第11章 娘の言葉に、父の返事を
日曜日の午前十時。 隣のマンションの二階、白石家の玄関ドアをくぐった瞬間、鼻腔をくすぐったのは、我が家の男所帯とは明らかに違う、ほのかに甘く清潔な匂いだった。 シトラス系の柔軟剤の香りか、あるいは靴箱の上に飾られた小さな素焼きの小瓶のアロマオイルか。いつも玄関先で回覧板やタッパーを受け渡すだけの時には気づかなかった、他人の家庭が長い年月をかけて育んできた、静かで温かな生活の匂いだった。
「海斗さん、どうぞ上がってください。散らかっていますけれど」
霧子さんは淡いリネンのエプロンを外し、ダイニングの四角いテーブルへと俺を案内してくれた。 リビングの窓辺の椅子には、昨夜の夏祭りで明美ちゃんが肩から提げていた藍色の巾着袋が、まだ少し祭りの余韻を残すようにちょこんと掛けられている。明美ちゃん本人は、今朝早くから写真部の友人と近所の植物園へ撮影に出かけているとのことだった。
霧子さんは冷蔵庫からガラスのピッチャーを取り出し、透明な丸いコースターの上に、氷を浮かべた冷たい麦茶のグラスを二つ並べてくれた。 カラン、と氷が触れ合う澄んだ音が、静まり返った部屋に小さく響く。
「急に連絡してしまって、すみませんでした」 「いいえ。昨夜のお祭りの写真のお礼かと思いました」 「それも、もちろんあります。綺麗に撮っていただいて」
俺は手元のグラスを見つめた。 冷えたガラスの表面にびっしりと水滴がつき始めている。持ち上げれば木目調のテーブルクロスに丸い輪染みが残るかもしれないと、どうでもいい些細なことばかりに思考を逃がそうとしてしまう。 向かい側に座った霧子さんは、自分から続きを急かすようなことは決してしなかった。ただ両手を膝の上で重ね、俺が自分の胸の中の澱を言葉にするのを、静かな眼差しで待ってくれていた。
「……昨日、お祭りから帰ったあと、実家の母が置いていった昔のアルバムを開いたんです」
重い口を開くと、喉の奥のつかえが少しずつ解けていくような感覚があった。
十四年前の、元妻との最後のドライブの写真を見たこと。 あの日の自分は確かに楽しかったし、家族三人でずっと幸せにいられると信じ込んでいたこと。 それなのに、その楽しさのすぐ足元にぽっかりと落とし穴が空いていて、すべてを失ってしまったこと。 昨夜の夏祭りの楽しさと、提灯の光の下で笑い合った時間の温もりが、あの日とあまりにも重なってしまい、また自分だけが一人で浮かれて何かを見落とし、全部を壊してしまうのではないかと、猛烈な恐怖に襲われたこと——。
「……楽しい時間を過ごすと、後からすごく怖くなるんです」
吐き出すように言うと、霧子さんは伏せていたまつ毛をゆっくりと持ち上げた。
「変ですよね。三十五にもなった大人の男が、十代の子どもみたいに過去の傷に怯えて、一人で勝手にパニックになってるなんて」 「変なんかじゃ、ありませんよ」
霧子さんの声は、驚くほど柔らかく、けれど芯の通った確かな重みを持っていた。
「私も……まったく同じ時がありますから」 「霧子さんも、ですか?」 「ええ」
彼女は視線を少しだけ彷徨わせ、レースのカーテン越しに夏の日差しが揺れるベランダの窓へと目を向けた。
「前の夫と離婚したのは、明美がまだ二歳の春でした。……あの人、結婚した時から、外にずっと別の方がいらしてね。日曜日の夕方になると、必ず何かと理由をつけて、私とまだ言葉も覚えたてだった明美を家に置いて、その人に会いに行っていたんです」
静かな部屋に、壁掛け時計の針がコチコチと規則正しく刻む音だけが落ちた。 十年の付き合いの中で、彼女が元夫の具体的な別離の理由を口にしたのは、これが初めてだった。
「だから私、ずっと後まで……明美が小学校に上がってからも、日曜日の夕暮れ時が、息が詰まるほど苦手だったんです。窓の外がだんだんオレンジ色に染まって、影が長くなってくると、急に胸の奥が冷たくなって……明日の朝には自分の仕事があって、明美を学校へ送り出さなきゃいけなくて、全部を私一人で背負って回していかなきゃいけないのに、本当に私なんかにできるんだろうかって、部屋の隅で膝を抱えて震えそうになってしまって」 「……そんなふうには、外からはまったく見えませんでした」 「見えないように、必死で笑って取り繕っていたのかもしれません」
霧子さんは自嘲するように小さく口元を緩め、それから手元のグラスを両手の指先でそっと包み込んだ。
「でも、海斗さんや日菜子ちゃんが、夕方に『カレー作りすぎちゃったんですけど』ってお鍋を持ってきてくれたり、明美と一緒に笑ってくれたりするのを見るたびに……あの日曜日の夕方の冷たい影が、少しずつ、少しずつ、あたたかい光で上書きされていったんです」 「霧子さん……」 「昨日の夜、日菜子ちゃんとお話しできたんですよね」 「……はい。娘に、余計な心配をかけて、言わせなくてもいいようなことを言わせてしまいました」 「『私が知ってるお父さんまで、なかったことにしないで』——でしたね」
先ほど俺が口にした娘の台詞を、霧子さんが愛おしそうに声に出してなぞった。
「日菜子ちゃんは、自分が十四年間、一番近くで愛されて育ってきた確信があるから、そう言えたんだと思います。あの子のその言葉は、何者にも代えがたい本物ですよ」 「……そうですね。あの子に救われました」 「でも」
霧子さんは視線を上げ、俺の目を真っ直ぐに見つめ返した。
「ここでは、私が海斗さんのお話を聞きます。娘さんの前では言えないようなかっこ悪い弱音も、情けない愚痴も、全部ここで私に置いていってください」
胸の奥底にあった冷たく硬い塊が、お湯を注がれたようにじんわりと溶けていくのを感じた。 俺は深く頭を下げ、頷いた。
「実は今朝、ここへ来る前……ドアのインターホンを押す直前に、怖くなって引き返そうかと思ったんです」 「うち、目と鼻の先なのにですか?」 「すぐそこだからこそ、自分の部屋へ逃げ戻るのも簡単でしたから」
霧子さんの目尻がふっと下がり、声を出して柔らかく笑った。
「ふふ、逃げ出さないで、ちゃんと上がってきてくださってよかったです」
俺は手元のグラスを持ち上げ、冷たい麦茶を一気に飲み干した。 コースターの上の水滴は、綺麗な丸い跡のまま、テーブルの上に静かに残っていた。
「海斗さん。またいつでも、お茶だけでも飲みにいらしてくださいね。何かのお礼や口実なんて、何もなくていいですから」
玄関の三和土でスニーカーを履き直した俺に、霧子さんがドアを押さえながらそう言って微笑みかけてくれた。
「……はい。ありがとうございます」
俺はもう一度しっかりと頭を下げ、彼女の穏やかな眼差しに見送られながら、外の渡り廊下へと出た。 八月の強い日差しが照りつけていたが、今朝までの重苦しい息苦しさは、どこにもなかった。
アパートの自分の部屋へ戻ると、日菜子は居間のちゃぶ台で、夏休みの現代文の教科書を開いて読書をしていた。 俺が鍵を開けて入ってくる気配に気づくと、パタンと本を閉じて振り返る。
「……お父さん、話せた?」 「ああ。霧子さんに、全部聞いてもらったよ」 「……そっか。よかった」
日菜子は教科書を一度開きかけ、けれどすぐに思い直したように再び閉じた。その指先が、表紙の紙の端をぎゅっと小さく丸めている。
「ねえ、お父さん。今日の夜、少しだけ二人で話せる?」 「もちろんいいぞ。今じゃなくていいのか?」 「……うん。夜がいい。夕飯食べて、お風呂も全部終わったあとの夜がいい」 「分かった。じゃあ、夜にな」
その日の夕食は、暑さを吹き飛ばそうと、冷水で締めた冷やしうどんにした。 日菜子はトッピングの刻み海苔の袋を開ける時、指先に力が入りすぎたのか、ドサッと大量の海苔を器の上にこぼしてしまった。普段なら「海苔の山盛り丼じゃん!」と大笑いするところだったが、今夜は二人とも、麺が見えなくなるほど真っ黒になった海苔の山を、無言で見つめただけだった。
午後八時半。 シャワーを浴び終えた日菜子が洗面所から出てくると、俺は台所の換気扇を止め、蛍光灯の電気を落とした。 日菜子は居間のテレビの電源ボタンをリモコンで消した。画面が真っ暗になり、部屋の中からすべての人工的な雑音が消え去った。
「お父さん、ここ。座って」
日菜子がちゃぶ台の向かい側の座布団を指差した。 俺は無言で腰を下ろした。 テーブルの上には、コップひとつ、ティッシュ箱ひとつ置かれていない。いつもの散らかった生活感が完全に片付けられ、日菜子の膝の上にある両手だけが、そこにあった。
「私……何か怒られるんじゃないかって顔してる?」 「……少し、してるな」 「お父さんが、だよ」 「ああ……俺か」
日菜子は微かに笑おうとして、けれど口元を引き結んでやめた。 膝の上で、右手の指先が左手の甲をぎゅっと強く握りしめている。
「お父さん。私……お父さんのこと、好きだよ」
俺は「ああ、知ってるよ」といつもの調子で相槌を打とうとして、喉元で言葉を止めた。 娘の声のトーンが、普段の甘えるような響きや、悪態をつく時の明るさとは、まるで違っていた。低く、深く、張り詰めていた。
「家族だから大切とか、育ててくれたから感謝してるとか……そういうのだけじゃなくて」
壁の柱時計が、カチリとひとつ、静かに針を進めた。
「一人の男の人として、好きなの」
心臓がドクンと嫌な音を立てて跳ね上がり、俺は膝の上に置いていた両手の位置を無意識に直した。 何か言わなければと口を開けかけたが、日菜子はまだ顔を上げていなかった。
「……ちゃんと、途中で止めないで、最後まで聞いて」 「……ああ。聞くよ」 「中二の冬に……私とお父さん、血が繋がってないって、本当の親の話をしてくれたでしょ」 「ああ」 「でもね、その前から……たぶん、もっとずっと前から、そうだったの」
日菜子は細い息を吸い込んだ。
「中学の進路面談の帰り道、お父さんが担任の先生に言ってくれたこと、覚えてる? 私が志望校の欄に何も書けなくて、先生に怒られそうになった時」 「……まだやりたいことが決まってないなら、無理に今すぐ書かなくていいって言ったことか?」 「うん。お父さん、学校の先生とか大人の前だと、いつも緊張して猫背になるくせにさ。あの時だけは、真っ直ぐ先生の目を見て、私の代わりにちゃんと言ってくれた」 「……先生の前で緊張するのは、余計な情報だ」 「そういうところだよ」
日菜子の唇が、かすかに震えながら動いた。
「優しいだけじゃなくて、私が本当に困ってる時に、私には言えない言葉を代わりに言って守ってくれるところ。不器用なくせに、私の前では絶対にかっこつけようとするところ。笑う時に、いつも困ったみたいに目尻が下がるところ……」
日菜子は一度、胸がいっぱいになったように息を詰まらせた。
「お父さんなのに、って何度も思ったよ。お父さんに対してこんな気持ちになるなんて、私、頭がおかしいのかな、変な子なのかなって、ずっと苦しかった。でも……血が繋がってないって分かった時、心のどこかでホッとしちゃったの。もしかしたら……私が大人になったら、いつかはって」
俺の胸の中で、無数の言葉が激しく衝突し、砕け散っていった。 まだ高校一年生だから感情が混乱しているだけだ、とか。二人きりで暮らしてきたから父親への執着と恋愛感情を混同しているだけだ、とか。もっと外の世界へ出ていろんな同年代の男を知れば変わる、とか——。 そんな大人の都合のいい理屈で撫で斬りにすれば、この場を穏便に収めることはできるかもしれなかった。 けれど、日菜子はそんな逃げ道を作ってほしくて、命を削るような思いで告白しているのではないのだ。
「いつか……お父さんのお嫁さんになりたいって、本気で思ってたの。小さい子どもが言う冗談なんかじゃなくて、一人の女の人として」
俺は目を逸らさず、深く、ゆっくりと頷いた。
「……話してくれて、ありがとう、日菜子」
娘がようやく顔を上げた。 涙でいっぱいに潤んだ、真っ直ぐな瞳だった。その瞳の純粋な熱量を見つめていると、胸が引き裂かれるように痛んだ。 この子を傷つけずに済む逃げ道が、この世界のどこにも存在しない。
「日菜子の気持ちを、子どものわがままだとか、ふざけてるだなんて、これっぽっちも思わないよ」 「……うん」 「でも……俺は、日菜子の恋人にはならない。結婚する相手にも、絶対に選ばない」
日菜子の膝の上の指先に、白くなるほど強い力が込められた。
「……今は、私がまだ高校生だから?」 「今だけの問題じゃない」 「じゃあ、私が高校を卒業して、大人になっても……?」 「卒業しても、二十歳になっても、三十歳になっても同じだ」
日菜子がガクリと下を向いた。 細い肩が小刻みに震え始めたが、声は漏れなかった。必死に喉の奥で嗚咽を堰き止めているのが分かった。 俺は膝の上の両手を、握りしめずに開いたまま置いていた。
「俺は、お前の父親でいたいんだ」
静かな部屋に、自分の声だけが低く響いた。
「血が繋がっていないと分かったあの日も、俺が日菜子の父親であることだけは、何ひとつ変わらなかった。十四年間、お前が熱を出せば夜通し冷えピタを替え、運動会があれば泥だらけになって走り、お前の作った画用紙の魚をどうやって食卓に出そうか真剣に悩んできた。俺の人生の半分は、お前の父親であることで出来上がってるんだ」
日菜子のポロポロとこぼれ落ちる大粒の涙が、畳の上に濃い染みを作っていく。
「日菜子。俺が男としてお前を受け入れてしまったら、俺たちが十四年間かけて必死に守り、積み上げてきた親子の時間は、全部嘘になってしまう。それは絶対に嫌なんだ。俺はお前の父親として、お前が誰か別の素敵な人と出会って幸せになる瞬間を、一番近くで見守りたい」 「……そんなの、私が欲しかった返事じゃないよ」 「ああ、分かってる」 「知ってて……知ってて、そんなこと言うんだ」 「期待を持たせて待たせるような嘘をつく方が、よっぽど残酷だからだ」
日菜子は両手で顔を覆い、しゃくり上げた。 俺は反射的に頭を撫でようと手を伸ばしかけて——空中でその手をピタリと止めた。 いま俺の手で触れて慰めることは、父親の優しさを装った残酷な甘やかしにしかならない。 俺は手を引っ込め、立ち上がって台所からティッシュの箱を持ってくると、ちゃぶ台の娘の手元へと静かに置いた。
「……霧子さんがいるから?」
ティッシュで目元を押さえながら、くぐもった声が漏れた。
「お父さん、霧子さんが好きなんでしょ?」
否定すれば、この場だけは娘の悲しみを逸らすことができるかもしれなかった。だが、ここで嘘をつくことは、日菜子の真剣な告白に対する最大の裏切りになる。
「……ああ。霧子さんと一緒にいると、安心する。もっと、あの人のことを知りたいと思ってる」 「じゃあ、やっぱり……!」 「でもな、日菜子。もし俺の周りに霧子さんがいなかったとしても、他の誰もいなかったとしても、俺の返事はまったく同じだ。お前を待たせるような真似は、絶対にしない」
日菜子はティッシュを何枚も引き抜き、目元と鼻に強く押し当てた。
「……明美は?」 「明美ちゃんのことは、俺と明美ちゃんの問題だ。日菜子に間に入ってもらうことでも、お前を介して伝えることでもない」 「……そう」
外の道路を、夜の車が一台、ブオオと低い排気音を響かせて通り過ぎていった。 白いヘッドライトの光が、遮光カーテンの隙間をすうっと横切り、再び暗闇へと溶けていく。
「私……お父さんのこと、困らせたくて言ったんじゃないよ」 「分かってる」 「ずっと……ずっと、ちゃんと本気で好きだったのに」 「ああ」 「分かってるって……簡単に言わないでよ……!」
俺は何も言わず、深く頭を下げて沈黙を受け止めた。 ズズ、と日菜子が鼻をすする音と、ティッシュが擦れるカサカサという音だけが、永遠のように長く続いた。 俺は柱時計の針を見なかった。洗面所で洗濯機の終了を知らせるピピピという電子音が鳴り響いても、座布団から動かずに、ただ娘の涙の時間が過ぎるのをじっと待った。
「……少し、一人になりたい」
やがて、掠れきった小さな声が落ちてきた。
「分かった。俺は居間にいるから」 「ついてこないでね」 「ああ。行かないよ」
日菜子は立ち上がり、足早に自分の部屋へと入り、バタンとドアを閉めた。カチャリと内側から鍵の閉まる音がした。
居間に一人残された俺は、ちゃぶ台の上のティッシュ箱を元の位置へと戻した。 娘が座っていた畳の上に、涙でぐしゃぐしゃに丸められたティッシュがひとつだけ転がっていた。それを拾い上げてゴミ箱に捨て、もう一度深く息を吐き出して座り直した。
胸の奥が張り裂けそうだった。 ドアの向こうへ行って、謝るべきなのか。いや、謝ることなど何ひとつない。拒絶された痛みを、あの子は今、自分の力だけで引き受けようとしているのだ。 朝の食パンを買いに行こうと財布を手に取りかけたが、玄関のドアを開けるガチャリという音を聞かせたくなくて、再び棚の上に戻した。
立ち上がり、洗面所から濡れた洗濯物を出して、ベランダの竿に一枚ずつ干した。 台所へ戻り、明日の朝と弁当用の米をカップで三合量り、冷たい水道水で丁寧に研ぐ。 指先に触れる水が、夏の終わりを告げるように、微かに冷たかった。
夜の十一時を過ぎた頃。 廊下の軋む音がして、日菜子の部屋のドアがそっと開いた。
日菜子は目を真っ赤に腫らし、伏し目がちのまま台所へとやってきた。食器棚からガラスのコップを取り出し、冷蔵庫から麦茶を注ぐ。トクトクという澄んだ水音が、静まり返った台所に響く。
「……お父さん」 「うん」 「明日……お弁当、いるから」 「分かった。明日も学校か?」 「午前中だけ、ポスターの最終チェック。そのあと、教室で少し作業するから」 「了解。ちゃんと作っておくよ」
日菜子は麦茶を一気に飲み干した。 俺は何も聞かず、研ぎ終えた釜を炊飯器へセットし、タイマーのボタンを押した。
「……卵焼き、入れて」
背中越しに、消え入りそうなほど小さな声が届いた。
「うん。甘い方の味付けでいいか?」
日菜子は無言で小さく一度だけ頷き、空になったコップを流し台へと置いた。 いつもなら自分で水ですすぐはずのコップをそのまま残し、俺と視線を合わせることなく、すり足で自分の部屋へと戻っていった。バタンと静かにドアが閉まる。
俺は流し台に残り、娘が口をつけたガラスのコップをスポンジで丁寧に洗った。 水切りカゴの定位置へ伏せ、冷蔵庫のドアを開ける。 卵のパックの中に、まだ六個の綺麗な卵が残っていることを確かめた。 扉を閉める前、明日の朝、寝起きの頭で慌てなくて済むように、卵を溶くための小さな白いホーローのボウルをひとつ、調理台の上に静かに用意しておいた。
お読みいただきありがとうございました。
少しでも楽しんでいただけましたら、ブックマークや評価(☆☆☆☆☆)をいただけますと大変励みになります!




