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俺が本気で愛されているわけがない 〜四人分の食卓と、十年越しの恋〜  作者: バカヤロウ


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第14章 返事は、仕事の話のあとで


「紙、この一枚だけ残しといていいですか」


 先方の設備担当課長が太い人差し指で押さえたのは、机の上に山積みにされた分厚い家具カタログの束の一番下、コピー機で一度だけ白黒出力された粗いA4の用紙だった。


 カタログが四冊、特注仕様の価格表、CAD図面の縮小コピー、それにウレタンシートの座面サンプル。俺と如月さんはそれらを手分けして抱え、都心から電車を乗り継いだ郊外にある老舗製菓会社の工場を訪ねていた。  敷地の外までふわりと漂う甘いバニラと焼き菓子の匂い。その工場の裏手に新設される従業員用休憩室へ、長椅子とテーブル、ロッカーを一括で納める案件が大詰めを迎えていた。来週の役員会議で最終決定が下る。決して派手な金額の案件ではないが、一日の大半を立ちっぱなしの製造ラインで過ごす工員の方々にとって、足を止めて座れる場所がどんな空間になるかは切実な問題だった。


 先方の課長が指を止めたその一枚は、如月さんが先週、工場の昼休みに現場の従業員一人ひとりに手分けしてヒアリングした生の声と、スマホで撮影した実際の休憩風景を、たった一枚の図表に凝縮したものだった。


「これでしたら、もちろん差し上げます。お役立てください」 「助かりますよ。最初はね、うちの総務の連中も『入り口側にずらっと長椅子を並べた方が、出入りがスムーズでいい』って言ってたんです。でも、この写真を見せられたら、誰も反論できないな」


 課長が指し示した写真の片隅には、パイプ椅子の背もたれに無造作に掛けられた、白い作業着の上着が写っていた。  昼休みの休憩室は予想以上に混み合い、座った人々の背中同士がぎりぎりまで接近している。そして写真の右端には、後ろの人が立ち上がって椅子を引いた拍子に、背もたれから滑り落ちた上着の袖が、床に置かれた別の誰かのトートバッグの持ち手に引っかかっている生々しい瞬間まで、克明に捉えられていた。


「雨の日なんかね、濡れたカッパや上着を背もたれに掛けると、隣の人の綺麗な服に水滴が移っちゃうって……そう言って困ってたの、第一製造ラインのベテランの班長なんですよ。そういう現場の細かい不満って、いくら社内の意見箱を置いたって上までは上がってこない。そこをわざわざ歩き回って聞いてくれたのは、御社だけでしたよ」 「皆さん、貴重な休憩時間にもかかわらず、とても親身に教えてくださいました。この写真も、お顔が映らないアングルで事前にご本人から許可をいただいたものです。この動線図の通り、入り口の脇に幅五十センチの傘立てとコートハンガーを二台分散配置すれば、長椅子を中央に寄せても通路を塞ぐことはありません」


 如月さんが図面を開き、先方の課長を挟んで、二人で机の周囲を回りながらレイアウトを指し示した。  打ち合わせの様子を社内の記録用写真として残すため、俺は椅子の座面サンプルを抱えたまま、一歩引いてシャッターを切った。俺が口を挟む隙など一秒もないほど、彼女のプレゼンテーションは完璧だった。


「大宮さん、これ、実際に座ってみた感じはどうですかね? 背もたれのクッション性とか」 「あ、俺ですか? では失礼して」


 ようやく俺にも出番が回ってきた。三十五歳、一日の七割を外回りですり減らしてきた営業マンの腰を、持ち込んだサンプルの椅子にそっと預けた。  沈み込みすぎず、けれど硬すぎないウレタンが、疲れた腰骨をしっかりと下から押し返してくれる。


「……いいですね。これなら、十分の休憩が終わってもそのまま座っていたくなります」 「それは困るなあ、午後のラインが止まっちゃうよ!」


 課長が豪快に笑い、会議室の空気が一気に和らいだ。  如月さんの作った一枚の資料とサンプル椅子が一脚、次週の役員プレゼン用として、その場に大切に残されることになった。


     *


 帰りの準急電車では、運良く二人並んで座席に腰を下ろすことができた。  重い見本を置いて台車を畳んだおかげで、足元が驚くほど広く感じられる。夕方の車窓からは、低く傾いた九月の西日が差し込み、ガラス越しに遠くの住宅街の屋根を茜色に染めていた。


「如月さん。あのヒアリング資料、現場の生々しい声をよくあそこまで削って一枚に落とし込めたな。苦労しただろ」 「はい……最初は言いたいことが多すぎてA4で七枚分にもなっちゃって、途中で三回くらい、全部破り捨てて誰にも見せたくなくなりました」 「粘った甲斐があったよ。あの班長さんの上着の話が出た瞬間、相手の課長の目の色が変わったもんな」 「……でも、本当は私もあの椅子、座ってみたかったです」 「あ、そうだったな。悪い、俺一人で座り心地を堪能しちゃって」 「いいんです。今度別の現場へ行く時は、私が資料を説明して、大宮先輩に台車を押してもらいますから」


 如月さんは小さく笑い、膝の上のスマートフォンを開いて、社内共有用のメモアプリに『長椅子の脚部、床の保護キャップの予備を多めに納品すること』と指先で二行だけ追記した。  関係のない他人のプライベートなメモを覗き見してしまうような居心地の悪さを覚えて、俺はそっと視線を車窓の流れる景色へと逸らした。


 最寄りのターミナル駅で電車を降り、会社へ戻る道すがら、オフィス街の大きな横断歩道で赤信号に引っかかった。  歩行者用の信号の待ち時間がやけに長い交差点で、二人で歩けば必ず一度は立ち止まる場所だ。夕方の帰宅ラッシュのサラリーマンたちが、俺たちの周囲を足早に通り過ぎていく。


「如月さん」 「はい」 「もし、今夜……少しだけ時間をもらえるかな。どこかで、落ち着いて話がしたくて」


 唐突な切り出しだった。けれど、これ以上先延ばしにすることは、彼女の真剣な好意に対して不誠実極まりないことだった。  如月さんは信号を見つめたまま、一瞬だけ息を呑み、それからゆっくりとこちらへ顔を向けた。


「……今日なら、空いています。明日は妹と約束があるので」 「ありがとう。どこか、話しやすい場所はあるかい? 会社の近くは人が多いから、少し離れたところが良ければ」 「駅の北口の裏通りに、夜もやっている静かな洋食喫茶があるんです。六時半に現地集合でよろしいですか?」 「分かった。じゃあ、一度会社へ戻って日報を出したら、そこへ行こう」


 ピヨピヨと電子音が鳴り、歩行者信号が青に変わった。  如月さんは「行きましょう」と前を向き、背筋を伸ばして横断歩道を渡り始めた。俺は少し底の減った革靴で、彼女の半歩後ろを追いかけた。


 オフィスに戻ると、まずは営業課長への報告だった。  机に飴の袋を置いている宮田さんから梅味のドロップをひとつもらい、如月さんの作った一枚の資料がどれほど相手の心を動かしたかを説明すると、課長は満足そうに「明日の朝礼でその資料、課の全員に配って共有してくれ」と如月さんに指示を出した。


 如月さんが現場の記録写真を共有フォルダへアップロードすると、向かいの席から宮田さんがモニターを覗き込んでニヤリと笑った。


「それにしても大宮、このサンプルの椅子に座ってるお前の写真、なんとも言えない傑作な顔してるな。晴れがましいような、いたたまれないような、微妙な表情だ」 「……宮田さん、そんなところまで拡大して見ないでくださいよ」 「安心してください大宮先輩、役員提出用の資料では、先輩の顔の部分はトリミングして綺麗に切り落としてありますから」 「如月さん、容赦ないねえ!」


 宮田さんが大笑いし、課内の空気が明るく沸き立った。  俺は口の中で梅味の飴をガリッと噛み砕いた。酸っぱい刺激が、乾いた喉の奥に鋭く広がった。


     *


 約束の午後六時半。  北口の細い路地を入った雑居ビルの二階に、その店はあった。  古びた真鍮の看板には、いかにも昔ながらの堂々としたフォントで『洋食』と刻まれており、その隅っこに、遠慮がちな小さな金文字で『コーヒーのみのご利用も歓迎いたします』と添えられていた。  木製の重いドアを開けると、カランコロンとカウベルが鳴り、水色のクラシカルな制服に身を包んだ年配の女性店員が、奥のボックス席へと静かに案内してくれた。  琥珀色のステンドグラスのランプが、飴色に磨き上げられた木のテーブルを柔らかく照らしている。


 向かい合わせに腰を下ろすと、如月さんは膝の上で両手を揃え、視線をテーブルの中央へと落とした。


「……お腹が空いていたら、先に何か軽く頼もうか。夕飯時だし」 「正直に申し上げて、自分が今お腹が空いているのかどうかすら、よく分からないんです。私……そのお話を聞いたあとで、普通にご飯を食べられる自信がありません」 「……そうだな。悪かった。先に、ちゃんと話すよ」


 ここへ来るまでの間、会社の階段でも、駅の通路でも、何度も一人で言葉を選び直した。  傷つけないための前置き、大人の分別を装った言い訳。けれど、ステンドグラスの光の下で真っ直ぐに俺を見つめてくる如月凛という女性の前に座ると、それらの用意した言葉はどれも、他人の借り物のネクタイのように首元に合わず、息苦しいだけだった。


「先月……俺のことを好きだって、言ってくれたよね」 「……はい」 「本気でそう言ってくれたんだってこと、今はちゃんと分かってる。まずそのことを、君に直接伝えたかった。俺みたいな男にそんな真っ直ぐな好意を向けてくれて、本当に嬉しかったよ。あの時、すぐにきちんとした言葉を返せなくて、本当にごめん」


 如月さんは何も言わず、テーブルの上の水の入った脚付きグラスを、両手の指先でそっと手前へ引き寄せた。氷が触れ合って、チリンと小さな音が鳴る。


「俺は……白石霧子さんが好きだ。隣のアパートに住んでいる、前にも話した人だ。もっとこの先も、あの人と一緒にいたいと思ってる。だから……如月さんの気持ちには、応えられない」


 外の大通りを大型トラックが通り過ぎ、窓のステンドグラスの端っこがカタカタと細かく震えた。  テーブルの中央に置かれた革表紙のメニューは、開かれないまま、静かにそこに横たわっていた。


「……それが、先輩のお返事ですね」 「うん。長く待たせてしまって、本当にすまなかった」 「……実は、三割くらいは、望みがあるんじゃないかって思ってたんです」


 如月さんの声は、驚くほど冷静で、低く落ち着いていた。  その落ち着きとは裏腹に、彼女の細い指先は、冷たい結露のついたグラスの表面を白くなるほど強く押し当てていた。


「先週の夏祭りの神社の近くを営業で通りかかるたびに、ずっと考えていたんです。大宮先輩は、あのお祭りに誰と行ったんだろうって。もし月曜日の朝に会社で会ったら、ほんの少しだけでも、先輩のお気持ちが私の方へ傾いてくれているんじゃないかって」


 俺の知らないところで、この人がどんな思いで平日を過ごし、週末の街を歩いていたのか。  向かい合ったこの小さなテーブルの上から見えることなど、ほんの氷山の一角にすぎなかったのだ。俺の見ていない場所でも、彼女は一人の自立した大人の女性として、自分の尊い感情を抱きしめて懸命に生きていた。


「大宮先輩。ひとつだけ、意地悪な質問をしてもいいですか」 「……何でも聞いてくれ」 「先輩は、私のこと……仕事で隣に座っている間も、『どうやって傷つけずに断ろうか』って、そればかり考えながら見ていたことってありますか?」 「……ある」


 少しの間を置いて、俺は嘘をつかずに答えた。


「正直に言うと……昼休みに君の席が空いているのを見ただけで、あのイタリア料理店での約束を思い出して、どう断れば君の誇りを傷つけずに済むだろうかって、胃が痛くなるほど考えた日があったよ」 「……うう、やっぱりそうですか。嫌ですね、それ。すごく恥ずかしい」 「ごめん」 「謝らないでください。でも、今ちゃんと聞いておいてよかったです。これで明日から、もし先輩がデスクでぼんやり遠くを見ていても、『私の告白のせいで悩ませてるのかな』なんて、自惚れた心配をしなくて済みますから」


 俺は喉まで出かかった二度目の「ごめん」を、冷たい水と一緒に喉の奥へと押し戻した。  ここで俺が安易に謝り続ければ、彼女は自分のプライドを守るために、何度も「いいんですよ」と無理に笑って許す役割を演じさせられてしまう。


「しばらくの間、仕事と関係のない個人的なお誘いは、なしにさせていただけますか。私からも、先輩からも」 「ああ、分かった」 「お昼休みも、私が誰とどこで食べようと、自由にしていいですよね」 「それは……もちろん君の自由だ。どうしてそんなことまで俺に断りを」 「冗談ですよ。少しぐらい、拗ねさせてください」


 如月さんはふっと自嘲するように口元を歪めた。


「先輩の退社時間に合わせて一緒に駅まで歩こうと思って、午後の仕事を猛スピードで片付けてた日……結構あったんですからね」


 彼女は一度、深く顔を伏せた。  きっちりと束ねられた黒髪のうなじが、薄暗いランプの光に照らされている。  俺はテーブルの天板の木目を見つめた。古いニスが剥げた小さな傷の窪みに、誰かがこぼした古い珈琲の染みのようなものが、沈んだ色をして残っていた。


 やがて、如月さんがスッと背筋を伸ばし、グラスの水を一気に飲み干した。


「すみません、お水をもう一杯いただけますか」


 通りかかった水色の制服の店員に声をかけ、グラスが満たされると、彼女はメニューの隅を指差した。


「それと、こちらのお持ち帰りのカスタードプリン、ひとつ包んでいただけますか」 「かしこまりました。銀色の保冷カップでお包みいたしますね」


 店員が下がっていくのを見届けてから、如月さんは自分の通勤バッグの持ち手をしっかりと握った。


「今日、帰り道に同期の友達の部屋へ寄って帰ります。今から電話して、捕まったらですけど」 「そうか。……俺は、ここでコーヒーを一杯飲んでから帰るよ」


 如月さんは伝票の挟まれたバインダーをチラリと見てから立ち上がり、レジの前で振り返ると、会社のエレベーターホールで見せるのと同じ、完璧な角度の美しいお辞儀をした。


「大宮先輩。今まで、本当にありがとうございました。明日からも、営業第一課の主任として、ビシバシご指導をお願いいたします」 「ああ。明日からも、よろしく頼むよ」


 カウベルがカランと鳴り、木製のドアが閉まった。  再びやってきた店員が、俺の前に深煎りのブレンドコーヒーのカップをことんと置いた。


 ソーサーの白い陶器の端っこに、個別包装された小さなビスケットが二つ、ちょこんと添えられていた。  ひとつは日菜子の土産に持ち帰ろうかと、長年の父親としての反射神経が指を動かしかけた。  けれど——今夜ばかりは、誰かのお土産にしてはいけない気がした。  俺は二つの銀色の包み紙を指先で丁寧に破り、少し湿気た硬いビスケットを、二枚とも自分の口の中に放り込んだ。  熱く苦いブラックコーヒーを含み、噛み砕いては飲み込み、また一口含んだ。甘いはずのビスケットが、喉を通る時だけ、鉛のように重く胸の奥へ落ちていった。


 店を出て駅へ向かう道すがら、高架線を走る電車の窓の明かりが、いつもよりやけに細かく、滲んだように眩しく見えた。


     *


 翌朝の火曜日、午前九時半。  第一会議室で行われた営業一課の朝礼で、如月さんは昨日製菓会社で絶賛された、あのA4一枚のヒアリング資料を、課員全員の机の真ん中へと淀みなく配り終えた。


「課長。次期の社内設備改善プロジェクトですが、私に、自社の休憩室改修の担当を兼任させていただけないでしょうか」


 凛とした、少しも震えのない通る声だった。


「昨日、先方の設備課長から『御社ではどんな休憩スペースを作られているんですか?』と尋ねられた際、自社の環境について即答できなかったのが悔しくて。まず自分たちの足元の職場環境を知ることから始めたいと考えています」 「お、いいねえ。うちは先に給湯室の蛇口のパッキンを取り替えてほしいけどな!」


 通路の向かいで宮田さんがドッと笑いを取り、課長も満足そうに腕を組んで頷いた。


「そのご意見も含めて、お昼休みや休憩時間にヒアリングシートを回します。本来の営業ノルマの時間を削るつもりはありません。ただ、この会社で誰がどこで、どんなふうに十秒でも足を休められる場所を必要としているのかは、正確に把握しておきたいんです」


 いつもの、仕事に対する妥協を許さない如月凛の顔だった。  朝礼が終わり、全員が席へ戻る流れの中で、彼女は一度も俺のデスクへ視線を向けることはなかった。隣の席の女性の同僚と「昨日のプリン、美味しかったよ」と小声で笑い合いながら、手際よく午前中の見積書を整理し始めている。  俺は自分の引き出しを開け、机の上に置かれていた明美ちゃんの写真を、パソコンのモニターの影から少しだけ手前へと立て直した。  小さな四角い枠の向こう側で、今日も穴の空いた小松菜の葉っぱと、赤いレジ袋の持ち手が、誰かの日常の静かな温もりを湛えて写っていた。


 手元のスマートフォンを取り出し、アドレス帳を開く。  呼び出したのは、隣のマンションに住む彼女の名前だった。


『白石さん。今度、二人だけで少しお話しできませんか』


 画面にそう打ち込み、送信ボタンを押した。  カレーが余ったからでも、タッパーを返すついででもない。  何かの言い訳で誤魔化すための余計な前置きは、今度は一行も付け足さなかった。


お読みいただきありがとうございました。

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