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俺が本気で愛されているわけがない 〜四人分の食卓と、十年越しの恋〜  作者: バカヤロウ


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16/23

第16章 今度の映画は、二人で


 いくらなんでも、ただ隣の駅まで映画を一本観に行くだけの休日の朝に、これほど靴下と靴を履き替える必要はどこにもないはずだった。


 紺の無地の靴下に、履き慣れた黒のスニーカー。  黒のリブ靴下に、手入れをしたばかりの茶色の革靴。  狭いアパートの玄関のタタキで靴紐を結んではほどき、左右の足元を見比べていると、背後からスリッパの音がして、身支度を整えた日菜子が上からのぞき込んできた。


「お父さん。靴が右と左で片方ずつ違うんだけど」 「左右いっぺんに見比べて、全体のバランスを点検してるんだよ」 「それなら迷わず黒のスニーカー」 「なんでだ?」 「左足のスニーカーの方が、なんか浮き足立ってなくて落ち着いて見える」 「……足元に落ち着きとかあるのか?」 「日菜子先生の客観的な意見は以上です。私も出かけるから、そこどいて。今日はお昼のお弁当要りません」


 娘は、俺が玄関を塞いでいた隙間をすり足で器用にすり抜けた。  先に外の廊下へ出たその白いスニーカーは、脱いだ時だけ中敷きがとんでもない蛍光オレンジ色に光る代物だ。そんな極端な色彩感覚の娘に背中を押されて大丈夫かと思ったものの、俺は素直にスニーカーに紐を通し直した。九月最後の日曜日。もし映画のあとに少し歩き回ることになっても、足が痛くならないように。


 待ち合わせの場所は、隣駅のロータリー脇にある、古びた名画座の入り口前だった。  同じアパートとマンションの路地を出て、同じ駅から同じ電車に乗るのだから最初から並んで行けばいいと俺が言うと、「駅前で待ち合わせ、してみたいんです」と霧子さんに言われたのだった。  まさか彼女を先に着かせて一人で待たせるわけにはいかず、俺は予定より三本も早い電車に乗った。  映画館の隣にある古書店で背表紙を眺めて十分を潰し、それでも時間が余って、一つ先の交差点の角まで歩いて往復した。  念には念を入れて、劇場の入り口横の掲示板のポスターを再確認する。『小雨のつくりかた』、午後二時十分の上映回。  通りに面したガラス窓に自分の前髪を映し、手ぐしで整えていると、不意に背後から声をかけられた。


「海斗さん。それ、ハンバーグ屋さんの厨房ですよ」


 ハッとしてガラスの奥を見ると、白い前掛けをしたシェフが、鉄板の前から不安そうにこちらを見つめていた。俺は慌ててペコペコと頭を下げながら後ずさりした。


「……すごくいい匂いがすると思った」 「ふふ、私も十分ほど前に着いて、向かいのベーカリーのテラスで待っていたんです。あの交差点を、ものすごく一定の早足で行ったり来たりしている海斗さんが見えましたよ」 「見えていたなら、もう少し早く声をかけてくだされば……」 「想像したこと、ありますか? 誰かが自分と会うために、時間を気にして歩いてきてくれる姿を、少し離れたところから先に見つけて眺めているのって……すごくあたたかくて、楽しいんですよ」


 霧子さんは、いつもの仕事用の大きな書類鞄を持っていなかった。  使い込まれた柔らかいキャメル色の小さなショルダーバッグを肩から斜めに掛け、左手には焼きたてパンの入った小さな紙袋をひとつ提げているだけだった。文庫本が一冊すっぽり収まる程度のその軽やかな装いが、誰かの母親という責任から少しだけ解放された、休日の彼女の無防備な輪郭を際立たせていた。


「……じゃあ、今度は俺にもその役回りをやらせてください。次回は交代ということで」 「ええ、喜んで。次は私が遠くから歩いてきますね」


 霧子さんは声を立てて笑い、俺の半歩隣に並んで劇場の入り口へと歩き出した。  彼女の左手の紙袋の中で、焼きたてのクロワッサンが歩調に合わせてカサカサと小さな音を立てている。


 レトロな劇場のロビーへ入ると、俺は無意識にズボンのポケットを探り、予約チケットが彼女のスマートフォンの画面の中にあることを思い出した。  そんな俺の落ち着かない手つきに気づいたのか、霧子さんは小さく微笑み、すでに窓口で発券してもらっていた二枚の縦長の紙片を差し出してくれた。


「さっき、窓口で紙のチケットを出してもらったんです。日菜子ちゃんから聞きましたよ。海斗さん、映画の半券をパンフレットの裏に挟んで大切に取っておくんでしょう?」 「あいつ……そんな余計な生活習慣まで喋りましたか」 「ふふ、こっちの紙に上映時間も大きく印字されていますからね。二時十分。これを持っていれば、もうハンバーグ屋さんの前まで戻らなくて済みます」


 そう優しくからかわれたのに、もぎりの係員に半券をちぎってもらう直前、俺はやっぱりもう一度、紙の上の小さな数字を確かめてしまった。


 場内は、古い木造の梁と臙脂色のモケットシートが並ぶ、こぢんまりとした空間だった。  座席は、後方の通路側の端から二つ。  四人で観に来た時は、トイレに立ちやすい席や、眼鏡の明美ちゃんが見やすい位置を真っ先に決めて譲り合った。手元の座席番号をじっと見比べていると、霧子さんは通路側から二番目、奥の席へと迷いなく滑り込んだ。


「どっちの席にしますかって、海斗さんが絶対に聞くと思ったから」 「……その推測は、百発百中で当たっています」 「いつも海斗さんが周りに気を遣って先に聞いてくださるから、今日は私が先に決めました。海斗さんは、こっちの通路側に座ってください」


 指定された席に腰を下ろすと、古いスプリングがギシッと静かに沈み込んだ。  俺のすぐ左側に霧子さんがいて、右側には誰もいない通路がある。  たったそれだけの座り位置の違いなのに、前後に見知らぬ客が座っていることすら、どこか心地よい連帯感のように思えた。  娘と二人きりになってからの十四年間、どこへ出かけるにも、一枚は必ず日菜子の切符を買ってきた。買う予定がない時でも、心のどこかで常に子どもと並んで座るためのスペースを探してきた。  こうして、誰かの保護者としてではなく、大人の男として切符を二枚だけもらい、隣に座る人の気配に心臓を小さく跳ねさせている。自分の人生に、こんな時間が再び巡ってくるなんて思ってもみなかった。


 ブーという静かなブザーが鳴り、館内の照明がゆっくりと落ちていく。  隣で紙袋がカサッと音を立て、霧子さんが足元にそっと立てかけた。  暗がりの中に、白い紙袋と、並んだ二組の靴先がぼんやりと浮かび上がる。  やがて、スクリーンに光が満ち、『小雨のつくりかた』の幕が上がった。


 映画は、地方都市のさびれた市民会館を拠点にする、小さな市民劇団の物語だった。  長年、舞台の音響を担当してきた初老の職人が耳を患い、実家の工務店で働く一人娘が、たった一回きりの引退公演を手伝うことになる。  風の音は古い新聞紙を指先で裂いて作り、打ち寄せる波の音は竹ザルに入れた乾燥小豆を静かに傾けて鳴らす。すべてを最新のパソコンとスピーカーでスマートに処理したがるデジタル世代の娘と、少しでも湿気や気温が違えば鳴る音が違うからこそ舞台は面白いのだと言い張る頑固な父親は、見ていてハラハラするほど噛み合わない二人だった。


 劇中の舞台本番、雨傘に当たる夕立の音をどうしてもリアルに作れないまま迎えたクライマックス。  一番おかしかったのは、スポットライトを浴びる役者たちではなく、舞台裏の非常口の外にしゃがみ込み、水道の蛇口を必死にひねってブリキ板に水を当てていた劇団員のおじさんだった。  客席の誰の目にも触れない場所で、水の勢いを手首で微調整し、激しい夕立を降らせる。跳ね返る水しぶきで作業着のシャツをびしょ濡れにしながら、腕まくりをする余裕すらない。  隣の席で、霧子さんが口元に手を当て、声を押し殺して小さく肩を揺らした。  俺はその横顔を盗み見て、それからスクリーンへ目を戻し——初めて、その劇団員のおじさんが左右で別々のスニーカーを履いていることに気がついた。


 今朝の玄関の、俺の足元そのものだった。


 暗がりの中で、きっと日菜子が見たら呆れるだろうなという顔をして、俺は声を立てずに笑った。


 上映が終わり、館内に柔らかな明かりが戻った。  エンドロールが流れきっても、前の席の夫婦が「あの工務店の娘、仕事をあんなに休んでクビにならないのかねえ」と現実的な感想を言い合っていた。  隣の霧子さんも、席を立ちながら自分の意見をしっかりと温めていたようだった。


「あのお芝居、最後の公演だけは、一度お父さん抜きで娘さんたちだけでやってみてほしかったです」 「えっ、俺はせっかく手伝ってくれたんだし、最後は父親も舞台に上がってカーテンコールに出てほしかったけどな」 「あ、そこは正反対ですね。私、あのお父さんには、一度でいいから客席に座ってお客さんになってほしかったんです。自分が舞台裏にいない日に、娘がどんな綺麗な雨の音を降らせるのか、自分の耳でゆっくり聴いてほしかったから」 「……ああ。なるほど。それは確かに、親としては一番聴いてみたい音かもしれないな」 「ふふ、それにしても小豆で波の音を作るの、見事でしたね。うちの台所の小豆、あんなに働いてくれませんよ」 「うちの台所のザルならいつでもお貸ししますよ。取っ手の針金が少し曲がってますけど、家で波の音を練習して、今度発表してください」


 どちらもお互いの感想を話し尽くせないまま、清掃のスタッフが入ってきたため、急いで出口へ向かった。  古い階段を降りながら、パンフレットのスタッフクレジットを眺める。  八月の最初の日曜日、同じような映画館の階段で、俺は日菜子の歩幅を気にし、明美ちゃんのパンフレットの在庫を心配していた。  けれど今、この階段で立ち止まり、何かを思いつくたびに振り返ってくれる相手は、霧子さん一人だけだった。


 劇場の前の通りに出ると、八百屋の店先に置かれた木箱に、おつとめ品の秋の梨が三個ずつ袋に入って並んでいた。


「これ、買って帰りましょうか。三個入りなら、二人で分けても一つずつ余るし」 「海斗さん、梨を一人で丸ごと一個食べる前提なんですね。私と明美は、いつも一つを綺麗に半分こですよ」 「あれ、うちが大食いなだけですかね」 「その代わり、海斗さんが芯のところをギリギリまで残さず剥いてくれるのを、明美はいつも喜んでますよ」 「あれは、横から日菜子が『まだ白いところが残ってる!』って厳しく指導してくるからですよ」


 値段も手頃だったので、一袋買い求めた。  受け取った袋をのぞき込むと、一番下の梨の側面に、少しだけ柔らかくなっている箇所があった。俺の指先が触れた端っこがわずかにへこみ、霧子さんがすぐ隣から顔を寄せて覗き込んだ。


「あ、それ、今日のうちにすぐ食べた方がよさそうですね。おうちにクリームチーズ、少し残っていませんか? スライスして食パンに乗せて、トースターで一緒に焼くとすごく美味しいんですよ」 「クリームチーズ、確か冷蔵庫の奥に少しあったはずです。あとは昨日の残りの柚子胡椒で……」


 そこまで大真面目に口にして、パッと顔が合った。  映画のチケットを予約するのに一週間。  着ていく服を選ぶのに半日。  待ち合わせに四十分も早く駆けつけ、二時間の映画を観て、外に出てからまだ五分も経っていないのに、もう俺たちが真剣に考えているのは、今夜の食卓のメニューだった。


「……デートの口説き文句に、柚子胡椒ってどう思いますか?」 「それは、そのあとに続く言葉を聞かないと、保留ですね」


 霧子さんの左手の紙袋の中で、クロワッサンが小さくカサリと潰れた。彼女がお腹を押さえて笑っているせいだった。俺は手元の梨の袋を落とさないよう、しっかりと持ち直した。


 駅の裏手に、かつてこの街を走っていた路面電車の終点だったという、細長い空き地がある。  赤錆びた鉄の車止めがひとつだけ残されており、その脇の白い金属の手すりに寄りかかると、今のJRの線路とプラットホームが一望できた。  秋の傾いた夕日が、留置線に並ぶ貨車の古い車体を、連結器の金具から順にオレンジ色に染め上げている。


「霧子さん。帰り道に、少しだけここへ寄ってもいいですか」 「ええ」


 俺は手すりの根元の縁石の上に、梨の袋をそっと置いた。  若い頃の俺なら、こういう場面のために、気の利いた洒落た台詞のひとつでも言える大人になるはずだった。  しかし、三十五歳になった今の俺の頭に浮かぶことといえば、傷みかけた梨のトーストに柚子胡椒は絶対に合わないだろうということくらいだった。


「俺は……今日みたいな日が、この先もずっと欲しいです」 「私もです。次の待ち合わせは、私が遠くから歩いてくる番でしたね」 「その次の約束の先にも、ずっとです。……霧子さん、俺と付き合ってください」


 秋風の中で霧子さんが口を開きかけた時、俺は「あ、待ってください、もうひとつだけ」と右の掌を上げた。


「先に、ちゃんと言葉にして伝えておきたいんです。俺はあなたと、いずれ結婚して、同じ家で一緒に暮らしたいと思っています。今の俺にとっては、それくらい、毎日顔を見て生きていきたい人です」


 遠くの踏切の警報機がカンカンと鳴り始め、赤いランプが交互に点滅しているのが見えた。  彼女の返事のためらいを、俺は何秒待てるだろう。  怖くなって、また「もちろん今すぐじゃなくていいんです」なんて都合のいい言い訳を足してしまわないだろうか。  すると、すっと伸びてきた霧子さんの手が、縁石の上の梨の袋を引き寄せ、転がらないように内側へと置き直した。


「はい、海斗さん。私も……ゆくゆく、あなたとそうなれたらいいなと思っています」


 息を吸い込み、今度は彼女が、俺と同じように小さく手を上げた。


「ただ、一緒になってから私がどんな人だと分かっても、絶対にびっくりしないでくださいね。家では、熱い緑茶が冷めないうちに飲もうとして、一口目でまず間違いなく自分の舌を火傷します」 「それは、もう知っています」 「それから、火曜日の夜に一本だけどうしても見たい海外ドラマがある日は、お夕飯が夜の八時半を回っても許してください」 「明美ちゃんの部屋のテレビ、録画機能がついていますよね」 「ねえ、海斗さん」


 俺の手が触れていた冷たい金属の手すりを、彼女の白い指が、ゆっくりと重ねるように握った。


「あなたが私に頼み事をしてくださるの、本当に嬉しいんです。風邪を引いた夜みたいに、たまに思い出してくれるだけでも。だから私も、困った時はあなたを頼りたい。いつか、私が何か相談を持っていった時に……まず私の顔を見てくれますか。明美の母親でもなく、日菜子ちゃんに優しいお隣さんでもない、ただの私に何かあった時に」 「はい。俺も……自分が不安になると、勝手に先回りして相手の気持ちを決めつけてしまう悪い癖があるので。『あ、こいつまた一人で殻に閉じこもってるな』と思ったら、いつでも遠慮なく言ってください」 「ふふ、分かりました。ただ、私が不機嫌そうに見えても、本当に単にお腹が空いているだけってことも結構ありますからね」 「その時は、まず美味しいものをしっかり食べさせます」 「私にも、ちゃんと作れますよ?」 「その時は、喜んでたくさん食べさせてもらいます」


 夕暮れの空の下で、二人でもう一度笑い合った。  左右で違っていた劇団員の靴、ざるの中の乾燥小豆が鳴らした波の音、十年前の冬に跨がった小さな赤い自転車。  閉め切っていた古い部屋の窓をすべて開け放ったように、色あせていた記憶のすべてが、鮮やかな光を帯びて目の前に蘇ってくる。


 俺は手すりから手を離した。


「霧子さん。……手、つないでもいいですか」 「……それをちゃんと言葉にして聞ける人は、もっと自分に自信を持っていいと思いますよ」


 差し出された彼女の指先を取ろうとして、俺は慌てて左手の梨の袋を持ち替えた。彼女もまた、肩に掛けていた小さなショルダーバッグを反対側へと回し、ようやく俺の右手と、彼女の左手が空いた。  触れ合った指先は、夕方の秋風に晒されて少しだけ冷えていた。  けれど、指を絡めて握り直すと、すぐにじんわりとした体温が互いの皮膚を通して広がっていった。  隣の棟に住んで十年間、数え切れないほど鍋やタッパーを受け渡してきたのに、たったひとつの手を握り合うまでに、俺たちには丸十年と、たっぷり三十秒の時間がかかった。


     *


 アパートの近くまで戻ってきたところで、日菜子の帰宅時間を尋ねられた。  文具店と本屋へ寄り、文化祭のポスターのテスト印刷をしてくる予定なので、夕方六時過ぎまでは帰ってこないはずだった。


「それなら、今日はこれからそれぞれ、自分の娘に話しませんか。私たちが、きちんとお付き合いを始めたこと」 「はい。そうしましょう」 「そのあとで、四人で顔を合わせて話せる日を作りましょう。これからの生活のこともありますし、しばらくはどの家で、どんなふうに夕飯を食べるかも」 「新しいルールが決まるまで、全員でお腹を空かせて我慢するわけにはいきませんからね」


 二つの棟へと分かれる路地の角で、霧子さんに梨を二つ手渡した。  少しへこんだ方を一つ俺の手元に残し、代わりにパン屋の紙袋から、小さなクロワッサンを二つ取り出してもらった。日菜子の分と、俺の分。  空になったパン屋の紙袋を、明美ちゃんのお土産用に四角く几帳面に折り畳む彼女の指先を、俺は足を止めてじっと見つめていた。


「あの子、可愛いパンの袋を集めているんです。お店ごとにスタンプの版が違うからって」 「へえ。そういえば、あの青いフタの保存容器も、うちとそっちでだいぶ擦り傷や絵柄が混ざってきましたね」 「ふふ、今度タッパーを返す時、フタに油性ペンで絵を描き足していこうかしら。あの首の短いキリンから始めます?」


 角の街灯の下で話し込んでいると、電柱の向こうから、見慣れた二つの制服姿が曲がってきた。  明美ちゃんの肩には、丸めた大きな黒いスチレンボードの筒が抱えられている。  霧子さんは「じゃあ、また後でね」と小さく手を振り、自分のマンションのエントランスへと歩いていった。  角のこちら側へは、日菜子が一人、明美ちゃんに向かって後ろ歩きに手を振りながら戻ってきた。


「お父さん、先に言っとくけどね。展示の小窓、お父さんの目尻のシワは審査の結果、落選しました」 「奇遇だな。俺もあんなもの誰も見たくないと思ってた」


 その日の夜、俺は日菜子に、映画の舞台裏で一番笑ったあの劇団員の靴の話をした。  娘は焼き魚の皮を箸で器用に剥がしながら、「それ、今朝のお父さんじゃん」と鼻を鳴らして笑った。  夕飯を終え、へこんだ部分を切り落とした甘い梨を二人で食べたあと、俺は湯呑みを置いて、日菜子に真っ直ぐ伝えた。


「日菜子。今日から、霧子さんとお付き合いすることになったよ」


 娘は楊枝に刺した梨の最後の一切れを口に運び、シャキッと静かな音を立てて噛み締めた。


「……そっか。ちゃんと最初に教えてくれて、ありがとう。この梨、すごく甘くて美味しいね」 「ああ。甘いな」


 テーブルの上で、スマートフォンが短く振動した。  霧子さんから、『こちらも今、明美に伝えました』と、たった一行だけの通知が入っていた。  次の日曜日には、四人で我が家の食卓を囲むことになった。


お読みいただきありがとうございました。

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