第15章 頼りになる人の、言えなかったこと
霧子さんからの返信通知は、翌朝、いつもの目覚ましアラームが鳴り響くちょうど一分前、スマートフォンの画面を静かに光らせた。
『私も、海斗さんにお願いしたいことがありました。今週の土曜日、午後からでしたらお時間は大丈夫でしょうか』
お願いなら、何でも、いくつでも聞きますよ——。 寝ぼけた頭で画面にそう打ちかけ、目覚ましのアラームが枕元でジリジリとけたたましく鳴り響いて、俺は我に返った。 炒め物の油が切れただけで両手が塞がってパニックになるような男が、朝っぱらから随分と偉そうな大口を叩くところだった。 『はい。土曜日の午後、楽しみにしています』 丁寧にそう打ち直して送信し、俺は敷き布団を畳んだ。
その週の平日は、仕事の帰宅時間が偶然重なり、隣のマンションのエントランス前で一度、そして木曜の朝のゴミ集積所の前で一度、彼女と顔を合わせた。 「お疲れさまです」「おはようございます、行ってらっしゃい」 どちらも、近所の良き隣人同士としての明るい挨拶を交わしただけだった。 一度目の帰り道などは、駅からアパートまでの六百メートルの夜道をほぼ並んで歩いていたのだから、話そうと思えば十分間は二人きりで話せたはずだった。それなのに、なぜ数日先の土曜日にわざわざ改まって約束を取り付けているのか、自分でも少し可笑しく思えるほどだった。 けれど、スーパーの半透明のレジ袋をぶら下げたまま、「はい、ここで待ち伏せしてました」とばかりに切り出すような話では断じてない。週末に二人で空けた特別な場所に、それぞれが胸の奥で温めてきた言葉をしっかりと持っていくしかなかった。
*
土曜日の午後二時。 商店街のアーケードの端っこにある、日焼けした文庫本が並ぶ古本屋の軒下で会った霧子さんは、紺色の大きな布製エコバッグを肩からずっしりと提げていた。
「海斗さん、すみません、お待たせしてしまいましたか?」 「いえ、俺も今さっき着いたところです。……それにしても、ずいぶんと大きな手荷物ですね。どこかへお出かけですか?」 「これですか? 家じゅうのクッションカバーと座布団カバーを片っ端から剥ぎ取って、洗濯してきたんです。コインランドリーの大型乾燥機に入れて、完全に乾くまであと四十分」 「見事に、家中の布がひとつも残っていませんね」 「ふふ、バスタオルもシーツも全部です。ただ、これだけはドラムに入れると綿が寄って傷んじゃうので、足が出ちゃったまま連れてきちゃいました」
大きなエコバッグの口から、ひょっこりと黄色い頭を覗かせていたのは、一頭のぬいぐるみのキリンだった。 本物のキリンにしてはずいぶん首が短く、愛嬌のある丸っこい体型をしている。小学生の頃の明美ちゃんが片時も手放さず、どこへ行くにも抱きかかえていた相棒だ。 一度、我が家の玄関に置き忘れて帰ってしまい、夜中に気づいた俺が、バスタオルにぐるぐる巻きにして自転車の前かごに突っ込み、駅の改札まで全力でペダルを漕いで届けたことがあった。
「……まだ現役だったのか、お前」 「お前って、失礼ですね。この子、キリンですけど、女の子なんですよ?」 「あ、そうでしたか。あの節は、タオルの簀巻きにして自転車のカゴでバウンドさせてしまい、大変失礼いたしました」
俺がキリンに向かって深々と頭を下げると、隣の魚屋のおじさんが「なんだい大宮さん、ぬいぐるみにお辞儀なんかして」と不思議そうにこちらを見ていた。霧子さんが両手で口元を覆い、肩を震わせて笑いを噛み殺した。
「明美が小さい頃は、毎晩のように泥だらけにして帰ってきたのに……高校生になったらちっとも汚さなくなって、洗うのもすっかり忘れていたんです。この子は風に当てて自然乾燥させたいので、日向ぼっこに連れてきたんですよ」
キリンを抱えた霧子さんと一緒に古本屋の軒下を出ると、九月の少し乾いた初秋の風が通り抜けていった。 路地は、陽だまりと日陰で空気の温度がはっきりと分かれている。キリンの短い尻尾の先の毛並みがさらさらに乾くまでには、もう少し時間がかかりそうだった。
コインランドリーの裏手に、区が管理する小さな運動公園がある。 そこへ続く幅の広い歩道には、十年前、まだ駐輪場の白線も引かれておらず、夕方になると放置自転車が溢れかえっていた。 肌寒い冬の夕暮れ、補助輪を外したばかりの小さな赤い自転車に乗って、日菜子が何度も転びながら練習を繰り返したのが、まさにこの舗装路だった。
「海斗さん、覚えていらっしゃいます? 明美があの時、後ろから小さな声で『できる、できる、日菜子は絶対にできる』って、延々呪文みたいに唱えながら小走りでついて回っていたこと」 「ああ……いましたね。あれには本当に助けられましたよ。俺一人だったら、三回転ぶごとに『今日は寒いからもうやめにしようか』って、根負けして引き揚げていたはずですから」 「そうしたら海斗さんがね、日菜子ちゃんの小さな赤い自転車のサドルを一番上まで目一杯上げて、長い足を折りたたんで跨がるでしょう? 大人の男の人がちっちゃい自転車で必死にシャカシャカ漕いで見せて。通りの向こうを歩いていた中学生の男の子が、二度見してましたよ」 「えっ、それは全然覚えてないな……」 「ふふ、私の立っていた後ろ側からだけ、綺麗に見えていたんです」
かつて、実家の母・裕子がアパートへ遊びに来るたびに口にしていたのは、「海斗は昔から自分のことの覚えが悪い」という小言だった。 自分自身の補助輪がいつ取れたのかなんて、記憶の引き出しをいくらひっくり返しても欠片すら出てこない。 けれど——娘の小さな自転車に不恰好に跨がって、もし誰も見ていなければとっくの昔に夕闇の中に消え去っていたはずのあの日の景色が、こうして隣を歩く人の記憶の中に、温かな色合いのまま大切に保存されていたのだ。 どうしたら、この人がこれまで見てきた景色を、俺もこれから隣で同じように見つめることができるのだろう。並んで歩く数百メートル、交わす十分間の会話。その時間は、この先もずっと続いていくのだろうか。 袋の中のキリンは、秋の陽だまりの中で、ずっと機嫌の良さそうな顔をして横を向いていた。
公園の広場の片隅に、焼きたてパンを移動販売する小さな白いワゴン車が止まっていた。 甘いパン生地の香ばしい匂いに誘われ、霧子さんがイチジクと胡桃の入った小ぶりな丸パンを選んだ。俺は、まるで遠足の子どもが選ぶような、たっぷりとホイップクリームの詰まったチョココロネを一本トレーに乗せた。 霧子さんのエコバッグから顔を出したキリンがワゴン車の店主の目を引いたらしく、年配の女性店員が「あら、可愛いお客さんね」と目を細め、「お嬢ちゃんにもどうぞ」と、余った食パンの耳で作った小さなシュガーラスクを一袋おまけで包んでくれた。 俺たちは顔を見合わせ、「ありがとうございます」と妙に調子の揃った声でお礼を言った。
陸上トラックを囲むように設置された、ペンキの剥げかけた緑色の長いベンチに腰を下ろした。 三人掛けの座面の端っこに、秋の日差しを浴びせるようにしてキリンのぬいぐるみを座らせる。
「あの……海斗さん。まず、私の方のお願いからお話ししてもよろしいですか?」 「はい、どうぞ」 「……しばらくの間、大宮さんのお宅で四人で集まって夕飯を食べる回数を、少しだけ減らしたいなと思っているんです」
その瞬間、俺の手元にあったチョココロネの先端から、柔らかい白いホイップクリームがニュッと外へ溢れ出した。 薄い透明なセロファンの糊代のところへクリームがじわじわと広がっていくのを、俺は自分が一体どれほど強い力でパンを握りしめてしまったのか分からないまま、ただ凝視していた。
「……やっぱり、明美ちゃんにとって、良くなかったですか。四人で食卓を囲むのが」 「そうやって、私もあの子に直接聞いてしまったんです。この前の日曜日の夜、うちに帰ってから。そうしたらね、明美に怒られてしまって」
霧子さんの手元の丸パンには、まだ一口も歯の跡がついていなかった。 膝の上で、両手の指先が紙ナプキンをぎゅっと挟んでいる。
「『私が嫌だって言ったら、お母さんは海斗さんのところへ行かないの? もしそうなら、お母さんが行けなくなるの、全部私のせいになっちゃうじゃん』って……泣きそうな顔で言われてしまったんです」 「明美ちゃんが……」 「あんなに気をつけて、あの子の気持ちを最優先にしてきたつもりだったのに。母親の私の顔色の窺い方ひとつで、明美が本当に言いたい言葉を喉の奥に押し込ませてしまっていたんですよね。……だから、明美が私の目を気にしないで、日菜子ちゃんのところへ一人で遊びに行ける日も作ってあげたいんです。そして、うちの部屋で、母娘二人きりで普通のご飯を食べる時間も、ちゃんと大切に残しておきたくて」 「……あ、そうか。俺はまた、霧子さんがもううちへ来たくなくなったのかなって、早とちりして身構えていました」 「もし本当にそう思っていたら、わざわざこんな公園に呼び出したりせず、事務的なメッセージでフェードアウトしますよ」 「そうですね……。いや、俺だったら、傷つけないように理由をつけて少しずつ距離を置くのかなと思ってしまったんです」 「それ、実は私も一瞬だけ頭をよぎったんですよ」
霧子さんはふっと自嘲するように微笑み、秋の乾いた空を見上げた。
「どうせなら何も言わずに、仕事が忙しいって言い訳して回数を減らせば、こんな気まずい話を面と向かって海斗さんに打ち明ける必要もないし、誰も嫌な顔をしなくて済むんじゃないかって。……でもね、もしそんなズルいやり方をしたら、私はきっと、仕事の帰り道にお宅の台所のオレンジ色の明かりが見えるたびに、毎回ちょっとずつ『損をした』ような気持ちになるんだと思ったんです」 「損、ですか?」 「ええ。『私はこんなに相手に気を遣って我慢したのに』って。自分が勝手に遠慮して殻に閉じこもったくせに、その我慢の分だけ相手に察して覚えておいてほしいなんて、大人としてずいぶん虫のいい、醜い話でしょう? なのに、私、放っておいたら絶対にそうやって海斗さんのことを心のどこかで責めそうになってしまって……それがすごく嫌だったんです」
言わなくてもいい自分の弱さをあえて暴き出すようにして、霧子さんはイチジクの丸パンを小さく一口かじった。 咀嚼する微かな音が、風の音に混ざる。
「……うちへ来る回数は減らしたい。でも、俺には会いたい。その二つは、両方とも霧子さんの本心なんですね?」 「はい。自分でも、ちっとも聞こえの良い言葉にできないんですけれど」 「俺だって、自分の気持ちがよく分からないまま、霧子さんを呼び出した日が山ほどありますよ」 「えっ、海斗さんがですか?」 「ええ。自分がただ霧子さんに会いたいから誘っているのか、本当に食材を買いすぎて余らせたからなのか。電話でいきなり『カレーのルーが余りそうなんですけど』って言ってしまえば、自分が会いたいっていう本当の理由を直視しなくて済みますからね」
霧子さんはキリンの短い首の傾きをそっと直した。 俺の右手の中で、チョココロネの先端は完全にぺしゃんこに潰れ、溢れ出したクリームが親指の付け根まで白く汚してしまっていた。 差し出された一枚の紙ナプキンが、初秋の少し強い風を孕んでパタパタとはためいた。
「大事にお持ちくださいね、お客様」 「うちの娘たちには絶対に見せられませんよ、この無様な姿は」 「ふふ、なかなか味があって素敵ですよ」
俺は照れ隠しに笑いながら、紙ナプキンで指先のクリームを丁寧に拭った。 受け取った紙の隅っこに、ボールペンの細い水色のインクで、〈大型乾燥機2番、あと二十八分〉と小さな走り書きがあった。 なるほど、あと二十八分が経過すれば、彼女は洗濯物を取り込むためにこのベンチから立ち上がる。 どこまでも曖昧で無期限に伸びている「これからの未来」の話をするよりも、その『あと二十八分』という現実の区切りがあることが、今の俺には不思議と言葉の重みを支えてくれる足場のように思えた。
「霧子さん。俺、今日のこういう話も、すごく楽しいです」 「え?」 「誰かのために美味しいご飯を作ってもらわなくても、一人で気を回して気兼ねしてもらわなくても、ただこうして霧子さんと二人で話していたいんです。あの映画の、赤い橋の手前で立ち止まって引き返した少年の話……俺、会社の残業中にふと思い出して、一人で考え込んでしまったくらいですよ。キリンが実は女の子だったっていう話も、今夜すぐに誰かに話したくなった」 「それは明美に直接伝えてあげてください。持ち主にとっては重大な設定ですから」 「そうします。……霧子さんは、これから俺と、どうしていきたいですか」
霧子さんが、ゆっくりと俺の方を振り返った。 もし彼女がいつものように、近所付き合いの曖昧な微笑みを浮かべて誤魔化そうとしていたら、俺もまた冗談めかして笑い話にしてしまったかもしれない。 幸いなことに、その時の彼女の眼差しは、眉をわずかに寄せたまま、九月の澄んだ強い日差しを真っ向から受け止めるようにして、真剣に俺の目を射抜いていた。
「……好きなんです。海斗さんのことが」
風の音にもかき消されない、芯の通った凛とした声だった。 俺は一瞬、自分がもうその返事を声に出して伝えてしまったような錯覚に囚われた。こんなにも胸の奥底が激しく震えたのだから、口から言葉になって溢れ出ていたっておかしくないはずだった。 けれど彼女は静かに待っていて、俺はずっと、潰れたコロネを膝の上に乗せたまま座っていた。
「私は……あなたと、二人だけで会いたいです。明美の母親としての付き添いでもなく、日菜子ちゃんに夕飯を食べさせるためでもなく。何の用事も理由もなくても、ただあなたに会いたい」 「……はい」
俺は深く息を吸い込み、彼女の目を見つめ返した。
「俺も……あなたが好きです。霧子さんと、二人きりで会いたい」
言い終えた瞬間、右手の親指の爪の端っこに、拭き残したチョコレートの茶色い甘みが少しだけ残っているのが見えた。
霧子さんは緑色のベンチの木製座面に両手をついた。 そのまま背もたれに後頭部を預けると、雲ひとつない高い秋の青空を見上げながら、深く、長く、ひとつの大きな息を吐き出した。 張り詰めていたすべての糸がふっとほどけたような、無防備で穏やかな横顔だった。 俺はその横顔から、なかなか目を離すことができなかった。 隣のマンションのドアの向こうで、この人はこれほどまでに長く重い息を、一体何年間、たった一人で抱え込んで耐えてきたのだろう。
「……ちゃんと言葉に、できましたね」 「ええ。俺の方こそ、もうちょっと格好のつく状況だと良かったんですけどね」 「キリンが、横でずっと一部始終を見守ってくれていましたから」 「それだけは、明美ちゃんにも内密にお願いします」
赤ん坊を抱き上げるような手つきで、霧子さんがベンチの端にあったぬいぐるみを抱き上げ、自分の反対側の膝の上へと退けた。 三人掛けのベンチの真ん中に、大人の拳ひとつ分の、ぽっかりとした隙間ができた。 今すぐにその距離を詰めようとは、どちらもしなかった。 乾燥機の二十八分が経過したら膝の上の紙袋を畳み、並んで同じ歩幅で歩き出せるくらいの今の距離感が、たまらなく愛おしく、ありがたかった。
「……次の日曜日は、何かご予定はありますか? 二人だけで、どこかへ出かけませんか。やっぱり、映画が良いでしょうか」 「混んでいない、小さな映画館が良いですね。朝一番の上映時間に少し遅刻しても、誰にも怒られないようなところ」 「そんなに時間に厳しい映画監督が、お宅にいらっしゃるんでしたっけ」 「ええ、うちに一人。白石明美監督が、『本編前の予告編からちゃんと観ないなら、映画代を三割引いてもらいなさい』っていつも厳しく指導してくるんです」
顔を見合わせ、声を揃えて笑いながら、俺たちは緑色のベンチから立ち上がった。
コインランドリーのガラス扉を押して入ると、二番の大型乾燥機が軽やかな電子メロディーを鳴らして、ちょうど回転を止めたところだった。 霧子さんが蓋を開け、ホカホカに温まったシーツやカバーを手際よくエコバッグへ詰め込んでいく間、俺はキリンのぬいぐるみを両手で預かった。 太陽の熱と柔軟剤の清潔な匂い、そしてまだ腹の奥の綿に微かに残る冷たい湿り気の重みが、腕の中に伝わってきた。 十年前、バスタオルで雑に巻きつけて自転車の前カゴに放り込んでいた俺も、今度は両手の指先を使って、キリンの首筋から尻尾の先までの布地のシワを、一本ずつ丁寧に撫で伸ばした。
*
夕方、アパートへ戻ると、日菜子は電子レンジから耐熱皿を取り出しているところだった。
「あ、お父さん、いいところに! これ見て、ホットケーキミックスで作った蒸しパンなんだけど、底の部分だけ完全に生焼けなの!」 「俺に見せびらかすと火が通る仕組みなのか?」 「通らないけどさ! ……っていうか、お父さん、なんで今日そんなにニヤニヤしてご機嫌なの?」
ギクリとして、俺は背筋を正した。 娘のその声には刺々しい棘はなく、純粋に、今まで見たこともないような緩んだ表情を父親の顔の中に見つけた、素朴な驚きが含まれていた。 俺は何も言わずに電子レンジの扉を開け、水で濡らしたキッチンペーパーを皿の底に敷き、生焼けの蒸しパンをひっくり返して加熱ボタンを押した。
「日菜子。今度の日曜日……霧子さんと二人で、映画を観に行くことになった」
日菜子の背中が、ピクリと止まった。
「……ふうん。そっか」 「ああ」 「あのさ……それを私に、『楽しんでおいで』って無理に笑顔で送り出してもらいたい顔しないでよね」
日菜子は俺と目を合わせず、レンジの中で回転する蒸しパンの丸い背中をじっと見つめていた。
「分かった。無理に言わなくていいよ」 「……あ、ちょっと見て。ひっくり返したら、底の焦げ目が変な顔の眉毛みたいになってる。スマホで写真撮っとこ」
温め直しの完了を告げる電子音が鳴り、皿をちゃぶ台の定位置へ運ぶと、日菜子はスマートフォンのカメラを構えながら、何気ない調子で言った。
「その日曜日は、私も明美と駅前の大きな文具屋さんへ行ってくるから。文化祭の展示の台紙、あの黒いスチレンボードがもう一枚足りないんだって」
それぞれの、新しい日曜日が始まろうとしていた。
その夜、布団に入って明かりを消したあと、枕元のスマートフォンが短く振動した。 霧子さんから届いたのは、小さな名画座の週間上映スケジュールの写真だった。 俺たちが無理なく待ち合わせできそうな午後の上映回の欄に、細い赤色のボールペンで、柔らかな丸印がひとつだけ付けられていた。
『今度のチケットは、私が二枚、予約してもよろしいですか?』
お読みいただきありがとうございました。
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