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俺が本気で愛されているわけがない 〜四人分の食卓と、十年越しの恋〜  作者: バカヤロウ


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第17章 家族会議に、正解はまだない


 十月の最初の日曜日、午後一時。  これからの四人の生活について話し合うため、我が家の六畳間のちゃぶ台を囲むことになった。  俺が台所で冷やしておいた四人分の麦茶をグラスに注ぎ、ちゃぶ台の定位置に座ろうとした瞬間、日菜子がすかさず手を上げて制止した。


「お父さん、座布団、左にひとつずれて」 「どうしてだ? いつもここが俺の席だろ」 「そこに二人で並んで座られると、学校の三者面談で担任と学年主任が並んでて、生徒の私たちが呼び出し食らったみたいで威圧感あるじゃん」


 なるほど、言われてみれば俺と霧子さんが横並びに座り、向かい側に高校生二人が正座している構図は、まるで生活指導の面談そのものだった。  俺は苦笑いしながら座布団をずらし、日菜子のすぐ隣へ移動した。  すると今度は、「それだと完全に親子対抗クイズ合戦のチーム分けになっちゃいます」と明美ちゃんから指摘が入った。  結局、霧子さんが台所の隅から、日菜子が昔作った牛乳パックの低い手作り椅子を持ってきてそこに腰を下ろし、明美ちゃんが俺の斜め向かい、日菜子が俺の正面という、誰とも真正面から視線が衝突しない妙な菱形の配置で落ち着いた。


「この席順、会議のたびに毎回ジャンケンで決めるのか?」 「『たびに』って、お父さん、何回やる気? まだ第一回の議題も始まってないのに、早く切り上げようとしないでください、大宮主任」


 会社の嫌な中間管理職の生態ばかり、実によく観察している娘である。


 先週の日曜日、映画の帰りに路面電車の空き地で霧子さんと手をつないだ。  俺たちがこれから恋人としてお付き合いを始めることは、その日の夜のうちにそれぞれの娘に直接伝えてあった。  けれど、俺が日菜子に話した言葉と、霧子さんが明美ちゃんに話したニュアンスが、完全に一致しているとは限らない。一番大切なこれからの生活の足場が、二つの家の間のアスファルトに落っこちて曖昧なままになるのだけは避けたかった。


「改めて、みんなの前で言うよ。俺は霧子さんとお付き合いをしています。そして……将来は、四人で一緒に暮らして、結婚したいと思ってる」


 俺は娘たち二人の顔をまっすぐに見つめた。  隣の低い椅子で、霧子さんが「私も、同じ気持ちです」と続けた。  いつもの落ち着いた声よりも半音高く、思っていたよりもずっと幼い響きだった。その白い指先が、膝の上でスカートの生地をぎゅっと小さく握りしめている。緊張しているのは、大人の俺たちもまったく同じだった。


「で、いつから霧子さんがうちに泊まりに来るの?」


 日菜子の最初の質問は、父親の俺をあっさりと飛び越えて、霧子さんへ直撃した。


「えっ……今のところ、すぐにそういう予定はないわよ」 「でも昨日、土曜日の朝八時からうちにいたじゃない」 「あれは、お父さんが『栗ご飯を作りたいから、栗の皮むき専用のハサミを貸してほしい』って言うから届けに来ただけよ」 「……あ、昨日の栗ご飯か」 「それに俺としてはだな、あの大量の栗の硬い鬼皮と渋皮をむくなら、借りたかったのは道具じゃなくて霧子さんの手腕そのものだったんだがな」 「それは最初に言ってくださいよ! 道具だけ渡して、さっさと帰っちゃったじゃないですか」


 ちゃぶ台を囲んで、四人の笑い声が一気に重なった。  張り詰めていた部屋の空気が、ふっと柔らかくほどけていく。  剥ききれなかった栗は、今も我が家の冷凍庫のジッパー袋の中に半分眠っていた。日菜子はその話も漏らさず、手元のルーズリーフに鉛筆で真面目な顔をして書き留めた。 〈泊まりに来る時は事前に申告。冷凍庫の栗はあと半分残ってる〉  それは全然別の案件だろとツッコミを入れかけたが、メモを取る日菜子の指先がまだ微かに震えているのを見て、俺はそっと言葉を飲み込んだ。


「あの……私、朝の洗面所のことが一番気になります」


 明美ちゃんが、結露した麦茶のグラスを両手で包み込みながら切り出した。


「もし、いつか四人で一緒に暮らすことになったら、私、朝は何時に起きればいいですか? 私、朝の洗面所をすごく長く占領しちゃうんです。コンタクトレンズを入れるのが本当に下手で……。お母さんは、台所のガスコンロの前の銀色の油よけパネルに顔を映して、立ったままお化粧できる特技があるけど、私にはあんな曲芸はできませんから」 「明美! それは他所のお家で絶対に言わないって約束したでしょう!」 「えっ、霧子さん、油よけパネルでお化粧できるの? それ、娘のいないところでこっそり練習したの?」 「いいえ、あなたが生まれる前の独身の会社員時代から自然に身についた知恵です!」


 俺は十年の付き合いにして、彼女の恐るべき朝のサバイバル能力を知った。  明美ちゃんは学校のプリントの裏に四角い見取り図を描き、洗面台と風呂場の前に四本の棒人間を並べた。先頭の一人だけ、目が異常に大きく描かれている。コンタクトに悪戦苦闘する自分自身なのだという。日菜子がそのすぐ後ろに、寝癖で爆発した俺の頭を描き足した。


 そこから、通学や引っ越し先についての現実的な条件に話が移った。  二人とも、今の高校を転校するのは絶対に嫌だということ。最寄り駅までは一人で歩いて通える範囲がいいということ。  娘たちはもう、未来の生活について遠慮なく言いたい放題に希望を出し合っているように見えた。  俺が少し安心して、「うん、それくらいの条件なら大丈夫そうだな」と頷きかけた、その時だった。


「……新しいお家に、私の個人の部屋は、ありますか?」


 明美ちゃんの声は、あまりにも静かで控えめだったため、危うく聞き逃すところだった。


「お母さんとは、ずっと前から『次に引っ越す時は絶対に自分の部屋が欲しい』って話していたんです。でも……四人用のマンションになると家賃も高くなるし、日菜子と一緒の部屋が嫌だっていう意味では決してなくて……」 「私も、絶対に部屋は別々の一人部屋がいい!」


 日菜子が即座に、きっぱりと言い放った。


「え?」 「だって明美、文化祭とか部活の締め切り前になると、夜中の三時半に部屋でカラープリンターをガーガー動かすじゃん。いくら親友でも、私が寝る時は静かに寝たいもん」


 明美ちゃんが両手で顔を覆い、肩を揺らして吹き出した。  遠慮して胸の奥にしまい込みかけていた本音が、日菜子の身も蓋もない一言で、あっという間に笑い話へと昇華されていく。


「よし、分かった。二人にそれぞれ独立した個室が取れる物件を探そう。家賃の計算は、大人の俺たちに任せてくれ」


 俺が請け合うと、霧子さんも力強く頷いてくれた。  高校生になっても、仲のいい二人は同じ部屋を喜ぶだろうと、俺はつい先週まで勝手に思い込んでいたのだ。俺の頭の中の娘たちは、まだ小学生の夏休みに、居間で昼寝の布団をぴったり並べて敷いていた頃のままで止まっていた。


「じゃあ……私からも、ひとつだけルールを提案していいかしら」


 霧子さんが、牛乳パックの椅子の上で控えめに手を挙げた。


「今のうちでは、誰かがお風呂に入っている時は、鍵をかけていなくても勝手に洗面所のドアを開けないルールにしているの。着替えの途中で誰かが飛び込んできたら、お互いにすごく気まずい思いをするでしょう?」 「あ、それならさ! ドアノブに掛ける木札を作ろうよ!」


 日菜子が膝を打って身を乗り出した。


「美術室で余った木の板があるから、表に『入ってます』、裏に『空いてます』って書いて掛けておけば一発で解決じゃん。今のうちの、お父さんがお風呂で大熱唱しててノックが全然聞こえない問題も、これで一緒に解決できるし」 「おい日菜子、俺はそんなに大熱唱なんかしてないぞ」 「歌ってる本人が一番無自覚なんだよ。声量落とす気はないわけ?」


 ルーズリーフのメモに、〈洗面所の木札。お父さんの入浴中の熱唱禁止〉と新しい項目が書き足された。  この家族会議で、俺が一体どんな権利を剥奪されたのかは、少しばかり怪しいところだった。


 小一時間ほど話し合い、そろそろ出前でうどんでも取ろうかと俺が腰を浮かせかけた、その時だった。  隣の日菜子が、俺のシャツの裾をギュッと強く掴んだ。  さっきまでの悪戯っぽい笑顔が、すうっと消え去っていた。


「……ねえ、お父さん」 「ん? どうした」 「もし四人で一緒に暮らし始めたら……私が、お父さんとだけ二人きりで話したいことができた時、どこで話せばいいの?」


 その声の震えで、物理的な部屋の数の話をしているのではないと、すぐに分かった。


「今はさ……お父さんが夜遅くに仕事から帰ってきたら、玄関で靴を脱いでる時にもう話し始められるじゃん。『今日学校でこんなことがあった』とか。途中で話すのが嫌になったら、黙って自分の部屋へ戻っても誰も気にしてない。でも……四人で広い居間にいる時にさ、『お父さん、ちょっとこっち来て』って呼ぶの、すごく難しくない? まるで、他の二人に聞かれたくない内緒話がありますって、家じゅうに宣言してるみたいで……」


 日菜子の瞳の奥に、かつて二人きりで過ごしてきた十四年間の親子の聖域が、消えてなくなってしまうのではないかという、純粋な心細さが揺れていた。


 俺は腰を下ろし直し、ポケットから小銭入れを取り出した。  アパートの前の自販機で温かい缶ココアを二本買えるだけの、二百四十円の小銭をちゃぶ台の上にチャリンと並べた。


「日菜子、覚えてるか。小学五年の冬の夜、風呂上がりの濡れた髪のまま、『お父さん、外の自販機でココア買ってきていい?』って聞いてきたこと」 「……覚えてる。飼育係の当番の日に、クラスのカナヘビをケージから逃がしちゃった日」 「ああ。二人でアパートの前のベンチに座って、湯気の立つココアを飲んだよな。俺、それ以来、仕事帰りにあの赤い自販機を見るたびに、あの時のカナヘビがどこかで元気に冬を越せてるといいなって、ずっと祈ってたんだぞ」 「お父さん、あれからもう六年だよ? カナヘビの寿命、とっくに過ぎてるから」 「なら、あいつの孫くらいは、どこかの草むらで元気に暮らしていてほしい」


 日菜子が鼻をぐずりとすすった。


「新しい家に引っ越してもな、『ちょっと外の自販機まで行こうか』って、俺からお前を連れ出す日を絶対に作るよ。二人でふらっと外の空気を吸いに出るのがいつものことなら、誰も変に思わないし、何も聞かれない。もし外に出て、特に話すことが見つからなかったら、ただ夜風に吹かれてジュースを一本飲んで、無言で帰ってくればいい」 「……ココアじゃなくて、アイスでもいい?」 「もちろんいいぞ」 「真冬で雪が降ってても?」 「滑って転ぶと危ないから、靴だけはちゃんと履いてくれ」


 日菜子はちゃぶ台の上の小銭を一枚ずつ拾い集め、俺の手のひらへと戻した。  それから、少しだけ明美ちゃんと霧子さんの方へ視線を泳がせて、言った。


「あの……私、新しいお家になっても、霧子さんのこと、すぐには『お母さん』って呼べないと思う」 「いいのよ、日菜子ちゃん」


 霧子さんは牛乳パックの椅子からスッと立ち上がり、ちゃぶ台の横の畳の上へ、日菜子と目線の高さが揃うように直接座り直した。


「もう十年近く、あなたがうちの玄関の前で『霧子さーん!』って呼んでくれる声を聞いているでしょう? ご近所の誰が同じように呼んでも、あなたのその明るい声なら、私、目をつぶっていてもすぐに分かるのよ。私ね、あなたにそうやって呼ばれるのが、昔からすごく誇らしくて、大好きなの」 「……本当に?」 「ええ、本当よ。昔、明美が私の大事な口紅を根元から折ってしまった日に、あなたが代わりにうちへ謝りに来てくれた時だけは、妙によそよそしい『白石さん』だったけれどね」 「うわっ、あれ私の仕業じゃないって、最初からバレてたんだ……!」


 日菜子と明美ちゃんが顔を見合わせて目を丸くした。  どうやら数年前のその口紅事件の真相について、父親である俺だけが完全に蚊帳の外に置かれていたことが今さら判明した。


 その時、静まり返った部屋の真ん中で、グゥ〜と可愛らしい虫の鳴くような音が響いた。  鳴らした本人は霧子さんだった。  なぜか鳴らされた彼女自身よりも、隣にいた俺の顔の方がボッと熱くなった。  結局、昼食は近所の中華料理屋から出前を取ることに決まった。  エビチリを食べたい日菜子と、春巻きを譲らない明美ちゃんの間で激しい枠争いが勃発し、最終的に全員分の『追い春巻き』を追加注文することで、我が家の最初の平和的な予算協議も無事に成立した。


 夕方五時。  明美ちゃんがルーズリーフのメモの隅っこにあった〈栗は半分〉の文字を、鉛筆で丸く囲んだ。


「これ、次の週末に私が剥きに来ます。お母さんだけが台所で料理して、私だけ部屋で待ってるの、まだ少し寂しいから。私も一緒に混ぜてください」 「よし、任せた。渋皮を十個きれいに剥けたら、途中で一個味見していいぞ」 「もし全部剥いたら、何個食べていいんですか?」 「全体の個数の、十の位を見たまえ」 「お父さん、栗の皮むきで算数ドリル始めるのやめて。来週から誰も手伝いに来なくなるよ」


 日菜子が手際よくルーズリーフを四つ折りに畳み、自分のペンケースの中へと大事そうにしまった。


「次の家族会議は、私が事前に議題をアジェンダにして配るからね」 「頼もしい議長さんだな」 「とりあえず、今日はこれでお開き!」


 外の通りに出ると、十月の夕暮れ空はまだ淡い金色に光っていた。  隣のマンションのエントランス前で白石母娘と手を振り合って別れたあと、俺と日菜子は逆方向へと歩き出した。  商店街の端っこにある、古いガラス戸のアイスクリーム屋へと向かう。


 娘はソーダ味とバニラ味の二段重ねのコーンを選び、俺に片方を持たせた。 「ひと口ずつ交代ね」と言って、本当にきっちりひと口ずつの厳密な交換だった。  難しい言葉は何ひとつ交わさず、夕暮れの路傍に二人で並んで立ち、冷たいアイスを食べた。  十月の涼しい夕風の中ではもう、アイスが溶けて垂れ落ちるスピードよりも、俺たちが食べるスピードの方がずっとずっと速かった。


お読みいただきありがとうございました。

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