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俺が本気で愛されているわけがない 〜四人分の食卓と、十年越しの恋〜  作者: バカヤロウ


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13/23

第13章 ぎこちない朝にも、お弁当


 八月の最後の週、台所の流し台に置かれたプラスチックのお弁当箱は、実に親切で有能な同居人だった。


 朝、俺が卵焼きや炒め物を手早く詰め、フタをして日菜子に渡す。  夕方、部活と文化祭の準備を終えて帰ってきた日菜子が、空になったそれを流しの水に静かに浸けておく。  お弁当箱は、自分から余計な口を利かない。だからこそ、こちらの機嫌を伺わせることもなければ、昨夜の気まずい沈黙を蒸し返すこともない。日菜子との会話がぎこちなく途切れがちだったあの数日間、この二段重ねのプラスチック容器ほど円滑に我が家の生活を回してくれた存在はなかった。


「今日、帰りは何時くらいになりそうなんだ?」 「……分かんない」 「駅まで迎えに行こうか?」 「いい。歩いて帰れる」 「そうか」 「……明日も、お弁当、お願いします」


 会話の最後だけ、妙に他人行儀で礼儀正しくなる。  お弁当は必要です、文化祭の作業は遅くまで続きます、それ以上の詮索は不要です、以上——という具合だ。会社の営業進捗報告なら、文句なしに満点をあげられる簡潔さだった。


 木曜日の夜、スポンジに洗剤をつけてお弁当箱を洗っていた時、フタの裏側のゴムパッキンの溝に、黒いひじきが一本だけ挟まっているのを見つけた。  細長くて真っ黒で、一瞬、日菜子の髪の毛が紛れ込んだのかと心臓が跳ねた。爪楊枝の先でつまみ出して匂いを嗅ぎ、昨朝詰めたひじきの煮物だと分かって安堵の息を漏らす。  危ないところだった。もしこれに気づかず、明日の朝そのままご飯を詰めてしまっていたら、ただでさえ薄氷を踏むような父娘の関係に、もうひとつ余計な不和の火種を持ち込むところだった。


 風呂から上がり、濡れた髪にタオルを巻いた日菜子が台所へやってきて、カゴで水切りされていた弁当箱を手慣れた様子で組み立て、俺の目の前へコトンと置いた。


「お父さん。ひじきの煮物、しばらく入れなくていいや」 「ん? 髪の毛に見えるからか?」 「違う。今日のお昼休み、前歯の真ん中にひじきがくっついてたのに、誰も教えてくれなかったの」


 日菜子は唇を指で持ち上げ、上の前歯のど真ん中を指差した。


「明美ちゃんが一緒なら、すぐに笑って教えてくれそうなもんだけどな」 「明美とは今日、お昼一緒に食べてないもん。教室が別の棟だし」 「あ……そうか」


 先週の市民ギャラリーの件以来、明美ちゃんとの間にどんな空気が流れているのか、父親としては気になって仕方がない部分だった。けれど、洗面所へ戻っていく娘の背中に向かって、俺はただ「了解、ひじきは当分お休みにしておくよ」とだけ声をかけた。


     *


 九月に入って最初の土曜日。  朝からアパートの玄関を開けると、狭いタタキに巨大な黒いスチレンボードが壁に立てかけられていた。  サンダルを履こうとしてうっかり肘が触れ、ボードがギシッとたわんだ瞬間、奥の日菜子の部屋から「触らないでー!」と悲鳴のような制止の声が飛んできた。


「すまん! でも日菜子、これじゃ外に出られないぞ」 「表面のマット加工に手の脂がつくと取れないの! ごめん、そのまま動かさないで。もうすぐ明美が来るから、来たらすぐ居間へ運ぶから!」


 その口から、何事もなかったかのように「明美」という名前が自然に転がり出てきたことに、俺は胸の奥でホッと胸を撫で下ろした。  途端に機嫌が良くなった俺は、奥の部屋へ注文を取りに行った。


「お二人さん、飲み物は冷たい麦茶でいいか? 作業用のおやつは何がいい? 昼飯は商店街で焼きそばでも買ってくるか?」 「お父さん。ひとつだけ、大至急お願いしていい?」 「おう、何でも言ってくれ」 「昼前に商店街へ行くなら、文具屋さんに寄って、デザインカッターの細い替え刃を買ってきて。あと、剥がしても跡が残らない弱粘着の仮止めテープと、指についても水で簡単に落ちるペーパー糊」


 忘れないように紙に書いてくれと頼むと、日菜子はすでに使い切って空になった製品のパッケージ箱を三つ、まとめて俺の手のひらに押し付けてきた。これなら、文具に疎い中年男でも絶対に買い間違えようがない。


「それからね、作業中にお菓子は絶対食べないから買わなくていいよ」 「そうなのか? 頭を使うと糖分が欲しくなるぞ」 「手が汚れて紙にシミがついたら一発でやり直しなの。お父さんが自分の分のお菓子を買うのは自由だけど、音がしないものにしてね。お煎餅とか絶対ダメだから」 「ずいぶん厳しい現場監督だな」


 日菜子はさらに、手書きのメモ用紙を一枚、そっと差し出してきた。  そこには〈白い色鉛筆、または白のポスカ(極細)〉と書かれていた。黒い台紙の上に、写真の配置ガイドとなる下書きの直線を引くために必要なのだという。  俺は昨夜、ひじきの一本で大騒ぎした同じ台所で、今度は黒い闇の中に引くための白い光を探しに、商店街へパシリに出かけることになった。


 文具屋で買い物を済ませて戻ってくると、玄関には見慣れた明美ちゃんのローファーが揃えて置かれており、例の黒いボードは居間のちゃぶ台いっぱいに広がっていた。  俺はレシートと小銭を袋ごと日菜子に手渡した。日菜子は、裏に『文化祭広報費』と几帳面に鉛筆で書かれた茶封筒から、一円単位まできっちりとお釣りを精算して返してくれた。


「はい、お父さん。頼まれてた白い鉛筆」 「ありがとう。くれぐれもカッターで指を切らないようにな」 「あ、お父さん、後ろ! お尻!」


 日菜子の叫び声に振り返ると、作業で出た細長い黒い紙の切れ端が、俺のスラックスのポケットに引っかかって、まるで黒猫の尻尾のようにユラユラと引きずられていた。


「うわ、悪かった。これ、使うパーツだったか?」 「ただの切れ端だから大丈夫です。あ、海斗さん、むしろそのままそこへ座ってもらえませんか? こっちの端っこの紙が、丸まりグセがついちゃって浮いてきちゃうんです」


 明美ちゃんが屈託のない笑顔で畳をポンポンと叩いた。  なるほど、俺も文化祭準備の大切な作業員の一人として頼りにされたのだなと誇らしく思ったのも束の間、実際に与えられた役職は、ただの「人間文鎮」だった。  座布団の上に腰を下ろし、膝の横で黒い厚紙の角をじっと押さえ続ける。  日菜子が五十センチのステンレス定規を当て、明美ちゃんが俺の買ってきた白い鉛筆で、ミリ単位の印をつけていく。写真の白いフチを少しだけ隠し、黒い窓枠のように見せるための特殊なカッティングだという。  昔、小学校の図工で年賀状の版画を彫っていた頃を思い出させるような、無駄のない二人の指先の連携だった。


 明美ちゃんは余った台紙の隅っこに、先週の市民ギャラリーの公開講評会で見せたという写真を置いた。  商店街のタバコ屋の店先で、丸いパイプ椅子の上にレジ袋が置かれている、あの写真だ。夕暮れの光の中で、タバコ屋のおばあさんの足元の影が、店の中へ向かって長く伸びている。袋の口からは、青々とした小松菜の葉がはみ出していた。


「でね、この影のかかとまで画面に入れるためには、カメラをあと半歩右へ振るべきだったって、プロの先生に言われたんです」 「なるほどな。確かに言われてみれば、おばあさんのかかとが写真の右端で数ミリ切れちゃってるな」 「先生はそこが構図として気になったの。でも、明美が本当に撮りたかった主役は、ここなんだって」


 日菜子が両手の人差し指と親指で小さな四角い枠を作り、写真の一部を覗き込むように切り取って見せてくれた。  小松菜の一番大きな葉っぱに、虫食いの小さな穴がひとつ空いていて、その穴の隙間から、レジ袋の赤い持ち手がほんの少しだけ顔を覗かせていた。


「私は、もっと左へ寄って、この赤い持ち手の色を主役として引き立てるべきだったって反論したんです。そうしたらね、先生、両手でこの影を隠して、『その話をするなら、そもそもこのおばあさんの人影自体がいらないんじゃない?』って意地悪そうに笑うんですよ。……やっぱり、今思い出してもすごく悔しいです」


 悔しいと言いながらも、明美ちゃんの瞳は生き生きと輝いていた。  俺も親指と人差し指で枠を作り、写真のあちこちをトリミングする真似をしてみた。確かに、人影を全部消してしまうと丸椅子と野菜だけの無機質な静物画になってしまうし、かかとを全部入れようとすると全体のバランスが散漫になる。  名もなき誰かが買い物の荷物を置いて一息ついた、日常のたった数分間の風景の中に、驚くほど深い物語が詰まっている。


「でね、もう一枚あるの。明美、あれ出していい?」 「待って、先にこの小窓の試し切りをしてから。カッターの刃が定規の下に潜り込んじゃうから、定規しっかり押さえてて」


 サクッ、と心地よい音を立てて、厚紙から四角い小窓がひとつくり抜かれた。  日菜子が自信満々に「じゃーん!」と声を上げ、くり抜いた黒い台紙を明美ちゃんの写真の上へ重ねた。  すると、おばあさんの影も、小松菜も、夕暮れの路地もすべて黒い闇に覆い隠され、ぽっかり空いた真ん中の四角い穴の中に、パイプ椅子の銀色の脚のパイプ一本だけが、間抜けに現れた。


「……鉄パイプ?」


 明美ちゃんが真顔で呟いた。  日菜子は首を傾げ、台紙をクルリと横倒しにした。  今度は、椅子の座面の端っこと、白いビニール袋の切れ端だけが写っている。まるで工場のベルトコンベアの部品検査のようだ。


「日菜子、何この穴のサイズ」 「写真のフチが上下左右一センチずつ重なるように計算して……あ。引き算の向き、完全に反対にした。窓の大きさと、残すフチの寸法、逆に書いて切っちゃった」


 明美ちゃんはその失敗した四角い小窓を指でつまみ上げ、穴の向こうから俺の顔をじっと覗き込んだ。  それから隣の日菜子の丸い頬を透かして見た。  何か言おうと口を開けかけたが、耐えきれなくなったように机に突っ伏し、肩を激しく震わせて笑い出した。


「待って……! これ、お父さんの顔にかざしたら、『大宮海斗の目尻のシワ展』ができる!」 「やらなくていいよ! お願いだから勘弁してくれ!」 「いらっしゃいませー! 順路はこちらです! 一番の展示は『笑った時の目尻のシワ』、二番は『困った時の右眉』でーす!」


 日菜子が俺の顔の前に四角い厚紙を掲げ、美術館の館内ガイドのような澄ました声を出した。  明美ちゃんが穴の向こうの俺の右目をじっと観察したあと、「すごい、こうやって黒い額縁で部分だけに切り取ると、急に現代アートの美術館っぽく見えますよ」と涙目で笑った。  行き場を失った四センチ四方の小さな四角い穴は、こうして俺の顔の上を、ずいぶん長い時間あちこち移動することになった。


 失敗した紙の余白で、夕飯の時に使えそうな四角いコースターを四枚切り抜いたところで、ようやく作業の一区切りがついた。  俺はちゃぶ台の上の、小松菜と椅子の脚の写真を持ち上げ、二人に尋ねた。


「これ、俺の会社のデスクの引き出しに飾りたいんだけど、一枚譲ってもらえないか?」 「展示に出すのと同じA4サイズに伸ばしたら、四隅の加工代込みで四百円ね」 「おい、作者の目の前で勝手に価格設定するな」


 明美ちゃんは首を傾げ、「小さなサイズでよければ、テストプリントした予備が一枚ありますよ」とトートバッグから封筒を取り出してくれた。  日菜子がその裏面に、さっきの白い鉛筆で『海斗美術館へ寄贈』と達筆で書き込み、明美ちゃんがその横に、恥ずかしそうに小さな英文字でサインを添えてくれた。


 俺が台所へ行き、洗面所の蛇口で麦茶のグラスを洗っていると、背後から日菜子がやってきた。


「ねえ、お父さん」 「ん?」 「あの……先週の夜のことだけどさ。私だって、全然すっきり割り切れてたわけじゃないんだからね」 「……うん。悪かったな」 「うん」 「日菜子は俺の娘でいられるんだからいいじゃないか、みたいな言い方になっちゃって……本当にごめん。あれは、俺がずるい逃げ方をした」 「……そこ、明美にも同じこと言われてさ。私、何て言い返せばいいか全然分かんなくなっちゃったんだよね」


 スポンジの泡を洗い流し、蛇口をキュッと締める。  水音が消えた台所に、食器棚のガラス戸を閉めるカチャリという音が、やけに澄んで響いた。


「私もさ、『明美も私と同じなんだから』って言っちゃったけど……全然同じじゃないよね。明美には明美の、十年間があったんだもんね」 「そうだな」 「それに、日菜子は台紙の寸法の引き算すら間違えるしね」 「……ちょっと、明美! 今それ全然関係ないでしょ!」 「ふふ、関係ないけど、一緒くたにされると困るから」 「……もう、腹立つー!」


 二人の笑い声が、台所のタイルの壁に柔らかく反響した。  カッターナイフが定規に沿って紙を断ち切る、サクッ、サクッという規則正しい軽快な音が、再び居間から聞こえてきた。


 冷凍庫を開けると、アイスの箱の隅っこに、一口サイズのバニラアイスが二つ残っていた。  口に放り込むと、ひんやりとした甘みが舌の上で溶けていった。なるほど、これなら娘たちの作業を邪魔する音は、一切鳴らない。


 夕方五時半を回った頃、玄関のチャイムが控えめに鳴った。  ドアを開けると、霧子さんが、先週うちの台所に置き忘れていったステンレスの丸いザルを取りに来ていた。  玄関先から首を伸ばして居間の様子を覗き込み、「あ……二人とも、笑ってますね」と、胸のつかえが取れたように小さく息を吐き出した。


「俺だけ、人間文鎮として散々こき使われましたけどね」 「ふふ、お疲れ様でした。私がいま混ざったら、寸法の計算で日菜子ちゃんと一緒に怒られそうですね」


 霧子さんは持参したビニール袋にザルを入れようとしたが、直径が大きすぎて持ち手が入らなかった。結局、「このまま持って帰りますね」と笑い、肘の関節のところにザルを引っ掛けた。夕暮れの光の中で、まるで銀色の立派なハンドバッグのようだった。


「海斗さん。私、あのあと明美とちゃんと話せました」 「そうですか」 「私が海斗さんのことをどう思っているか、母親としてじゃなく、一人の人間としてどう感じているかだけを、正直に話しました。その場で明美に『お母さんはどう思うの?』って無理に答えを出させそうになって、必死で我慢しましたよ。……親って、本当に難しいですね。娘が黙り込んでしまうと、自分が安心したいがために、どうしても余計な詮索をしたくなってしまうんです」 「すごくよく分かります。俺なんて、今週はずっとプラスチックのお弁当箱とだけ連絡を取り合ってましたから」


 ひじきの一本の事件を話すと、霧子さんは口元に手を当てて、声を立てずに肩を揺らして長く笑った。  そして、玄関の三和土から一段降りて靴を履き直したところで、居間から日菜子の叫び声が響いた。


「霧子さん! 今夜、うちで一緒にご飯食べていけばいいじゃん!」 「えっ? でも今日は、うちの冷蔵庫の挽き肉を早く使い切ってしまわないと傷んでしまうから……」 「なんの挽き肉?」 「豚と牛の合い挽き肉。二百グラムくらいですけど」 「じゃあ、それ持ってきて! うちでお肉とお芋合わせちゃえばいいじゃん!」


 結局、銀色のザルを保冷剤の上に鎮座させ、二百グラムの生の挽き肉が、隣棟との国境を越えて我が家の台所にやってきた。  俺が昼の買い出しのついでに山ほど茹でておいたジャガイモをすりこぎで潰し、四人で即席の手作りコロッケを作った。具材の分量を日菜子が目分量で入れすぎたらしく、油に入れて三つ目の途中で衣が派手に破裂し、俺と霧子さんはコンロの前から目が離せなくなった。


「あ、それ私にちょうだい! 破裂して形が崩れたやつの方が、衣がカリカリしてて好きなの!」 「日菜子にあげる。その代わり、さっきの失敗した写真、絶対に文化祭に出さないでね」 「いいじゃん、明美が自分でシャッター押したブレブレの写真。味があって現代アートっぽいのに」 「揚げたてのコロッケ味見してる時の口が、完全にタコみたいになってるから絶対に嫌なの!」


 四枚の不揃いな取り皿をちゃぶ台の上で回していると、テーブルの真ん中に、俺が買ってきたあの白い鉛筆が一本、ぽつんと残されていた。  日菜子がそれを、空になった牛乳瓶の中にスッと挿した。  その夜の四人は、ここに集まって食卓を囲むことの法的な意味だの、家族としての資格だのといった小難しいことを考えるゆとりなど誰一人としてなく、黒い紙くずの散らかったちゃぶ台の隅っこで、ひたすら揚げたての熱いコロッケをハフハフと頬張った。


 白石母娘が帰り、静まり返った台所の冷蔵庫の側面に、一枚のプリントが増えていた。  文化祭のタイムスケジュール表だった。  日菜子が白い鉛筆で下書きして読めなくなった箇所の上に、赤いボールペンで力強く書き足されていた。 〈一般公開は午前十時から。うちらの展示は二階の視聴覚室!〉


 俺は台所の壁掛けカレンダーの同じ日付の四角いマス目に、赤いペンで、力強く丸印をつけた。


お読みいただきありがとうございました。

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