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俺が本気で愛されているわけがない 〜四人分の食卓と、十年越しの恋〜  作者: バカヤロウ


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第19章 大丈夫と言わなかった日


 新しい年が明けて、正月に四人で母・裕子の実家で食べたお汁粉には、なぜか餅が三種類も入っていた。  母が前もって角餅を買っておいたところへ、近所のお寺から丸餅をお裾分けされ、そこへ明美ちゃんが手土産として白玉粉を練って持ってきたのである。  大きな土鍋の中に小豆の汁をすくう隙間がまったく見当たらない、めでたい味のする「餅の煮っころがし」だった。


 実家から持ち帰った角餅の袋の裏に、母が油性マジックで殴り書きした賞味期限を、俺はアパートへ戻ってから一月の壁掛けカレンダーに赤ペンで書き写した。  今の我が家のカレンダーには、四人全員に関係する共通の予定だけが、赤い四角の枠で囲まれている。  去年の十月、家族会議を開いた頃には何を書けばいいかあれほど迷っていた真っ白な紙面が、年が明けた途端、早くも賑やかな赤い四角で埋め尽くされようとしていた。


 一月の後半、寒波の吹き荒れる水曜日の午後四時五十分に、引っ越し業者の営業担当者が訪問見積もりにやってくることになっていた。  まず隣のマンションの白石家の部屋を見てもらい、そのまま路地を渡って、我が家のアパートの家具や家電も合算して数えてもらう手筈だった。  霧子さんはその水曜日だけ会社のフレックスを使って早退し、俺も午後四時には確実にオフィスを出られるよう、前週から入念に仕事の段取りを組んでいた。


 我が家には、どうしてもプロの目で見てもらわなければならない大物家具があった。  亡くなった祖父の代から受け継いだ、大きな木製の洋服だんすだ。  中の引き出しをすべて抜き取れば、うちの狭くて急な外階段の踊り場をギリギリで曲がることができる。運べば新居でも衣装部屋で使えるが、もし新居の廊下を通らなければ解体費用が発生する。写真の寸法だけでは正確な判断がつかないため、どうしても当日の立ち会いが必要だったのだ。  その日、俺が大人二人分の特別な働きをする必要など何ひとつなかった。ただ午後四時に会社を出て、玄関の鍵を開け、業者さんに「このタンスです」と指差すだけで、それで終わるはずだったのだ。


 それなのに——その水曜日に限って、午後三時四十分を過ぎた頃、古くからの大手取引先の総務部長から俺宛てに直接、至急の問い合わせ電話が入ってしまった。  先方の担当者がインフルエンザで急に一週間の休みに入り、引き継ぎのないまま監査が入ったため、過去三期分のオフィス家具の納品伝票の照合番号が分からないのだという。  相手も焦っていて、自分が一体何番の書類を探しているのかすら要領を得ない。  俺は、地下の書類倉庫へ行って紙の過去台帳をひっくり返せば、二十分もあれば見つかるだろうと高を括っていた。


 三時四十分の時点では、あと二十分で片付くと思っていた。  四時ちょうどになった時、あと十分あれば解決するはずだと信じていた。  四時十分、倉庫から戻ってきた俺を見て、向かいの席の宮田さんがデスクの飴を舐めながら声をかけてくれた。


「大宮、その案件、俺が定時まで残って引き継ごうか? お前、今日用事あるんだろ」 「すみません、大丈夫です! あと一本だけ先方に確認の電話を入れて番号を伝えれば、確実に終わりますから!」


 大丈夫ではなかった。終わらなかった。


 俺が観念して、ポケットからスマートフォンを引っ張り出して霧子さんにメッセージを送ったのは、約束の時間のわずか三分前——午後四時四十七分のことだった。  オフィスを飛び出して駅まで全力疾走したところで、もう逆立ちしても間に合わない時刻だった。


『本当にごめんなさい。急なトラブルで、今から出ても着くのが五時半近くになってしまいます。そちらのお部屋の見積もりを先に進めていてください』


 送信して数分後、彼女から短い返信が届いた。 『分かりました。大丈夫です』


 俺は受話器を握りしめ、最後の照合番号を先方の部長へ読み上げ、平謝りして通話を終え、宮田さんに片手を挙げてオフィスを飛び出した。  息を乱し、冬の冷たい夜風で肺を痛めながらアパートの路地へ駆け戻った時には、もう午後五時三十五分を回っていた。  隣のマンションの白石家の玄関前には、引っ越し業者のトラックも、担当者の姿も、どこにもなかった。


 チャイムを鳴らし、開いたドアの奥へ恐る恐る声をかける。


「……霧子さん。すみません、業者さん、待ってもらえませんでしたか……?」 「ええ。このあと五時半から次のお客さんの予約が入っていたそうで。……今日は先に、うちの部屋の荷物だけ見積もりを済ませてもらいました」


 玄関に出てきた霧子さんは、膝をついて、洗面所の入り口で風呂場の足拭きマットを冷たい水で手洗いしているところだった。  洗面台の横の洗濯カゴの上には、泥で汚れた明美ちゃんの白いスクールソックスが一足、丸めて置かれていた。  業者さんが靴を脱ぎ履きして土足で上がった廊下を、学校から帰ってきた明美ちゃんが知らずにそのまま歩いてしまったらしい。


「本当に……俺のせいで二度手間にさせてしまって、申し訳ありません。今からでも、俺が引っ越し屋さんの営業所に電話して、土下座でも何でもして頭を下げてきます!」 「もう、私が電話しましたよ」


 霧子さんは蛇口の水を止めずに、濡れたマットをゴシゴシと擦りながら言った。


「大宮さんのお宅の分は、今週の土曜日の午前中に、改めて別の担当の方が来てくださることになりましたから」 「じゃあ……今からでも、俺がタンスの縦横と階段の幅をメジャーで正確に測って、写真と一緒に営業所へメールで送れば、土曜日にわざわざ来てもらわなくても——」 「海斗さん」


 キュッ、と蛇口のレバーが強く押し下げられた。  水の流れる音がピタリと止まり、狭い洗面所と廊下に、凍りつくような沈黙が落ちた。  霧子さんは立ち上がることなく、濡れた手袋のまま、背中を向けた姿勢で静かに言った。


「今日の夕ご飯、お互いのお家で、別々にしませんか」


 その静かで抑えられた声を聞いた瞬間、俺の足元のアスファルトが崩れ落ちたような衝撃が走った。  今ここで「分かりました」と引き下がって自分の部屋へ帰ったら、彼女は二度と俺をこの家に入れてくれないのではないか。  仕事で他人に遅刻を怒られたことなど、今までの人生で数え切れないほどある。  けれど、霧子さんのこの淡々とした拒絶の言葉だけが、暗闇の中で足元の階段がごっそり一段消え去ったような、息もできないほどの痛みを伴って胸を刺し貫いた。


 俺は今すぐ、あの重いタンスを一人で担ぎ出してでも何とか証明したかった。  白石家の流し台に溜まった食器を全部洗い、今夜の夕飯を作り、明日の娘たちの弁当まで全部仕込んで、それでこの遅刻の穴埋めができるなら、夜中の何時まででも働けると思った。  けれど——他人の家の廊下の隅に立ち尽くし、彼女が冷たい水で洗い直したばかりの足拭きマットを、自分の汚れた靴下で踏みつけそうになっている今の自分の姿は、あまりにもみっともなく、間が抜けていた。


「……分かりました。本当に、ごめんなさい。また、明日電話します」 「はい。おやすみなさい」


 冷たい風が吹き抜ける外の渡り廊下を渡り、自分の部屋のドアを開けた。  日菜子はまだ部活の居残り練習で帰っておらず、電気の消えた薄暗い六畳間には、もちろん誰もいなかった。  俺は左腕から腕時計を外し、ちゃぶ台の上に置いた。  カチ、カチ、と秒針の刻む音が、やけに鼓膜に響いた。この時計、普段からこんなにも耳障りな音を立てていたのか。


 落ち着かない手つきで冷蔵庫を開け、昨日作っておいた黒豆の小鉢を取り出した。  レンジで温めてスプーンで口へ運ぶと、舌が痺れるほど甘かった。昨日、自分で砂糖を入れて味付けしたはずなのに、正月に母の実家で食べたあの餅だらけのお汁粉の方が、まだよっぽど塩気を感じるほどだった。


「うわ、何これ甘っ! お父さん、節分の豆まき用のお菓子でも作ろうとしたの?」


 七時過ぎに帰ってきた日菜子も、一粒つまんでまったく同じ反応をした。  俺は、今日の夕方の約束に間に合わなかったことだけを、短く淡々と報告した。  日菜子は深く突っ込むこともせず、コップの水を一杯飲むと、綿入れの半纏を羽織って自分の部屋の勉強机へと向かった。  父親がどんなみっともない失敗をし、どんな顔で隣の家から追い出されてきたかという情けない愚痴で、娘の平穏な夜まで埋め尽くさずに済んだことだけが、唯一の救いだった。


     *


 翌日の木曜日の昼休み。  俺は弁当箱を持たず、オフィスの非常階段の踊り場へと出た。  吹きさらしの鉄の階段に腰を下ろすと、冷たい冬のビル風がネクタイの端を揺らした。隣の雑居ビルの看板の文字が、逆さまの影になって手すりに落ちている。  スマートフォンの通話ボタンを押し、呼び出し音を三回待った。


『もしもし、海斗さん』 「あ、霧子さん。……昨日のこと、ちゃんとお話ししたいです。俺が遅刻して、何に一番困らせてしまいましたか?」


 昨夜から布団の中で何度も推敲したはずの言葉だったのに、いざ声に出してみると、まるで企業の事故対応マニュアルを読み上げるような、無機質で硬い口調になってしまった。  電話の向こうで、陶器のマグカップがカチャリと机に置かれる音がした。


『海斗さん。昨日の夕方、四時より前の段階で……自分が約束の時間に遅れそうだということは、分かっていましたか?』 「……はい。三時四十分には、雲行きが怪しいと分かっていました。でも、自分が急いで走れば、なんとか五時前には間に合わせられるんじゃないかと思ってしまって」 『……やっぱり、そうだったんですね』


 受話器の向こうが、しばらく沈黙に包まれた。  オフィスの給湯ポットの、お湯が沸騰してシュンシュンと蒸気を吐き出す微かな音だけが聞こえてくる。


『私ね……昨日の夕方、引っ越し屋さんの見積もりが終わったあと、明美に付き合ってもらって、駅前の眼鏡屋さんへ老眼鏡を選びに行く約束をしていたんです』 「……えっ、眼鏡?」 『最近、夕方になると会社のパソコンの細かい数字がかすんでしまって、目がすごく疲れるようになってしまって。駅前の店が夜六時閉店だったので、五時過ぎに出ればギリギリ間に合う計算だったんです。もし海斗さんが四時前に「今日は遅れそうだから、お宅の分だけ先に済ませて出かけていいよ」って一言連絡をくれていたら……うちは四時半に見積もりを終えて、明美と二人でゆっくり店へ向かえたんです。私……明美に、新しいフレームが似合うかどうか見てほしいって、もう三週間も前からお願いしていたんですよ』


 後頭部を鈍器で殴られたような衝撃だった。  俺が会社の地下倉庫で埃まみれの台帳をめくっていたあの四十七分間は、隣で待っていた霧子さんと明美ちゃんの暮らしの側からも、勝手に奪い取って踏みにじった四十七分間だったのだ。  他人の時間への想像力が、完全に欠落していた。眼鏡屋のことなんて何も知らなかった、などと言い訳したところで、何の免罪符にもならない。


「……本当に、悪かった。俺が自分の勝手な見通しだけで、そっちの二人の時間まで勝手に使ってしまった。間に合わないかもしれないと思った最初の時点で、すぐに連絡を入れるべきでした」 『はい。……それとね、昨日の夕方、私がメッセージで「大丈夫です」って返信したこと。あれは、私が悪かったです』 「えっ? どうして霧子さんが……」 『あの時は、うちの部屋の見積もりは一人でも対応できるから大丈夫、っていう事務的な意味で送ったんです。でもそのあと、玄関で業者さんを見送って、廊下の雑巾掛けをしているうちに……私が夕方の予定を潰して待っていてがっかりしたっていう、一番伝えなきゃいけない本当の気持ちまで、あの「大丈夫」の一言で全部なかったことにされたような気がして……どんどん自分一人で腹が立ってきてしまったの。自分で大丈夫って言っておきながら、あとから相手を拒絶するなんて、大人として本当にズルくて嫌な態度だったわね』


 冷たい非常階段の下から、郵便配達の赤いバイクのアイドリング音が上がってきた。


「じゃあ……今度から、手続きは大丈夫だけど俺に腹が立っている時は、正直にそう書いてもらえると助かります」 『メッセージの末尾に、真っ赤な怒りの鬼の絵文字を一個つけて?』 「ええ。鬼の絵文字なら、五個までは黙って受け止めます。もし六個以上つく時は、直接お電話で怒鳴ってください」 『ふふ……昨日の夕方は、鬼が三個くらいだったかしら』 「思ったより少なくてホッとしましたよ」 『だって、本当に六個もつけて、お仕事中のあなたに電話までかけさせたくありませんでしたから』


 受話器越しに二人で小さく笑い合ったからといって、昨日消え去った眼鏡屋の時間が巻き戻るわけではない。  霧子さんは、眼鏡屋の予約は今週の土曜日の午後に取り直したと教えてくれた。土曜の午前の我が家のタンスの見積もりは、俺一人で対応すれば済む話だ。俺が罪滅ぼしのように、彼女たちの買い物の時間にノコノコとついていく理由はどこにもなかった。


『ねえ、海斗さん。昨日、私が洗面所で「夕ご飯は別にしよう」って言った時……あなた、ものすごく怖い顔をしていましたよ』 「……うん。ごめん。ちょっと昔の、離婚した時の朝のことを思い出してしまって」 『私……あなたに言っちゃいけない言葉をぶつけてしまったのかしら』 「いや、そうじゃないんだ。ただあの時、俺が何か役に立つ埋め合わせをしないと、もう二度とあの家に入れてもらえないんじゃないかって、頭が真っ白になってパニックになっちゃって。霧子さんに対してそんな被害妄想を抱くなんて、失礼でおかしいんだけどさ」 『海斗さん。……会社のお仕事での失敗も、そういう昔の心の傷も、ご自分一人で完璧に治療してから私のところへ来なくていいんですよ』


 遠くの工場のサイレンが、午後一時の始業を告げた。もう昼休みの時間は終わりだ。


『最後に、私からもひとつだけ訂正させてくださいね』 「なんですか?」 『昨日の夕方、私が本当に言いたかった言葉はね……「今日は腹が立っているから、夕ご飯は別々に食べたい。でも、このままあなたが帰ってしまったら、私はすごく寂しい」です。ほら、気持ちが二つ同時にあるでしょう? これを大人の短いひとつの文章にまとめるのって、本当に難しいですね』 「俺だったら、迷わずに一行ずつ、二通に分けて送信しますよ」 『送る順番を絶対に間違えないようにしないと大変ね』 「ええ。一通目を送ったあと、二通目の『寂しい』が届く前に電波が圏外にでもなったら、それこそ取り返しのつかない大事故ですからね」


 無理な用事や埋め合わせの約束をひとつも交わさずに、俺たちはそこで静かに通話を切った。  スマートフォンを耳から離すと、冬の冷たい風が頬を撫でた。  けれど、非常階段を駆け降りてオフィスへ戻る俺の足取りは、昨日の夕方よりもずっと、しっかりと地面を踏みしめていた。


     *


 土曜日の午前十時。  我が家の木製の洋服だんすは、無事にアパートの外階段の踊り場を曲がることができた。  やってきたベテランの作業員さんが「これなら引き出しを外せば、当日のうちのスタッフ二人で問題なく降ろせますよ!」と太鼓判を押してくれたのだ。  俺は昨日のうちに月曜の仕事の段取りを如月さんや宮田さんと共有してあり、会社からの急な呼び出しもなかった。見積もりのお礼を言ってトラックを見送った時、居間の柱時計はまだ午前十時半を回ったばかりだった。


 それから俺は、一人で台所に立ち、ステンレスの大鍋をもう一度磨いた。  誰にも頼まれていないし、今すぐ使う予定もないのに、クレンザーをつけて鍋底がピカピカに光るまで無心で磨いた。  大人だって、自分の手で何かを確実にひとつ修繕できたという、目に見える手応えが欲しい夜はあるのだ。


 その日の夕方、約束通り白石家の食卓に招かれた。  玄関を開けてくれた霧子さんは、少し紫がかった、上品なワインレッドの細いフレームの眼鏡をかけていた。  横から明美ちゃんが「ただの赤じゃなくて、マットワインっていう特別な色なんだよ」と誇らしげに教えてくれた。  食卓の上で、買ってきた食パンのパッケージの裏にある極小の原材料表示を、霧子さんは新しい眼鏡越しにスラスラと声に出して読んだ。  これまで我が家の台所で、彼女がいかに目を細めて賞味期限やアレルギー表示を読んでいたか、俺はその時になって初めて知ったのだった。


「霧子さん。その眼鏡、すごく似合っていますよ」 「やだ、海斗さん。そういうお世辞を簡単に言うようになりましたね」 「もっと難しく、文学的に表現した方がいいですか?」 「いえ、その程度で十分です。……もう一回、言ってくださいますか?」 「すごく似合ってます」


 向かい側に座っていた明美ちゃんが、真顔のまま、手元の食パンを真っ二つに引き裂いた。  大人のやり取りに照れ隠しをしているのかもしれなかったし、単にお腹が空いていただけかもしれなかった。


 夕食を終えたあと、俺と霧子さんはテーブルの上にノートを広げ、三月の引っ越しまでに片付けるべきToDoリストを書き出した。  俺は二つのアパートとマンションの電気・ガスの停止手続きを担当する。  霧子さんは新しい眼鏡をかけ、新居の部屋の図面に置く家具の寸法を鉛筆で書き込んでいく。  明美ちゃんは自分の写真用機材と暗室道具の段ボール箱の数だけを正確に自己申告し、日菜子は、引っ越しの混乱で勝手に捨てられたくない自分の思い出の箱を、当日自分の手で見張る係を引き受けた。


「海斗さん。今夜のお皿洗い、お願いしてもいいかしら。まだ新しい眼鏡の度数に目が慣れなくて、少し視界がふわふわするの」 「もちろん、任せてください。座って休んでいてください」


 霧子さんは眼鏡を外し、テーブルの上で眉間を二本の指先で優しく押さえた。  その人の夕方の疲れた顔を、自分の失敗のせいだと怯えて数えなくていい、穏やかで温かな土曜日の夜だった。


 次の日曜日、我が家の壁掛けカレンダーの真ん中に、何の予定も書き込まれていない真っ白な四角い欄が一日だけあった。  俺はそこに、何か買い出しの予定でも書き足そうとして、ペン先を止めてやめた。  俺が書くのをやめたのを横で見ていた日菜子が、自分の細い黒ペンを奪い取り、小さな字でいたずらっぽく書き込んだ。 〈お父さんが、自分から余計な用事を作らない日〉


 娘に台無しにされたその真っ白な欄は、それから三月の引っ越しの日がやってくるまでずっと、俺が仕事帰りに一番立ち止まって読み返したくなる、大好きな一日だった。


お読みいただきありがとうございました。

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