっと待ってて!」と厨房の奥へ小走りで引っ込み、すぐに小さな白い平皿に、真っ赤な苺を二粒ずつ盛って戻ってきた。
「ほら、お祝いだよ! 前に雨の日に二人で隅っこの席に座ってた時、ものすごく真剣な顔をしてたからさ、おばちゃん、熱い蕎麦を置いていい空気かどうか厨房で本当にハラハラしたんだから!」
店を出たあと、春のうららかな陽気の中を歩きながら、俺たちはどちらからともなく、あの日どのタイミングから厨房に筒抜けだったのだろうと顔を見合わせて笑い合った。 おまけの苺を頬張った唇で笑うと、二人の口元がほんのりと同じ色に染まっていた。
*
その日の夜、リビングで残業のメールを処理していると、スマートフォンに如月さんからのメッセージが届いた。 業務用のチャットではなく、個人の連絡先からだった。書き出しは、会社と同じ『大宮先輩』だった。
『ご結婚、おめでとうございます。 今週、例の製菓工場の新休憩室に納品した長椅子とロッカーですが、本日初めて工員さんたちが実際に座って使っていらっしゃる現場を拝見してきました。 先輩が仰っていた通り、長椅子の背もたれのクッション性、すごく好評でした。ただ、ロッカーの下段の小さな扉だけ、少し開閉のバネが硬いように感じたので、次の案件ではより軽い力で開く金具を提案したいと考えています。月曜日にご相談させてください。 それでは、良い週末をお過ごしください。 追伸。お二人のこれからの新しい生活に、心からの祝福をお伝えしたかったです』
俺は画面を見つめ、少しの間、胸の奥を満たす温かな痛みに浸った。 彼女は、最初の挨拶から最後の追伸に至るまで、嘘のない、一人のプロの営業担当としての誇りと、誠実な人間としての言葉を尽くしてくれていた。
『ありがとう、如月さん。月曜日にロッカーの金具の件、詳しく聞かせてください』
短くそう返信して、画面を伏せた。
「お父さん、誰から?」 居間のちゃぶ台の上に薄い枕を持ち込み、明美ちゃんと一つの画面で猫の動画を見ていた日菜子が振り返った。 「会社の如月さんだよ。結婚のお祝いのメッセージをくれた」 「……そっか。よかったね」
日菜子はそれ以上何も聞かなかった。 明美ちゃんと肩を寄せ合い、「見て、この猫、雪の中に顔から突っ込んでる!」と楽しそうに笑い声を上げている。 そんなに面白いのかと俺が背後からのぞき込むたび、「ほら、お父さんも一緒に見たいんでしょ!」と二人に腕を引っ張られた。
金曜日の仕事帰り、俺は駅前のケーキ屋で、日菜子と約束していたまるごとプリンを四つ買った。 その隣の花屋の店先に並んでいた白いスイートピーの甘い匂いにつられて、ついでに小さな花束をひとつ買った。 家に帰って手渡した時、「霧子さんに花を買うついでにプリンを」とカッコつけて言うべきか一瞬迷ったが、どうせすぐに見透かされると思い、正直に順番を白状した。
「初代アイロン係の労働報酬を最優先で購入し、残った予算でお嫁さんに白いお花。大変に模範的な父親の姿です」 日菜子が高らかに評定を下した。 新居の花瓶がどこにしまってあるか分からず、白いスイートピーはしばらくの間、透明な麦茶のガラスポットに挿されて、ダイニングテーブルの真ん中で誇らしげに揺れていた。
*
夫婦として正式に迎えた、最初の土曜日の夕暮れ。 夕飯のメニューは、去年の夏と同じ夏野菜カレーに決まった。 牛肉のこま切れをたっぷり買い、野菜は春の盛りのものを選んだ。柔らかい春キャベツ、皮の薄い新じゃが、鮮やかなスナップエンドウ。そして、区役所のロビーのテレビで料理研究家が教えてくれた通りに根元を折った、瑞々しいグリーンアスパラガス。ポキリと小気味よい音がして、本当に硬い筋を残さず綺麗に折れた。
「お父さん。私、今夜は自分の分だけ、このガラムマサラ足して激辛にして食べるから」 「分かった。小皿にスパイスを出しておくから、自分の皿の上だけでやれよ」 「私、辛すぎて日菜子がギブアップしたら、お父さんの甘口のルーをひと口救済でくださいね」 「食べる前からしっかり安全マージンを取ってくるあたり、さすがだな明美ちゃん」 「ふふ、そこは私のリスク管理が遺伝したのかしらね」
霧子さんが笑いながら、コンロの横でお米を計量カップで量った。 彼女が使っているのは、日菜子が小学校低学年の頃、母の日の代わりに父である俺にプレゼントしてくれた、プラスチックの計量カップだった。 落として取っ手が割れてしまったため、俺がペンチで太い針金を巻きつけて補修してある。 そのカップを目線の高さに掲げた霧子さんに向かって、日菜子が背後からツッコミを入れた。
「霧子さん、そのカップ、針金の重みで少し左に傾いてるから、真上から目盛りを見るとご飯が一食分多く炊けちゃうよ」 「まあ、そうなの? 危ないところだったわ、先輩教えてくれてありがとう」
新しく届いた大きなダイニングテーブルの上に、日菜子と二人で十四年間使ってきた、古い白い深皿を二枚並べた。片方の底の高台にだけ、丸い擦り傷がある。 そこへ明美ちゃんが、引っ越しの時に四人で選んだ新しい大皿を二枚持ってきた。一枚は温かみのある素焼きの茶色、もう一枚は淡いオリーブグリーン。 大きさも、色も、陶器の厚みもまるで違う四枚の皿。 けれど、炊きたての白いご飯を盛り、具沢山の春野菜カレーをよそってテーブルに並べると、まるでずっと昔から同じひとつの食器棚の中で寄り添っていたかのように、ごく自然に調和して見えた。
俺はしゃもじを手に取り、明美ちゃんの茶色い皿へ最後のご飯をよそおうとした。 ふと見ると、彼女の着ているカーディガンの右袖の先に、小さな白い米粒がひとつ、ちょこんとくっついていた。
「ねえ、お父さん。そこの流しの小皿取って。熱いおたま置きたいから」
俺は「はいよ」と反射的に小皿を手に取り、半分差し出しかけてから——ハッと息を呑んで顔を上げた。
春野菜の湯気の向こう側で、明美ちゃんは小皿を受け取ろうと手を伸ばし、煮込み鍋の中におたまを入れた姿勢のまま、ピタリと動きを止めていた。 自分の口から自然にこぼれ落ちたその呼び名に、彼女自身が一番驚いたように、目を見開いて固まっている。
「……あ」
明美ちゃんの顔が、耳元から首筋にかけて、見る見るうちに真っ赤に染まっていく。
「……今の、できたら、誰も返事しないで聞き流してください……!」
日菜子が吹き出しそうになって、慌てて両手で自分の口を力いっぱい塞いだ。 冷蔵庫の前に立っていた霧子さんは、背中で静かにドアを閉めると、隣に立つ俺の右肘に、指先でそっと優しく触れてくれた。 あの冬の市民ギャラリーの喫茶室で、冷たい紅茶を飲みながら「悔しいです」と涙を拭った少女が、自分の足で時間をかけて歩き、今日この温かな食卓の真ん中で、迷わずに選び取ってくれた言葉だった。
「……ええと。もう小皿、渡しちゃったけどな」
俺がなるべく普段通りの調子で言うと、明美ちゃんは耐えきれなくなったようにプハッと吹き出し、おたまからコロンと丸い新じゃがいもが鍋の中へと落っこちた。
「……じゃあ、今の返事はそれでいいです!」 「おう、任せとけ」 「お父さん、そこの素揚げしたアスパラ、早く乗せて! 明美が先にお肉ばっかり自分の皿に集めてる!」 「集めてないよ、バランスよく配置してるの!」
賑やかな声に包まれながら、四人で手を合わせて「いただきます」をした。 食事の途中で、明美ちゃんはいつもの「海斗さん」という呼び方に戻り、食後のデザートの時にはまた不意に「お父さん、お茶のお代わりある?」と呼んだ。 海斗さんでも、お父さんでも、どちらの響きも俺の耳の奥に、同じ温もりを持ってしっかりと届いていた。
日菜子の激辛カレーは、本人が見栄を張ってスパイスを入れすぎたせいで、半分も食べないうちに額から滝のような汗が噴き出し、明美ちゃんの冷たい氷水を奪い取る羽目になった。 俺はからかいの言葉を飲み込み、冷蔵庫から甘いプレーンヨーグルトを出してやった。霧子さんも同じタイミングで蜂蜜のボトルを出そうとして、キッチンの角でまた肩がぶつかった。
「……台所の交通整理員さん、まだ採用面接中だからな」 「条件が厳しすぎて、なかなか応募が来ませんね」
窓の外では、春の夜風がベランダのサッシを静かに揺らしていた。 佐藤さんから譲り受けたローズマリーの鉢植えは、風で倒れないよう、エアコンの室外機の脇にしっかりと並べて置いてある。 食べ終えた食卓で、明美ちゃんが明日の写真部のロケの天気を気にし、日菜子は「明日は髪の毛巻いていくから晴れてほしいな」と呟いた。
食器を重ねて流し台へ運ぶと、背後からスリッパの音がして、霧子さんが乾いた木綿の布巾を持って隣に並んだ。 去年の八月の夜と同じように、俺が洗剤で洗って水気を切った皿を、右から左へと順番に手渡していく。 茶色と緑の新しい皿を渡し終え、俺は十四年間使い続けてきた、底に擦り傷のある白い深皿を、スポンジでゆっくりと撫で洗いした。
「海斗さん、また壁の時計を探しました?」 「いや……探してないよ。ただね、去年のあの八月の最初の土曜日の夜さ……霧子さんが何時に帰ってしまうのかなって、そればかり気にしながらここで洗ってたら、同じこの白い皿、二回も洗っちゃったんだよ」 「ふふ、やっぱりそうだったんですね」
霧子さんは布巾で皿の高台を拭きながら、悪戯っぽく微笑んだ。
「実は私、あの夜、海斗さんから受け取った同じお皿を、三回も拭き直したんですよ。いくら拭いても、全然水気が乾かないような気がしてしまって」
俺は蛇口をキュッと締め、最後の白い皿を彼女の手へ手渡した。 あの夏の夜、帰ってしまうのが惜しくて同じ皿を洗い続けた俺と、同じ皿を拭き続けた彼女が、今は同じひとつの天井の下で、肩を並べて笑い合っている。 霧子さんは皿の縁を丁寧に拭き上げると、俺の隣で少しだけ背伸びをして、吊り戸棚の特等席へと静かに収めた。 そのあと、玄関で来客用のスリッパを探す人は、もうこの家に誰もいない。
明美ちゃんがキッチンへ、あの青いフタの保存容器を持ってやってきた。 鍋に残った一人前のカレーを移し、日菜子がパチンと四隅の留め具を閉める。 どちらのマンションへ持って帰るかを相談する必要は、もう二度とない。 大きなファミリー用冷蔵庫の二段目の真ん中に、きっちりとそのタッパーひとつ分の指定席が空けられていた。
「明日の朝、この残ったカレーをトーストに乗せて焼きたい人ー?」
俺が声をかけると、キッチンの三人が揃って元気に右手を挙げた。
「じゃあ、ルーが足りなくなったらどうする?」 「四人で少しずつ、食パンの真ん中に薄く塗って分けるの!」
日菜子が笑って答え、冷凍室の引き出しを開けて、明日の朝のための食パンを四枚、机の上に並べた。
戸締まりを点検し、キッチンの手元灯をパチンと落とした。 広いリビングには、食後のお茶をゆっくりと飲むための、柔らかな間接照明の明るさが静かに残っていた。 四人掛けの新しいダイニングテーブルに、俺の座る場所が、一人分、しっかりとそこにあった。
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