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俺が本気で愛されているわけがない 〜四人分の食卓と、十年越しの恋〜  作者: バカヤロウ


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第18章 指輪の前に、予定表を


 十一月半ば、日菜子と明美ちゃんが通う都立高校の文化祭の校内見学で、俺は見事に二度目の道に迷っていた。


 一階の保健室の前にある給水機の前に戻ってきた時、腕時計の針はすでに十一時半を回っていた。  隣を歩く霧子さんはといえば、薄情にも俺の三歩後ろで、笑いを噛み殺しながらその様子を楽しそうに眺めている。  古い校舎の廊下の両壁には、あの九月に二人が我が家で悪戦苦闘して切り抜いていた、青い画用紙の小鳥の切り絵がズラリと貼られていた。  そして廊下の突き当たり、理科準備室の扉の横にも、一羽の青い小鳥がペタリと貼られている。


「……霧子さん。もしかして、あの鳥のくちばしが向いている方向が、見学者のための順路矢印なんですか?」 「ええ、そうですよ。私はさっきの一周目の最初からそうだと思っていました」 「分かっていたなら、どうして一周目の段階で教えてくださらなかったんですか」 「だって、海斗さんが二周目の途中まで、本当に楽しそうに校内を冒険されていたものですから」


 確かに、二周目を歩いたおかげで、家庭科部の教室の前で焼きたてのマドレーヌが追加で焼き上がった瞬間に巡り合えたし、階段の踊り場では、お化け屋敷のシフトを終えた血まみれの落ち武者の生徒が、壁にもたれて満足そうに焼きそばパンを頬張る姿を目撃することができた。二周歩いたなりの収穫は確かにあった。


 青い鳥のくちばしの導くまま、二階の視聴覚室へとたどり着くと、受付の長机の前に座っていた日菜子が、俺たちの顔を見るなり自分の腕時計のガラス面をトントンと指先で叩いた。


「お父さんたち、遅い! 校内一周するのに何十分かけてるの?」 「この壁の小鳥のくちばしナビゲーションは、初めて来た保護者のおじさんには難易度が高すぎるぞ」 「最初に一階の昇降口で受付した時、私が手渡しで案内図を渡したじゃん!」


 日菜子に怒られて、俺は上着のポケットから四つ折りにしたままの紙を取り出した。  そこには確かに、壁と同じ青い小鳥のイラストとともに、日菜子の丸文字で〈迷子になったら、この子のくちばしの向く方へついてきてね!〉と大きく書かれていた。  俺は家庭科部で買ってきたマドレーヌの小袋をそっと賄賂のように差し出し、受付係の娘に頭を下げた。


 薄暗い視聴覚室の中央には、黒いスチレンボードで組まれた展示パネルが整然と並んでいた。  写真部の展示コーナーの一角に、あの九月の休日に我が家のちゃぶ台でくり抜いた、黒い台紙の写真が飾られていた。  タバコ屋の店先のパイプ椅子、夕暮れの路地の影、そしてあのはみ出した小松菜の葉っぱ。  作品の正面で、明美ちゃんが同じ写真部の眼鏡をかけた男子生徒と、熱心に意見を交わしていた。


「……うん、やっぱり右側のシャッターの影、もう少し露出を上げてプリントした方が良かったかな」 「いや、俺はこの深い影が残っているからこそ、小松菜の緑と赤いレジ袋の持ち手が引き立って見えると思うよ」


 その真剣な声を聞きつけたのは俺の方が先だったが、展示室の入り口でハッと足を止め、娘の成長を眩しそうに見つめたのは霧子さんの方が先だった。  俺たちは展示の邪魔にならないよう、部屋の隅に置かれたパイプ椅子に並んで腰を下ろした。  開け放たれた窓から吹き込む十一月の少し冷たい秋風に混じって、楽しげに語り合う高校生たちの声が届いてくる。家で俺たちに向かって甘えたり軽口を叩いたりする時の彼女たちとは違う、対等な社会の一員としての二人の輪郭がそこにあった。


「海斗さん。今日のお昼ご飯、どうしましょうか」 「校庭の模擬店で、焼きそばの食券を二枚買ってあるんです。霧子さんの分も」 「ふふ、ありがとうございます。子どもたちは……どうするのかしら」 「さっき日菜子に聞いたら、『私たちはクラスの友達と教室で食べるから、お父さんたちは二人で適当に校庭で食べてて』って、あっさり追い出されましたよ」


 小学校の運動会の頃は、重箱のお弁当の唐揚げの最後の一つまで「お父さん食べていいよ」「お母さんにあげる」と親の顔色を気にしていた娘たちだった。  今日の文化祭で、俺たちは何も展示していないし、何の役職も持っていない。  それなのに、こうして自分たちの足で立つ娘たちの姿を見つめているだけで、親として十分すぎるほどの誇らしい充足感に満たされていた。


 校庭の隅の木製のベンチに並んで座り、紅生姜の赤い色が移ったプラスチック容器の焼きそばを食べた。  霧子さんが割り箸を割った瞬間、斜めに派手に裂けてしまい、俺の綺麗に割れた割り箸と一本ずつ交換した。  結果として、二人とも左右で太さのまったく違うアンバランスな箸を握りしめ、顔を見合わせて笑いながら麺を啜った。


「来年の春、あの子たちが高校を卒業したら……もうこの文化祭の焼きそばも、食べに来られなくなるのかな」 「それは、私たちどちらかがもう一度受験勉強をして、この高校に再入学するしかありませんね」 「制服のブレザーを着るのは、海斗さんにお任せします」 「分かりました。なら来年の分もまとめて、今日ここで二年分食べておきましょう」


 ベンチの座面の上に置かれていた霧子さんの左手を、俺は割り箸を持っていない方の手で、そっと温かく握りしめた。  廊下の壁で見かけたあの青い紙の小鳥が一羽、誰かの服にくっついて運ばれてきたのか、秋風に吹かれて運動場の高い防球ネットの金網に引っかかり、パタパタと翼を揺らしていた。


     *


 その翌週の日曜日、俺たちは駅前の不動産屋のガラス扉を四人でくぐった。  来年の春、二つの家庭が一緒になって四人で暮らすための新居の相場と、実際の間取りを確かめるためだった。  カウンターで「来年の春に四人で住む部屋を探しています。高校生の娘二人に個室が必要で、今の高校に通える範囲で」と口にした瞬間、去年の夏には想像すらできなかった遠く温かな場所へ、自分たちが確実に歩みを進めているのだという実感が胸に迫ってきた。


 不動産屋の車に乗せられ、今の二つの住まいから歩いて十分ほどの場所にある、閑静な住宅街の五階建てマンションへと案内された。  実際に借りるのは来年の二月以降になるが、たまたま空室になっていた同じ間取りの三LDKの部屋を、広さの感覚を掴むために内見させてもらったのだ。


 玄関ドアを開けた瞬間、日菜子と明美ちゃんは鞄から金属製のメジャーを取り出し、「私こっち!」「窓の幅測るね!」と歓声を上げながら奥の洋室へと走っていった。  ガランとした何もない部屋の中で、俺と霧子さんは、新しいシステムキッチンの前に並んで立った。  俺がシンクの前から冷蔵庫置き場の寸法を見ようと振り返った瞬間、ちょうど霧子さんも同じ方向へ一歩踏み出し、俺の右肩と彼女の左肩がコトンとぶつかった。  慌てて互いに道を譲ろうとしてステップを踏んだ方向まで、完全に見事に一致していた。


「……ここ、やっぱり絶対に必要ですね」 「えっ、何がですか?」 「台所の、専属の交通整理員さん」


 霧子さんがあまりにも大真面目な顔で言うので、家具もカーテンもない空っぽの部屋に、俺たちの笑い声がやけに大きく響き渡った。


 廊下へ戻ると、日菜子はすでに自分が手に入れるつもりの西向きの部屋に陣取っていた。午後のあたたかい日差しが長く差し込む部屋がいいのだという。  一方の明美ちゃんは、朝日が綺麗に入る東向きの部屋を選んでいた。現像した写真の色味を朝の澄んだ光で確認するのに、一番適しているのだそうだ。  昔からこの二人は、親の俺たちが「揉めるんじゃないか」と心配するポイントでは、何ひとつ争うことがない。


 内見を終えたあと、駅前のファミリーレストランに入って遅い昼食を取った。  不動産屋から渡された周辺物件の家賃相場の一覧表を広げようとして、俺は無意識に、紙を背広の内ポケットへとしまい直してしまった。長年、家計のすべてを一人で抱え込んできた男の、染み付いた反射的な仕草だった。


「海斗さん。どうして今、その紙をしまうんですか?」 「いや……駅からもう少し離れた築年数の古い物件なら、俺の一馬力のお給料でも何とかやり繰りできるんじゃないかと思って」 「……海斗さん一人で、全部背負い込むおつもりだったんですね」 「無意識に、そう計算していました」 「すみませんけれど海斗さん。私にも、毎月ちゃんと払い甲斐のあるお家にしていただけませんか」


 霧子さんの凛とした声に、俺はハッと顔を上げた。  高校生二人はドリンクバーの機械の前で、ホットココアの上に冷たいソフトクリームを盛り付ける謎の実験に夢中になっていて、こちらへ戻ってくる気配はない。  俺はポケットから家賃表を出し、二人で同時に読める向きにテーブルの真ん中へ広げ直した。


「霧子さん。結婚したあとも、今の会社でお仕事を続けたいと仰っていましたよね」 「ええ。それと……私のお給料から、明美の大学進学のために毎月積み立てている学資保険があって、そこは結婚しても私の手で最後まで責任を持って払い続けたいんです。海斗さんが日菜子ちゃんのために貯めている教育費も、今まで通り別々にしておきたい」 「なるほど。じゃあ、四人の生活のために合算する生活費と、親として個人で守るべきお金を、明確に分けるルールにするんだな」 「はい。そういう現実的なお金の相談を、遠慮や見栄なしで最初からちゃんと話し合える人と、私は一緒に暮らしたいんです」


 俺と霧子さんの指先が、家賃表の上をなぞり、一つの物件の欄へと滑り込んだ。  最寄り駅からの徒歩分数が五分伸びる代わりに、家賃が数万円抑えられ、居間の日当たりが格段に良くなる物件だった。  駅から近いに越したことはないと頑なに思っていたはずなのに、霧子さんが「もし私が残業で遅くなった日は、駅まで迎えに来てくださいね」と小さく笑って呟いた瞬間、その駅から延びる五分間の夜道が、二人で並んで歩くための愛おしい道へと変わっていった。


「あの……俺がスーパーの特売で買いすぎて荷物が重い日も、迎えに来てくれますか?」 「ええ、もちろん。牛乳パック二本までの重さでしたら」 「急に主婦の条件として生々しくなりましたね」


 クリームとココアの境界線が完全に泥色に混ざり合ったグラスを両手に持って、娘たちが席へ戻ってきた。 「温度差の実験、大失敗だった!」と明美ちゃんが笑い、二人でストローを突っ込んで、最後の一滴まで美味しそうに飲み干した。


     *


 十二月の第一日曜日、俺の母・裕子の実家へ、霧子さんと二人で挨拶に伺った。  居間の座布団に腰を下ろすなり、俺より先に女性二人が冬野菜の糠漬けの漬け方で意気投合し、世間話に花を咲かせていた。  思えばこの十年間、実家から送られてきた野菜や果物は何度も白石家へ届き、そのたびに綺麗に洗われた保存容器と丁寧なお礼の絵手紙が母の元へ戻っていたのだ。初対面のはずの二人の間には、すでに十年分の生活の通い路が出来上がっていた。


「母さん。俺たち、付き合ってる。……来年の春に、一緒になろうと思ってるんだ」


 俺が背筋を正して改まって切り出すと、母は湯呑みをコトンと置いて、眉をひそめた。


「なんだい、その煮え切らない頼りない挨拶は。『一緒になろうと思ってる』って、まるで都合が合えば同窓会に顔を出すみたいな言い方じゃないか」 「いや……今度、白石家のご両親にする予定の正式な挨拶と、頭の中で混ざらないように整理してたら、こうなっちゃって」 「どうせなら、その混ざったままの緊張したやつを聞きたかったねえ!」


 隣で霧子さんが吹き出してくれたおかげで、俺の面目はなんとか保たれた。  母はみかんの皮を剥きながら、日菜子がまだ二歳だった頃の話を霧子さんに語り聞かせた。  風邪を引いて苦い粉薬を飲むたび、ご褒美にシールを貼っていたノートのこと。病気が治った最後の日、日菜子が俺の大きな手の甲にキラキラした星のシールを誇らしげに貼ってくれたこと。


「海斗の当時の言い分だとね、子どものために苦いヨーグルトを毎日我慢して食べてあげてたのは自分の方だって恩着せがましく言うのよ。でもねえ白石さん、あの子はね、『お父さんも一緒に苦い思いをしてくれた』って、本気でお父さんに感謝のメダルをあげたつもりだったんだよ」 「……そうだったのか。じゃあ、今夜帰ったら日菜子に謝っといた方がいいか?」 「あんたには、今の話がそういう反省の話に聞こえたのかねえ」


 母が呆れたように笑い、こたつの上にみかんを一つ置いてくれた。


「日菜子とはもう、海斗があんたの足で二人三脚で歩いてきた距離の方が、私とあの子で歩いた日の何倍にもなる。これからの先のことは、子どもたちだって自分で決めるし、あんたたち大人も自分たちで決めなさい。ただ、どうしても二人で手が回らない時は、いつでも私を使いなさい。こう見えて私も友達とのバス旅行があるんだから、前日までに電話しておくれよ」


 霧子さんは「はい」と深く背筋を伸ばして頭を下げ、それから「では、お正月のお汁粉、四人で食べに伺ってもよろしいですか?」と微笑んだ。  母も面食らったように目を瞬かせ、やがて「何人分の切り餅がいるかねえ」と、嬉しそうに手帳をめくり始めた。


 実家からの帰り道、駅前の静かな宝飾店に立ち寄った。  結婚指輪は、二つを横に並べると、内側のプラチナの縁がまったく同じ優しい丸みを描く、石も模様もないシンプルな銀色の甲丸リングを選んだ。  刻印を入れて受け取る日程を決めるため、俺は手帳を開き、霧子さんはスマートフォンのカレンダーを開いた。  途中で店に入ってきたベビーカー連れの若い夫婦に二人で笑顔で椅子を譲り、結局、俺たちは入り口のマットの上に並んで立ったまま、十二月の予定表を突き合わせた。  きっと俺は、こういう何気ない日常の美しさを、一生忘れないのだろうと思った。


     *


 完成した指輪を受け取った日曜日は、冬の入り口には珍しく、朝から氷のように冷たい雨が降っていた。  予約していたはずの駅前の洋食屋の前に立つと、冷たいシャッターに『水道管凍結工事のため本日臨時休業』という無慈悲な張り紙が濡れていた。  俺は家を出る前に三回も食べログで定休日を確認していたというのに、工事で閉まるという可能性を考えたのは、目の前で下りたシャッターを見た瞬間が初めてだった。


「海斗さん。ここの向かいのお蕎麦屋さん、お出汁がすごく美味しいんですよ」


 雨の中で呆然と立ち尽くす俺のコートの袖を、霧子さんが傘の下からそっと引いてくれた。  俺たちは古い暖簾をくぐり、雨宿りのようにして、奥のテーブル席で湯気の立つ鴨南蛮を頼んだ。  トタン屋根を叩く激しい雨だれの音と、客のまばらな店内のラジオから流れる日曜競馬の実況中継。  七味唐辛子のピリッとした香りと、ネギの甘い匂いが立ち込める。


「……本当は、もっと夜景の綺麗なレストランで言うつもりだったんだけどな」 「あら。私は、ここの甘めのおつゆが大好きですよ」 「雨も降っちゃったし」 「雨なら、お店を出たあとにゆっくり歩いていても、誰にも急かされませんしね」 「……俺は、今日ここで言いたいです」 「はい。私も、ここで聞きたいです」


 店員が置いていった赤い湯筒の蕎麦湯から、白い湯気が立ち上るのを少しだけ待った。  俺は上着の内ポケットから、四角い小さな白いベルベットの箱を取り出し、木目調のテーブルの隅へと静かに置いた。


「霧子さん。……俺と、結婚してください」


 一週間前から何度も頭の中で練習していたはずの美辞麗句は、彼女の澄んだ瞳を見つめた瞬間、すべてどこかへ吹き飛んでしまった。出てきたのは、たったそれだけだった。  霧子さんは膝の上に置いていた白い両手をそっと持ち上げ、テーブルの上の俺の手のすぐ隣に、重ねるように置いた。


「はい。結婚してください、海斗さん」


 小さく息を吸い込んだので、まだ続きの言葉があると分かった。


「ただ……ひとつだけ。私、たまに家の中で独りでぼんやりするのも好きな人ですよ」 「ええ、知っています」 「誰かと一緒に暮らす時、いつでも毎日、同じ長さの距離感でいられるわけじゃないと思うんです。だから、もし私が休日に一人で本を読みたいって言った日でも、あなたのことを嫌いになったと思わないでくださいね」 「その時……俺が少しだけ寂しそうな顔をするのは許してくれますか?」 「ふふ、そのくらいなら。だって私も、向こうの部屋で海斗さんと日菜子ちゃんの二人だけですごく面白いことがあったって後から聞いたら、絶対に『いいなあ』って少し羨ましく思いますから」 「じゃあ、そういう時は、俺が居間で同じ落語を二回やりますよ」 「二回目の方を、ちゃんと面白くアレンジしないと怒りますよ」


 俺は笑って、左手を差し出した。  箱を開け、彼女が俺の薬指に、俺が彼女の細い薬指に、銀色の指輪をそっと通した。  冷たい雨だれの音と、鴨南蛮の出汁の匂いの向こう側で、細い金属の輪が肌に吸い付くように馴染んでいく。  誰かに本気で生涯の伴侶として選ばれることなど、もう二度とないと思っていた俺の左手に、確かな命の重みが宿っていた。  ただ、今日はお互いに失くしてしまいそうで、しばらく並べて眺めたあと、春の入籍の日まで大切に箱へ戻すことにした。


 お会計を済ませて店の外へ出ると、雨脚は少しだけ弱まっていた。  俺が大きな黒い傘を広げると、霧子さんは自分の折りたたみ傘を開かず、自然な仕草で俺の傘の下へと滑り込んできた。  肩を寄せ合い、濡れたアスファルトの道を三軒分ほど歩いたところで、彼女は俺の耳元で小さく呟いた。


「海斗さん。今、人生で初めて、自分からやりました」 「えっ、相合い傘をですか?」 「いいえ。好きな人に、自分からキスしようとするところまで」 「……ところまで、ですか?」 「だって、海斗さんが全然かがんでくれないんですもの」


 言いつけを守るのは、昔から得意な方だった。  俺は傘の柄を持った腕を少し持ち上げて二人の視界を隠し、彼女の白い頬の方へゆっくりとかがみ込んだ。  冷たい冬の雨の匂いの中で交わした俺たちの最初のキスは、お互いに、ほんのり温かい鴨南蛮の出汁の味がした。


 その夜、アパートの壁掛けカレンダーの予定表には、四人で向かう二回目のマンション内見の日付が書き込まれた。  その四角い枠のすぐ隣の小さな余白に、俺はボールペンで、あの蕎麦屋の名前を小さく書き添えた。  もう次にどんな大事な日にあの洋食屋のシャッターが閉まっていても、俺が一人でがっかりすることは二度とないはずだった。


お読みいただきありがとうございました。

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