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俺が本気で愛されているわけがない 〜四人分の食卓と、十年越しの恋〜  作者: バカヤロウ


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第20章 四つの鍵と、三つの部屋


 引っ越しの前夜、午前零時を回った頃。  がらんとし始めた六畳間の畳の上で、俺は黄色い羽が一枚だけ千切れ残った、色あせた紙の風車を指先でつまみ、開いた段ボール箱の前で十五分間も腕組みをして唸り込んでいた。


「お父さん。それ、私のじゃないよ」 「えっ」


 背後から忍び足で近づいてきたパジャマ姿の日菜子が、俺の手元を上からのぞき込んで、あっさりと宣告した。


「幼稚園の年長さんの時、明美が工作の時間に作ってくれたやつ。私のは全体がレモン色だったもん。そっちは何年も前の大掃除の時、お父さんが『羽が破れて回らないから』ってゴミ箱に捨てたの」 「待ってくれ。じゃあ俺はそれ以来、うちの娘が作った大切な思い出の品だと思い込んで、この風車を十年間も押し入れの奥に大事にしまっていたのか?」 「うん。まあでも、明日からはどっちの持ち物でも同じひとつの家の中に並ぶんだから、結果オーライじゃん」


 結果的にはそうかもしれないが、俺はどうやら人生の何種類もの大切な思い出を、長年にわたって都合よく取り違えて記憶してきたらしかった。  自分の記憶力に急激に自信を失い、畳の上に転がっていた、折り紙で作った茶色いキツネを恐る恐る指差してみる。


「……じゃあ、日菜子。このキツネは? お前が小学校の図工で折ったやつだよな?」 「それもお父さんの勘違い。お父さんが昔、会社の歓送迎会で先輩から覚えて帰ってきた、紙ナプキンの飾り折りでしょ。あまりにも上手に立ってたから、幼かった私が取っておきたいって言って勉強机の引き出しにしまったの」 「……」 「この調子でいちいち全部確認してたら、明日の朝の搬出作業までに絶対に寝られないよ」


 日菜子は呆れたように苦笑いし、膝を折ってしゃがみ込むと、太い黒の油性マジックを取り出した。  畳の上に置かれた段ボールの側面に、大きな文字で『座卓の下の雑品』と書き込み、その四角い文字の両脇に、丸い耳と細長いしっぽをキュキュッと描き足した。


「ほら、これでこの箱は子ネズミの箱。明日からはこのネズミが、お父さんの取り違えた思い出のすべてを運んでくれます」 「ずいぶん可愛い引受人が現れたもんだな」 「自分史の無制限な持ち込みは、新居の規約で禁止されていますからね」


 子ネズミになった段ボールは、左の脚が抜けかけてガタついている古い座卓と同じトラックに乗ることになっていた。  新居のリビングに置く新しいダイニングテーブルは、すでに先月、四人で家具屋を巡って選び、少しずつお金を出し合って購入してある。  それでも、この古い座卓の脚の隙間に挟み込むのは、去年の分厚い電話帳が一番しっくりくると、俺は今でも密かに思っていた。


 荷物を詰め終えた箱を部屋の隅へ積み上げていくたび、十四年間敷きっぱなしだった畳の素肌が、四角く青白い月明かりの下に現れた。  掃き出し窓のすぐ手前の板の間に、直径二センチほどの浅い丸いへこみがあった。  十年前、日菜子が小学校に上がったばかりの頃、俺の五キロの鉄アレイを両手で持ち上げようとして、床にゴトンと落とした傷跡だ。  当時の俺は、三十代を前にして体力づくりをしようと思い立ち、通信販売でダンベルを買ったものの、わずか二日で挫折して放置していた。結果として、その重たい鉄の塊を床から持ち上げて筋力トレーニングに励んだのは、好奇心旺盛な幼い娘だけだったのだ。  傷跡については、先週アパートの管理会社の退去立ち会い確認で申告してあった。管理人は「古い部屋ですから敷金の範囲で大丈夫ですよ」と笑ってくれたが、床の窪みを見つめていると、十四年分の暮らしの重みがそこにだけ、ぽつんと沈殿しているように思えた。


「お父さん、その鉄アレイ、まだ押し入れの天袋にある?」 「ないよ。五年前に粗大ゴミで捨てた。体力づくりの高潔な志だけは、今でも俺の胸の中に残っているがな」 「じゃあ、その志も子ネズミの箱にぎゅうぎゅうに詰めといて」


 俺は黄色い紙の風車を、子ネズミの箱の隙間にそっと滑り込ませた。  日菜子は畳の上の紙ナプキンのキツネを指先でそっと拾い上げ、埃を息で吹き払うと、明日背負っていく通学用デイパックの一番前のポケットへと、大切そうに移し替えた。


     *


 翌朝、午前八時。  春の淡い光が差し込む細い路地の入り口に、二台の小さな二トントラックがぴったりと縦列で停車した。  青い車体のトラックが大宮家、白い車体のトラックが白石家の荷物を積み込む分だ。大型車が進入できない住宅街の狭い道で、二軒分の家財を一度に運ぶために、業者の配車担当が工夫して手配してくれたフォーメーションだった。


 昔の俺だったら、作業員の手を煩わせまいと、我先にと腕まくりをして冷蔵庫の端っこを一緒に担ごうとしただろう。  けれど今朝の俺は、台車が行き交う動線を塞がないよう静かに壁際へ身を寄せ、運び出された冷蔵庫の下の床から転がり出てきた、カピカピに化石化した小さな消しゴムと、茶色く硬化した輪ゴム一本をチリトリで拾い上げていた。  そこへ、隣の棟の階段を駆け下りてきた明美ちゃんが、首から提げたカメラのレンズを向け、スマートフォンのライトでその輪ゴムを照らし出した。


「明美ちゃん、そんなゴミまでカメラに収めるのかい?」 「はい! こういうの、今日を逃したら二度と見られない貴重な文化遺産ですよ。人んちの冷蔵庫の底の暗闇を、十数年間も誰にも見つからずに生き延びてきた奇跡の輪ゴムです」 「別に本人の意思でサバイバルを生き延びたわけじゃないと思うがな」 「さようなら、名もなき輪ゴムと、消しゴムの化石。長い間お疲れさまでした」


 明美ちゃんがシャッターを切り、俺と二人でゴミ袋の口をキュッと縛った。  新しい部屋へ連れていくものと、写真の中だけに閉じ込めて手放していくものが、人によってそれぞれ違うというのは、なんだかとても風通しが良くていい具合だと思った。


 路地の向かい側を見上げると、隣のマンションの二階のベランダで、霧子さんが最後の窓拭きをしていた。  ガラス戸を開け、白い雑巾を持った細い手が一度だけパタパタと外へ振られ、目が合うと小さく会釈をして、すぐに奥の部屋へと引っ込んだ。


 そこへ、近所に住む民生委員の佐藤さんが、新聞紙で丁寧に包んだ小さな植木鉢を両手で抱えてやってきた。


「大宮さん、引っ越しの日に荷物を増やしてどうするんだって、うちの息子には散々小言を言われたんだけどねえ。邪魔だったら置いていってくれていいから」 「これ……佐藤さんの家の玄関の脇に並んでいたやつですか?」 「そうだよ。親株の大きい鉢はうちに残すから、株分けした小さいのを一鉢だけ、新しいお家のベランダにどうだいと思ってね」


 新聞紙の隙間から、青々とした細い針のような葉が顔を覗かせていた。ローズマリーだった。  日菜子がまだ俺の小指をしっかり握りしめていなければスーパーへ辿り着けなかった幼稚園の頃、夕方の帰り道に佐藤さんの家の生垣のローズマリーにちょんと触れては、「お父さん、いい匂い!」とその小さな手のひらを俺の鼻先に押し付けてきたものだ。何度嗅いでも、香ばしいローストチキンの匂いがした。


「佐藤さん、これ、もらっていい!?」


 俺が返答するよりも早く、階段から降りてきた日菜子が声を上げ、新聞紙の鉢植えを抱きかかえるようにして受け取った。  新居までは、ここから歩いても十分足らずの距離だ。明日からも同じ通学路を歩き、佐藤さんの家の前を通って高校へ通えるのだと頭では分かっていても、日菜子は柔らかい緑の枝先を折らないよう、両手のひらでそっと風を遮って守った。


 午前十一時半、すべての荷物を積み終えた二台のトラックが、ゆっくりと路地を抜けていった。  畳の匂いと、長年染み付いた料理の油の匂いだけが微かに残る、完全に空っぽになった六畳間。  俺は居間の真ん中に立ち、玄関のタタキから掃き出し窓までの距離を見つめた。  家具がすべて消え去ると、こんなにも狭い部屋だったのかと、胸を突かれるような思いがした。  十四年前の夏、妻が出て行ったあと、二歳の日菜子を抱えてこのアパートへ越してきた日。  引っ越しの段ボールが積み上がったこの部屋で、娘はタタキから窓までのわずか数歩の距離を、俺の手を離してよちよちと誇らしげに歩いてみせた。  会社から持ち帰った荷物を一緒に引きずり、敷居の段差に足を取られて派手に転び、二人で顔を見合わせて大笑いした。  この部屋の畳が、最初はこんなにも青々とした鮮やかな緑色をしていたことを、俺はあの日以来、すっかり忘れてしまっていた。


「……はい、お父さん。靴」


 日菜子が玄関のタタキに立ち、俺の脱ぎ捨ててあったスニーカーのつま先を、外へ向けて綺麗に揃えてくれた。  俺たちは靴を履き、鍵を閉める前に、ガランとした部屋に向かって並んで立った。  どちらから声をかけたわけでもなく、自然と深く頭が下がった。  十四年間、雨風をしのぎ、二つの命を温め続けてくれた古い部屋への、最初で最後の礼だった。


 カチャリと金属の鍵を回し、自転車の前カゴにローズマリーの鉢植えを固定した。  俺がハンドルを握り、日菜子が荷台を軽く手で支えながら、二人で並んで新しいマンションへと歩き出した。  春の初めの生ぬるい風が、二人の頬を優しく撫でて通り過ぎていく。  この日の風の温もりを、俺はきっと、これから先も長く覚えているだろうと思った。


     *


 新しいマンションの部屋は、南向きの広いリビング・ダイニングを中心に、東向きの洋室と、西向きの洋室、そしてリビングの隣に引き戸で仕切られたもう一つの洋室が並ぶ、ゆったりとした3LDKだった。  事前の家族会議の希望通り、早起きの明美ちゃんが朝日を浴びる東の部屋、放課後に長く光が残る西の部屋を日菜子が勝ち取った。  俺と霧子さんは、リビングの隣の部屋を夫婦の寝室に充てることになった。朝起きてカーテンを開け、深呼吸をするためには、必ず全員が顔を合わせるダイニングを通らなければならない間取りだ。


 真新しい木製の玄関ドアの前に、四人で並んで立った。  鍵は全部で四本ある。  先週の日曜日の夜、日菜子と明美ちゃんが我が家のちゃぶ台で、革細工用の端切れを使って手作りしてくれた、四色のキーホルダーがついていた。  俺の鍵には使い込まれた風合いの茶色の革、日菜子には鮮やかなレモン色の革、明美ちゃんには深い藍色の革、そして霧子さんには柔らかなオリーブグリーンの革。  これまで二つの住まいで、別々の鍵束をジャラジャラと鳴らして暮らしてきた四人が、ひとつのドアを開けるための印だった。


「お母さん、一番手、どうぞ!」


 明美ちゃんに促され、霧子さんが少し緊張した面持ちで、オリーブ色の鍵を銀色のシリンダーへと差し込んだ。  カチャリと軽快な音が響き、ドアノブが回る。  次に明美ちゃんが「私もやってみたい!」と、わざわざドアを一度閉め直し、自分の藍色の鍵を差し込んでガチャリと開けた。  日菜子も負けじと黄色い鍵を試し、最後に俺が茶色の鍵で開け直すまで、廊下に荷物を積み上げた引っ越し業者のスタッフたちは、ニコニコと苦笑いしながら作業を待たされる羽目になった。


「いやあ、お父さん、分かりますよ。うちの娘もね、中学生になって初めて家の鍵を持たせた日、まったく同じことをやりました。嬉しくて鍵を差したまんま部屋に入っちゃって、抜くのを忘れちゃうんですよね」 「……経験者の方ですか」 「ええ。ただ、うちの場合は子どもより先に、浮かれた俺自身が鍵を差しっぱなしにして出勤しちゃいましたけどね!」


 気さくで声の大きいリーダーの指示で荷ほどきが始まると、作業は驚くべきスピードで進んでいった。  あのアパートの外階段で問題になっていた祖父の木製タンスは、リーダーの絶妙な掛け声のもと、新居の廊下の角をミリ単位の余裕を残して鮮やかにすり抜け、寝室の壁際へとピタリと収まった。  俺が思わずパチパチと拍手を送ると、若い作業員二人がタオルで額の汗を拭い、照れくさそうに白い歯を見せて笑った。


 日菜子はさっそく自分の部屋へこもり、スマートフォンの充電ケーブルを壁のコンセントに繋いでベッドの配置を悩み始め、明美ちゃんはまだピカピカに白い壁に傷をつけないよう、画鋲を使わないポスター掲示用のテープを慎重に吟味していた。  俺は子ネズミの段ボール箱から、写真立てに入れた何枚かの写真を取り出した。  去年の夏祭りの夜、コンビニのコピー機でプリントした、あの提灯の下の四人の写真だ。


「明美ちゃん、日菜子。この写真、リビングと廊下、どっちの壁に飾るのがいいかな?」 「みんなが毎朝出かける時に見たいから、絶対にリビングがいい!」と日菜子が部屋から顔を出した。 「でも、私が撮った写真ばかりリビングに並べたら、私の個展みたいになっちゃうよ」と明美ちゃんが控えめに笑う。 「いいじゃん、白石明美の常設ギャラリーってことで。じゃあ、夏祭りの写真の隣には、文化祭のあの青い鳥の写真を並べようよ」 「あの鳥、私が提出した写真の中で唯一、ピントが甘くてボケちゃってるやつなんだけど……」 「いいの! あれは迷子になったお父さんを救出した、名誉ある案内役の記念写真なんだから!」


 文化祭の廊下を二周さまよった俺の迷子事件は、どうやらこの新居でも、家族の定番の語り草として永久保存されるらしかった。


 部屋に入るときは必ず二回ノックをし、中からの返事を聞いてからドアノブに手をかけること。  そして、洗面所のドアノブには、日菜子が美術室の端材で作ってくれた小さな木札が掛けられた。  表には、日菜子の丸文字で白く『どうぞ』と彫り込まれ、裏には『あとちょっと』と書かれている。  その『あとちょっと』が、明美ちゃんのコンタクトの苦戦によって一体何分間続くのかは誰にも予測できなかったが、全員が「実態に即した素晴らしいルールだ」と笑って認めた。


 夕方六時を過ぎ、外の街並みが群青色の夕闇に包まれる頃。  東向きの部屋から明美ちゃんが靴下のまま音もなく出てきて、玄関のタタキに降り立ち、自分の藍色の鍵を取り出して、内側から鍵穴のないドアノブをカチャカチャと回そうとした。  自分の奇妙な行動にハッと気づき、耳まで真っ赤にして居間へ戻ってくる。


「……明美ちゃん、外へ出たかったのかい?」 「あ、いえ……部屋で荷物の整理をしていたら、急に自分がどこにいるのか分からなくなっちゃって……一回、外からちゃんと鍵を開けて、この家に入り直したくなっただけです」


 俺は何も言わず、タタキに彼女のスニーカーを出して並べてやった。  明美ちゃんは靴を履き、ドアを開けてマンションの共用廊下へ一度出て、十秒後に自分の藍色の鍵を回してドアを開けた。


「……ただいま」


 少しだけ震える、けれど澄んだ声だった。  すると、キッチンの奥から霧子さんの「お帰りなさい」、西の部屋の奥から日菜子の「お帰りー!」、そして玄関の目の前に立つ俺の「お帰り、明美ちゃん」という声が、まったく別の場所から重なって響いた。  明美ちゃんは靴を脱ぐ前、床に落ちた自分の影を見つめながら、ふっと胸をなでおろすように嬉しそうに笑った。


 新しいダイニングテーブルの配送は来週になるため、初日の夕食は、リビングのフローリングの上に段ボール箱を二つ並べ、その上にスーパーで買ってきたお弁当を広げて食べた。  トラックの揺れで偏ったのか、日菜子のシャケ弁当の切り身が、白米の上の隅っこへ大移動していた。  霧子さんはプラスチックのフタの裏にへばりついた刻み海苔を、割り箸の先で器用に剥がし取ろうとして途中で千切れて失敗し、「これは家族全員が、新生活の初日に肝に銘じるべき反省点ですね」と、大真面目な顔をして呟いた。  天井の丸いシーリングライトは、俺が古いアパートから外して持ってきた使い古しの照明だった。  それなのに、四人の頭上から注ぎ落とされる光の色は、昨夜までの一人きりの部屋の電球とはまるで違う、どこまでも柔らかく温かな光の粒に見えた。


 給湯器の自動お湯張りのメロディーが鳴り響く間、娘たち二人はそれぞれの部屋へ戻り、再び荷ほどきを始めた。  壁の向こうから、参考書を本棚にドサリと立てかける音や、パイプ椅子の脚が床をきしませる音が、心地よい生活の不規則なリズムを奏でている。  霧子さんがすっと立ち上がり、玄関の方へと歩いていったので、俺は自然と視線でその背中を追った。  彼女はクローゼットから二本の木製ハンガーを取り出して戻ってくると、俺の仕事用のスーツの上着と、自分のスプリングコートを、ひとつのパイプにぴったりと肩を並べて掛けた。


「海斗さん。……今、何時か見ました?」 「えっ」 「海斗さん。十年前からずっと、私が夕食のあとに玄関の方へ立ち上がると、必ず壁の時計を見上げるんです」


 新しいリビングの白い壁には、まだ掛け時計を取り付けていなかった。  それなのに俺は、古いアパートで時計が掛かっていたのとまったく同じ高さの、何もない白い壁紙を、無意識のうちに見上げてしまっていたのだ。


「……全然、気づかなかった」 「前は、私もその視線を見ていましたよ。『そろそろ帰らなきゃいけませんね』って私が言うと、海斗さんはいつも、少し寂しそうな顔をしながら『もうそんな時間ですね』って、すぐに玄関を開けて見送ってくださったでしょう?」 「……引き止めると、霧子さんの負担になるんじゃないかと思ってたんだ」 「十年分の、すれ違いの心当たりはありますか?」 「今日から、一日一分ずつ、ゆっくり思い出して償っていきますよ」 「ふふ、たっぷり時間がかかりそうですね」


 霧子さんは新しい冷蔵庫の側面に、マグネットで白いメモ用紙を貼り付けた。  翌朝の買い出しメモだ。〈食パン・卵・低脂肪乳・納豆〉。  四人の好みの銘柄は、もう頭の中に全部入っていた。  いつもメモの端っこに小さく書いていた『大宮家・白石家』という二つの家の印だけ、ボールペンの二重線で静かに塗りつぶした。


 その夜、すべての明かりを消し、布団に入ったあと。  玄関のタタキの方から、カシャン、と小さな金属の触れ合う澄んだ音が響いた。  キーフックに掛けられた四つの鍵が、夜風の微かな隙間風で揺れて触れ合った音だった。  反射的に「お帰り」と暗闇に向かって呟きそうになり、けれど、夜の街へ出て行った人間は誰一人としていないことに気づいて、俺はそっとまぶたを閉じた。


 もう、誰も暗い夜道を歩いて帰らなくていい。  ここが、全員がただいまを言って眠りにつく場所なのだ。  俺は首元まで毛布を引き上げ、すぐ隣の敷き布団から聞こえてくる、霧子さんの穏やかで温かな寝息に耳を澄ませた。


お読みいただきありがとうございました。

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